③
ジェイリーが目を細める。
屋敷内は昼だというのに見通せないほど暗い。
小手の放つかすかな光だけが数歩先までのぼんやりと視界を保たせている。
陽光をはじき返すほどの霊密度。
エントランスでこれなら本体はどれほどか。
みだりに踏み込むのは危険。
十人単位の霊術師が方陣を敷いて対処すべきで、念のため後詰めも必要だろう。
だが、その常識を彼の主人は平然と無視する。
「殿下はどこかな。生きてますか~?」
ユーグはこの暗闇を意に介しない。
その視界は光ではないものを捕らえているからである。
彼の目はいつの間にか熾った火のようにまだらな赤に輝いている。
ややあって、得体の知れない振動が屋敷全体を揺さぶった。
闇が一斉に屋敷内に踏み込んだユーグの周りから"引いた"のだ。
天窓、玄関から光が差し込む当たり前の貴族の屋敷がそこに現れていた。
ただし、人の姿はない。
ごとん、ごとん、ごん。
代わりに食堂へ続く歩廊の奥から料理人のお仕着せを着た何かが進み出てくる。
袖から覗く両手は黒く、いくつかの丸い西瓜のようなものをぶら下げていた。
全て人間の頭部である。
おそらく屋敷の使用人たちのなれの果てだろう。
顔は見えない。歪な黒い仮面のようなものが頭全体を覆い、その表面は今しも溶岩の表面のように沸き立っている。
突然、風を切る音がして、ユーグの上等な衣服が赤一色に染まった。
投げつけられた頭が彼の胸に当たって砕けたのである。
「ひどいなこれは」
前に出ようとするジェイリーを制してユーグが嫌そうに頭を振った。
生首の破片が髪に絡みついている。
しかし、カタパルトの弾丸なみの速度で重い頭を投げつけられたにもかかわらず、ユーグには何の痛痒も与えられていない。
「暴力に訴えてくる霊はこれだから嫌いなんだよ」
彼の体が前に向かってふわりと飛んだ。
単に飛び跳ねただけなのだが、足首から上を一切使っていないため浮遊魔法を使ったようにしか見えない。
どすん。
料理人のお仕着せを着た"何か"はユーグに馬乗りに押し倒されていた。
ユーグは極めて細身だが実は人間ではあり得ないほど重い。
普段はある種の魔法で建物などに負担をかけないようにしているのだが、今はそれをしていない。
押し倒された妖物はじたばたと暴れたが、びくともするものではなかった。
「ははは。暴力反対だよ」
面白くもなさそうに、ユーグは乾いた声で笑った。
「早く黙らせませんと、床が抜けますぞ」
ジェイリーが剣で妖物の頭を斬りつけるが、後から後から沸き立って広がる黒い仮面を多少削るだけだ。
「あきらめてくれないかなあ。ねえ、君?」
しかし、その様子は全く無く、その上ユーグの重量に耐えかねたオーク材の床の軋みはひどくなるばかりだ。
「床下に落ちるのはありがたくないな……仕方がないね」
そして、ひどく優しく付け加えた。
「僕も罪もない人を食べたくはないけどね」
言葉の途中で、ユーグの顔は人の形を失った。