第十八話
その夜。
四季の感覚がほとんどない星ではあるが、夜はいつも昼よりも長く思える。特に、要らぬことを考えてしまう人間にとっては。
猫たちの宴は終わり、片付けもそこそこに誰もが満腹を抱えて眠る。毛皮を敷いた寝所に山盛りの団子のようになって、あるいはスイカを抱えてスイカの夢を見ながら眠る。
いつもより見張りの猫を減らしていたため、僕が見回りの一部を担当していた。寝所を中心として歩き、大きな大きな円を描く。
東の果て、砂丘の上にトムがいた。彼は月に照らされた景色を眺めている。
「トム」
「うにゃっ、ダイスさま」
彼はしゃがんだままでぴょんと飛び、真後ろを向く。
「トム、どうしたんだ、宴会のときから様子がおかしかったぞ」
「ダイスさま、あの地図ですにゃー」
「地図……」
「あの地図だと、東にずっとずーっと行くと別の陸地があったにゃ、そこに行ってみたいのにゃー」
「……トム、それは無理だよ」
僕は彼のそばに座り、その柔らかな喉元を撫でて言う。
「あの地図は正確な縮尺が分からない。海を挟んでいたとしたら、少なくとも数十キロ、ともすれば数百か数千キロはあるかも知れないんだ、歩いては行けないよ」
「どうしてですにゃ? 何日もかけて歩けばいつかは着きますにゃ」
「それはですにゃ、塩の大地にはスイカが実らないからですにゃ」
背後にティルが来ていた。僕を挟んで二人の猫人が並ぶ。
「我々は一日に一個のスイカが必要ですにゃ。歩ける距離は一日に20キロ、これ以上歩くと次の日に動けなくなるほど疲れてしまいますにゃ。それに食料のスイカを何個か、さらに護身用の剣とか、他の荷物もいろいろと持たねばなりませんにゃ、これでは何日も歩けませんにゃ」
「ティル、もしかして塩の大地を越えることを考えていたのか?」
「いいえ、少し計算してみただけですにゃ、そしてすぐに無理と分かったのですにゃ」
「でも、歩けるところまで歩いてみてもいいはずにゃ」
「トム、きみはリーダーですにゃ、この群れをもっと大きくする義務があるのですにゃ」
「うにゃっ……」
それは痛いところを突かれたのか、言葉を返せずにうめく。
「その通りなのなー」
ドラムも来ていた。どうやら二人ともトムの異変に気づいていたようだ。僕が話しかけたのを契機に姿を現したわけか。
「ドラムも反対するのにゃ?」
「違うのなー、群れを出るなら、このドラムとの決着をつけるのにゃ」
ドラムは鉄の剣を放り投げ、己は背負っていた獣の大腿骨を抜く。打撃面に鉄を巻いて補強してあり、一撃で狼の背骨を砕くハンマーだ。
「やめるのにゃ、ドラムでは僕に勝てないにゃ」
「それも昨日までの話なー。トムの心はもう群れにはないなー、トムはリーダーの器じゃないな。リーダーではないものはリーダーに勝てないのなー」
……
え、この子たち、そんな関係だったの?
ともあれ僕が口を挟める状況ではなくなってしまった。せめて大怪我だけはしないで欲しいけど。
「始まってしまうですにゃ、避けられぬ運命の戦いが」
「……ティル、おまえ楽しんでないか?」
だが、この戦い。
ドラムは大腿骨を腰だめに構えている。それは180センチはある特大の骨だ。あの長さを横凪ぎにできるとすれば避けようはなく、そしてトムの剣は所詮はただの鉄板だ。刃物というより鈍器に近く、一撃で深手を負わせられる武器ではない。攻撃するとすれば急所を狙うしかないが、あのハンマーにかすりでもしたら……。
ドラムが動く。砂地に一歩を踏み込み、猛烈な早さで骨のハンマーを振るう。トムの肉体を粉砕するかに見えた刹那。この小さな剣士は後方に飛び、剣を腰だめに前進する。砂が一瞬遅れて吹き散らされる。
「甘いのな!」
ドラムはハンマーを戻さない。振り抜く勢いのままに一回転し、さらに跳躍。斜めの軌道を描く殴打面が砂の表面で爆発を起こす。僕たちにまで砂粒を打ち付けるほどの勢いだ。
「うおっ……」
トムをわざと後方に下がらせ、振り抜いた隙を見せての一回転。完全に先の先を読んだ攻撃。
しかし。
「なーっ……」
砂地に刺さるのは骨の先端、おそらくは巨獣の膝関節と思われる蝸牛のような骨が残されていた、ドラムのハンマーは中ほどから失われている。
「まさか、あの骨は岩のように固いはず、ろくに刃もついていない剣で斬るなんて」
「ダイスさま、違いますにゃー」
ティルがごくりと唾をのみ、興奮のためか拳で顔を洗いながら言う。
「あの一瞬、トムはハンマーの下を潜り抜けた。その瞬間、突きによって骨の側面をわずかに欠けさせたですにゃ」
「なに……!」
「いくら丈夫な骨でも、側面が欠けた状態で打ち付けたらテコの原理で折れてしまいますにゃ。もちろんドラムの馬鹿力あっての話ですにゃ」
ドラムは砂に両手両足をつき、がっくりと項垂れる。
ドラムの攻撃を完全に見切り、その力を利用した武器の破壊、そんなことが狙ってできるなら、ドラム自身を攻撃することも簡単だっただろう。それを思い知らされた形か。
あのトムがこれほどの剣士に育っていたとは。そして三匹の黒猫だったはずの子達が、いつのまにこれほど個性に富み、僕の知らぬ思想を抱き、僕の想像を越えたものを求めるようになっていたのか……。
「うにゃー、ダイスさま」
「……ああ、そうだな、勝ったのは君だ、だから何かを手にする権利がある。行ってもいいよ、トム」
ああ、この世の誰も、子供のままではいられない。
それはあるいは、狭い星を飛び出して宇宙を旅した誰かのように。
子は親を離れ、遠い世界を求めるものなのか。そうあるべきなのか。この地で、ささやかながらも平和な楽園を築いていたのに。
「旅に出てもいい。君はリーダーだけど、自由な一匹の猫でもある。君の旅が、いつか群れのためにもなると信じている。猫たちの自由な好奇心こそが、この星の王者たる素質なのだから……」
※
準備は大してかからなかった。
テリトリーの果てから東へ一日、僕とトム、ティル、ドラムの三人、さらに見送りの小人が何十人も来ていた。泣いてる子もいれば、送り出すための歌を歌っている子もいる。まったく関係ない話をしていたり、お弁当のスイカをもりもり食べている子は何をしに来たんだろう?
「トム、いいかい、背負子にはスイカが六つしか積めない。三個食べ終わっても陸地、つまり塩の大地の終わりが見えなければ、必ず引き返すんだよ」
「分かったのにゃー」
「塩の大地は照り返しのせいで少し暑い。気分が悪くなったらなるべく早めに休むんだ。いつ引き返してもいいんだからね」
「気を付けますにゃー」
「塩の大地にも凶悪な生物がいるかも知れない。見たことのない怪物がいたら、自分より小さいとしても戦わずに逃げるんだよ」
「そろそろ行かせてほしいにゃ」
そこでティルが出てきて、トムに剣を渡す。狼の皮で鞘を作り、蔓を編んだ紐で腰に吊るせるようになっていた。
「工房の最高傑作ですにゃ、ロープと火起こし機も持ってくといいですにゃ、それにこれも」
僕は驚く、それは小玉スイカをくり抜き、中に紐で吊るした鉄の棒を仕込んだものだ。
「ティル、それはまさか方位磁石か」
「そうですにゃ、ダイスさまの童話の中にありましたから、作ってみたかったのですにゃ。鉄を焼いて、急に水をかけると磁石になることを見つけたのですにゃ」
磁石の作り方は教えていないはずだ、そんなことまで見つけ出していたとは。
「のなー」
ドラムが前に出てきて、皮袋を手渡す。
「なー、砂糖なのなー、食べると力が出るなー」
「ありがとうにゃ」
回りがにゃあにゃあと騒がしいせいか、あまり湿っぽい感じにはならない。もとより猫たちに別れの切なさは似合わないのだ。
特に振り向かず、手も振らず、別れの挨拶もせずにトムはただ歩き出す。それは猫たちにとって歴史的な一瞬かも知れなかったが、誰もそこまで意識はしない。トムが行ってしまえば、振り返ってテリトリーへと戻り始める。
二度とは会えぬ別れより、未知への興味が先に立つ。
過ぎ去りし日の思い出は、今日の飯ほど大事じゃない。
それでよし。
それもまた猫なり、だ。
ここまでが二章になります、お付きあいいただきありがとうございます。
次の章は少しシリアスになる予感。