第十一話 北極淵03…楔。契。拒絶
雪原の中そびえ立つ、水色の扉。
この中にアリスがいるのだと、どこか確信めいていた。
この先に何があるのか、不安を抱きながらも迷いなく扉を押し開く。
開いた先には、雪原ではなく、敷き詰められた石畳と僅かばかりに光灯す魔力灯。
中は非情に暗く、辛うじて足元だけは確認できる程度であった。一歩一歩地面を確かめるように進む。
息苦しくなり、振り向けば既に扉は閉まっている。いつもであれば、混乱してしまっただろうが、何万、何億と生きた、水の精霊の記憶があるからだろうか。動じることなくまた一歩一歩足を前へ出す。
私は、アリスと再び会えた時。また笑えるのだろうか。ふとそんなことを思い浮かべる。
今は辛うじて自我を保てても、気を抜けば一瞬で自分が自分でなくなってしまうような、恐ろしい感覚。それほどまでに精霊の記憶は、私なんかよりも途方もなく重い。
人の脳は、楽しかったと言った正の記憶より、非情に負の感情であった時の記憶を刻むと言われている。しかしそれは精霊も同じような物だった。
思い出すのは全てアリスの事。精霊というのは途方も無い年月を生き続けるため、感情が希薄になりやすい。そうでなければ狂ってしまい、精霊の役目を補えなくなってしまうから。
だがそんな精霊に、本当の意味で感情を与えたのがアリスであった。
勝手に私達を連れ出し、私達がしてきていた大地の管理。その美しさを、儚さを、激動さを見せてくれた。生きていると感じる、その瞬間を見せてくれた。人間というのは短命で、すぐ死んでしまう。だが、他の精霊とそんなことを考える間もない、出会ってから数年の事だった。
アリスが永久に時間に縛られる時が始まる。
何をしてもやり直させられる世界。
永遠に苦しみを伴う世界。
記憶に飲み込まれそうになる所で金属音が響くのを聞き、はっとする。
記憶から逃れるように首を振るい、真っ直ぐに駆け出す。
***
ガキンッ、と鋭い金属音を発し黒の刀身をもった剣は地面に刺さる。
走った先は開けた空間があり、そこには顔に手を当てブツブツと何かを呟くアリス。そしてアリスへ鈍く光る剣を振り下ろそうとしていた騎士の姿をした魔物。
――間に合った……!
そう思うと足から崩れ落ちそうになるが、すぐにアリスの元へ向かう。
まずはあの魔物よりもアリスの安全を確保することが重要だと判断したからだ。
「アリスさん!しっかりしてください!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
顔をあげさせれば、澄み渡った蒼い瞳は酷く淀んでいた。
ズキリ。と頭のなかで何かが暴れまわるような感覚に苦悶する。
ふっとフラッシュバックのように流れる、幾つものアリスの心壊れる姿。
「っ……!?敵は待ってはくれないって事かよ」
殺気を感じ、アリスを抱き抱えすぐさま横へ跳ぶ。それと同時に発する爆音。みれば自分達のいた場所が抉れ、凍りついていた。
袖に引っ張られる力を感じて見てみれば、アリスがひしと離さないかのように、震えていた。
気がつけば、アリスを力強く抱きしめる私の体。だが、それは私の意思ではない。
背後から甲冑が鳴る音が聞こえ、急いでここから離れることを決める。
倒すべき相手へ視線を送り、勝算はあると考える。だが、今のまま勝利を収めてはいけないのだ。
「また、後でな!」
――紡げ、祖なる力。即ち――
「アイス・ゼロ」
紡ぎし言葉は瞬間なれど時を止める。
すぐさま魔物の騎士、魔騎士でいいだろうか。その部屋から離れ、迷路のようだった道を戻る。
頭の中で「どうして、どうして」と煩い。
「精霊は、本当に馬鹿だ」
呟く言葉は、だれの耳に聞かれることなく掻き消える。
***
30分程逃げまわり、いつまでも分岐する通路のなか一室を見つけた。
ぎぃ……と扉を開ければ、ふわりと暖かな部屋であった。そこには本棚や暖炉があり、不思議とここが極淵だと忘れさせるような、温かみのある部屋だ。
ふかふかのソファがあったため、そこへアリスを座らせようとしたが、全く服を離してくれない。
「い……や……いか、ないで」
勝手に動こうとする体を抑え、落ち着かせるようにアリスのサラサラとした銀色の髪を撫でる。
「どこにも行かないから、大丈夫ですよ」
「……」
少しして通じたのか、手を離してもらえる。
遠く離れた場所から、なにか崩れ始めるような音が聞こえる。恐らくここに長居はしていられないのだろう。
「ミズキ……」
不意にアリスが今にも消えてしまいそうな声をかけてくる。
「好きなの……」
少女の告白は、今だけは瑞樹に届かない。
「ごめんなさい」
ただ、表情を変えず、淀んだ瞳から雫を零す。
「今のアリスの気持ちには、答えられないよ」
「どう、して」
今のアリスは心が壊れているのではない。だがそれに近い危うい状態。自分も少なからず彼女に対して好意は持っている。でも、今だけは答えてはいけない。答えてしまえば、彼女は私へ全て預けてしまう。心も、体も、意思も。なにもかも全て。
そんなもの、人ではない。ただの人形に過ぎない。
「わたし、あなたのため、なら、なんでも、する。だから、だから――」
「アリスさん」
「すて、ないで……っ」
ただ、なにも考えず、彼女を抱きしめていた。
このまま突き放さなければ、結局苦しむのは自分だというのに、愚かだ。
「みずきぃ……」
「……はい」
「すき……すき……すきなの……っ」
「……はい」
嗚呼……このまま何もかも放り投げて、微睡みの中へ身を任せることが出来れば、どれだけ楽なのか。
「アリスさん」
「さんなんて、やめて」
でも、このまま私が流されれば。永遠にアリスは救われない。
「アリス、聞いて」
「うん、なんでも、きくよ?なんでも、いって?」
ああ、気持ち悪い。自分はもっと上手く立ち回れるハズだろう。
「もう、大丈夫だから」
「……」
アリスは、何も答えない。
「もう、いいんだよ」
「何、言ってるか、分かんないよ」
「私が、ずっと傍にいるから」
「……だから?」
淀んだ瞳が、揺らぐ
力の限り、アリスの手を強く握りしめる。
「苦しんだ思いも、痛かった思いも、全て私が代わるから」
「…………て」
ガギリ、と、歯車と歯車が噛み合わなり始める音がした。
「だから」
「……めて」
「もう、逃げないで、私の目を見て」
「っ……やめて!」
「アリス」
「離して……!聞きたくない……っもう何も見たくない……っ」
握っていた手を振り払われ、目を瞑り、耳を塞ぐ縮こまるアリス。
それがどれだけ、逃げる道がどんなに楽な道かも、辛い道なのかも、私は知っている。
「大丈夫だよ」
ふわりと、アリスを柔らかに抱きしめる。
「私が」
噛み合わなくなった歯車は、次第に形を歪める。
「アリスの代わりになる」
「そんなの……!」
「無理じゃない」
私はアリスの肌身離さず所持していたグリモアを奪い取る。
何をするのか理解できないアリスはただ、呆然としたまま。
瞬間、部屋の入り口が破壊され、殺気が部屋に充満する。
土煙の中姿を現すのは魔騎士。
スッとアリスから離れ、魔騎士へ視線を移す。
パラパラパラと、グリモアは開かれるべくして開かれし、ある一項を記したページで止まる。
「「我は命ず」」
私の声と、水の精霊、『ヴェス』とアリスにより名付けられた女性の声が、1つ言葉を紡ぐ。
「「魔女と呼ばれし者の代行者となり、契られた時を、引き受けよう」」
「「紡げや、ゼロや、今、解き放て」」
「「我は全てを拒絶せし者」」
アリスの元に声は届かない。何故ならば今、周りは灰色のように色は失せ、左腕に付けられた時計は動きさえしていなかった。
「「リジェクション」」
紡いだ言葉が意味を成すと同時に、バキンッと音を立てアリスの楔は千切れ、脆く、崩れ去る。
――これでいい。
「どうして……っ」
何をされたのか気づいてしまったアリスは、糾弾するように詰め寄って問いかける。魔騎士はすぐそこまで来ているのだが。
私はどう返せばいいのだろうか。
拾ってくれたから?違う。幾度も助けてくれたから?違う。精霊との約束?違う。
自問自答していると、アリスの瞳は淀みきった色から、少しだけ元の色に戻り、大粒の涙を零していた。
――ああ、そうか。
「アリスだったから」
「ばか……本当にばか……っ」
「知ってるっ」
待ってくれない魔騎士は、アリスと私のいた場所を鋭い斬撃で刻む。
跡数秒遅れていたら綺麗な自分の断面図でもあっただろう。
「ミズキ……」
反射でアリスを抱えて飛び退いたのだが、無我夢中だったため俗にいうお姫様抱っこという形で抱えていた。
「すぐ、終わらせますから」
しかしどこか不満気なアリスに困惑してしまう。やはり信用ないのか、と考えていると、アリスは目を瞑って何かを待つような仕草をする。
「ん」
「えーっと……」
悩むのも野暮というものだろう。逡巡しつつも、唇を重ねあわせる。
満足したのか、アリスはニコリと微笑む。
「待ってる」
「はい」
少しだけ離れた位置にアリスを避難させ、水の障壁を張る。魔騎士といえども数十発程度必要な強度のものをしっかり作っておいた。
「一緒に踊りましょうか、魔騎士さん?」
番傘を挑発するように突き出し、魔騎士と対峙する。
甲冑から除き見える赤の光は、怒りか、それとも……