第十話 北極淵02…精霊の懺悔
「ん……ふぁ」
ぽかぽかとした暖かさの中、ようやく魔力回復の反動で眠り続けていた体がようやく目を覚ます。
ミズキに使った魔法は、普段私達の使う魔術とは違い、対価となる魔力、制御機能を自分で賄う代わりに効果が数十倍高まる。しかしこの世界では、魔力というのは全て枯渇してしまえば命に関わる。
そのため、枯渇した瞬間に大気中から一斉に魔力を取り込もうとするのだが、突然空の容器を満タンにする勢いで魔力は入るのだ、体への負担は尋常ではなく、そのため私の体は暫く意識は残っているのだが自発的に動けないという状況に陥っていた。
「ん、ぅ……」
隣から聞こえた声の先に視線を送れば、体中が傷だらけのミズキの姿がそこにはあった。
ずっと私を守るために、命を賭けて頑張ってくれた少年――ではない、同い年なのだから立派な青年か。
極淵の中だというのに、どんな状況でも諦めず私を第一に考えてくれた。それだけで涙が溢れてしまいそうだった。
今、私達は抱き合っているような状態で体を温め合っている。こんなことになるならば次元収納BOXをミズキに渡しておくべきだったと思いつつも、この状況に嬉しさを感じてしまっている私がいる。
「ミズキ……」
どうしようもなく、彼が愛おしい。
純粋な興味から、彼に惹かれ、依存させようとしていた筈であったのに。それが今ではどうだろうか。胸が締め付けられるほど、彼が恋しくて堪らない。
どの時間でも会う事はなかった、たった1つの世界に拒絶されし人
「ありがとう……大好き」
ふっと強く彼を抱きしめ、口付けをする。
「私が、絶対に、逃してみせるから」
パサリ……と十傑の証となる黒衣のマントがミズキに被さるように落ちる。
「換装」
体が風に包まれると共に纏う、赤色の魔導衣。
放り出されていたネクロノミコンと黒鞘の短刀を一本を拾い、微かに雪が残る北側の雪原へと向かう。
極淵からの脱出方法はたった一つ。最奥に眠りし守護者の討伐。
そして私達が落ちた場所が、不幸中の幸いか北極淵最奥。
西には湖畔、北には雪原、東には火山、南には森林。中央には私達の落ちた泉。
だが北以外の全ては幻だったかのように、段々とぼやけ始めている。
ああ――怖いなぁ……
少しだけ歩いた先、そこには水色の扉が鎮座していた。
――死んでも また会えるかな?――
ぎぃ……と軋むような音を立てながら開いた扉の先へ、ゆっくりとした足取りで入っていった。
どこかで、カチリと、時計の針が動く音が響いた。
***
困惑していた。どこにもアリスの姿が見えない。衣服は脱ぎ散らかされたままなのに、常に肌身離さず所持していた魔導書と短刀の1本がないのだ。
ふと体に違和感があり、下に視線を回せば体中の傷がなくなっていることに気がつく。そして1枚の書き置きが傍に落ちていた。
「ふざけんなよ…!」
どこだ、どこだよ。一体どこにいった!
急いでまだ湿った衣服を着て、腰には白鞘の短刀、それに番傘を持って当たりを探す。
ここが一体どこかなのかは、薄々気がついていた。アリスでも恐怖するような極淵。その恐怖を一番理解している彼女が、「ごめんね」と日本語で書かれた書き置きを残してどこかへ消えてしまった。
それだけならまだいい。まだマシだった。
「何で涙の跡なんかあるんだよ……!ばっかじゃねえの!?」
アリスは何かを、黙って仕出かそうとしている。それに嫌な予感が拭えないのだ。
泉の周囲を動きまわり、ようやく異変に気がつく。森が、湖が、火山が、砂のように掻き消え始めていた。しかし雪原だけはなぜか残っており、直感で彼女があそこに向かったのだと分かった。
「待ちなさい」
急いで雪原へと向かおうとするが、何者かの声に引き止められる。
「誰だ」
流石にこの状況でも丁寧な言葉を使う余裕もなく、怒気を孕みながら声のする方向へ睨みつける。
そこには、蒼い髪、黒い目の女性が、泉の上に佇んていた。
「貴方がこのままその先へ行っても、無駄死にするだけですよ」
「私はあなたが誰かって聞いたんです。そんな答えは、いらない」
「失礼致しました。私、名前はありませんが……俗世では水の精霊と呼ばれていました」
「その水の精霊が私に何のようですか。あなたに構っている暇はないんです」
「ですから、最初に申し上げました。その先へ行っても無駄死にするだけだと」
「用を聞いてんだよ!クソ精霊!」
心に余裕が余程なかったようで、他人だというのに乱雑な言葉を用いた自分に驚く。
――落ち着け、焦っても何も上手くは行かない。
胸に手を当て息を吐いてから、改めて水の精霊と名乗った女性を見る。
何故か冷ややかな視線を向けられていることに腹が立つ。
「貴方に死なれてしまうと、困るのです」
「理由は」
「言えません」
この精霊はふざけているのだろうか。
「話にならない」
「ですが――」
――あの少女は死んでも大丈夫ですので
「は?」
この精霊は今何を言ったのか、一瞬間を開けて理解し、言葉がでなくなる。
「アリス・エルトナならば、幾らでも換えが効きますので」
ああ、これが――
――殺意。
「まずは冷静になりなさい」
いつの間にか短刀を引き抜き、斬りかかっていた自分は、顔面を泉の中に突っ込まされていた。それが水の精霊によるものだと分かり、すぐに顔を上げるが、謎の重力により、また水の中に浸かされる。
何度も、何度も、幾度と無く息を求めて水面に顔を出せば水の中に浸かる。
「ゲホッゲホ、ゲホッ……」
「少しは落ち着きましたか」
「ざ、けんな」
しかし、抵抗する気力もなく、過呼吸気味になりながら息を整えるだけで今は精一杯だった。
「少々、先ほどの言い方は語弊がありました。あの少女は、死んでも死ねない……いえ、これも違いますね」
「お願いだから、早めにしてくれ……」
「あぁ、これです。アリスエルトナは、死ぬか、1年経つかで時間を引き戻されるのです」
突拍子もない事をついに言い出した精霊に、流石に困惑するしかなかった。
「あの少女は魔導書、グリモアグリモワールを手に入れる対価として――」
「待って、グリモア?あれはネクロノミコンじゃないのか?」
「違いますよ、ネクロノミコンは仮初の名。真名はグリモアといいます。」
「……質問は最後にする、続きを言って欲しい」
「はい。少女の手に入れた魔導書、それは本来この世界に存在を許されない魔導書です。ですが契約により、それはアリスという名の少女の手元にある限りは存在を許されました。しかし、それにはアリスエルトナ自身が対価を支払わなければなりません。対価となるのは――時間」
「時間……」
「そう、時間です。手に入れた瞬間から1年。その1年でこの世界の脅威となる者を殺す事……それが彼女に課された対価」
「何でアリスが!?」
「それが、掟であったから」
あまりの突然の事で理解することも出来ずにいた。
世界の脅威となる者、アリスの背負う対価。一体彼女が何をしたというのか。
でも、おかしくないか?
「死ぬと戻されるって、なんだよ」
「そのままの意味です。脅威となる者を殺せない限りは、自ら死を選ぼうとも、殺されたとしても、彼女の時は魔導書を手にした瞬間まで戻り、時を繰り返す」
「……今、何回目だ」
しかし、精霊は首を振るう。
「言え、お前が俺を引き止めたってことは、何かをして欲しいんだろう。それが対価だ」
「……分かりました。対価として承認します。
今回の週で――
――298071回目になりました……」
その言葉に愕然とする。ただ、一切の言葉を紡ぐことも叶わない。
永遠に逃れられない呪縛、その重さを背負い続ける少女。
「アリスは、今も目的を覚えているのか」
「既に幾度と心壊れ、目的など既に覚えておりません」
「っ……。死んで戻ることは、分かっているのか」
「13週程前に心を取り戻し、それは理解しております。しかし、魔導書本来の力も忘れ、最早目的を思い出しても……脅威となる者、邪神を倒すことは不可能でしょう」
「だったら、なんでお前が教えてあげないんだよ……!」
「私達は、彼女に接触することを拒絶されています。彼女の、アリスの心が壊れかけた時点で近づこうと試みました」
しかし、と紡ぐ精霊は悲痛な顔をする。
「彼女の取引した我らが王、精霊王ゼロは……!私達とのいかなる接触をも彼女へ禁じさせていた……!!アリスが幾度と無く廃人になるのを見続け、時には自ら死を選択し、世界をも全て破壊した姿もあった、それを全て止めることも!傍にいることもできなかった!何故アリスがそんな目に合わなくてはならないのですか!?何故、どうして!?私は……!私はもう……!」
傍に居続けたかった最愛の人が壊れ続ける姿を、永遠とも言える時間見続けた水の精霊も、既に限界であったのだ。
彼女は、全を放り出し心など無くしてしまいたかった。それでも、それでもアリスという少女を見守れなければ、誰が彼女の事を覚えているのだ……それだけが水の精霊の、心を支える唯一であった。
「あなたは、俺に何を望む」
「私の全てを、君に託します。本来世界に存在しないはずの君になら、私の力をアリスへ役立つように出来るはずだから……それで、彼女を守って……お願いします――」
――無限に続く時間の牢獄から、アリスを、開放させてやってください……
「……分かった」
「ありがとう」
厳かに水の精霊は一言感謝を述べると、少しずつミズキの体へと吸い込まれていくように融けて行く。
それと同時に入ってくる幾つもの記憶。水の精霊として生きた時間の全て。
一瞬でも気を抜けば、自分が自分でなくなってしまいそうな、世界の創世より存在した水の精霊の全てを受け止めきる。
「もう、言い残すことは、ないんですか」
少しずつ光となって消え行く精霊に、ミズキは聞く。
「出来ることなら、他の三精霊も開放してやってください。皆、同じように極淵と名付けられた場所にいるはずです」
「アリスには――」
「私の力が彼女のためになるなら、何もいりません」
「……」
「でも、もし、全てが終わる時が来たら――」
――また一緒に、アップルパイ食べたかったな――
そう言い残し、水の精霊は姿を消した。
「必ず、全て終わらしてやるから、待ってなさい」
呟くように言うと、雪原へと何も目をくらずただ走っていった。
――カチリ、とまたどこかで時計の針の音が響く――