挫折
それ以降、僕はただ我武者羅に部活であるバスケに打ち込んだ。唄の方は以前とは雲泥の差で、次第に自分から事務所に行こうと思わなくなった。それでもマネージャーは僕の唄への想いを請うように新曲を持って来てはレコーディングさせようと家に足蹴く通ってきてくれるから、そんな彼の気持ちを汲んで僕もレコーディングに取り組もうとするのだが、やはり結果は同じで。
「……もう一回録り直そうか」
その言葉を耳にしたのはもう何度目だろう。それが更に僕を追い込んで次第に歌う事自体が苦痛にさえなり始めた。そんな時はただ只管部活に力を入れた。それが功を奏したのかレギュラー入りした後全国大会まで登り詰めた。僕は増々唄に執着しなくなった。バスケをする事が楽しくて、もう唄を辞めてバスケ一本に集中しようかとも思った。
そんな時、事件は起こった。
「……ちょっとそこ行くお兄さん達―」
呼ばれて振り返る。僕の隣には幹也もいて、彼もまた同様に振り向いた。
「部活帰り? 熱心だねぇ。ところでお兄さん達ちょっと財布落としちゃってさぁ、お金貸してくれないかな?」
そんな不躾な物言いをしてきたのは明らかに目が据わっている男。しかも一人ではない。その両脇にも男が二人。彼らもニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべている。
「何なんだよあんた達っ」
隣で幹也がまさに飛び掛かろうとする勢いで声を上げた。が、僕はそれを制止する。
「……いくらですか」
「真琴っ」
「いいから」
ここで騒ぎを起こしたら折角の全国大会への切符が無かった事にされてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
「物分かりの良い学生さんは好きだなぁ。とりあえず……一万でどうよ」
「そんなに持ってないっ」
「解りました」
「真琴っ⁈」
幹也の言葉を遮り了承して財布を取り出す。出来る限り中身が見えないように一万円を取り出しさっと彼に差し出す。
「……へぇ、もしかして君の家はお金持ち?」
「あれ、ちょい待って。こいつ、テレビで観た事ある気がするんだけど」
今まで黙っていた一人が僕の顔をまじまじと見つめてきた。思わず顔を逸らしてみたがどうやら無駄だったようで直ぐに手を叩いた。
「あっ‼ こいつ『井川真琴』だっ‼」
「あー、その名前聞いた事あるわー」
「……もういいですか」
これ以上居ても好転しない。言われた通りのお金を渡したのだから対価として此処から逃がしてくれてもいい筈だ。
「……まぁお金貰ったからいっか。どうぞ?」
「行こう幹也」
「でもっ」
「いいから」
僕は半ば引き摺るように彼とその場から脱した。一瞬映った相手の口元には不敵な笑みが刻まれていた。
嫌な予感めいたものがあった。きっとこれだけでは終わらないだろうと第六感が告げる。見えない恐怖に怯えながら迎えた数日後。
案の定彼らは僕の前に姿を現した。しかも、僕が一人の時を狙って。
「まーこと君」
下校中、突然名前を呼ばれたと同時に曲がり角から出てきたのはつい先日言葉を交わした彼らだった。
「奇遇だね~」
そんな訳がない。確信犯だ。間違っても口には出さないが。
「実は財布が見つからなくてさぁ……またお金貸してくれないかな」
軽口を叩いて前回同様お金を要求してくる。だが今回は前と状況が違う。今は幹也がいない。守る対象がいなければ要求を呑む必要性を感じられなかった。
「……お金は渡せません」
「はぁ?」
途端に態度が豹変する。けれど僕は引かなかった。
「もうお金は渡さないと言ってるんです」
言いながらも強く握り締めた両手は誤魔化し切れない程震えている。
「おいおいそんなに震えてんのに何言ってるんですかねぇ真琴君よぉ」
三人分の品の無い笑い声が重なる。その内の一人が緩々と僕の方へと近付いてきた。
「痛い目に遭いたくなかったらさっさと金出せよ。テレビ出てんだから稼いでんだろ?」
「……嫌です」
「あ⁈」
凄まれ身体が跳ねる。けれどその時頭の中で彼の声がした。
『逃げんなやっ‼』
彼が臆病者の僕の背中を押す。この後の結末は解ってるつもりだ。喧嘩なんてした事のない僕が負けるのは目に見えてる。……それでも。
「……嫌です。お金は渡せません」
「……よっぽど痛い目に遭いたいらしいなぁ。なら歯ぁ喰い縛れよ」
ヒュッと空気が揺れた気がした。
そこからの記憶は殆ど無い。地面に倒れ伏し、殴られ蹴られしながらも消えそうな意識の中朧げに「痛いなぁ」と感じていた事だけは微かだが頭の隅に残っている。
気が付けば病院のベットの上にいて、一番最初に白い天井を目にした。その瞬間視界を遮るようにして母が涙目になりながら僕の顔を覗き込んだ。
「まこちゃんっ‼」
「……母、さん……」
発した声は掠れ過ぎて自分でも上手く聞き取れなかった。だが母にはちゃんと届いたのか、表情が僅かに緩んだように見える。そんな彼女の隣で眼鏡を掛け白衣を着た若い男性が僕を覗き込んできた。
「大丈夫ですか? ご自身の名前は言えますか?」
起き抜けとはいえ流石に自分の名前は覚えている。僕は頷き口を動かした。
「井川、真琴です」
出難い声で答えれば白衣の彼は温和な笑顔を浮かべて母に視線を移した。
「どうやら記憶障害等は無さそうですね。……井川君、此処は病院です。何があったか覚えていますか?」
その質問に一瞬逡巡する。だが母の顔色を窺えば、ここで口にしなくとも大方内容は知れているだろう事がありありと見受けられた。
「……男三人組に、暴行を受けました」
端的に告げると母の瞳が潤み始めた。
あぁ、なんて親不孝な息子だろう。
「……よく耐えましたね。今はもう少しゆっくり休みましょうか」
そう言って優しく僕の瞳に手を当てる彼。その暖かさがジンと身に沁みて、濡れる瞼に気付かぬフリをしたまま再び眠りの淵に落ちていった。
「……真琴?」
次に目を開けた時、そこに居たのは母ではなくマネージャーだった。
「……藤木さん……」
「大丈夫っ? ホンットに心配したよ。歌入れの時間になっても来ないし携帯に電話しても出ないし家にも帰ってないって言われるし……仕方なく学校に電話してみれば今日は部活を休んで仕事に向かったって聞いて……嫌な胸騒ぎまでしてきてさ……」
項垂れて深く息を吐く彼に後ろめたい気持ちしか出て来ず視線を伏せて謝罪すると慌てた声が返ってきた。
「いやいや! 責めてるわけじゃないんだよっ! ただ、無事で良かったって、言いたかったんだ……」
そう告げられふと顔を上げるとその瞳が微かに揺れていた。僕は体を起こそうと腕に力を入れて座ろうと試みる。が、やはりダメージは軽いものではないらしく全身が軋む感覚がして小さく呻く。
「真琴っ⁈ まだ起きたら駄目だって‼」
焦った声を発しながら僕の両肩をそっと掴んで押し倒してくる彼。痛みに顔を顰めつつ、されるがまま再びベットへと逆戻りになる。
「……藤木さん、ごめんなさい」
「いいんだよっ! 心配はしたけどもう過ぎた事だし」
「それだけじゃなくて……」
「…………?」
彼は僕の言葉の意図を汲み取る事が出来ず首を傾げた。
「……きっと僕は今まで本気になれてなかった。歌う事が僕の生きがいだった筈なのに、いつの間にかそれを忘れてマンネリ化して、目の前の真新しいものに一時の興味を惹かれて、それが楽しく感じて……そっちに逃げた。前回もそう。蓮がいないからって、逃げようとした。いつも僕は逃げてばかりで立ち向かおうとしてこなかった。だから今回、三人組に立ち向かおうとして……失敗してしまいました」
言葉にすれば不甲斐無く感じて泣き笑いのような情けない表情になってしまう。
結局、心配や迷惑を掛けてしまった。でも僕の中で逃げなかった事への後悔は不思議と湧いてこなかった。
「真琴……」
彼が言葉を探す仕草で視線を彷徨わせているとタイミング良く病室の扉が開かれる。そこに居たのは先程僕を診察してくれた医師だった。
「目が覚めたんですね」
目を細めて僕の元へ近付くとマネージャーが医師に会釈する。それに応えて軽く頭を下げた彼は僕に向き直り言葉を続けた。
「お話したい事があります。……お時間頂いてよろしいですか?」
その瞬間、纏っていた柔らかい空気が鳴りを潜め、ピリッと張り詰めた雰囲気に一変する。
「……はい」
良くない話なのだろうと直感で理解した。
「……すみません藤木さん、少し起こして貰っても構いませんか?」
「え、でもっ」
「お願いします」
有無を言わせない僕の意思を感じ取りつつ戸惑いながら医師の方に視線を向ける彼。すると医師が表情を緩めて小さく頷いた。それを合図に彼はベットを操作し上体を起こす体勢に変えてくれた。
「あ、よろしければも座って頂いて……」
そう言ってマネージャーは丸椅子を医師に勧める。最初は渋っていた医師も強引に座らせようとするマネージャーの根気に負けて苦笑を溢しつつ腰を下ろした。
「……井川さん、大変言い難い事なんですが……」
躊躇いながら言葉選びをしている医師に、僕は覚悟を決めて唇を結び強く頷く。
「……残念ですが、もう部活を続ける事は難しいでしょう」
悩みに悩んで吐き出されたのであろう言葉は、最終的には何も飾らず単純に事実だけを物語っていた。
「……そう、ですか……」
僕の予感は見事に的中し、シンと静まり返った静寂が痛く身に突き刺さる。気付けば無造作に置かれた両手をぐっと握り締めていた。
けれど、不思議と涙は出て来なかった。
これは、罰だ。
親友を裏切った僕へ天罰が下ったんだ。
まさかこんな形で夢が絶たれるなんて。
でも何故だろう。絶望を味わった気はしなかった。
「……真琴」
医師が病室を去った後、沈鬱な様相でその重い口を開いたマネージャーに僕は称賛を贈りたいと思った。逆の立場ならどれだけ重苦しい空気が漂っていようが自ら言葉を紡げる勇気はない。
まぁそんな風に考えあぐねる事が出来るくらいには存外余裕があったのだ。そう思えたら何だか可笑しくなって口角を上げた。
「真琴……?」
訝し気な顔で首を傾げ僕の顔を覗き込むマネージャー。その視線が交わった時、ゆっくりと唇を持ち上げた。
「ごめん藤木さん。……大丈夫だよ。案外平気みたいなんだ」
そう言って笑顔を貼り付ける。……けれど歪に象られた笑みは苦笑いにしかならなかった。
それから数日経ち、気持ちの整理もついてきた頃バスケ部の仲間が病室を訪れてくれた。
「真琴! 大丈夫かっ?」
「すっげぇ心配したぜ! あ、これお見舞いの品な‼」
騒がしい面々が次々と話し出す中、彼らの陰に隠れるように幹也が意気消沈な面持ちで俯いていた。
「……ほら幹也、お前も何か言ってやれよ」
そんな彼を見るに見兼ねたのだろう峰内先輩が幹也に声を掛けた。するとそれに応えようと彼の顔がゆっくりと上がる。
「……真琴……」
その表情が今にも泣きそうで、僕は態とおどけた笑みを浮かべた。
「何て顔してるんだよ。……不細工になってる」
「……っ、何言って」
「わ、マジだわ。お前ブッサイクな顔んなってるわー」
僕の言葉に便乗して先輩が幹也の顔を指差し笑い出す。それに攣られるように他のメンバーも声を上げて笑い始めた。
「ちょ……っ」
「笑ってよ幹也。僕は全然大丈夫だからさ」
「…………っ」
そう告げれば幹也は一瞬吃驚した顔を無防備に晒す。その内彼の双方の瞳に綺麗な水滴が溜まっていくのを目にしたが見て見ぬフリをした。
「ほらほら、真琴もこう言ってんだからそんな辛気臭い顔すんなよ、な?」
助け船を出すかの如く先輩が彼の肩を掴んで引き寄せる。幹也は顔を伏せたまま何度も強く頷いていた。それを見た僕は漸く安堵し心から微笑んだ。
本当は、ショックだった。
バスケへの夢が絶たれた事に……ではなく、自分の持っていたバスケへの情熱が所詮そんなものだったという事に。
バスケ部の仲間が励ましてくれる事にも胸が痛んだ。
それは明らかに後ろめたい気持ちがあったからで。
勿論、宣告された瞬間は落ち込んだ。もう皆とバスケが出来ないんだと思えば辛くも感じた。
けれど、それだけ。
ただそれだけだったんだ。
そんな単純な気持ちしか持ち合わせていなかったのかと思うと、そっちの方が愕然とした。
こんなにも薄っぺらな覚悟だったのに、そんなモノの為に大きな代償を払った。何物にも代えられない唯一無二だったモノを、いとも簡単に捨ててしまった。
自覚すれば後悔しか出て来なかった。僕はきっと、人生に於いて一番してはならない事をした。
重要な選択を、見誤ったんだ。
その事に気付かされてしまった。
今更もう、取り返しなんて付かないのに。