誓い
初めてステージに立ったあの日、歌いながら気付いた事がある。
一つは、僕達の唄を聴いて観客の人達が心底楽し気な表情を見せてくれていた事。そして、その場が酷く穏やかで暖かい雰囲気に包まれていた事。
これまでの人生の中で感じた事の無い感動があった。内心驚喜で打ち震えていた。自惚れでなければ僕達の唄がそうさせたんだと思えたから。
その時子供心ながらに思った。もっともっと沢山の人達を僕達の唄で笑顔にしたい、と。
そうしてこれからも蓮とずっと一緒に歌い続けていきたいと、本気で思ったんだ。
子供の戯言だと嘲笑されるかもしれない。けれど、それでもいい。
他人からどう思われようと、夢は自分が諦めない限り途絶える事はない。【不可能】なんて言葉は自分次第で【可能】に変えられると信じていたから。
その約束の日から暫く経ち、僕達が中学に上がると歌番組に推薦してくれた藤木さんが再び僕達の前に姿を現した。
「この前はありがとう。あの番組すっごく好評だったみたいで、おかげで僕も上司に褒められたよ」
ニコニコしながらそう報告して母に出されたコーヒーを僕達の目の前で啜る彼。今日はサングラスをしていなかったから表情がよく見えた。
「あ、これ良かったらどうぞ」
そう言って彼が母に渡したのはテレビ局に売っているのであろうよく画面越しに目にするキャラクターの形をしたクッキーだった。
「あら、ありがとうございます」
彼に負けずとも劣らない朗らかな笑顔を携えそれを受け取る母は心なしか足取り軽くキッチンへと下がっていく。
「ほんで、今日は何の用なん? ホンマはただのお礼だけ言いに来たんちゃうやろ?」
蓮が急かすみたいに身を乗り出して藤木さんへと詰め寄る。彼も満更ではない顔をしつつ手を上げて見せた。
「あ、もしかして蓮君何か勘付いてる?」
「何がや」
「うーん……、お母さーん、少し座って頂いてもいいですかー?」
一瞬困ったような表情をして、奥へと下がっていた母を再度呼び戻す彼。僕は訳が分からず小首を傾げた。
「はーい、どうされました?」
洗い物をしていたのか水の付いた両手をエプロンで拭いながら姿を見せた母。言われた通り彼の斜め前の椅子へと腰を下ろす。
「実はお話したい事が御座いまして……」
「はい……?」
母も僕と同じくして首を傾げている。それを目にした蓮が前のめりになっていた身体を椅子の背凭れに倒すと、僕の隣でやれやれといった様子で小さく首を横に振った。
「単刀直入に申し上げますと……お宅の息子さん、歌手デビューさせてみませんか?」
「「……え……?」」
僕と母の声が見事に重なる。目が点になるとはこれ如何に。僕は目を瞬かせながら蓮の方を向いた。すると蓮はそれを察していたようで僕の顔を見てニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「いやぁ、実はあの番組を見ていた視聴者から『あの二人の唄がもう一度聴きたい』という意見が多数寄せられたみたいでして……我が社の上司も酷く彼らの唄を気に入ったみたいなんですよ。それで、とあるレーベルから声が掛かりまして……」
淡々と話し続ける彼に母はただ目を見開いたまま呆然としている。頭の中を整理するのに手一杯なのだろう。そんな母の代わりに蓮が再び身を乗り出して彼に問い掛けた。
「なぁなぁ! それってどういう事になんの? CDとか出してまうんっ? またテレビに出て歌ったりとかっ?」
そう言葉にした蓮の身体からは好奇心が満ち溢れていた。目に見えない筈のそれを感じ取った僕は何だか面白くて小さく声を上げて笑った。
「……何やねん」
「いや、蓮てば凄く解りやすいなって」
もしかしたら彼の夢でもあったのかもしれない。それがテレビに出る事なのか、有名になる事なのか、はたまた歌手になる事なのかは僕には見当が付かなかったが。
「……それで、どうなんや?」
話を元に戻し、藤木さんへと視線を移す蓮。それに倣い僕も彼に目を向けた。
「うん、まぁ概ねそういう事になるだろうね」
「ホンマにっ⁈ めっちゃ凄いやんっ‼」
興奮して目を輝かせる蓮に僕まで自然と笑顔が浮かぶ。そんな僕達の喜びを横目に母は視線を彷徨わせていた。
「あの……でも、大丈夫なんでしょうか。息子はただの一般人の子供で、芸能界の知り合いもいないですし、まだ中学生になったばかりで社会のルールでさえ解っていません。それに元々海外に住んでいたので日本語の儘ならない場面も出てくるかもしれません。皆さんの期待に応えられるかどうか……」
母は戸惑いながら率直な意見を口にした。
すると藤木さんはそんな母の杞憂を払拭するように優しい笑みを携え口を開く。
「大丈夫ですよ。その為に僕がいますから。実は僕、彼らのマネージャーになろうと思ってるんです」
「え、そうなんですか?」
「えぇ。だって彼らは僕が見つけたんですから」
そう言い切ってコーヒーを一気に飲み干しテーブルに置くと急に立ち上がった。
「え? どうされたんで」
「お母さんお願いします‼ 息子さんを僕に預けて下さい‼ 必ず有名なアーティストに育て上げますっ‼」
母が言葉を言い終わらない内に彼は真摯な瞳と態度でそう宣言し深々と頭を下げる。母は慌てて腰を浮かせ彼の肩を持って顔を上げさせようとした。
「あ、あのっ、顔を上げて下さい……っ」
「いえ、首を縦に振って頂けるまで上げませんっ‼」
「そんな……」
あまりにも頑なな姿勢に母はタジタジである。と、その時偶然にも母の携帯が鳴った。
「……! パパだわ!」
まるで助かったとでも言わん様子で携帯の通話ボタンを押す母。僕と蓮は顔を見合わせながらも何も言葉にはしない。子供が口を挟んでいいような雰囲気ではなくなっていたからだ。
「パパっ! ちょうど良かった! 今藤木さんが来てて……そう! この前のテレビの……えぇ、その方が来て、えっと……」
伝えたい言葉が纏らないのであろう母の狼狽した姿に不謹慎にも笑ってしまう。多分僕の気持ちが昂っているからだろう。蓮の事を言っていられない。
「何や、真琴も内心嬉しいんやないか」
「……へへっ、バレちゃった?」
おどけて舌を出すと蓮が呆れた表情で両手を上げる。そうこうしている内に母も話し終わったようで電話を置いた。
「どうでしたかっ?」
ソワソワしながら様子を窺っていた藤木さんがここぞとばかりに母に詰め寄る。母は後退りながらも少し間を置いて口を開いた。
「夫は……『真琴がやりたいなら』って……。『真琴の気持ちを優先させなさい』って、言ってました」
そう言うと彼の視線が今度は僕へと注がれる。同様にして母と蓮の視線も此方へと向けられ、僕は僅かばかり緊張してしまう。
「……真琴君は、どうしたい?」
藤木さんが問い掛けてくる。そこに先刻までの強引さはない。あくまで僕の意見を尊重してくれるようだった。
「真琴」
名を呼ばれ、蓮を見る。彼の瞳は吸い込まれそうなぐらい澄んでいて、それが全てを物語っていた。
「――――やりたい。僕、皆の前で歌いたい」
その言葉は誰かに言わされた訳ではなく、誰かに押し切られた訳でもない。この言葉は、僕の意志で、決意だ。
皆を唄で笑顔にする。
僕が蓮にそうして貰ったように。
そして、蓮と大きなステージで歌う。
「いいの? 生半可な覚悟じゃ出来ないわよ?」
母の今まで見た事も無い真剣な眼差しが僕を捉える。それでも僕は撤回しようとは思わなかった。
「やる。……決めたから」
「……解ったわ」
母は小さく息を吐いて、漸くその表情を緩めた。それを聞いた藤木さんが嬉しそうにガッツポーズをする。
「ちょお藤木さん、あからさま過ぎやろ」
蓮が溜め息交じりにそう溢すと言われた当人はその状態のまま固まる。それを目にした僕と母は互いに顔を見合わせ笑った。
「ホンマ恥ずかしい人やなぁ」
「……すみません」
これじゃどっちが大人か解らない、なんて心の中だけで呟きつつ今度は蓮の家に行くんだろうと考え席を立った。
「次は蓮の家だよね?」
思った事をそのまま口にする。と、藤木さんは瞬きを数度繰り返した後ポンッと手を打った。
「うん、そうだねっ」
「おいおいちょお待って。今忘れてへんかったか?」
「え? やだなぁ、そんな訳無いじゃない」
間髪入れずに返してはいるものの笑顔が引き攣っている。あぁ、この人嘘が下手だ。
おかげで蓮がもの凄く胡乱気な目で彼を見ている。
「さ、じゃあ蓮君の家に行こうかー」
話題を無理矢理断ち切って立ち上がり、僕の母に向き直ると再び頭を下げた。
「ありがとうございました。とりあえず今日はこれで失礼します。詳細はまた後日お伝えしにお伺いします」
最後に微笑むと母もそれに倣って微笑を浮かべる。
「これから、息子をよろしくお願いします」
そう返して母も頭を下げた。ので慌てて僕も一緒に頭を下げた。
「はい!」
そして僕と蓮は彼に付き添い、今度は蓮の家へと向かった。
蓮の家に着くと、蓮が僕と藤木さんを中に通してくれた。
「ただいまー」
「おかえり……って、お客様やないのっ‼ あんたそれ先に言いなさい‼」
てっきり蓮だけだと思っていたのであろう蓮のお母さんはちょうどキッチンで夕飯の支度をしていたらしく、食材を切っていた手を止め慌ててリビングへと出てきた。
「藤木さん、でしたよね? 急にどないされたんですっ? 真琴君も一緒でどないしたんっ?」
焦った調子で尋ねた後思い出したように冷蔵庫へ行きお茶を出してくれる。
「立ち話もなんやから座って下さい! 蓮‼ あんたこれ持って行きなさいっ‼」
「はぁ……」
突如として現れた来客にあたふたするのは無理もないだろう。申し訳無さを感じながらふと藤木さんを見ると、どうやら僕と同じ事を考えているのか困惑した表情を浮かべていた。
「まぁ適当に座ってくれてええから」
そう言って毛布の仕舞われた炬燵テーブルにお茶を置いていく蓮。僕と藤木さんは視線を合わせ同じタイミングで腰を下ろした。
「すみませんねー、こんな狭い所で何にもないんですけど……」
「いえ! お構いなく!」
そう言葉を交わし合ったところで蓮のお母さんも自分用のお茶を手にして座る。それを機に藤木さんが蓮のお母さんの正面に行き畏まった体勢で口を切った。
「蓮君のお母さん、実はお願いがあって来ました」
「……? 私にですか?」
まだ見当も付いていないのだろう。目を丸くしながらお茶を啜っている。
「実は先程真琴君のお母様にも会って、そちらには了承を頂きました」
「了承……?」
増々訳が解らないという風に首を傾げる蓮のお母さん。
「……蓮君を、歌手にしたいのですが」
「……⁈ この子をですかっ⁈」
唐突に降って湧いた話題に彼女の手にしていた湯呑みが床に落ちる。幸い高さもなく中身も飲み干していたようでカーペットが濡れるような惨事には至らなかった。
「実はこの前の歌番組を見ていた視聴者やらウチの上司やらが是非とも二人にデビューして欲しいと……」
端的に告げて彼女の出方を待つ。蓮は涼しい顔をしてお茶を飲んでいたが、次の彼女の言葉でその態度が一変した。
「……すみません藤木さん。それは出来ません」
「はぁっ⁈ 何でやねんっ‼」
本来藤木さんが言うべき科白――いや、流石にそこまで強い口調では言わないだろうが――を蓮が代弁するかの如く告げる。叩き付けて置いたお茶は僅かにテーブルを濡らした。
「あんたこそ何言うてんの‼ そんなん無理に決まってるやないのっ‼」
「自分は歌手になって真琴と一緒に大きいステージで歌うって約束したんや‼ オカンも聞いとったやんかっ‼」
「それは聞いとったけどまさか本気にするなんて思ってへんわっ‼」
白熱する言い争いに僕も藤木さんも口出しする隙が無い。
「本気に決まっとるやん‼ 子供の言う事やからって嘗めとったらあかんでっ‼」
「あんた親に向かってなんて口の利き方してんの‼ ええかげんにしなさいよっ‼」
エスカレートしていく言動に僕はただただ右往左往するばかり。そうしている内に蓮が立ち上がった。
「もうええ‼ オカンなんか知るかっ‼」
言い捨てて家を飛び出していく蓮。僕は不意に藤木さんに視線を向けた。すると彼も僕の方を見て蓮を追い掛けるように目で訴えてきた。
「蓮っ‼」
僕は躊躇わず蓮を追った。
玄関を出る前に振り返って見た蓮のお母さんの顔には、見るに堪えないぐらい苦渋の表情が浮かんでいた。
先に出て行ってしまった蓮の姿は既に目の届く範囲には無く、僕は途方に暮れた。
「何処に行ったんだよ……」
独り言ちて、ふとある場所が思い浮かぶ。
「……もしかして……」
心当たりが其処しか思い付かない。
留まっていても仕方が無いと首を振り、その場所へと駆けた。
「蓮ーっ‼」
行き着いた先は、いつも寄り道していた公園。辺りは暗くなり始めていて、ともすれば街灯が徐々に燈り出した。
「……やっぱり」
此処に居た。
そこは一般の公園では稀に見る土管の中。
「……よう解ったな」
不貞腐れた様子でぶっきら棒にそう口にするとあからさまに視線を逸らす蓮。けれど僕はそんな態度を物ともせずに土管の中へと入る。
「だって蓮、嫌な事があったらいつも此処にいるもん」
「……嘘やん」
「ホントだよ」
隣に座り同じように膝を抱える。横に目を遣ればどうやら蓮はその行動に自分でも気付いていなかったらしく、呆気に取られた顔をしている。
「でも今まで『嫌な事があった』なんて真琴に喋った事ないやろ」
「言わなくても解るよ。どれだけ一緒に居ると思ってるの」
言葉にすれば何だか可笑しくて笑みが洩れた。蓮は僅かに視線を迷わせながらも暫くして小さく「そっか」とだけ呟いた。
「バレとったんやな」
「……うん」
「気付いとったのに、訊かんかったん?」
「……うん」
言いたくないなら無理に聞く必要も無いと思って。
「……真琴ってさ……ホンマ……」
そこまで言って、言葉が途切れる。足元に移していた視線をもう一度彼に向ければ膝に顔を埋めていた。微かに肩が震えている。
「蓮……?」
「……真琴は、一人でも歌わなあかんで」
「え……?」
その言葉にただただ呆然とするしかなかった。そんな風に返ってくるなんて思いもしなかったから。
「何で……っ」
「何でって……こんなチャンスこの先二度とないかもしれんやんか。それを逃すなんて許さへん。折角真琴のオトンもオカンも許してくれてんねんから真琴は……真琴だけでも、先に進むんや。そんで、夢に近い場所で待っといて」
必ず追い付くから。
そう言って蓮が顔を上げる。その瞳は揺らいで見えた。そんな蓮の決意に応える為、僕は強く頷き拳を突き出す。
「解った。……待ってる」
蓮が僕の拳に自身の拳を当てる。
それが僕達の、合言葉。
そうして交わした二度目の約束は、暗闇の中でも輝いて見えた。
その光は決して途絶える事はない。そう信じていた、筈だった……