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第7話 『急接近』と書いて『フシダラ』って読むなんてひどいよお兄ちゃん!

1.


 チョキチョキ、シャキシャキ。ハサミの音は軽快なリズムを奏で、まだまだ動きにぎごちなさは残るものの、アマネの黒い体毛の端をきれいにトリミングしていく。

「はいっ! アマネちゃん、できたよ!」

 やり終えて、ハサミを前掛けのポケットにしまったスミが元気よく告げると、アマネは自らをぐるりと見渡して、スミにお礼を言った。

 ここはアパートの庭先。大家さんから借りて拡げたブルーシートに椅子を置いて、一家総出の散髪とトリミングをしているところ。取り仕切るのはスミだ。

 スミの夢はトリマーになること。うちに来た当初、涙目で試験台になってくれとせがまれて以来、俺の髪はスミに切ってもらっている。アマネとリオは最初渋々だったが、意外とスミの上達が早かったことや、自分たちのトリミング代が浮いて懐にも優しいことから、最近は何も言わず切ってもらうようになった。スミ自身は技術の見学とトリマーさんへの顔つなぎも兼ねて、自分のお小遣いから費用を出してトリミングに通っている。

 まあ、軍にトリマーなんて職種はないわけで、スミも養育費返還対象予定だ。我が家は2体分を返還しなければならないだろう。気が重くないといえば嘘になる。

 でもスミの気性や能力を考えると、戦後一度も実戦がないとはいえ国防軍に奉職するのは難しいだろうし、まして輸出先で、動乱が続くアフリカや中東に派遣されて命の削りあいなんてできそうもない。これもエライさんの言う多様化なんだろうか。俺はそう考えながら椅子に座って散髪の準備をしてもらった。

 チョキチョキチョキ。

「ふう、さっぱりした。淳平、何見てるの?」

 一番にトリミングをしてもらって風呂で毛を流してきたリオが、俺が眺めている本を覗き込んできた。

「ああ、成体のデータファイルだよ。一昨日見た黒い奴のことを確認したくなってさ」

 散髪の間に眺めようと俺が手にしているのは、ドラゴンが成体化した時どのような特定種に分派するかというのを、実例写真つきで載せたデータファイルだ。

 先日ハルトが変化した"ガンナー"は、フレアーの射撃を得意とする特定種。

 "グラップラー"は格闘と組打ちを得意とする特定種。センターで見たスワニスキーがこれに該当する。おそらくリオもこれに変化するだろう。

 そのほか、"スピードスター"、"ワイズマン"などなど、そのドラゴンが幼体の時に示した才能と施した訓練の成果が反映されて、様々な特定種に分派していく。

「ねえ淳平。あの黒い奴、"ユー・ピー"だよね?」というリオに俺はうなずいた。

 さっきから話題に出ている"黒い奴"とは、リオが通り魔に襲われたとき俺が直面したドラゴンのこと。

 "ユー・ピー"とは Utility Player、つまり便利屋とでも訳せばいいのだろうか。いろいろな能力が平均的に備わった特定種、辛口な評価をすれば凡庸になる。

 これといって際立った特徴のない外見を持つ。もちろんとんがってりゃいいわけではなく、戦闘用生体兵器としては文字通りユーティリティ・プレーヤーとして部隊の中核的存在となる……はい、今読んでるデータファイルの解説です。

 散髪は伸びた部分を切る段階から、櫛と梳きバサミを使ってボリュームを減らす段階へ移っている。シャキシャキと音が鳴るたびに頭が少しずつ軽くなっていくのは相変わらず気持ちいいな。そんなことを思いながらデータファイルをめくっていた俺の指が、あるページで止まった。

 そのページの写真に写っているのは、ガタイのいいドラゴンだった。いや、ドラゴンと読んでいい代物なのかどうか。なぜなら、大振りな頭部に咢が3つ、正三角形を描くように下あごを内側にして配置されているのだ。尻尾も3本。翼は巨大なものが1対に、それよりも小ぶりな翼が2対。

 その名もトライロード。なぜそんな変化をするのか、どうやったら変化させられるのか、まったく情報のない突然特別変異種。

 日本国にとってそれは"災厄"と同義であった。先の大戦で優勢に進んでいた戦局が、これ1体の登場で一気に劣勢へと転じたのだ。トライロード『トニオ』にミッダウェーの会戦で主力のドラゴン4体を撃滅され、マリア・アナ沖の会戦でその外征戦力に事実上のとどめを刺された日本軍はベスプッチ軍の反攻に押されて、本土をドラゴンの空襲で焼かれる事態が頻度を増していた。そして1945年8月。惨劇が幕を開ける。

 既に弱体化しながらも奮闘を続けていた日本国軍の防空網を強行突破した『トニオ』が、晴佐見市にフレアーの10倍近い威力を持つ"スーパーノヴァ"を計3発発射。繁華街を含む市域の3分の1と万単位の市民を一瞬にして焼かれ、晴佐見市は壊滅した。

 1943年初頭には戦争終結後の占領計画を立案していたベスプッチ政府にとって、トライロードのみが放つことができる"スーパーノヴァ"は日本国の国土に深甚な被害を与えるとして、本土空襲からトライロードを除外するよう軍に要請していた。晴佐見市への空襲は、予想に反して粘る日本国への脅し的性格の強い作戦であったが、晴佐見市とその数日後に同様の攻撃を行った濁鹿市に与えた激越な損害はベスプッチ政府にとって想定以上であり、今後の本土空襲にトライロードを投入することは改めて厳禁とされた。ついに継戦の意志を失い敗戦を受け入れることとなる日本国がそれを知ったのは、終戦後のことであった。

 実際の話、なにも『トニオ』が各戦場で単騎無双したわけでもなく、実際はベスプッチ軍の人・龍相整った膨大な物量(と潤沢な補給体制)に圧倒されたというのが実情である。

 だが、戦中戦後と日米の映画や戦記物で取り上げられ、復員した兵士やドラゴンたちの口伝えでも恐怖と死の象徴として祭り上げられたこの突然特別変異種は、長らく日本国でははっきりと口に出すのをはばかられる存在だった。晴佐見市と濁鹿市の悲劇がダメを押していることは言うまでもない。

 ……とまたデータファイルの解説を読みながら思う。俺、大それたこと言っちゃったんだなと。『トライロードを育ててみたいです』なんて、いろんな意味でヤバイ。

 ヤバイ理由の一つ。それは、『実はトライロードへの養育方法は存在する』という噂だ。ベスプッチはその存在を否定している。だが、それでは現在トライロードがベスプッチに8体、そして『養育方法』を米国から盗み出したとされるソレンポーとシノワにそれぞれ7体と1体しか存在しない、いや、その3カ国からしか生まれていない理由がわからない(他の国に在籍するトライロードは、米もしくはソレンポーに莫大な代金を払っての輸入である)。

 つまり、本当に『養育方法』が存在するのなら超弩級の国家機密なわけで、探ろうとしただけで消されたなんて都市伝説にもなりゃしない噂は、昔から陰謀論ものの定番ネタだ。

「お兄ちゃーん、一度髪の毛掃うよぉ?」

 スミの言葉に反応して慌ててデータファイルを目の前まで持ち上げながら、俺は自問する。あんなことを言いながら、俺、なんにもしてないよな。手がかりもない以上どうしようもないっちゃあ、そうなんだけど。その時2階への外付け階段から、アマネの声が降ってきた。

「飼い主殿、電話だぞ」

「え? ……うわっ、と、と、と!」

 アマネが放り投げた携帯を、俺は広げたデータファイルで何とか受け止めた。

 電話は警察からだった。2分ほど話をすると俺は携帯を切って、ブルーシートの縁に座り込んで携帯をいじっているリオに声をかけた。

「リオ、警察から良い知らせと悪い知らせが1つずつあるぞ」

「なにその定番の言い回し。んじゃ、良い知らせから聞かせてよ」

 お前のリアクションも定番じゃねえか。良い知らせとは、警察から感謝状がもらえること。悪い知らせとは、

「あの犯人な、連続襲撃犯じゃないらしいぜ」

 相変わらず携帯をいじって俺の話を聞き流していたリオが、驚いてこちらを向いた。後ろ髪の生え際に剃刀を当ててくれていたスミもびっくりした様子。

「模倣犯だったってこと? そう言われれば確かに、適当というか滅茶苦茶な攻撃だったけど」

 そう言ったリオが眉根を寄せて虚空をにらむ。自分の手で襲撃犯に引導を渡したと思っていただけに、悔しいのだろう。

 しばらくみんなで押し黙っていると、また携帯が鳴った。今度は『ドラゴンジャーナル』の記者さんからだ。通り魔に襲われた件で詳しい状況とかの話を俺に会って聞きたいらしい。明日大学の昼休みに会う約束をした。

「はいっ! お兄ちゃん、できたよ!」

 お礼を言うと、スミはにっこりと笑ってくれた。ブルーシート上の毛を踏まないように爪先立ちで抜けた後、俺は髪を洗いに部屋へと上がっていく。この後すぐバイトだ。


2.


 夜9時過ぎ。バイトを上がって俺が駐輪場で伸びをしていると、携帯が鳴った。今日は良く電話が掛かって来る日だな。苦笑しながらディスプレイを見ると、ゲンゾウからだ。

『淳平さんですか? すみませんバレました。今魅琴さんがそちらのお宅に向かってますのでよろしくお願いします』

 ……え?

 完全に切迫した声でゲンゾウは一方的に告げると、あとはスミマセンスミマセンと謝るばかり。勢いに押された俺は取りあえずゲンゾウをなだめると携帯を切って、原付に飛び乗った。

 バレましたって、あの写真のことだよな? どうしよう……真冬の夜道を疾走しているのに沸騰しているように熱い俺の頭の中で、答えの出ない問いがぐるぐる回る。こういう時、デキる男はスパッと答えを出せるんだろうか。デキない俺は、どうにか事故に遭わずにアパートまで帰ってくることが精いっぱいだった。

 坂崎さんが来る前に自宅で対策を検討しよう。なんて甘い考えだった俺の目には、玄関にきちんと揃えられたダークブラウンのパンプスは『万事休す』そのものだった。どっと冷や汗が全身から吹き出て、さっきまでとはうって変わって血の気が引きクラクラする。

 ドラゴン3体と仲良くコタツに入ってみかんを食べていたようだったが、玄関から恐る恐る入ってきた俺を見て、振り返った坂崎さんの顔がさっと曇る。そりゃそうだよね、あんな写真をよりにもよってサークルの男子に流出されてさ。

「あ、あの……」

「ごめんなさい!!」

 俺には、ほかに選択肢はない。ゲンゾウがくれたからなんて言い訳もしたくなかった。

 土下座で頭をカーペットに叩き付けたまま、どれくらいの時が流れただろうか。

「お兄ちゃん、なんで土下座してるの?」

 スミの声が聞こえ、続いて坂崎さんの声が俺の後頭部に降ってきた。

「あの、高城君? とりあえず、顔を上げてくれないかな? どうして高城君がわたしに謝ってるの?」

「い、いや、だって、その……もらって使っちゃったことは事実だし」

 あの写真を、あの坂崎さんの蕩けた横顔を何に使ったかなんて明言できない。そんなことしたら女子ドラゴン3体にどんな目にあうか。でも俺のしどろもどろの釈明は、坂崎さんを困惑させているようだ。

「いや、でもそれは……提供したのはわたしだし、段取りを付けたのはゲンゾウだし」

 ……どういうことなんだろう? あんなイケナイ写真をまさか、坂崎さんが自分から……?

「大体、パパがいけないのよ。お前の好きに使っていいぞって普段から言ってたくせに、自分がほかの理事さんにいい顔したいからって残数の確認もしないで、気前よく約束なんかしちゃって、んもぅ」

 パパ? ほかの理事さん? 残数?

 坂崎理事が娘のエロアニメ鑑賞写真をほかの理事に大量にばらまいている……わけないよな。これは、

「もしかして、ウォルトランドのパスポート?」

「当たり前じゃなぁで。なんじゃゆうて思うたん?」

 とアマネが心底不思議そうな目で俺を見つめてくる。やめろ、そんな無垢な瞳で俺を見るなぁ!

 床に膝を突いたまま力が抜ける俺。ドラゴンたちの追及も耳に入らなかった。ただ坂崎さんの俺を見つめる目がやけに真摯で、ひたすらに怖く、でも綺麗だった。

 2分後。

「家出してきた?!」

 俺たちの素っ頓狂な声に、坂崎さんはこくりとうなずき顔を伏せた。

 ウォルトランドの株主優待パスポートの件でお父さんと口論になったそうだが、家を飛び出した直接のきっかけは別というか、それに関連したことらしい。追加の説明を待つことしばし、坂崎さんが重い口を開いた。

「パスポートを勝手に使っちゃったこともそうなんだけど……その……高城君と一緒に行ったことが気に入らないって言われて」

 売り言葉に買い言葉の果てに、急遽お見合いまでセッティングされそうになって坂崎さんはブチ切れた、らしい。そして坂崎さんは、俺のこの部屋に泊めてほしいと言うのだ。ほとぼりが冷めるまで。

「じゃ、じゃあ、取りあえず今日一晩だけ泊まってもらって――」

「だめぇぇっ!」

 リオのとりなしに過敏に反応したのはスミだった。耳と鼻を真っ赤にして俺と坂崎さんの間に割って入る。

「ふ、ふ、フシダラだよお兄ちゃん! お兄ちゃんがそんな人だったなんてスミ、幻滅幻滅大幻滅だよ!!」

 いや待て、俺なんにも言ってないぞ。タッパの違いで俺の胸ではなく肩をポカポカ叩くスミをリオが羽交い絞めにする。そんなドタバタの中、アマネが坂崎さんにかけた言葉は至極当然なものだった。

「魅琴さん、取りあえずって言っちゃなんじゃが、サークルのほかの女の子のところに泊まったらどうですか? まあ、魅琴さんのお気持ちも分からんじゃあなんじゃけど……」

 アマネのなぜかニヨニヨしながらの言葉に、ますます悲しげに目を伏せる坂崎さん。

「もう、全員回ったの……」

 家出してから6日、全てのサークル女子の家を回ったのだと坂崎さんは言った。完全にわたしの都合だから3泊以上は迷惑になるから、とも。

 ……ん? うちのサークルの女子って4人だよな。あと1人残ってるんじゃないのか? そのことを坂崎さんに指摘すると、きょとんとした顔をされた。

「だって……なつめちゃん家には泊まれないよ……」

 なんでだろう。仲が悪いようには見えないけど。女の子同士には男にはわからない駆け引きとか心の壁とか、いろいろあることくらい知ってる。ああ知ってるさ。そこに迂闊に触れたばっかりに……いかん、また俺の心の涙日記が開きかけた。変わらずわからない顔をしているのだろう俺に、坂崎さんはおずおずと話しかけてきた。

「あの、知らないの? なつめちゃん、石松君と同棲してるんだよ?」

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ええええええええええええ?!?!?!?!?

 愕然、自失、吃驚。どレでモすキなヒょウげンをアてハめルがイいゼちクしョう。

 アマネたちは大騒ぎだ。

「アマネちゃんアマネちゃん! ドーセイって、男の子と女の子が一緒に住むことだよね?」とスミが騒げば、

「うん、結婚してん人らが」とアマネも冷静な振りして耳が赤い。

「アマネ、ジョータロー君から何か聞いてないの?」とリオが再びアマネに振ると、

「んー、そうゆやぁちぃと前に『家に帰りづれぇなぁ』ってぶつぶつ言っとったが」とアマネが同級生のことを回想し、

「え、じゃあ、ジョータロー君とメグも一緒に住んで……きゃー!」とリオが妄想大爆発。それがスミに飛び火して、

「そっか。じゃあ、スミもお兄ちゃんと一緒に住んでるから、ドーセイなんだ……」

「いや違うだろ」

 俺、アマネ、リオの連携でスミにツッコミを入れてから、坂崎さんのほうを向いた。

「いいよ。2日だけ泊まって。でも、それで家に帰ったほうがいいと思う」

 フシダラフシダラとスミが騒ぐのを他所に、坂崎さんはありがとうとうなずいた。



 今、坂崎さんはお風呂から出て、脱衣所で服をお召し中。漏れ聞こえてくる衣擦れの音が大変 good 、いやよろしくない。脱衣所の戸を3ヶ月前に破壊したのはアマネだっけ? 実に better 、いやマコトにけしからん。

 ドラゴンたちにコタツを片付けさせて俺が布団を敷き終わると、なにやら集って相談していたリオたちが動いた。

「じゃあ寝よっか。魅琴さんはここで」

「待てこら」

 坂崎さんを真ん中に3体で取り囲むように寝るつもりのようだが、

「お前らの寝返りで潰れちまうだろうが、坂崎さんが」

 スミがすかさず反論する。坂崎さんが来てから、なにやら変なブーストがかかっているご様子。

「魅琴さんが不埒なことをお兄ちゃんにしないように、スミたちでちゃんと見張るんだもん!」

「坂崎さんが俺になにをするんだよ」この場合、ナニを、というべきなのか?

 まあまあとアマネたちがスミをなだめていると、脱衣所のほうから声がかかった。

「あの、もうそっち行ってもいいのかな?」

 坂崎さんが脱衣所から顔だけ出してこちらを見ていた。気軽にオッケーを出した俺は、坂崎さんがなんで顔を赤らめているのかに気付くべきだった。彼女を思わず凝視してしまったのだよ。

 編んであった髪を下ろした坂崎さんは、白地にピンクの水玉模様のパジャマを着ていた。手にはカーディガン。それを着ずに持っているということはもう寝床につく気なのだろうが、問題はパジャマにあった。

 なんというか、薄い。生地が。そこはかとなく下着が透けてるんだよ、おい!

 best! いや実にヤバイ。

 目のやり場に困って、俺はそれとなくドラゴンたちのほうを向くと、俺が心中で叫んだ中学英語丸出しの三段活用が聞こえたに違いないアマネとリオのニヤニヤ笑いと、スミの沸騰しそうな表情がよくわかる。それを敢えて無視して指示を出した。

「アマネたちはいつもどおり寝て。坂崎さんはこいつらの頭の上らへんで。俺は台所で寝るから」

 なにやらプンスカむくれているスミをまたもアマネとリオがなだめて、俺たちは就寝した。

 ……とはいうものの、

(眠れん……)

 なんで眠れないって、分かるでしょあーた。

 まず、猿渡さんのこと。どうも1月中旬にあったサークルの新年会で盛り上がっちゃった結果らしい。『高城君、新年会来てなかったから知らなかったんだよね』と坂崎さんは慰めてくれたが、哀しい。あんなに親しげに話しかけてくれて、昼飯も一緒に食って、トレーニングセンターで心配してくれて、それなのにそれなのに。

 そこまで考えて、そんなこと石松にもしてんじゃんあの子、と冷たく突き放す黒い俺がいる。心の涙日記が、また1ページ。

 そして、坂崎さんの飛び込みお泊り。今彼女が寝ている場所からほんの20センチほどのところに、あの写真はある。机の引き出しではアマネたちに見つかるからと、カーペットの下に入れたのだ。うわ、すげぇシチュエーションだな。我ながらキモい。

 ……なんで俺はさっき『ゲンゾウのせいにしたくない』って思ったんだろう。坂崎さんに嘘つきたくなかったから? 嫌われたくなかったからか?

 そもそもどうして俺のところに来たんだよ坂崎さん。信用されてるのか? なんにもできない"いいひと"として。すなわち"ヘタレ"として。

 だめだ。もうどうにもネガティブにしか考えられなくなってる。寝よう。そう思った俺の耳に聞こえてきたのは、か細い、というより押し殺した声。坂崎さんの声。

 高城君。高城君。

 その声に俺は跳ね起きる。何かあったんだろうか。急いで、でも忍び足で彼女のところに行くと、坂崎さんは起き上がって俺に訴えかけてきた。

「横で寝てほしいの」って。壁から冷気が来て、寒くてたまらないとのこと。

 一瞬の躊躇。俺は確認する。

「いいの? 俺で」

 ゆっくりと彼女がうなずくのを確認した俺は毛布を持ってくると、彼女と壁との間に寝転んで毛布をひっかぶった。

 "いいひと"、いや"ヘタレ"でもいい。俺が障壁になって坂崎さんが寒さをしのげるなら、それで。

 もうこのまま目をつぶって寝ようとした俺の毛布を、ついついとつまんで引っ張る者これあり。

 目を開けると、坂崎さんの視線とぶつかった。台所のほうからの月明かりで、彼女の瞳はとてもキラキラしていて、その幻想的と言ってもオーバーじゃない光景に見とれていると、囁き声が聞こえた。

 ありがとう高城君。おやすみ。

 おやすみと俺もつぶやいて、今度こそ目をつぶった。


3.


リリリリリリリ

 携帯のアラームは正確でございますよ、ええ。俺は起きると身支度して、朝飯の支度に取り掛かる。と、その前に。

 おはよう。坂崎さん。

 まだ眠っている坂崎さんにそっと挨拶する。ウォルトランドのときも思ったけど、かわいいな、坂崎さん。こんな子に添い寝してくれって頼まれるなんて。

 ドキドキの音は外に漏れてないな。よし、ちょっとだけ彼女をガン見。

 掛布団よ、おまえはなぜしっかりとかぶさっているのだ? サービスショットなし! せっかくの薄生地パジャマが台無しではないか!

 今日の朝飯は、先日スーパーの特売に乗り込んでグルグルグルグル周回して大量購入した冷凍焼売(安心の大越王国製)だぜ。レンジでチンを繰り返しつつご飯を炊くため米磨ぎをしていると、背後からいつものとは違ういかにも体重が軽そうな足音が聞こえた。

「ふああぁぁぁ、こんな朝早くからご飯の準備してるの?」

 大きく伸びをして、坂崎さん起床。待ってたよ薄生地パジャマ。今の伸び、胸の辺りがくっきりばっちりごちそうさまです!

 もちろんガン見はしないしない。いいひとだからな、俺。さっさと視線を炊飯ジャーに戻してボタンを押す。

「おはよう坂崎さん。まだ飯炊けないから、布団にくるまってていいよ。できたら起こすからさ」

 俺の言葉に、カーディガンを羽織ながら坂崎さんは笑ってかぶりを振った。下ろしたままの髪がサラサラと揺れて、またドキドキ。

「ううん、手伝う。居候だし。何したらいい?」

 あ、お味噌汁作る! そう言うが早いか手を洗うと、坂崎さんは俺の手から包丁を取り上げて大根を刻み始めた。おお、上手だな。そう思って見ていると、早くも1本刻み終えた坂崎さんがこちらをちらりと見て微笑んできた。

「おはようは2回目だね、高城君」

「え? 起きてたの?」

 うん、といたずらっぽく笑う坂崎さん。

「高城君にそのまま見つめられてたから、お返事できなかったの」

 布団被っててごめんね。さらに小悪魔っぽい微笑に変わって、とん。柔らかい身体を軽くぶつけてきた。

 えっち。

「あうあう……」

 女の子って絶対、"男からの視線センサー"常備してるよな? 独り言なんてつぶやいてないはずなのに見事見抜かれたヘタレは、顔を真っ赤にしながら焼売をひたすら温めることに専念するしかなかったのだった。

 しばらくして、例によって例のごとく布団剥ぎをして全員を起こす。女子ドラゴンたちの上げる悲鳴や怒号が楽しいらしく、坂崎さんはくすくす笑ってる。

 その坂崎さんを座らせて、女子だけでテーブルを囲んでもらう。リオがお優しくも、

「淳平、イスがないなら空気イスしたら?」

 とアドバイスしてくれたのを爽やかにお断りして、俺はキッチンにもたれかかって立ち食い。リオとスミが焼売の取り分を巡って火花を散らす中、既におのれの取り分を口ん中にかきこんだアマネが坂崎さんに話しかけた。

「魅琴さん、昨夜は眠れましたか?」

「うん! 高城君が添い寝してくれたからぐっすり」

 高い席から失礼して、不意打ちにむせる俺。

「お兄ちゃん? お兄ちゃん? どうしてわたしの元から旅立とうとしてるの?」

 お箸を握り締めたスミが涙目でにらんでくる。

「意味が分からねぇよ!」とツッコミを入れて、昨晩の顛末を説明。リオは不満そうに鼻を鳴らした。

「なぁんだ、同衾したわけじゃないんだ」

 リオお前、そんな古語どこで憶えて……ゲンゾウか。俺は不意に昨日の通話を思い出す。あの野郎大げさな芝居しやがって。今頃ほくそえんでるんだろうな、くそっ。

 ゲンゾウへのむかつきと最後の焼売を巡る3体の姦しさで、食べ終わった坂崎さんが何事か告げて席を立ったが聞こえず生返事を返してしまった。

 食べ終わった俺は自分の食器を流しに入れる。既に坂崎さんが同じようにしてあって、さすがお嬢様、しつけがいいんだな。さてと、歯を磨いてヒゲ剃って――

 洗面所兼脱衣所には、坂崎さんがいた。我が心の友・薄生地パジャマは消え、白い肌が露わになってしまっている。下着は上下揃いのブラとショーツで、薄い水色と控えめなフリルがいかにも上品そうな一品。

 ……えーと、これは。

 ああそうか、これが子供のころ児童館での読み聞かせで知った"馬鹿には見えない服"ってやつ――

「お兄ちゃんのバカァァァァァァァァァァァ!!」

 スミよ、いつのまにそんなに素早さが上がったんだい? 三毛をなびかせて台所からすっ飛んできたスミの左フックから始まる連打が、俺の魂とついでにスケベ心をガンガン削っていく。

「ああ、ゲンゾウ? おはよう……え? ラッキースケベイベント? うん、たった今あたしらの目の前で発動したよ? で、そのまま淳平撲殺エンドに移行中だけど――」

「止めろよ! いや止めて下さいマジで……」

 暢気に携帯で会話しているリオに助けを求めながら、俺の視界がだんだん黒くなる。

 必死の形相でスミの背中にしがみついて止めようとしている坂崎さんの下着姿が、冥途の土産になりそうな朝だった。


4.


 大学での昼休み、学生食堂は隣に立つドラゴン幼体学校の生徒たちも来ていて、意外なほど混雑していた。記者さんと2人してきょろきょろしていると、奥まった机から手が挙がった。

「ここ、空くよ~」

 大学院生だろうか、若々しい格好のわりになんだか老けた顔の男子学生が2人、席をちょうど立つところだったようだ。お礼を言って席に座り、インタビュー開始。

 坂崎さんは午前中の講義が一緒だったが、『居候だから、今から戻ってお部屋の掃除をしたいの』との殊勝な申し出により、合鍵を渡しておいた。なんというか、味噌汁もおいしかったし、そういうとこはお嬢様ぽくないよな。

「高城君、その怪我、どうしたの?」

 聞くよね普通。顔中絆創膏と湿布だらけで、首の絞められた痕を隠すためタートルネックのセーターを着込んでいる。

 正直大学に来るのをやめようかと思ったが、今日は屁みたいなテストで単位がもらえる代わりに出席必須の講義が、午前・午後ともある。先日バイトのシフトを後輩と代わってあげたおかげで、今日はバイトがないのが唯一の救いか。

 記者さんに、ドラゴンとケンカした傷であることを説明すると笑われた。

「いや、ごめんごめん。相変わらず全力体当たりだね」

 その言葉をきっかけに、先日の通り魔逮捕の話を聞かれる。犯人は記者さんの仕入れたネタによると、連続通り魔関連の報道を見て『そんなに簡単にドラゴンが殺せるなら俺もいっちょやったるかと思った』などと意味不明な供述を繰り返しているという。

 話が進んで"黒い奴"とフードの人のことまで話すと、意外な事を聞かれた。

「それで、あれを見たリオさんの反応は?」

「リオ? リオですか? 不気味な奴だとは言ってましたけど。犯人を潰さないように押さえ込むのでいっぱいいっぱいだったみたいだし」

 実際の話、幼体とはいえドラゴンがヒトを押さえ込むのに全力を出したら人体が持たない。今朝荒ぶっていたスミは元々ドラ幼でも下から数えたほうが早いくらい腕力が弱いこと、なぜか興奮してたとはいえ彼女なりに手加減してくれたからこそ、今ここで缶コーヒーなんぞ飲みながらくっちゃべっていられるわけで。

「いやそうじゃなくて」そうじゃないらしい。記者さんは珍しく苛ついた表情を見せた。

「そいつに勝てるかどうか。何か言ってなかった?」

 正直覚えがない。リオに確認しようとしたら遮られ、そこでインタビューは市民フットサル大会の話に移った。なんでもアマネが注目選手の1体らしい。猛スピードでのダイビングヘッドが脅威なんだとか。トレーニングセンターで無茶な飛び方してたのはそれか。

 正直お遊びだろうと思って観に行ってないから、全然知らなかった。本大会は行かなきゃな。

「アマネさんはこのまま成体化するとスピードスターになると思うんだけど、どうかな? 軍に奉職できそうかな?」

 できるといいですね、と俺は心から答えた。

 "スピードスター"は飛行能力に秀でた特定種。軍ではその高速を生かして迎撃や偵察、近接航空支援を行うこととなる。アマネのあのフレア命中率の低さでは厳しいかもしれないが、ミサイルキャリアーとしての任務もあるし、なによりわが国は海に四方を囲まれているため、対艦ミサイルによる敵艦船邀撃任務もある。

 アマネの意識も変わってきた。やや投げやりだった飛行中のフレアー射撃訓練を熱心にやり始めた。彼氏のハルトが軍の訓練施設に行ったことで、自分も追いかけたいという思いが強くなったようだ。

 お互いに兵職だと配備先が別になって、むしろすれ違いになっちゃうんじゃないか。その懸念は彼女に伝えたが、それでもいい、と強く言われちゃしようがない。頑張れ、と背中を押しておいた。

 なるほどなるほど、と記者さんは一人で頷いて立ち上がると、俺にお礼を言って学食を出て行った。あれ、スミのことは?

(まあ、まだ5歳だしな。アマネやリオに比べたら能力的に地味だし)

 そう思いながらリオにさっきの記者さんの質問をメールしていると、誰かがすっと俺に近寄ってきた。ちょっと驚いて顔を上げると、さっきの大学院生だった。テーブルの下を覗き込んで、

「ああ、あったあった」

 テーブル下のスペースに入っていたスマートフォン用のポーチを引き出した。俺は気がついていたけど、そのうち取りに来るだろうと思って放置していたので慌てて立ち上がり、学生課に届けなかったことを謝る。男子学生は笑って手を振って食堂を出て行き、俺も午後一の講義に出るべく荷物を取った。


5.


 午後4時過ぎ。アパートの駐輪場に原付を止めた俺は、部屋への戻り道で携帯をチェック。リオから返事が来ていた。

『成体に勝てるかはビミョー』

 だそうだ。その下の行には『あたしたちは今からゲンゾウの家で映画見ていきます。晩御飯までには帰ります。』

 また鑑賞会かよ。ほんと一体なに観てんだか。つかそんなもんを家で観せてるゲンゾウも大概だな。俺はそう思いながら玄関の鍵を開けて入った。

「あ、おかえり高城君」

 人の声が出迎えたことにびくっとする。坂崎さん、先に掃除に帰ってたんだっけ。わざわざ持ってきていたのか薄い黄色のエプロン姿をした彼女は、なぜだか妙にハイテンションでかわいい。その笑顔に出迎えられてちょっとドギマギしていると、部屋の隅に置かれたこたつに座るよう言われた。なんだろうと思っていたら、

「はい、どうぞ」

 出てきたのは熱々のお茶。戸棚の奥から引っ張り出したと思しき急須から、かぽかぽ音を立ててマグカップに注いでくれた。

 坂崎さんにも勧めたが、水分を取りたくないとおっしゃる。わけを聞いても笑って答えてくれないまま、俺は一人で放課後、いや夕方ティータイム。

 しばらくして飲み終わった俺がお礼を言うと、坂崎さんは台所からやってきて、俺の眼の前にすとんと座った。

「高城君、お掃除させてくれてありがとうね。やっと見つけられたわ」

 そう言って彼女が差し出したもの。

 それは、あの蕩けた坂崎さん。

 また頭ん中が沸騰し、冷や汗が体中から流れ出す。ゲンゾウの話って、やっぱマジバナ? 確認しようもないことで現実逃避しかけた俺に向かって、いたって穏やかな表情の坂崎さんの形のいい唇から、第2の矢が飛んできた。

「これ、ゲンゾウからもらったのよね?」

 裏が取れました、はい。俺は瞬きすらできないまま、無言で頷くことしかできない。

 俺の肯定を受けた坂崎さんは、穏やかな表情のまますっと立ち上がり、玄関のほうへ歩いていく。帰るんだよね? そうだよね。居られないよねこんなところ。

 終わった。回らない頭ん中に浮かぶその4文字は、玄関から聞こえてきた物音でクエスチョンマークに変わった。

 カシュ。ヂャリヂャリヂャリ。カチャン。

 ……あれ、玄関の鍵とチェーンロックの音だよな? やがて玄関から足どりも軽やかに、なぜか軽やかに戻ってきた坂崎さんは、俺の前にまたすとんと座ると、第3の矢を飛ばしてきた。

「これ、使ったんだよね?」

 昨日高城君そう言ってたよね。口元に笑みを浮かべて俺を追い詰める坂崎さん。

 ほんと俺って馬鹿だな。言質まで取られてやんの。

 そこまで自虐して、坂崎さんの顔が怖くてついにまともに見られなくなった俺は、またも無言で頷いて下を向いた。

「そう、よかった」

 うんうん、よかったね。これで俺はもうおしまいさ。明日にはこの話がサークルとゼミで広まって、俺は一生ネタにされて蔑まれるの――今、よかったって言った? そう言って顔を上げてみると、坂崎さんはその笑みをますます輝かせて、ちょっと誇らしげ。

「うん。だって、わたしに興奮する、ってことでしょ? たかし――」

 ふるふると首を振り、身を乗り出してカーペットに手を着いて。頬を桃色に染めた坂崎さんは、いつもの真摯な瞳に潤みまでたたえている。その瞳で俺をまっすぐ見据えて、彼女は言い換えた。

 淳平君、と。

「写真とわたし、どちらを選ぶ? 横顔しか見えない写真と、淳平君になら何でも見せてあげる、淳平君のことが大好きなわたし。

 さあ、どっち?」


6.


 玄関を開けようとしたアマネがチェーンロックに引っかかった。

「あれ、開かん。おーい、飼い主殿!」

 俺は慌てて玄関に駆け寄ると開錠。アマネたちがなだれ込んできた。

「むっ! お兄ちゃん! 魅琴さんとなにやってたの?!」

 早速荒ぶるスミに掃除してたと答え、俺はそそくさと台所に戻る。もう6時をとっくに過ぎているのに夕飯がまだできていない。そのことに気付いたリオとスミが騒ぐ中、アマネが鼻をひくつかせて一言。

「……なんか、血のにおいがする……」

「ば、ばかだなアマネ。朝、俺がスミにラッシュを食らったときに飛び散った鼻血だよハナヂ」

 俺の釈明にアマネは納得しかけたが、カーペットを見て首をかしげる。

「ああ、これか……コタツの前まで飛んでたっけ? 鼻血って」

「飛んでないよね? あたし、脱衣所の前辺りしか拭いてないもん」

「ああああアマネちゃんリオちゃん、取り合えずこっちでお茶でもどう?」

 おお、魅琴ちゃんでも冷や汗をかくんだな。ちょっと安心。

「ん? なにこれ?」とスミが、ゴミ箱のそばから細長い紙切れを拾い上げてにらんでいる。うわあ。

 俺は引き裂いた写真の切れ端をスミから取り上げると食った。

「怪しい怪しいあやしーい!!」

 スミが金切り声を上げ、リオとアマネがニヨニヨ。

 夕食の支度を進めて黙らせようと企む俺と魅琴ちゃん。俺たちになにやら言おうとドラゴンたちが詰め寄ってきた時、ドアチャイムが鳴った。

 取り合えず3体の圧迫から逃れようと玄関へ行き、ドアを開けようとする俺。ん? この匂い。まさか――

「貴様ぁ! 魅琴を返せ!」

 坂崎理事が俺の胸倉を掴もうと玄関口から踊りこんできた。が、うちの玄関ドアは立て付けが悪い。その隙間から匂うオーデコロンで既に襲来を察知していた俺は、ひらりと身をかわす。そのまま倒れこむ理事。俺はリビングの入り口まで後退して、坂崎理事に向かって怒鳴った。

「他人ん家を訪問した時のマナーも守れないんすか? ていうか返せってどういうことっすか?」

 ゆっくりと起き上がった坂崎理事が負けじと怒鳴り返してきた。

「小僧! 貴様のしていることは拉致監禁だぞ! 未成年ラクシュだ!」

「パパ、それ吉祥天」

 追及というか言いがかりの言葉を噛んだ坂崎理事に対するよく分からないツッコミ。玄関を開けて現れたのは、妙齢の女性だった。

 坂崎理事の傍まで来ると、俺に向かってにっこり会釈。俺も釣られて会釈を返す。ゲンゾウも入ってくるなりそそくさと魅琴ちゃんの傍までやってきて、忠犬のつもりかハッハッと舌を出している。

「はじめまして。魅琴の母です」

 え? お母さん? どーみても30代なんだが。そのお母さんは、俺の背に隠れて顔をのぞかせている魅琴ちゃんに向かって語りかけた。

「魅琴、そろそろ帰りましょ? いいかげん他所のおうちに泊まるのも限界でしょ?」

「嫌です! パパが意見を変えない限り、わたし帰りません!」

 と魅琴ちゃんは徹底抗戦の構え。それを受けて怒鳴ろうと口を開けた夫を手で制して、お母さんはまたにっこり笑った。

「お見合いのことなら大丈夫。潰したから。さあ帰りましょ?」

 ああ、確かに魅琴ちゃんのお母さんだなぁ。この笑顔からにじみ出るプレッシャー、2時間前に俺が味わったのにそっくりだ。

「それでも、ママ、ごめんなさい。わたし……」

 振り返ると、魅琴ちゃんが俺を見上げている。その眼をじっと見つめて、俺は理事とその夫人、いや、魅琴ちゃんのお父さんとお母さんに向き直った。

「すみませんが、魅琴ちゃんは返せません」

 仰天して目を見張るお父さん、あらあらまあまあと口に手を当て微笑むお母さん。背後にいるうちのドラゴンたちは、どうやら騒ぐスミを2体掛りで抑え込んだ様子。

「魅琴ちゃんと、一緒に住みたいんです。お願いします!」

 平身低頭。そのままの姿勢で待つことしばらく、てっきりお父さんに殴られるかと思ったが、頭上から降ってきたのは父の拳骨ではなく母の言葉だった。

「仕方がないわねぇ」

 それが、俺の血の巡りの悪い頭に浸みこむのに時間がかかった。頭を上げてみると、青筋を立ててにらむお父さんと対照的に、お母さんはさっきからの微笑みを崩さないまま。もしかして――

「ゲンゾウ、やっておしまい」

「ハイハイサー!」

 お母さんの指令に答えて調子よく叫んだゲンゾウが、魅琴ちゃんを小脇に抱えて玄関にダッシュする! 虚を突かれた俺は、一瞬動きが遅れて彼女の足を掴みそこねた。うちのドラゴンもスミを抑えていたため動けない、というか急展開に固まってる。

「はっはっはっ! お嬢様は返してもらったぞ!」

「魅琴ちゃん!!」

「淳平君!!」

 さて高城さん、と相変わらず微笑みを崩さないお母さんが俺に告げる。

「今週末のフットサル大会で、うちの主人のチームに勝って優勝すること」

 そしたらさっきのお話、かなえてあげるわ。お母さんはそう言うと、踵を返した。

「はっはっはっ、我がチームに勝てるかな? ではさらばじゃ!」

 ゲンゾウの高笑いが最高にむかつく。そのむかつきの元もすたこら玄関を出て行った。じたばたする魅琴ちゃんを小脇に抱えたまま。

「えーと……お父さん?」

 なんでこの人、まだ突っ立ってんの? しかも土足で。

「き――」

「き?」

 お父さんはしかめつらしい顔をして俺にビシッと指を突きつけると、大声を張り上げた。

「貴様ぁ! 必ず、必ずお前をフィールドで叩きのめしてやるからな!」

 ドスドスと実に分かりやすい音まで立てて、魅琴父退場。ていうか、

「俺もあんたも試合出ないじゃん……」

 俺はただ、怒涛のごとき理不尽な展開に呆然とするばかりだった。

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