第一話
長い長い旅だった。
慣性航法に移ってどれほどの時間が過ぎたのか、船の表面が宇宙塵ですりきれて、銀河を抜けてからは観測窓が星の光を捉えなくなって幾星霜。
ようやく重力の網に囚われ衛星軌道に入ったとき、最後のパルス噴射によって船を星に落とす。
五体がばらばらになりそうな衝撃。意識がどこかへ吹き飛ぶか、あるいは呼び戻されるような感覚があって目が暗黒を意識する。
沈黙の中で肉体の所在を確かめ、そして乾いた唇を震わせて言葉を放つ。
「――AI、現在座標を」
船外活動用の宇宙服を身に着けていた僕は、船の航行機にそう言った。
『現在地を測定できません』
答えは変わらない。旅の間、AIがこれ以外の言葉を放つことはほとんど無かった。
それも無理はない。僕たちの旅は身投げにも似た旅。人類の生存圏を離れて、そこから永遠に遠ざかり続けるような旅だったから。
「シオウ、外を偵察してくるよ、ここで待っていてくれ」
「いいえ、私も行くわ」
僕と同じ宇宙服を着て、フェイスカバーを下ろしているのは妻のシオウ。妻が特別用心深いわけではない、墜落の際には空気漏れの可能性があった。僕もカバーを下ろして空気を内部循環モードにするべきなのだ。その機能が壊れていなければ。
船のセンサーによって、呼吸が可能なことは分かっている。重力、放射線も許容範囲内。もはや未知の雑菌やウィルスに怯える時代でもないが、かなりの乾燥気候なことは救いだろう。病気やガスは怖くないが、生物過密環境の場合は悪臭などが心配だ。
楕円形の扉がゆっくりと上にスライドする。肌に届くむっとした熱気。けして快適な風とは言えないが、それでも久しぶりに感じる大気の気配は有り難いものだった。
眼前に広がるのは、一面の砂漠。
砂丘がまばらに存在するだけの平坦な地形。金色に近い淡い色の砂が視界のすべてを満たし、地平線の果てまでそれが続いている。立ち木はおろか草の一本も見えない完全な砂漠である。砂だけの砂砂漠というやつか。
僕は段差を降りて砂地に立つ。足が沈む感覚があるが、僅かなものだ、歩くのに支障はないだろう。
「……砂漠か。まあ、氷原やマグマよりはマシかな」
「ダイス、生物はいるのかしら」
僕の名を呼んだシオウは慎重に降り立ち、砂の感触を確かめるように何度か足踏みをする。
「いるはずだ、大気組成の分析によれば、何らかの植物と生物の存在は明らかなんだ」
ともかくも食料と水を確保しておきたかった。船の備蓄はもう多くはない。休眠カプセルも無限に使えるわけではない。僕とシオウは眠ることで長い船旅を耐えていたが、それだけに二人とも、もう眠りたいとは思っていなかった。眠りはけして無の時間ではない。長大な時間の流れを体のどこかが覚えている。どこかで文明の勃興して滅び去るまでの時間を、惑星系が生まれて消えるまでの宇宙のダイナミズムを覚えている。
それは、世捨て人であっても精神が摩滅するほどの長い眠りだった。
シオウが少しよろめくのを見て、肩を貸す。
「ごめんなさい、少し筋肉が衰えてるみたい」
「大丈夫、じきに治るよ、少し探索したら休憩しよう」
長大な旅に耐えられるように遺伝子の調整を受けているが、完全無欠とは行かない。あらゆるものに劣化は訪れる。恒星や銀河ですらも。
「何か食べたいわ」
「食料ならまだ少しあるよ。造水ユニットも」
シオウは首を振る。空腹は精神的なものだろう。普段と違うものが食べたいという欲求は、雑食な人間にとって当然のことだ、僕も同じだ。
宇宙服のままで歩く。かなり重量のある服だが、筋肉ユニットの補助は健在のようだ。少し進むとシオウも一人で歩けるようになり、そのまま数百メートル進む。
「この星はどのあたりかしら」
「さあ……弦転跳躍ユニットの暴走なんて聞いたこともないし、どのぐらいの距離を飛んだのか……」
跳躍の直後から現在地が観測不能になり、そこから数え切れない時間が過ぎた。
旅の果てに偶然にも人類の生存圏に入る、他の旅行者や商船に見つけてもらう、それがどのぐらいの確率か、考えることも億劫だった。
思えば、あの商人に売りつけられた船からして怪しかった。非合法の弦転跳躍ユニットによる超長距離の跳躍、未開惑星に降り立っての開拓。誰もが憧れる新世界のアダムとイブになる旅。新婚だった僕たちはのぼせあがってそれに手を出した。その報いがこの現状か。
いや、考えてみれば予定はさほど狂っていないのか。ここは人類の支配圏の外だし、僕たちは未開惑星のアダムとイブか、そう考えて冷めた笑いをこぼす。
「スイカが見えるわ」
シオウがそう言う。まだ幻覚が見えるほど疲弊してないはずだが、と思って前を見れば、僕の目にもそれが見えた。
黄金の砂漠の中に、緑のロングドレスを着た乙女が寝そべっている。そういう幻視のよぎる眺め。
雪の結晶のように樹形を描く葉が絨毯のように広がり、その下を縫って走行する太い蔓、そして中央に鎮座するのは丸々と太った立派なスイカだ。
ほぼ真球、緑の胴体にくろぐろとした縦線が走っている。
「この星にもスイカが……いや、おかしいな。野生種のスイカはもっと縦長で色が淡くて、瓜に近いはずだけど。いやそうじゃなくて何でスイカが」
あまりの眺めに思考がまとまらない。あるいは僕もなにかの幻覚を見ているのか。
ともかくもスイカに近付き、ぽんぽんと叩いてみる。ずっしりと重たい感触。その内部を予感すると、僕の内側から情動があふれ出てくる。たまらず、ナイフを取り出してずかっと突き立て、ぐいと手首をひねりながら縦に割る。この頃には僕も我を忘れていた。
ばこん、そんな響きを立ててスイカが割れる。その内部には赤い氷山のような果肉。割れた瞬間に顔にまで飛沫が散るほど水分が多い。
ひやりとした冷気を感じる。厚い外皮に閉じ込められていたのは鮮烈な水気だ。混乱した思考の中で感覚が綯い交ぜになり、その果肉は甘い泉のような、あるいは冷たいステーキのようにも思える。あらゆる五感を刺激してくる魅力のかたまり。たまらず僕は皮の一部をむしり取り、その赤い果肉にかぶりつく。頬に種と果汁が散り、口の中が官能に満たされる。
「くはっ――」
数え切れない時間の果てのスイカ。その興奮を何に例えるべきか。
使っていなかった味覚が励起され、吸い込む息すらも甘く、冷たく、青々とした鮮烈な香りが鼻から入って肺を満たす。細胞の一つ一つが若返るほどの刺激。目の奥に火花が散るほどの感動。
「シオウ! 本物だ! 本物のスイカだ!」
シオウは砂にどさりと膝をつきながら駆け寄り、スイカにかぶりつく。彼女の豊かな金色の髪が後方に流れる。
よく見ればスイカは3つ、いや4つある。こんな砂漠のど真ん中になぜスイカが、そんな疑問すら今はどうでもよかった。僕たちはあっという間に大玉のスイカを平らげ、2つ目にナイフを突き立てる。
にゃあ
「?」
3つ目のスイカに取り掛かっているとき、何かの音が聞こえた気がした。
振り向くと黒い影が。
原生生物か、と思って腰を浮かしかける。
しかしその姿を見たとき、僕は思考がフリーズするような感覚を味わう。
「にゃあ」
それは黒猫だった。
地球でよく見た小さな猫。品種などはわからないが、しなやかな体につぶらな目を持つ可愛らしい猫だ。体長は50センチ、体重は2・3キロというところか。
「なんで猫が……」
「おいで」
シオウが手招きをして、スイカを差し出す。
黒猫は少し警戒していたようだが、匂いをかぐように首を伸ばし、シオウの差し出したスイカをちろちろと舐め、そして牙でさくりと噛みとる。
「猫ってスイカ食べていいんだっけ……」
僕は記憶野の古い領域から情報を引っ張り出す。確か、中毒などは起こさないはずだが、水分が多いために与えすぎると下痢などを起こしてしまう。それにカリウムが多いので、腎機能が衰えている高齢の猫などには向いていない……。
いや、それ以前になぜこの星に猫が? そしてスイカが???
そんな当たり前の疑問すら遠ざかるほどスイカに夢中だったということだが、それにしても何故なのだろう。もちろん、遠く離れた星で似た形状の生物が見つかる、というのはよくある話だ。それは単なる偶然の一致、あるいは似たような環境では生物は似たような進化を辿る、という理屈で説明できる話だが、ではスイカと猫もそういう事だろうか。
砂漠では貴重な水分を溜め込むために、大きな果肉を持つ植物が生まれる。猫だって砂漠に生きる種類もいたはずだ。
しかし、僕のその考えは根本的に打ち砕かれることになる。
スイカを食べた猫は、全身がぶるぶると震えるように見えた。
ばり、と肘の部分が裂ける。
「!?」
腕が急に伸びたのだ。肘が裂けて肩が隆起し、裂けた部分はつるりと白い肌がのぞく。全体的にもこもこと膨れ上がるように太くなり、お尻がでっぷりと安定感を持って膨らみ、顔は頬が膨らんで体毛が抜け落ちていく。
そして全体が一回り成長する、子猫だった身体が3・4歳の子供のように大きくなり、二足歩行に変わり、一度全身を身震いさせると体毛がごっそりと抜け落ちて。
「んにゃー」
そして声までやや野太くなって。
可愛らしい黒猫は、なんだかずんぐりとした小人になっていた。
というわけで新連載を始めました。
なるべくこまめに更新していければな、と思っています。どうぞしばらくの間お付き合いください