決別
「真琴‼ こっちパス回せっ‼」
「はいっ‼」
無我夢中で声のした方へとボールを投げる。それを確かに受け取った仲間が見事にシュートを決めてみせた。
「ナイスアシストじゃん真琴っ‼」
幹也が俺の元へと駆け寄って手を掲げる。僕が迷わずその手を合わせれば小気味の良い音が鳴った。
あの日以来、僕は時折バスケ部の助っ人として試合に出させて貰うようになった。本当は幹也も峰内先輩も「助っ人じゃなくてもう入部すればいい」と声を揃えていたが、流石にそれは遠慮した。だってそれは本気でバスケに取り組んでいる部員の人や顧問の先生に申し訳が立たないから。こんなどっちつかずの中途半端なままで部員になっても、真面目に取り組んでいる者からすれば鬱陶しいだけだろうから。
「全国、目指してるんだよね?」
「あぁ勿論っ‼」
「じゃあそれこそ僕には入部は無理だよ。今の仕事はまだ辞められないから」
「じゃあ借入部でもいいから! なっ? 頼むって‼」
「……え、っと……」
何故そこまで僕に執着するのだろうと思っていたら、なんとバスケ部は今存続の危機にあるらしく、何としても部員を集めたいらしい。
「今の部員の殆どが三年でさ、このまま俺らが卒業したらバスケ部は廃部になるかギリギリ保っても人数不足で他校と試合したりは出来なくなるんだよねー……」
いつもは茶目っ気たっぷりに話す先輩もこの時ばかりは困ったように眉を下げていた。
それからというもの僕は本当に手が空いている時だけバスケ部に顔を出すようになった。今日もその延長で他校との練習試合に参加させて貰っている。
「なんだかんだで真琴もそのユニフォームが板についてきたよな」
「え? そう?」
「って言うかもう仮部員とか関係なくね?」
幹也と話しているところに自然と先輩の声が足される。それももう日常と化してしまって何の疑問もなく会話は続く。
「それだけ馴染んでいられてるなら有り難いですけどね」
「何言ってんだよ。今となっては馴染み過ぎて誰もお前を仮だと思ってないっつの」
幹也が思いっきり背中を叩いてきて思わず咽た。それを見ていた先輩が笑い出す。
「おい広貴、雑談はそのくらいにしておかないとまた授業遅れて怒られるぞ」
そう忠告してきたのはバスケ部の部長だ。彼は既に身支度を終え鞄を肩に掛けて今まさに体育館を後にしようとしていた。
「うわっ、早‼ え、ちょっと‼ 待ってくれねーのっ⁈」
「当たり前だろ。巻き添え食いたくねーし」
あっさりそう告げその場から去る部長。それを目の当たりにした先輩は焦ってその場で着替え始める。
「ちょっと先輩‼ まだ女子居ますからせめて舞台裏で着替えて下さい‼」
突然の暴挙に出た先輩を幹也が慌てて止める。見ればまだこの場に残っていた女バスの面々がチラチラと此方を一瞥していた。特に顔良い先輩なので女子が見てくるのも当然かもしれない。
「じゃあ僕は顔洗ってくるね」
聞こえてはいないだろうと思ったが一応幹也にそう声を掛けて僕はその場を後にした。
「はい」
水場で顔を洗い近くに置いたタオルを探していたら僕の手にそっとタオルが手渡された。
声と共に受け取ったタオルで素早く顔を拭いてその声の主を見る。其処に居たのは同じクラスで女子バスケ部の〈小野 美咲〉さんだった。
「……え、あ、ありがとう」
言葉に詰まる。それもそうだろう。だって学年一の美少女で高嶺の花と囁かれている彼女に目の前で話し掛けられたのだから。
「どういたしまして」
ふふっと鼻から洩れる小さな笑い声が控えめな彼女らしい。正直歌手として芸能界という場所に足を踏み入れてから美しい女性の方や可愛らしい方を沢山拝見させては頂いていた。その方々はその道のプロだし、華やかさも麗しさも持ち合わせている。とはいえ一般人の彼女でもそんな人達とは違う飾らない魅力があった。飾らずとも充分な美麗さと聡明さが周りを惹きつけているように思う。
「どうかした?」
あまりにじっと見つめ過ぎていたのか彼女が不思議そうな顔でそう訊いてきた。僕は慌てて首を横に振る。
「えっと、何か僕に用でもあった?」
今まで事務的な会話はあれど彼女の方から話し掛けられた事は一度も無い。単純に浮かんだ疑問符をそのまま言葉に乗せた。
「……あー、うん……あの、実は……」
「おーい真琴ー」
彼女が言い淀んでいる間に突然違う方向から声が飛んできて僕は声のした方へと視線を移した。
「あ、峰内先輩」
「……っ‼」
僕が呟いた声と同時に彼女の肩が僅かに跳ねた事に気付く。
……成程、そういう事か。
何故かストンと腑に落ちた。
彼女が僕に声を掛けた理由を察し、僕は仕事で培った営業スマイルを彼女にしてみせた。
「任せといて」
「え?」
耳元で彼女に囁くと彼女は吃驚した風に目を丸くした。
「……あれ? 真琴が女バスの子と一緒なんて珍しい」
彼もまた彼女と同様に目を丸くしている。僕は「偶然ですよ」と告げて笑顔で先の言葉を促す。
「それより、どうかしたんですか?」
「いや、実は今日の放課後からテスト明けまで練習ストップだからってのを伝えに来たんだけどー……」
何故だか気拙そうに髪を掻く先輩。僕は小首を傾げつつも返事した。
「……? はい。解りました」
彼の仕草の理由は知れなかったがとりあえず先の連絡事項に関しての返事をする。と、先輩はニヤニヤし始めた。
「いやぁ~、邪魔してごめんな~」
「「え?」」
僕と彼女の声が重なる。彼女の方を見遣れば彼女も此方を向いていた。
「……似た者同士じゃん?」
一方的にそう告げると楽し気に笑いながら去っていく先輩。誤解を解かなければと思った時には既に彼の姿は其処に無く……
「えっと……ごめん」
「え?」
「誤解、ちゃんと解くから」
それだけ伝えて僕は見えない彼の後を追った。
「あの! 峰内先輩っ‼」
息を切らせて着いた先は先程まで練習をしていた体育館。幸いにも先輩はまだ其処に居て、ちょうど身支度を済ませ教室に戻ろうとしているところだった。
「おっ? どうした?」
「今日の放課後時間ありますかっ⁈」
「……んん?」
笑みを絶やさぬまま小首を傾げる先輩。その仕草に女の子達が彼に好意を向けるのも頷ける気がした。
「あの、もし暇なら! あの……女バスの子とファミレスに行こうと誘われてるんですけど……っ」
「……ほーぉ」
「ぼ、僕一人では心許ないので、その……」
体のいい言い訳を探してはみるが結局しどろもどろになるだけで自信の無さが声の大きさにまで反映される。
「へぇー? ……何ちゃん?」
「え?」
「その子の名前」
意外にも食いついてきた先輩。僕は唖然としながらも問いに答えた。
「えと、小野美咲さん、です」
「おっ、知ってるわその子。可愛いって有名な子!」
先輩の顔が何処となく嬉しそうに綻んだのを目にすれば僕も気持ちが高揚して早口になる。
「そ、そうです! 先輩ご存知だったんですかっ⁈」
「噂だけね? 話した事はないけど」
「凄く好い子なんですよ!」
「……もしかして先刻の子だったり?」
「そうですっ‼ 可愛いですよねっ⁈」
身振り手振りを加えながら最大限に彼女の魅力を伝えようと必死になった。それが届いたのかは定かでないが、彼の目がスッと細められ、如何にも興味が沸いたような表情をした……気がしたのだが。
「へぇー……ふーん」
「……あの、……あれ?」
「いいじゃんいいじゃん。行きますよ? 可愛い後輩君のたってのお願いですから?」
「え、あ……はい……」
何故だろう。その物言いにどこか違和感を感じた。そのタイミングで始業のチャイムが鳴り響き、先輩は焦った顔になる。
「やっべ! じゃ、放課後いつものファミレスで待ち合わせな!」
そう端的に告げ颯爽と去っていく先輩。その後ろ姿を見送りながら呆然と佇んでいた僕には、この後授業に遅れて叱られる事など微塵も想像していなかった。
「……おーい、此処だよー」
放課後通い慣れたファミレスへ足を踏み入れると既に先輩が席に着いていた。
「あ、すみません遅くなって! お疲れ様ですっ」
足早に彼の元へと向かうと彼は嫌な顔一つせず僕達に笑い掛けてくれた。
「お疲れさん。それとー……初めましてー、美咲ちゃん?」
相変わらずの人当たりの良い笑顔を携え彼女に告げれば彼女は途端に顔を赤くした。
「あのっ……はい!」
「ほぉ……噂通り可愛い子じゃん」
「か……っ⁈」
「せ、先輩っ‼」
本音なのか揶揄っているだけなのか。先輩の発言は毎度の事ながら掴めない。
「ま、兎に角座りなよ」
「あ、はい……」
返事をして先に彼女に座るように促すと緊張した面持ちでおずおずと先輩の目前に腰を下ろした。それを見届け僕も隣に座る。
とりあえず軽食にとチーズケーキとドリンクバーを頼めば彼女もそれに倣ってティラミスとドリンクバーを注文した。
「……美咲ちゃんもバスケ部だったよね。どう? 女バスの調子」
「あ……はい。良い、と思います」
「そっかー、じゃあ男女共に全国まで行ったらいいなぁ」
「そ、そうですね……」
流石は先輩。話をリードして彼女の緊張を緩和させようとしている。僕は内心尊敬しながら口は挟まなかった。折角二人で話せるのなら僕が無理矢理間に入る必要は無いだろう。そう思っていたら頼んでいたチーズケーキが運ばれてきた。そのタイミングで席を立つ。
「僕ドリンク入れてきます。小野さんは?」
「え?」
「入れてくるよ。何がいい?」
「あ、でも」
「オレンジでいい? それともアイスティーとか?」
「えと……じゃあ、アイスティーで」
「解った」
有無を言わせないように間を取らず一気に捲し立てれば案の定僕の思惑通りに事が運んだ。二人の時間が出来るなら、と気を利かせたつもりなのだが良い方向に転ぶだろうか。
「……あの、」
ふと声がして我に返りその声のした方に視線を移した。其処に居たのは女性と小さな女の子。
「あ、ごめんなさい! お邪魔でしたかっ?」
つい考え事をしながら注いでいたから思ったよりも時間が経ってしまっていたのかもしれない。僕は恐縮しつつサッと横に避ける。が、女性は大きく手を振って否定した。
「あ、違うんですっ! あの……井川真琴さん、ですよね……?」
「え……」
思い掛けない問い掛けに目が点になる。女性は申し訳無さそうな表情を見せながらも言葉を続けた。
「プライベートですよね。それなのに声を掛けてしまってごめんなさい。……実はこの子、貴方の事が大好きなんです。それでつい……」
そう告げられたので女の子に視線を遣ると彼女は恥ずかしそうに抱き締めているぬいぐるみに顔を埋めた。きっと女性は女の子の母親なのだろう。そんな母親にそっと背中を押されるも頑なにその場から動こうとしない。
「なっちゃん、なっちゃんの大好きな真琴君よ?」
「…………っ」
フルフルと小さな顔が揺れる。僕はその愛らしさにホッコリしながらしゃがみ込んで小さなファンと目線を合わせる。
「……なっちゃん、て言うの?」
そう質問を投げ掛ければ潤みを孕んだ円らな瞳が顔を出す。
「…………」
声が発せられる事はなかったが反応はあった。その華奢な頭が一度だけ軽く縦に動いたのだ。
「なっちゃんは僕の唄聴いてくれてるの?」
頷きがまた一つ。
「……ありがとう。凄く、嬉しいよ」
一瞬躊躇したが、手を伸ばした。壊れないように優しく女の子の頭に触れ、一撫でする。その時漸く女の子がぬいぐるみに埋めていた顔を僕に見せてくれた。
「……ぁ……」
「……ん?」
「…………っ……」
声が聞こえなかったので彼女の口元に耳を近付けるもやはり聞き取れない。途方に暮れて彼女の母親に視線を向ければ今にも泣いてしまいそうな表情をしていた。
「……ごめんなさいっ、この子……話せないです……っ」
「え……?」
「……耳は聴こえるみたいなんですけど……それもほんの僅かみたいで……いつかはその聴覚も失ってしまうかもしれないと、お医者様には言われています……」
「そんな……」
僕は再び女の子に視線を向けた。彼女はギュッとぬいぐるみを抱き締めるとまた顔を隠してしまった。
「……物心付いた時からずっとそうでした。だから何時しか友達とも遊ばなくなってしまって……引っ込み思案になって心を閉ざすようになってしまったんです……。でもそんなこの子が、唯一貴方の唄を聴いた時だけ、嬉しそうに微笑ったんです」
そう言って女の子の頭を撫でる彼女。それに甘えるように女の子が彼女に擦り寄った。
「……目を輝かせて私に向かって貴方の事を指差すんですよ。あぁ、本当に好きなんだなって。……だから思わず声を掛けてしまいました……」
涙腺が緩み視界が滲む。でも、ここで泣いたら駄目だ。哀れんでいるわけではないし、同情しているわけでもない。ただこの小さな女の子が僕の唄に希望を見出してくれたのかもしれないと思うと、僕が歌ってきた意味があった気がして感慨無量になる。
「……ありがとう、なっちゃん。これからもずっと、歌い続けるから。……これからも君に、希望を届け続けるから」
俯いたまま涙を堪えてそう告げる。これは自分への宣誓でもあった。こんな小さな女の子でさえ闘ってるんだ。僕も、負けていられない。
そんな風に思っていたらトントンと肩を叩かれる。下がっていた視線を上げれば目の前に女の子の顔があった。
「…………とう」
「…………っ‼」
……聞こえた。ちゃんと。受け取った。
「……こちらこそ、ありがとう……っ」
そう返した時に浮かんだ彼女の笑顔を、僕は一生忘れる事は無いだろう。
それなりの時間を費やして席に戻ると、其処には何故か先輩の姿が見当たらなかった。
「あれ? 先輩は?」
「……実は、先に帰っちゃって……」
「えっ⁈」
慌てて辺りを見回すが彼の姿は何処にもない。
「『テスト勉強しないといけないから』って」
「うわぁ……ごめん、僕が戻ってくるの遅かったからかも」
「あ、それはないと思う。話してる時も帰り際も凄く上機嫌な様子だったから……」
確かに彼女が言うならばそうなのだろう。気を遣って言ってるようにも見えないが、流石に申し訳無いように思えて咄嗟に携帯を取り出しメールを送る。
ともすれば直ぐに返信があった。
『言われた通り好い子じゃん。末永くお幸せにー』
「え……」
「どうかした?」
返事を見て固まる僕を小野さんが不思議そうに見つめてくる。本文を見られないように携帯を後ろ手に遣ると思いっきり首を振って取り繕った。
「いやっ、何でもないよっ⁈ 全然何でもないからっ‼」
「……? そう……なの?」
納得はいかないようだったがそれ以上は詮索しないでくれた。ホッと一息吐いたのも束の間先輩に誤解されてる事実を思い起こし再び変な汗が噴き出てくる。
ちゃんと否定しとかないと……っ‼
返信して弁解しようかとも考えたがこう何度もやり取りしては勉強の邪魔になるかもしれない……なんて冷静に相手を思い遣れる気持ちは微量ながらに残っていて、文字を打ちそうになった指を止めた。
「……あ、ほら! 折角チーズケーキ来てるんだから食べちゃったら?」
見れば彼女が注文していたティラミスは既に食べ終わっていて、向かいに座っていた先輩のテーブルにも飲み終わったコーヒーカップとコーヒーゼリーの器だけが残されていた。
「峰内先輩ってコーヒー好きだったんだね」
喜々として話す彼女の表情で少しでも満足して貰えた事が垣間見え、不器用なりにも先輩を呼んだ努力が実ったな、なんて胸を撫で下ろす。
「そういえば部活帰りに自販機で飲み物選ぶ時もよくコーヒー買ってるの見るよ」
「そうなんだー」
「逆に僕はコーヒー苦手なんだけどね」
「私もコーヒーより紅茶派かな」
いつもの控えめな笑い声が心地良く耳に届く。その声を聞きながらチーズケーキを頬張った。
「そういえばドリンクバーに行ってから結構時間経ってたけど何かあった?」
気にしてくれていたのだろう。先刻までの朗らかな笑みは消え代わりに不安気な表情が浮かび上がる。
「……うん。素敵な出逢いがあったんだ」
思い返すと自然と笑みが零れた。すると彼女の顔までもが綻んだ。
「……? どうかした?」
「ううん。なんか、幸せそうだなって。だから私まで嬉しくなってきちゃった」
両手を顔の前で合わせてフフッと笑い声を溢す。本当に好い娘だなぁと尊敬の眼差しを向けつつふと時計に目を向ければ存外時間が経ってしまっていた。
「……そろそろ帰ろっか」
僕が時計に目を遣った仕草を見逃さなかったのか小野さんが席を立って伝票を手にする。僕が小さく「ごめん」と謝ればキョトンとした表情で「何が?」と訊いてきた。
「やっぱりさ、僕が直ぐ戻ってきてれば先輩帰らなかったかも……」
「それは無いから気にしなくていいよ! それに私、充分満足だったから」
「それなら……いいんだけど……」
口ではそう告げるもののやはり申し訳無い気持ちが先立ってしまうのでせめてもと僕は彼女の手から伝票を奪った。
「あっ」
「せめて今日は僕に払わせて下さい!」
「それは悪いよっ!」
「お願いします!」
頭を下げれば慌てている彼女の様子が見えなくても感じ取れた。けれど引くつもりはない。これぐらいさせて貰わないと……そして次こそは先輩との時間を作ってあげなければ。いや、その前に先輩の誤解を解かないと。なんて徒然と考えあぐねている内に肩を押されぐっと身体ごと持ち上げられた。
「もういいよ。それから……ありがとう」
そう言ってはにかみながら笑った彼女の表情に一瞬鼓動が跳ねただなんて、きっと気のせいに違いない。
かくして僕の『二人を幸せにしよう』作戦は見事失敗に終わった。逆に僕が小さな女の子に幸せを貰ってしまい、不甲斐無く感じつつ肩を落として帰った次の日、想像もしなかった事態が起こった。
『……もしもし真琴? 良かった繋がって』
「……? 藤木さん?」
登校した途端に携帯が震え出しディスプレイを確認すれば相手はマネージャーで、通話ボタンを押しつつ僕は頭に疑問符を浮かべていた。何故なら今日は仕事が入っていなかったからだ。
「こんな時間にどうかしたんですか?」
『……うん。ちょっと不味い事になっちゃってさ……』
どこか切羽詰まった声に緊張が走る。無意識に携帯を握る手にも力が入り視線を彷徨わせた。
「何があったんですか……っ?」
『ごめん、詳しくは会ってから離すよ。とりあえず今何処?』
「今ちょうど学校に着いたところです」
『じゃあ校門で待ってて。学校側にはこっちから連絡入れとくから』
少し早口でそう告げるとマネージャーは僕に何かを言わせる間もなく電話を切った。それだけ焦っていたのだと窺えて鼓動が強く脈打ち始める。
「……何なんだろう……」
心当たりを探るも見当が付かない。このまま考え続けても埒が明かないと判断し、目を閉じてただ只管彼を待ち続けた……
「真琴、……これ、一体どういう事なんだ?」
「え?」
仕事が休みだったのにも拘らず急に事務所から呼び出され、着いて早々テーブルの上に広げられた週刊誌を突き付けられる。見れば僕らしき人物と、僕と同じ制服を着た女の子が映っていて。
挙句、見出しには『井川真琴、熱愛発覚⁈』の文字。
「え……これ、何で?」
「明日発売予定の週刊誌だよ。急遽差し替えられるそうだ。……前からフリーの記者がお前を狙っていたらしい」
僕は顔面蒼白になりながらもちゃんとした真実を伝えようと彼に縋り付いた。
「でもこの子はただのクラスメイトでっ」
「解ってるよ」
落ち着いて、と両肩を優しく掴まれる。冷静になれなくて泣きそうになってしまいどうしても顔が歪む。
「真琴の事だからそうだろうとは思ってた。でも弁解したところで世間が信用してくれるとは限らない」
「そんな……」
血の気が引くとはこういう事を言うのだろうか。頭が真っ白になる。何も返す言葉が見つからない。
「事務所としては『ただのクラスメイトの一人』で突き通すから。真琴が言うんだから間違いないんだろうけど、もしかしたら記者が学校にまで来るかもしれない。何もないならいいけど一応友達や写真の彼女にも事情を話しておいた方が妥当だと思う……あ、でも彼女に接触するのは不味いな。その子には僕から伝えるよ」
「……はい」
「とりあえず今日はオフ日だし、このまま家まで送るから。流石に家までは来ないと思うけど念の為に注意しといて」
マネージャーの声がどこか遠くに聞こえて僕は首を振った。これ以上迷惑を掛けてはいけない。その思いだけが僕の正気を保つ。
「すみませんでした」
声が震える。深々と頭を下げていた為彼の顔は見えない。けれど緊張感がひしひしと全身に伝わってきて手先の感覚が無くなっていく。
「……これで自分の立場を少し理解出来ただろ? お前が起こす行動一つで周りが動いちゃうんだ。……まぁそれを理解出来たならこれから気を付けられるだろうし。起こってしまったものは仕方ないからさ、前向きに考えよう。な?」
存外優しく掛けられた言葉に涙腺が緩む。本当はもっと怒られて然るべき事態だろうに彼は剰え笑顔を浮かべている。僕を不安にさせない為に。その優しさに一体どれだけ甘えれば気が済むのだろうか。自分の浅はかな行いにほとほと嫌気が差す。
「……社長には僕から言」
「いえ、僕から言います」
「え?」
「僕が起こした事なので」
自分がやった事の責任は自分が負う。
もう子供ではないのだから。
騒動から一夜が明けた今日、僕はいつも通りに登校した。勿論周りの視線はどことなく痛く突き刺さるような感じがしたし、時折コソコソと潜ませた話し声が聞こえたりもしたけど気付かない振りをした。
途中で一度、彼女とすれ違った。僕はどうしていいのか解らず結局下を向いてそのまま通り過ぎた。だからその時彼女がどんな顔をしていたのかは知る由もない。
「……はぁ」
張り詰めた緊張が常に付きまとっている所為か肩に力が入り過ぎて凄く痛い。食欲も湧かず昼食時間の終わりが迫っているというのに箸は一向に進まない。代わりに溜息ばかりが口から洩れる。
「吐き出すんじゃなくて吸収しろって」
一緒に昼食を摂っていた幹也が見るに見兼ねてそんな言葉を溢す。僕は彼を一瞥し、力なくも微笑した。
「ごめんね、辛気臭くて」
「そんなのは別にいいんだけどさ……いや、良くないけど……つーか、お前がそんなだとやっぱ調子狂うから……元気、出せよ」
ぶっきら棒な物言いなのにその言葉からは溢れんばかりの激励が含まれていて僕は一瞬目を丸くしたが、次の瞬間破顔した。
「ありがと」
学校が終わりアルバム曲のレコーディングを控えていた僕はそのまま事務所のレコーディングスタジオへと直行した。
そこで思い掛けない朗報を耳にする。
「そーいえば蓮君メジャーデビュー決まったらしいよ」
収録前、いつも通り僕の収録が終わるまで外に出ていようとしていたマネージャーは突然思い出したようにそう言って「じゃあ頑張ってね」と付け足し手を振るとそのままスタジオを後にした。
「……え?」
残された僕は突拍子もない爆弾を落とされ対処出来ずにその場に固まってしまう。するとその一部始終を見ていた輝螺良さんが噴き出した。
「何あれ! 言いたい事だけ言って去っていくって! しかも収録前のアーティストに衝撃的な事実告げてっ⁈ すんごいクレイジーなんですけどっ‼」
と言いつつもお腹を抱えて大爆笑している輝螺良さん。
「ところで『蓮君』とは?」
興味津々な様子で僕に尋ねてくる輝螺良さんを前に正気に戻った僕は目を瞬かせながら返答した。
「あ、えと、小さい頃一緒に歌ってた親友なんです」
「あぁ! あのテレビに出てた時の!」
どうやら輝螺良さんも僕の初出演番組を目にしてくれた事があるらしい。僕は嬉しくなって多少前のめりになりつつ言葉を続ける。
「はい! 蓮はすっごく唄が上手くて‼ 僕が転校した学校で意気投合してずっと一緒に歌ってたんです‼」
「へぇーそうだったんだ。あの時の唄凄い印象的だったからよく覚えてるよ」
「ありがとうございます!」
これ以上ないぐらい満面の笑みが浮かんだ気がする。それだけ喜々としていた。今の僕を褒められるよりも、蓮と二人で歌ったあの時の事を褒められる方が何よりも誇りに思えて嬉しかったから。
「……今日すっごい良い歌声が録れそうだ」
「……? 何か言いました?」
「ううん、何も言ってないよ。……さ! じゃあ歌入れしますかー」
「はいっ‼」
マネージャーが投下した爆弾のおかげでレコーディングは絶好調だった。もしかしたら今までで一番良い出来になったかもしれないと思えるぐらいだ。
その後気分が良いまま自宅へ帰り、湯船に浸かって疲れを癒し、夕飯を済ませて一人自室で携帯を弄っていたら絶妙なタイミングで電話が鳴った。相手はまさに先程話題に上がっていた蓮だった。
「もしもし蓮っ?」
『真琴? 久しぶりやな、元気しとるか?』
もしかして記事の内容を知って電話をくれたのだろうか。けれどここでその話題を出すのは憚られてわざとテンションを上げた。
「うん、相変わらずだよ!」
差し障りのない返事をする。本当は今が一番しんどい。けれどそれを今の蓮に伝えるのは違うと思った。だって蓮こそ今が一番大事な時期なのだから。
『そうか……なんやこの前電話くれてたやろ? そん時打ち合わせしとって出られへんかってな、折り返したけど出ぇへんかったからちょっと気になって……。何も無いんやったらええねん。良かったわ』
そう明るく告げる蓮の声を聞いていればそれだけで僕には充分だった。
「それで態々電話してくれたんだね……」
デビュー前だからきっと凄く忙しいだろうに。
「……心配してくれてありがとう。蓮もいよいよメジャーデビューだね! 応援してるから!」
『おぅ! それまでちゃーんと待っといてや』
「うん!」
『ほんならまた連絡するわ! またな!』
その言葉を最後にどちらからともなく電話を切った。蓮の声を聞けただけで僅かでも元気になれるなんて現金だな、なんて笑えてきてしまう。
「……もうすぐだ」
もうすぐ、一緒に歌える。
同じ場所で、昔みたいに。
その思いだけが、失望の中に呑み込まれそうな僕を奮い立たせていた。
次の日も相変わらず奇異の目に晒されて気が滅入りそうになったが、バスケ部の練習に顔を出せばそんな事は一瞬で吹き飛んだ。
「おっ! 真琴じゃん! おはよ‼」
「おぉ! 真琴今日オフなんかっ? なら一緒に練習試合するぞー!」
バスケ部の面々は記事が出る前と一切変わらない態度で接してくれた。僕にはその有り難さといっては言葉に表せない程感極まって思わず目元を拭う。
「何ナニ、泣いちゃった?」
突然湧いて出た峰倉先輩に驚き涙も引っ込む。
「びっ……くりしたじゃないですかっ」
「さぁさぁ練習試合しよっかー」
クルクルと人差し指で器用にボールを回し何事もなかった風に振る舞ってくれる先輩。僕はその輪の中へと飛び込んだ。
こんなに満たされていていいのだろうかと思えるぐらい僕に課された罰は殆ど何も無くて、それが余計に不安を煽る。
そんな事を考えていたら、やはり払うべき代償は訪れた。
「……井川君」
「……あ、」
――――小野さん。
「……ちょっといいかな」
「あ、えっと」
その時マネージャーに言われた言葉がふと過ぎりどうしても身構えてしまう。
「……そうだよね。ごめん! やっぱりいいや!」
「あ、小野さ」
「井川君! ありがとねっ!」
「え……?」
振り向きざまに何故か笑顔でそう告げて颯爽と去っていく彼女。その言葉の意図が掴めず僕は呆然と立ち尽くした。だって彼女に対しては真逆の事しかしていない。罵られるような事はあっても感謝される覚えは微塵もないのに。
それに、どうしてこのタイミングなのだろうか。その疑問は解消されぬまま、僕は再びバスケの練習に戻っていった。
まさかこの出来事を後で悔やむ事になるなどと欠片程も思わずに。
数日後、それは放課後のバスケの練習が終わった後に聞かされた。
「……真琴、ちょっといいか?」
深刻そうな顔をして先輩に手招きされた僕は妙な胸騒ぎを感じつつ少々怯えながら彼のもとへと近付いた。
「どうか、したんですか?」
「……ちょっと話したい事があってな」
校舎裏行くか、と付け足して先を行く先輩に置いて行かれないように僕も少し足早に彼の後を追う。いつもなら茶化して話す彼が今日に限っては全くそんな様子を見せなくて、それが更に僕の不安を煽る。動悸を感じて胸に手を当て兎に角落ち着こうとしたところで先輩が足を止め此方を振り返った。
「あー……実は、さ……」
言い難そうに髪を掻き、視線を彷徨わせる彼。僕は息を呑んで先の言葉を待った。するといきなりジャージの内ポケットを探った後カサカサという音と共に何やら取り出した。
「これ、預かった」
そう言って差し出されたのはアンティーク調をあしらった封筒で、そのデザインが如何にも女の子が好みそうなものだったので僕は目を丸くさせた。
「誰からですか?」
「……小野さん」
その一言で僕は酷く動揺した。真面に彼と顔を合わせる事が出来ない。
「お前連絡先教えてなかったんだな。お前の携帯番号教えようかって言ったんだけど『迷惑になるといけないから』って、代わりにこれを渡された」
念押しするみたいに今度はその手紙を僕の胸へと押し当ててくる。それを無碍に断る事も出来ずそれを手にして伏せていた視線を僅かに上げれば彼は普段とは程遠い真剣な眼光を僕に向けていた。
「お前がこれ以上周りを巻き込みたくなくて彼女を突き放すような態度を取っていたのは解ってるつもりだ。けど本当にそれが正しい選択だったのか? ……お前はそれで良かったのか?」
核心を衝かれ、強く鼓動が跳ねる。緊張で喉が張り付いたみたいに返す言葉が出て来ない。
「勘違いすんなよ? 別に俺はお前を責めてるわけじゃない。お前が取った行動が正しかったのか間違ってたのかなんて誰にも解らないしそれを咎める権利もない。ただここ最近の真琴がずっと無理して笑ってる気がしてたからさ。そういうの、見てるこっちもしんどいし。……お前の事が大切だと思ってるから尚更な」
そう告げていつもと変わらない微笑を浮かべポンッと肩を叩かれれば、そのまま歩みを止める事なく「手紙ぐらい読んであげろよ」と言い残して後ろ手を振りながら彼はその場から居なくなった。
一人残された僕は手紙を見つめて暫し逡巡する。先輩の言葉が反芻されその手紙から目を逸らす事が出来ない。そうして悩み抜いた後、僕は意を決してその封を解いた。
取り出してみると、二枚の便箋が入っていた。そこには彼女の思いの丈がぎっしりと詰まっていた。
『井川君へ
この間はありがとう。おかげで憧れだった峰倉先輩と話せて嬉しかった。同時に井川君と接する事も出来て良かったと思ってます。こんな形でしか伝えられなくてごめんね。
本当はね、ファミレスに行った時見てたんだ。井川君が小さな女の子と話してたところを。それを目にしたら、井川君の優しさに触れられた気がして凄く……暖かい気持ちになった。テレビに出てる人って裏表が激しいのかなって勝手な偏見を抱いてたけど、井川君は全然変わらないんだね。それに私の為に先輩との仲を取り持とうとしてくれた事も、凄く嬉しかった。残念ながら恋は叶わなかったけど、良い想い出が出来て、良い友達が出来て、幸せでした。
――――私ね、転校する事になったの。
あ、勘違いしないでね? 今回の騒動が原因では決してなくて、父の転勤を機に家族共々引っ越さないといけなくなっちゃって。だから最後にお礼が伝えたくて、手紙に認めました。直接渡したら迷惑掛かるかもしれなかったから先輩にお願いして井川君の手に渡るようにしたの。……何だか大変な事になってしまってごめんなさい。私、軽率だったよね。井川君があまりにも自然体だったから有名人だって事も頭から抜けちゃってた。でもそれは悪い意味じゃなくて、逆に井川君の魅力だと思ってます。そのままの井川君が素敵だと思う。これからもお仕事大変だと思うけど頑張ってね。陰ながら応援しています。
小野 美咲 』
「…………っ」
真っ直ぐな気持ちで記された文字の一つ一つが僕の後ろめたさを悉く打ちのめしてくるように思えて、自分が酷く浅はかな人間に思えてくる。周りの人の為と言いながら結局自分がしてきた事は自らの保身の為だと知らしめられているようで、内面の醜悪さを暴かれた気分だった。
「……こんなんで……どう幸せに出来るっていうんだよ……っ」
唄で幸せにするどころか、此処に存在するだけで不幸にしてしまうのに、こんなんで誰一人幸せに出来るわけがない。自惚れるのもいい加減にしろと、頭の中でもう一人の自分が罵倒する。
「……っ、駄目だ……」
目の前が真っ暗で、何も見えない。
手の内にあった手紙は、無残にも染みと皺でくしゃくしゃになってしまっていた。
「……真琴君?」
レコーディングスタジオに入り、歌入れのスタンバイが整い輝螺良さんが曲を流す。歌い始めが近付き、大きく息を吸う。……けれど、歌えない。
「どうかした?」
音が止まり、マイクを通して気遣わし気な声が耳に届いた。けれど僕は何も言葉に出来ずただ俯いて奥歯を噛み締めるだけ。
「真琴君、どうした……?」
様子がおかしいと判断した輝螺良さんが今度はマイクを通さず直接扉を開けて中に入ってくる。途端に体中から力が抜けその場にへたり込んだ。
「真琴君っ‼」
慌てた声と共に駆け寄って来てくれたその顔を漸く見れば、今まで目にした事の無い驚きと哀れみの表情で僕を支えてくれる。
「……今日は止めとこう。大丈夫大丈夫。また前みたいに歌えるから。だから――――」
――――自分を殺さないで。
そう言って抱き締められながら肩を擦られる。言われた僕よりも輝螺良さんの方が余程辛そうで、僕はその腕に手を乗せ少しの力を込めて握った。ふと鏡越しに映った自分の顔を目にしてやっと自分がどういう表情をしていたのかを知る。
その顔はまるで、能面を付けたような無表情を象っていた。
歌入れは中断され、次回の再レコーディングの日程も決まらないまま僕はマネージャーに連れられ自宅へと戻された。
「いいか真琴、当分仕事の事は考えなくていいからゆっくり身体を休めるんだ。……それから、心も」
「……でも」
「でもじゃない。仕事は気にしなくていい。とにかく休む事。いいね?」
何度も念押しされ、否定の言葉を入れようものならすかさず遮られ途方に暮れる。仕方なく押し黙っていればやがてマネージャーは頭を垂れた。
「ごめんな。気付いてやれなくて」
「え……?」
「最近色々あってしんどかったもんな。心のケアまで行き届いてなかった。マネージャー失格だよ」
意気消沈という言葉そのものを表現している様相に僕は慌てて頭を上げさせる。
「そんな事ないですっ! 藤木さんだから僕は今も頑張れてるのであって……それに僕、明日は歌えま」
「駄目だ」
いつもはそこまで強い口調で否めるような言葉を発したりしないのに今日のマネージャーは頑なだった。それだけ心配掛けてしまったのだと反省する。
「あ、ちょっと待って、真琴今自分を責めてるよねっ? それが駄目だって‼ 真琴は悪くないから‼ これは仕方ない事だから‼」
「でも元を辿れば僕が全て悪いですし……」
理由があるとはいえ唄の練習を怠っていたり、途中で逃げ出したり、スキャンダルを掲げられたり……今思えば全て自業自得だと言わざるを得ない。どんどん負の連鎖に嵌っていく自分の両頬をマネージャーが小気味の良い音を立てて叩いた。
「こら真琴! 深く考えない!」
「……ふぁい」
頬を挟まれているから情けない返事しか出来なくて少し笑えた。そしたらマネージャーは漸く顔を綻ばせた。
「良かった……やっと少し笑ってくれた」
心なしか瞳が揺れている気がする。申し訳ない気持ちを持て余しながらもう一度笑顔を作ってみた。が、今度は失敗したらしい。
「無理して笑わなくていいから。……今は自分がやって楽しいと思える事をやればいいからね」
その言葉を残して彼は去っていった。その遠退いていく車を見つめる僕の心は酷く感傷的で、また彼の隣に立てる日が来るのだろうかと一抹の不安を抱えたままその車を見えなくなるまで見送り続けた。
その日以降、僕は歌えぬまま日がな一日を過ごした。ただ幸いだったのは部活であるバスケに集中出来た事だ。バスケをしている時だけは何も考えずに済んだ。ただ必死にシュートを打ち込む事と周りにパスを回す事だけを考えていたから。それが唯一の僕の楽しみだった。その時だけは、自然と笑えている気がしていた。
「なぁ真琴、お前最近凄い調子良いじゃん」
「つーか上手くなったよな」
チームメイトが僕の動きを見てそんな風に褒めてくれたので素直に嬉しくなって微笑みが浮かんだ。
「ありがとう。実際そうだったらいいな」
そんな風に毎日過ごしていたらいつしかそれが当たり前と化していって。それでもマネージャーは無理強いせずに僕が歌えるようになるのを待ってくれた。だから僕も意を決して事務所へ行きレコーディングしようと意気込んだりもした。けれどいざ曲が掛かると声が出ない。何度も何度もそれを繰り返す内に段々自信が無くなって。気が付いた時にはもう三カ月が経過していた。
「……なぁ真琴、最近ずっと部活入ってくれてるけど、仕事の方は大丈夫なのか?」
部活の休憩時間中、峰内先輩がふと何気なくそう問い掛けてきて僕は一瞬たじろいだ。
「え……と」
「こっちとしては有り難いんだけどさ……だけどやっぱお前の歌ってる姿見て元気貰ってる人達もいるんだろうなって思ったら、何ていうか……ここで燻らせてるのは勿体無い気もして」
うーん、と唸りながら気持ちの矛盾を整理しているらしい先輩は眉間に皺を寄せて首を捻らせている。そんな先輩を横目に僕は俯くしかなかった。
「……そう、ですよね」
自分でも解ってはいた。これはただ逃げているだけだ。楽な方楽な方へと身を寄せて、大事な問題に向き合おうとせず目を背けているだけ。だからこうして率直に訊ねられてしまうと答えに詰まり視線を逸らしてしまうのだ。
「……羨ましい時あんだよな」
「え?」
「歌ってる時のお前、輝いてるじゃん? 勿論バスケしてるお前も楽しそうで良いと思うんだけど、歌ってるお前はもっとこう……想いが全身で伝わってくるからさ。……カッコいいと思うよ」
「……せんぱ」
「俺の次にな」
最後にオチを付けるみたいに悪戯に笑ってコートへと入る彼。その際にポンッと背中を叩かれる。それはまるで「一歩踏み出せ」と言わんばかりの励ましに思えて、不意に目の周りを熱くさせた。
「……あれ? 真琴?」
部活終わり、僕はその足で単身事務所へと向かいその敷居を跨いだ。すると偶然にもエントランスでマネージャーと出くわし思わず苦笑を洩らして頭を下げる。マネージャーは僕が此処に来る事は想定外だったようで唖然とした表情で立ち尽くした。
「え、な、んで? え、だって何にも連絡なかったし……って、一人で来たのっ?」
漸く働き出した脳が紡ぐ言葉は途切れ途切れだったが行動は早かった。僕の背中を押して偶々空いていた休憩室へと促しサーバーからコーヒーを注いで手渡してくれる。
「……唄、歌いたくなって」
「……っ‼ ホントにっ⁈」
座ったと思った途端ガタッと大袈裟に椅子を倒して立ち上がった彼に驚き肩を揺らす。けれど彼はそんな事などお構いなく嬉々として表情筋を緩めた。
「何て日だ……今日は嬉しい事ばっかりだよ……ちょっと待って。もしかしたら明日、地獄に突き落とされるような出来事が待ってるんじゃ……」
百面相をする彼は見ていて楽しかったがそれ以上にその話の内容に興味が湧いて質問を投げ掛ける。
「何か良い事あったんですか?」
首を傾げてみせると彼は待ってましたと言わんばかりに両手を机につき身を乗り出してきた。
「聞いてビックリ‼ なんと‼ 今日はこの事務所に蓮君が来ています‼」
「……え……?」
蓮が? 今、此処に?
「今社長に挨拶しに行ってるんだ」
今度は僕の脳が動きを止める。けれどそれも束の間、状況が理解出来た僕の身体はぶわっと一気に熱を帯びた。
「多分もうすぐ逢えるよ」
その言葉を耳にして僕は居ても立ってもいられず休憩室を飛び出した……瞬間。
「――真琴」
「……え?」
突如廊下に響いた声。緩々と背後を振り返る。そこには、ずっと待ち侘びていた人物がいた。
「……れ、ん……」
頭が真っ白になる。
……少し髪が伸びた気がする。それに、痩せた、だろうか。でも佇まいは昔と変わらない。勝気で、自信に満ち溢れていて。その瞳は今も猶、輝きを放ったまま。
……今の僕には、眩し過ぎる。
「俺、東京に来たで」
「……うん」
「『うん』て。もっと歓迎してくれへんの?」
「…………」
「何や、がっかりやわ。……お前、すっかり腑抜けてもうたな」
そう言って蓮は張り付けていた笑顔を崩し、思い切り顔を顰めて僕の心臓の辺りにそっと拳を当てた。
「俺はお前に追い付こうと必死にここまで追い掛けてきたのに……お前は……何やってんねん……」
「…………っ」
物理的に痛みを感じる訳がないのに今押し当てられている拳が蓮の言葉と感情を表しているかの如く胸を圧迫し、内側まで突き刺さったように苦痛を伴い思わず表情が歪んだ。
「……『また蓮と二人でステージに立ちたい。もっとたくさんの人達を笑顔にするんだ』って……『大人になっても一緒に歌おう』って、そう言ってくれたんはお前やろーがっ‼」
そう、まるで夢物語のような願望……否、実現させる為の指針にした目標。
「……忘れて、なかったよ」
「じゃあ何で歌ってないんやっ⁈ 俺はずっとお前が歌ってる姿を画面越しに見てきとったのにっ‼」
「別の道もあるんじゃないかって思ったんだよっ‼」
売り言葉に買い言葉とはこういう事を言うのだろうか。俯いたまま僕は堪らず声を荒げて蓮の手を振り払った。だが次の瞬間自分の失態を顧みてハッとなり、咄嗟に顔を上げて蓮を凝視した。
「……なんやねん、それ……」
心底傷付いている顔。泣きたいのに、感情をぐっと押し殺し耐えている表情。思わず僕まで心痛な面持ちになる。
「ちがっ」
「俺と同じ場所で歌う事よりも……他にやりたい事が出来たって言うんか……」
「そ、れは……」
言葉に詰まる。「そうじゃない」と、ただ一言口にすればいいだけなのに、喉の奥で引っ掛かったまま出て来ない。理由は知れてる。その考察が当たらずも遠からずだったから。
「……ははっ。何なんこれ。俺めっちゃ滑稽やんか」
自嘲した笑みを浮かべる。僕はそんな蓮を見ていられなくて思い付く言葉の無いまま、ただ漠然と口を開く。
「蓮、あの」
「もうええよ。……俺は結局、自分のエゴをお前に押し付けてただけやったんやな」
「それは違っ」
「違わへんよ。幼少期の約束なんて、子供のみたいなもんやし。……真に受けとった俺がアホやってん」
そう告げて笑い掛けてくる。屈託の無い笑顔なのに酷く痛々しくて僕の瞳に膜が張っていく。
「やめてよ……っ」
「……すまんな」
僅かに目を伏せ蓮の口から弱々しく吐き出された謝罪。そんな事を言わせたかったんじゃない。そう思うのに嗚咽が洩れるだけで声が出ず、苦しくなって服が皺になるのも厭わず胸の辺りを強く握り締めた。
「謝らないで……っ」
何とか口に出来たのはそれだけ。次から次へと滴り落ちる涙を何度も服の袖で拭う。
「……ほなな」
辻褄の合わない会話を無理矢理絶って踵を返す蓮。引き止めたくて声の代わりに手を伸ばす。けれどその手は空を切ったまま、掴む事も叶わず力なく床へと落ちた。
――――こんな筈じゃなかったのに。