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オトノハ  作者: 弥生秋良
4/13

別れ


 それから数日して、僕は藤木さんと共に【ブルー・スプリング・ミュージックプロダクション】の事務所へと足を踏み入れた。

 初めて訪れたその場所は、何もかもが真新しいものばかりで僕は心躍らせた。

 事務所の社長さんにも会わせて貰った。流石に社長さんに会うともなると僕は緊張してしまって表情筋が固まってしまうんじゃないかと思ったけれど、いざ会ってみると社長さんは想像と違って温柔な笑顔で快く迎え入れてくれたのでそう強張る事もなかった。少し言葉を交わせば非常に紳士的且つ魅力的な方で、話の終盤は笑顔が零れたぐらいだ。



「それじゃあ真琴君、これからよろしく。君には期待しているよ」

 会話の締め括りにそう激励を受け、僕は緩んでいた気を引き締め背筋を正した。

「はいっ」

「良い返事だ」

 去り際、頭を一撫でされた。

誰かに必要とされている。それが素直に嬉しくて僕はその余韻に浸っていた。



 この頃の僕は母の言う通り世間というものは疎か人の妬みや嫉み、それから人と上手く付き合う為の建前なんてものを知らず、ただ純粋に、全うに生きていた。

 けれどこの仕事を始めたのがきっかけでそれだけじゃ駄目なんだと痛感する事になる。

 社会の厳しさと決して優しくない現実を目の当たりにしたのは、僕が中学三年に上がり次第に仕事にも慣れつつあった春先の事だった。



「駄目だな」

「え……?」

「あぁいや、こっちの話だよ」

 唄の収録中、プロデューサーの呟きが耳に入り思い掛けず聞き返した。だが彼は何もなかったかのように受け流し軽く手を振る。

「一旦昼休憩挟みまーす」

 そんな声が上がり出演者の方と一部のスタッフの方達が漫ろにスタジオを後にする。結局その波に乗り遅れた僕は何の用も無いのにその場に取り残されていた。

「井川君も休憩しておいで」

 作業をし始めた大道具の方が優しくそう声を掛けてくれる。

「あ、はい……」

 これ以上この場に留まっていても逆に邪魔になるだけだろうと慌ててスタジオを出たところでハタと気付く。

「そういえば……」

 収録の間ずっと傍で見ていてくれていた筈の藤木マネージャーの姿が無い。常ならば休憩を挟むタイミングで「お疲れ様! お弁当用意してるよ」等と一番に声を掛けてくれるのに。

「……とりあえず戻ろ」

 こうしていても埒が明かない。そう結論付けて止めた足を進める。

 まさかそれを後悔する羽目になるなんて、この時は思いも寄らなかった。



 控え室の近くの曲がり角まで来た時、親しみ馴染んだマネージャーの声が微かに聴こえてきてひょいっと顔を出した。が……

「藤木さん、頼みますよホントに」

「はい……すみません」

 神妙な顔で話をするマネージャーと、誰か。二人の間には何やら不穏な雰囲気が漂っていて、僕は咄嗟に曲がり角の手前の壁に身を潜めた。

「井川君がデビューしてもう二年経つんですよ? それなのに未だ自分の意見もはっきり言えない。唄の練習時間も充分では無い気がしますけど?」

「それは学校があるからで……」

「なら他の子はどうですか? 学校に行きながらでも睡眠時間さえ削ってトレーニングや発声練習を自主的にやってますよ? そもそも彼には貪欲さが無い。他を蹴落とすぐらいな気持ちでいないと。……社長の秘蔵っ子だからって皆気ぃ遣って接してますけど、そうじゃなかったらとっくにこの業界から消えてますからね」

 淡々と語られる真実が胸を抉る。零れそうになる涙をぐっと堪え歯を喰い縛り、更に両手で口元を覆う。

「藤木さんからちゃんと指導しないと彼変わりませんよ。そのまま消えていく人間なんてこの業界ザラですから」

 そう忠告した相手が遠ざかっていく足音を耳にしながら呆然と立ち尽くす。途端に力が抜け口元を覆っていた手が床に落ちる。足が床に張り付いてしまったみたいにその場から動けなかった。

「…………」

 マネージャーは今どんな顔をしているのだろう。彼は今までも同じような事を言われ続けてきたのだろうか。その度に一人でグッと耐えて、僕には何も告げずに笑い掛けてくれていたのだろうか。

「……あれ、真琴?」

「あ……」

 声を掛けられふと視線を上げればすぐ傍に彼がいた。僕は何とか表情を取り繕い微笑って見せる。

「お疲れ様です。ちょうどお昼休憩になったので戻ってきました。スタジオにいなかったみたいですけど何かしてたんですか?」

 まるで何も知らないという風に小首を傾げ問い掛ける。すると彼の僅かに強張っていた表情が緩み曖昧に答えを返してきた。

「いや、ちょっと別の取材のスケジュール調整で電話してたんだ。ごめんね一人にして」

 彼も僕と同様に嘘を吐いた。優しい嘘だ。今まで何度そうさせてしまっていたのか。

「そうだったんですか。……いつもありがとうございます」

「何言ってるんだよ。マネージャーなんだから当たり前だって。でも……そう言って貰えると正直嬉しいかな」

 目尻が下がり柔らかい笑みが象られる。その笑顔に胸が詰まり思い掛けず目頭が熱くなる。

「……っ、あのっ、弁当頂きますねっ」

「あ、そうだね。中入ろうか」

 不自然にならないように顔を伏せ、震えそうになる声を叱咤して普通を装い控え室に入った。ちゃんとやり過ごせていただろうかと一瞬不安になったが彼の様子を見る限りは上手く誤魔化せたようでホッと一息吐く。



 誰に知られる事もないまま、一滴の雫が床を濡らした。




 お昼が終わってからも僕はまるで何事もなかったかの如く収録を(こな)し、その後の雑誌のインタビューも滞り無く普段通りに受け答えした。マネージャーは何も言わなかったし、僕も何も訊かなかった。



「……今日はこれでお終いだよ。お疲れ様!」

「はい、お疲れ様です」

「じゃ、帰ろっか」

 そう言って車に乗せられ、京都までの道程を運転するマネージャー。

「……藤木さん……」

「んー?」

 カーナビから聴こえてくる唄は、僕が出したアルバムの曲で。

 その唄で楽しそうにリズムを刻む彼。

「……っ、ちょっと止まって下さいっ」

「えっ⁈」

 僕の言葉に吃驚し、それでも何とか前方に視線を向けたまま目を見開くマネージャーに申し訳無く感じながら、僕は膝の上に置いた手を握り締めて彼に視線を向けた。

「やっぱり戻ります……唄の練習、します」

「あ、え、でも今日はもう遅いし」

「そんな風に言ってたらいつまで経っても練習出来ないですから……」

「……真琴……」

 困惑したマネージャーの表情で察した。

 あぁ、折角隠していたのに結局バレてしまった。

 それでも、耐えられなかった。僕が責められる事が、ではなく、僕の所為で彼が責められる事が。

「……ちょっと待ってね」

 小さく息を吐き、マネージャーは路肩に車を一旦停止させた。

「ねぇ真琴、今日控え室に入る前に聞いちゃったんだろ?」

「……はい」

「あぁ、やっぱり」

 彼はそう溢すと額に手を遣り上を向いた。

「あんなの気にしなくていいんだって。ただの僻みというか何というか……大人の醜い嫉妬だよ。自分の付いてる子がなかなか売れないからって人気のある真琴のマネージャーである僕に当たってきただけなんだから」

「でも実際僕は自分の意見もはっきり言葉に出来ないですし、唄だって全然練習出来てないです……!」

「はっきり言えないのは周りの事を考えてから口にする優しい真琴の性格だからだし、唄の練習は京都からの通いなんだから時間取れないの当たり前だよ。それに大人になっても自分の意見を真面に言えない人もいるし、大人になっても唄の練習をしない人だっている。それでも人気を博しているアーティストの人も沢山いるんだから」

 僕の問いに対して何の臆面も無くさらっと答えていくマネージャー。だけどやはり僕は気遣われているとしか思えなくて視線を徐々に地面へと落とした。

「……ほら、そんな顔しない。親御さんも心配するから今日はもう帰ろう。な?」

 諭すように声を掛けられ、僕は頷くしかなかった。



 次の日、前日に引き続き仕事があった僕は学校が終わってから迎えに来てくれたマネージャーの車で仕事場へ向かった。

 日を跨いでも僕の心が晴れる事はなく、燻ったままの気持ちを持て余した状態で仕事に入る。今日は新曲のレコーディングだった為事務所のスタジオでの仕事だ。

「じゃあ頭からいくよー」

 ガラス一枚隔てた向こうでエンジニアの方が指示を出す。僕はその指示に従い平常通りに唄を紡ぐ。……が。

「……うーん。真琴君、今日なんか調子悪かったりする?」

「え?」

 思い掛けない言葉で意表を突かれ唖然とする。今までのレコーディングでそんな風に言われた事など一度もなかったのに。

「変、でしたか……?」

「いや、変て言うか……なんか、気持ちが上の空って感じかなぁ」

 うーんと唸りながら腕組みをし首を傾ける彼にどう反応していいか解らず右往左往してしまう。

「とりあえずもう一回歌ってみよっか」

「……はい」

 それを合図に僕は大きく深呼吸をしてから、再度歌い始めた。

 それがまさか、次の日にまで持ち越しになるなんて予想だにせずに……



「今日はもう止めとこっか」

「…………」

 その言葉に僕は何も返せずただ俯き立ち尽くした。申し訳無い気持ちと、情けない気持ちしか湧いてこない。滲んでゆく視界に少しだけ残っていた理性を総動員させて内から溢れ出る水を引っ込める。

「真琴君、兎に角出ておいで」

 そう促され緩々とブースから出る。と、ポンポンッと頭を優しく叩かれた。

「そういう時もあるって。気にしない気にしない。きっと明日になったらいつもの真琴君に戻ってるよ」

 そうだったらいい。

 そう思ってみるけど今の僕には後ろ向きな考えしか思い浮かばなくて。

 明日になっても改善してなかったら。

 また迷惑を掛けてしまったら。

 目まぐるしく回転する頭は逆方向にしか回らない。悪い方向にしか。

「……すみませんでした」

 俯いたまま辛うじて出てきた言葉は、たった一言の謝罪だけだった。



「……真琴ー、明日の夜久しぶりに一緒にご飯食べに行こっか! 蓮君も誘って!」

「…………」

「ほら、僕一人暮らしだし時間も無いからいつもコンビニ弁当なんだよねー。だから偶には誰かと食事したいなって思ってさぁ……」

「…………」

「真琴……」

 解ってる。

 気を遣われてる事も、慰められてる事も。

 けれどなんて返せばいいのか解らない。

 僕はそんなに器用に生きられない。

「……真琴、着いたよ」

 ふと顔を上げれば既に自宅の前だった。それまでずっと足元ばかり見ていたから全く気が付かなかった。

「ありがとう、藤木さん」

「……ちゃんと寝るんだよ?」

「はい……」

 最後は微笑って見せた。けれど彼は痛々しい表情しかしなかった。きっと僕の笑顔が失敗していたんだろう。



 その日の夜中、家族が寝静まってから僕はこっそり家を出た。細心の注意を払って、誰にも気付かれないように。

 そして向かった夜の公園。そこへ着いた頃に小雨が降ってきたのでいつか蓮がやってたみたいに土管の中に入り両膝を抱えた。

 財布も携帯も家に置いてきた。今の僕には必要無いと思ったから。

 ひとりに、なりたかった。

 何の柵にも囚われない自分になりたかった。

「……こんな風に思う時が来るなんて……」

 僕には荷が重過ぎたのかもしれない。

 その時は何も考えず簡単に捉えていたのだろう、きっと。

 そんな単純なものではなかったのに。

「……っ、辛い……っ」

 口にすれば、止め処なく零れ落ちる涙。

 今まで言葉に出来なかった。

 だって、自分で決めた事だから。弱音なんて吐けない。誰にも。……でも。

「……苦しいよ……っ」

 きっとこの仕事を始めなければこんな思いをする事はなかっただろう。責任が課せられる仕事。自分にしか出来ない、けれど、誰にでも成り代われる仕事。

 本音と建前。交錯する思惑。自分の知らないところで交わされる僕への蔑みの言葉。

「……っ、辞めたい……っ」

 サァ……と小降りだった筈の雨が急に勢いを増す。恰も僕の心境を現すかの如く。






――――その時。











「何寝惚けた事言うてんねんっ‼」











 突如として降ってきた言葉に驚いて僕は全身で飛び跳ねた。おかげで頭をしこたま打ち付けてしまう。

「い……っ⁈ え、あ……れ、蓮……っ⁈」

 チカチカする視界の中でも見間違う筈がない唯一無二の親友が、何故かそこにいた。

「な、んで……っ?」

「お前なぁ……携帯持って出てへんから知らんやろうけど、今外ではえらい騒ぎになってんで」

「え……?」

 はぁ……と深い溜息を吐いて土管の中へと入ってくる。よく見れば蓮は全身びしょ濡れで、途端にブルブルと犬のように首を振ってきたので黒髪から滴る雫が僕の方まで飛んできた。

「ちょっ、冷たいっ」

「それぐらい我慢せぇ! この雨ん中お前の為に俺がどれだけ走り回った思てんねんっ‼」

 結構な力で頭を叩かれ、先程打ち付けた箇所が再度痛みを訴える。涙目になりながら蓮に視線を遣れば、何故か蓮の方が泣きそうに顔を歪めていた。

「……蓮……?」

「何で……一人で我慢してんねん……っ」

 苦し紛れに吐き出された言葉。と同時に胸倉を掴まれ僕は目を見開く。

「何……っ」

「お前何で一人で抱え込んでんねんっ‼ 俺が居るやろーがっ‼」

「……蓮」

「一人で悩んで一人で呑み込んで、挙句一人で夢諦めようとするんかっ⁈ 俺達(・・)の夢やなかったんかっ⁈ なぁっ‼ お前一人だけで逃げんなやっ‼」

 降り頻る雨の音にも掻き消されない怒声。土管の中で響き渡り、僕の胸を酷く打つ。

「……っ、ごめ……っ」

 言い切る手前で涙が邪魔をした。嗚咽が洩れる。蓮がふっと息を吐いたのを無意識に耳に留める。

「謝って済んだら警察要らんねん、アホ」

 言葉は刺々しいのにそれが存外優しく聞こえたのは、思い違いではないだろう。

「……あ、あかん、とりあえず連絡しとかな」

 慌てたようにポケットから携帯を取り出し何やら打ち込み始める蓮。僕は訳が分からず首を傾げた。

「……? 誰にっ?」

「藤木さんと真琴のオトンとオカンに決まっとるやろ」

「えぇっ?」

 蓮は僕の方に視線を向ける事無く一心不乱に文字を打ち込んでいる。すると突然蓮の電話が着信を告げる。

「うわっ、藤木さんや」

「何で藤木さんが出てくるのっ? 現状が全然把握出来てないんだけど……」

 頭に疑問符ばかりが浮かぶ。だって僕はちゃんと藤木さんに家まで送り届けて貰ったし、両親にも気付かれずに家を出てきた。なのに何故?

「まだ解らんのかっ? お前のオトンとオカンが『真琴が失踪した‼』って血相変えて俺ん家にまで来たんやでっ⁈」

「えっ⁈」

「ほんで二人共パニックなってたから俺が藤木さんに連絡取って事の顛末説明したら今度は藤木さんまで『俺の所為だ……‼』なんて慌て出すしやな……」

 やれやれ、と両手を掲げながら呆れた風に首を振る蓮。対して僕は一瞬にして血の気が引いた。暗いから気付かれないだろうが今光の下へ行けば確実に顔が真っ青になっている事だろう。

「ど、どうしよう……」

 事の重大さを漸く認識した僕はオロオロと狼狽した。だが蓮は憮然とした態度で、

「そんなん知らん。自業自得や」

 と、容赦無く言い放った。

「反省せぇ。ま、一番反省すべきは、こんな雨の中俺を走り回らせた事やけどなっ‼」

 そう付け足して鼻を鳴らしそっぽを向かれてしまった僕は、暫し途方に暮れるしかなかった……



 その後、多大な心配と迷惑を掛けた僕は恐縮しながらも蓮に連れられて自宅へと戻った。家に着くなり、父、母、そしてマネージャーが揃って僕を出迎え、母は涙を流し、父は安堵の息を吐き、マネージャーは縋り付いてきた。

「良かった……」

 反応は様々だったが一様にして皆がその言葉を口にした。その一言だけでどれだけ心配させてしまったのかが知り得て僕は深々と頭を下げた。

「……ごめんなさい……」

「ホンマやでっ‼ 次同じような事したら思いっきりしばくからなっ‼」

 返してきたのは何故か蓮で。

「……しばく?」

「~っ、【叩く】言うたら解るかっ⁈ 言うとくけど今日みたいに手加減したのとちゃうでっ‼」

 そう言われて若干後退る。あれも大概な痛さだったのに、あれで手加減してたの?

「わ、解ったよ。もう絶対しない。……今度からはちゃんと、相談する」

「そうやで。何の為の親友やねんホンマに」

 腕組みをしながらも柔らかい空気を纏わせ苦笑した蓮。ふとそれまで何も口を挟んでこなかった他の三人を見遣ると、優しく微笑んでくれていた。

「……うん、ごめん。それから……ありがとう」

 これは蓮だけでなく皆に告げた。

 再度下げていた頭を上げると、ちょうど窓から外が見えた。土砂降りだった筈の雨が止んでいる。そっと窓を開けてみた。

「……晴れたな……」

 隣に立った蓮が言う。口元に僅かな笑みを携えて。

「……うん」

 見上げた夜空。そこには先程までの雨が嘘のように、無数の星が拡がっていた……



 それから当分の間は両親もマネージャーもそれはそれは過保護なぐらいに僕を気に掛けてくれた。流石にマネージャーがトイレにまでついて来ようとした時は全力で阻止したが。でもその気遣いが僕の悴んだ心を融かしてくれたおかげでレコーディングも上手く乗り切れた。

「……オッケー! やっぱり昨日は調子悪かったんだなぁ。今日はバッチリだったよ!」

「ありがとうございます」



 その後の唄のレッスンも少しの時間ではあるが受けるようになった。これは何か言われるから、ではなくて、純粋にもっと唄が上手くなりたいと思えたから。



「……なんや、それやったらもっと上手く歌えるように練習してそんな事言うた奴見返したったらええねん。大丈夫、真琴やったら出来るよ」

 悩む僕に蓮は一蹴して返してきた。

 その言葉がやけに腑に落ちてしまったから何だか拍子抜けしてしまったぐらいだ。



 そんなこんなで何事も無く単調な毎日が繰り返されていたが、次第に仕事にも自信が付き始めていた。と同時に中学の卒業も間近に控えたある日、思い掛けず人生が一変する出来事が起こった。



「まこちゃん、ちょっといい?」

 控えめにノックされた扉の向こうから、通常よりも少しトーンを落とした声が僕を呼んだ。

「ん? 何?」

 ベットに寝転がっていた体勢を起こし、歩みを進めて扉を開ける。すると普段では殆ど見せない母の愁いを帯びた表情が目に飛び込んできた。

「下に降りてこれるかしら?」

「……うん」

 何だか嫌な予感がして顔が引き攣る。それを察した母は出来得る限りの笑みを浮かべた……が、どうやら失敗したようで、僕には苦笑にしか映らなかった。



「……あれ、父さん。帰ってたんだ」

 リビングへ足を運ぶと、常ならばこの時間に居る筈の無い父の姿がそこにあった。

「あぁ。……真琴、ちょっと此方に座りなさい」

 そう告げられて正面のソファへと促される。

「……はい」

 その硬い表情から何か重要な話を持ち出される確信があった。その雰囲気に呑まれ思わず返事もぎこちないものになってしまう。

「……実はな、父さん、栄転になったんだ」

「えいてん……?」

「お仕事で上の立場になったのよ。昇進、って言ったら解るかしら?」

「昇進……」

 そこまで説明されればいくら中学生の僕でも理解出来る。その話だけ聞けば朗報だし何も顔を曇らせる必要はない。ならば何故二人が浮かない顔をしているのか。ならば導き出される答えは……

「じゃあ……引っ越すの?」

 二人が言いたかったのはきっとこれだろう。意を決して告げた僕に二人の視線が交わる。

「……ごめんねまこちゃん。折角この街にも慣れてきたのに」

「……ううん、大丈夫。だって凄く嬉しい事だよ。僕は父さんを誇りに思う」

 嘘偽りはなかった。だから笑顔でそう口にした。それを耳にした母が安堵した様子で笑みを溢す。

「ありがとう真琴。そう言って貰えて父さんも心から喜ぶ事が出来るよ。真琴こそ、俺達の誇りだ」

 それまで厳かな空気を纏っていた父がやっと微笑みを浮かべ、徐に立ち上がると僕の頭に手を置いた。

 僕は照れた風に俯いて笑った。

 ……それが苦笑だとバレないように。



 僕が我慢する事で周りが幸せになれるならばそれでいいと思った。いつもそうやって自分が本当に望む事を二の次にして生きてきた。自分一人が満足して笑うより、自分の大切な人達が満足して笑ってくれる方が結果的に自分自身も満足出来たから。

 でもそんな僕にも、どうしても譲れないものが一つだけあった。

「……でも、仕事は今まで通り続けてもいいよねっ?」

 懇願するかの如く言い募れば、二人の表情が揃って驚きへと変化する。顔を見合わせると父は困ったように、母は穏やかな笑みで口を開いた。

「勿論よ」

「今度の行き先は東京だ。国を跨いだりはしないから安心しなさい」

 続いた父の言葉でホッと一息吐く。

「真琴がそんな風に言うなんて……お仕事始めるって決まった時には考えられなかった事ね」

「いい事じゃないか、仕事に対する意欲も責任感もあって」

「……うん」

 そんな殊勝な理由じゃない。ただ歌いたいだけ。蓮と一緒に歌えなくなるなら、せめて僕の歌ってる姿を見ていて欲しいだけ。いつか交わした約束を蓮に覚えていて欲しいだけ。蓮との繋がりを持っていたいだけ。全ては単なるエゴでしかない。

けれどそんな事言える筈もなく、曖昧に相槌を打った。



 次の日、蓮に引っ越しする旨を伝えた。蓮は想像とは違い朗らかな笑顔を見せた。

「そうかぁ……それはしゃあないよなあ……でも良かったやん。仕事行くのも近くなるし、増々仕事に身が入るな!」

「え、あ、うん……」

 思いの外軽い返しに僕の方が戸惑いを隠せない。

 もっと哀しんだり落ち込んだりするかと思ったのに……寂しいとか、思ったりしないのかな。なんて、そんな事訊いたら女々し過ぎるし……蓮はいつでも会えるって考えているんだろうか……

 徒然とそんな思考を巡らせていると、蓮が僕の方を見て苦笑を洩らした。

「何百面相してんねん」

「え?」

「変な顔になってんで」

 指摘され思わず両頬に手を当てる。その反応が面白かったのか蓮は豪快に声を上げて笑い出した。

「ホンマお前……っ」

「なっ、そんな笑う事ないだろっ!」

 何だか無性に恥ずかしくなって顔と耳に熱が篭る。

「……寂しくないわけないやん」

「……え?」

「どうせお前の事やから俺の反応が薄いのを気にしてんのやろ?」

 言い当てられ絶句する。その表情を目にした蓮は先刻までの笑顔が嘘のように笑い損ねた顔をした。

「寂しいに決まってるやん。当たり前やろ。けど仕方ないって割り切らなあかん事も世の中には仰山あんねん。どんなに泣き喚いたって埒があかん事だってある……だから俺は嘆く事なんかせぇへん。いつかお前に追い付くんや。いつか俺も、東京に行く。そんでお前ともう一回一緒にステージで……でっかいステージで思いっきり歌うんや……!」

 いつの間にか下がっていた視線を蓮に向けると今し方浮かべていた愁いは微塵もなく、反して輝々とした晴れやかな笑顔がそこにあった。

 それはまるで、希望に満ちた未来を一ミリも疑っていないようで。

「…………っ」

「……何泣いてんねん」

 呆れた声が届く。表情までは解らない。だって視界がぼやけてしまっていたから。

「……っ、ごめん……っ」

「何謝ってんねん、アホか」

 それは馬鹿にした言葉ではない。揶揄しながらも慰めが含まれた労りの言葉。本音を口にしなくても伝わる。だってずっと一緒にいたから。

「……離れても唄は歌えるし、俺とお前はこれからも変わらず親友や」

「……うんっ」

 返事をすれば蓮は突然立ち上がり、いつかの時と同じく拳を突き出した。

「あの時の約束、まだ有効やからな」

 あぁ、そうだ。忘れた事なんてない。

 あの頃の蓮の声が木霊する。

『いつか二人で大きいステージに立ってまた一緒に歌おう‼ そんでそこに集まった大勢の人らを幸せいっぱいの笑顔にするんや‼』

「……勿論覚えてるよ。これからも、忘れない」

 そう告げて僕も例の如く拳を合わせた。







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