第二章 ポセイドンの書 二
×××
三人掛けのベンチにはハワード、雄也、クーの順番で座った。
「そういえば、だ」
ベンチに腰かけたハワードはキャリーバックを開けると何かを取出し、それをクーと雄也に差し出した。
「暑い夏といえばこれだ。一つどうかね」
ハワードが取り出したのは市販の棒アイスだった。キャリーバックの上部が冷凍庫に改造されているらしく、その中にはいくつものアイスが入れられていた。
「安心したまえ。毒など入っていない」
ハワードはそう言うと逆の手でさらに一本アイスを取出し、片手だけで器用に袋を破るとそのアイスを口にくわえた。
(……変な外人さんだ。悪い人じゃなさそうだが)
そう思っていてもあえて口に出さない程度には雄也も空気が読める。
「……ああ、じゃあ、いただきます。ほら、クーも」
雄也はそう答えると差し出された二本の棒アイスを受け取り、一本をクーへと渡した。
「うむ、かたじけない。……それでユウヤよ、この『あいす』というのは一体何なのじゃ?」
「ええっとだな、アイスってのは――」
「食べればわかる。アメリカが世界に誇る至高の菓子だ」
雄也がクーに説明しようとしたところにハワードが割り込んできた。
ちなみにハワードの取り出した棒アイスは雄也にとってもなじみのある日本のメーカーのものであったが、雄也もあえてそのことには触れなかった。
「ふむ、ではいただくとするか。はむ……――ん! なるほど…………これは……なかなかの……冷たくて……その上甘くて…………」
雄也は、クーがまるで子供のようにアイスに夢中になっているのを横目で見た後、改めてハワードへと話しかけた。
「それで、ハワードさんは俺の父さんのことを知ってるみたいでしたけど、一体どういうことです?」
「ふむ。そのことについて話す前には、まず私自身について話さねばならないのだが、その前に改めて確認しておきたいことがある」
「確認しておきたいこと、ですか?」
「ああ。雄也君、君は魔術師、さらに詳しく言うのならば、退魔師なんだね?」
「はい、その通りですよ。でもそのことが一体……」
「そうならば大部分の説明が省ける、ということだ。それに、退魔師が相手であれば秘匿の必要もないからね」
「超越的存在を秘匿し、そして人に害を及ぼさないように追い払い、そして駆逐する」というのは『退魔師』の共通理念だが、退魔師に限らず魔術に関わる者たちのほとんどは、『秘匿』の部分を重要視してきた。その結果、その多くの『術』や『知識』が継承されてきている現代でも、超越的現象、や超越的存在は、『表向き』の『常識』では存在しないことになっている。
『秘匿』が重要視されてきているのは様々な理由があり、それらの複合によるものだ。
多少スケールの小さい理由としては、自分たちの研究成果を独占するために、不用意な漏えいを未然に防ぐためである。
スケールの大きな理由としては、混乱を避けるため、というものである。魔術に代表されるそれらの力は、物理法則の外側にあると言ってもいい。そんなものの存在が表に出てしまえば社会に無用の混乱を起こすことになってしまう。
また、魔術に代表されるそれらの力は大部分を天性の才能に依存し、その才能を決定づけるために必要な大きな要素は血縁である。そして、力を持つものと持たざる者の間には大きな隔たりが生まれる。仮に、魔術が世界の『表』に立つことになれば旧時代的な血縁主義の貴族社会が復活し、大きな争いを生むことは容易に想像できる。
また、それ以上に、多くの魔術師たちは恐れ、そして一部の魔術師たちが望んでいるあることに起因する。
それは、俗に『邪神』といわれる存在の完全復活である。
中途半端な知識で魔術に触れたものが呼び出してしまう可能性、『邪神』に『魅入られ』復活に手を貸してしまう可能性、あるいは、『邪神』を呼び出そうという一団に加わってしまう可能性。
それらは、摘み取らねばならない可能性なのだ。
『邪神』と一口に言っても様々なものがいるが、中には完全復活させてしまうと比喩表現ではなく『この世の終わり』、少なくとも『地球文明の滅亡』に直結するような存在までいる。
そういったことを考慮した結果、多くの魔術師たちは『秘匿』を行っているのだ。
「最初に言ったかもしれないが、私はアメリカを中心として活動している対『邪神』専門の魔術結社『アーカム・ハウス』のリーダーを務めていてね。リーダーといっても大したことをするわけではないし、そもそもこの組織を作ったのは私の友人なわけだが。まあそのことはいい。ともかく、私はそういった組織に属する退魔師なのだが、当然退魔師であるというだけで生活が出来るほど今の世の中は優しくない。何か職に就かねばならないわけだ」
「……まあそうですね。父も退魔師はあくまでボランティアで、本業は別にあるわけですから」
「そういうことだ。私たちアーカム・ハウスも『表向き』には出版社として活動しているんだよ。主に怪奇幻想小説といわれるような本を出版していて、かくいう私もいくつか本を書いているんだ。その小説を書くための取材で昔日本を訪れたんだよ。その時に日本語を覚えたんだ。現地の話を聞いたり資料を読むのには必須だったからね」
「……まさか、そのときたまたま父に会った、とかですか?」
雄也の言葉にハワードは驚いたような表情を見せた。
「……どうしてわかったんだい?」
「いや、まあ、何と言うか、話の流れ的にそんな予感がしたんで」
「……なるほど、素晴らしい洞察力だよ。さすが恭一君の息子さんだ。その通り、私はその時、偶然彼に出会った。私は、農村の奥にあるという遺跡と、それにまつわる民話の調査に来ていたんだ。ちょうど次に書く小説の参考にしようと思っていてね。その時、ちょうど君のお父さん、恭一君に会って、事件に巻き込まれたわけだ」
「……事件? いったい何があったんです?」
「まあ、詳しいことは省略するが、簡単に言うと、遺跡に封印されていた『邪神』が復活してしまったわけだ」
「大事件じゃないですか!」
「大した力を持っているわけでもなかったし、復活が完全ではなかったから大事には至らなかったんだが、その事件の収束に当たろうとした恭一君、君のお父さんに、私も協力したわけさ。君のお父さんもなかなかの退魔師だったが、いかんせんあれだけの力を持った相手と戦ったのは初めてらしくてね。そこで、いくつかの有効な術や戦い方を教えたって訳さ」
「そんなことがあったんですか。……ちなみに、それってどれぐらい前のことです?」
「たしか、大体十五年くらい前のことかな。……そうだ、ちょうどその時の写真がある」
そう言うとハワードはコートの内ポケットから使い込まれ得た手帳のようなものを取出し、ぱらぱらとめくると中から一枚の写真を抜き出した。
「そうそうこれだ。これが恭一君で、こっちが私だ。いやあ、懐かしいね」
ハワードはそう言いながら雄也に写真を渡すと、指さしながら説明した。
ハワードの言っていた『事件』の後に取った写真だろうか。なぎ倒された木々に、壊滅した古い社のような物とそのと前に真新しい社のような物。それらを背景に、数人の人物が映っている集合写真のようなものだった。
雄也には一目で『何か』があった後にとられた写真であると判ったが、同時に写真に写されている人々の表情から、皆が笑顔になれるような、そんな解決が為されたことを読み取り安堵した。
「ハワードさんって、何と言うかすごい人なんですね」
雄也はそう言いながらハワードへと写真を返した。
超越的存在、特に『邪神』と呼ばれるような存在が関わった事件は、大概の場合、多くの人の心に傷を与えてしまうものであると父から教えられていた。そのため雄也は、改めて父と、このハワードという人物の『すごさ』を認識していた。
「そんなことはないさ。本質的な部分は私もただの人間でしかない。まあ、とりあえずそういうわけで君のお父さんと知り合ったわけだ。最初は、私は作家として、彼は作家兼考古学者として知り合ったわけだが、お互いに退魔師であるということを知って、その縁で、その二つの立場から情報交換やらを行ったりとしていて今に至る、というわけさ」
ハワードはそこまで喋ると言葉を切った。
ちなみに、全く話に加わってこなかったクーはアイスの棒を咥えて暇そうにしている。
「ああそうだ、一つ雄也君に聞かなければならない事があったんだ」
そう言いながらハワードは食べ終わったアイスの棒をティッシュで拭くとポケットの中にいれ、新たな棒アイスを冷凍庫の中から取出した。
「今、お父さんは家にいるかね」
ハワードの言葉に雄也は首を横に振った。
「いえ、今はどっかの遺跡の調査に行っていて、帰ってくるのは数日後だと思いますが」
「なんと! 入れ違いになってしまったか。久しぶりに日本に来たついでに少し顔でも見ておこうと思っていたんだが」
残念そうな顔をするハワードに対して、雄也が質問する。
「そういえば、ハワードさんは、どうして日本に来たんです?」
「ん、……そうか、そのことはまだ言ってなかったね」
ハワードはそう言いながら冷凍庫の中からアイスを取り出すと、暇そうにしていたクーに渡した。
「む、おヌシ、……なかなか気が聞くではないか」
クーはそう言うと、嬉しそうな顔をしながら二本目のアイスを食べ始めた。
「さて、私が日本に来た理由だが、大きくは二つだな。一つは個人的な理由でね、私が追跡しているある人物が日本に現れたという情報を得て、それで日本に来ていたんだ。魔術絡みで因縁のある相手とでも言っておこうか。そして二つ目だが、実は数日前、この付近で巨大な霊気の変動が観測されてね、その調査をしてほしいと『アーカム・ハウス』のメンバーから頼まれたんだ」
「……そうだったんですか」
ハワードのその話を聞いた雄也は、自分の中にあった一つの疑問点が解けたことを実感していた。
それはすなわち、『ハワードが都合よくこの場に現れた理由』である。
そして直感していた。
『数日前にこの付近で起きた巨大な霊気の変動』とは、恐らく自分の周囲をとりまく一連の事柄、つまりは、謎の悪夢と『ポセイドンの書』、そしてクーの出現と記憶の欠落、についてのことであると。
(この人なら、何か知ってるかもしれない。いや、知ってるはずだ)
雄也はそう直感的に思った。
「さて、いろいろと一方的に話してしまったが、何かあるかね」
ハワードの言葉に対して、雄也は意を決した。
「一応質問させてもらいたいんですが、ハワードさんってアメリカ人ですか?」
雄也の唐突な質問に、ハワードは少し不思議そうな顔をした。
「確かにその通りだが、いったいそれがどうしたんだね?」
「いや、これなんですけど……」
そう言って雄也は袋に入れていた『ポセイドンの書』を取り出し、ハワードに見せた。
「なら、この本も読めるんじゃないかな、と思いまして」
「……っ!」
次の瞬間、ハワードの表情が一気に厳しいものへと変化した。
「雄也君! 君はこれをどこで手に入れたんだね!」
ハワードの迫力に押されつつも雄也は答える。
「ふ、二日前に古本屋で売っているのを見つけて――」
それから雄也は、この数日間に起こった奇妙な出来事についてハワードに説明した。
不可解な夢、謎の声、宙に浮き光を放つ『ポセイドンの書』、現れたクー、記憶の欠落、突然読めるようになった『ポセイドンの書』、現れた大量の夜鬼、そして突然の頭痛……。
途中からクーも話に加わり説明されたその話に対して、ハワードは相槌を打ちながら静かに耳を傾けていた。
「――そして、倒れていた君たちを、間一髪のところで私が助けた、ということか」
「ええ、そういうことです」
「うむ、そういうことじゃ」
「なかなか奇妙な話だね。しかし、ある程度までなら君たちの力に成れそうだ」
食べ終えたカップアイスをゴミ箱に器用に投げ入れ、きれいに拭いた木のスプーンをポケットに入れると、ハワードはそう答えた。
「まずは順を追って説明していくとしよう」
そう言うとハワードは、雄也の手にしている『ポセイドンの書』を指さした。
「君が古本屋で買ったというその本、『Book of Poseidon』、君が『ポセイドンの書』と呼ぶその本についてだが、これは間違いなく『魔導書』だ」
「『魔導書』……」
雄也は、自分よりも多くの魔術や超越的存在やと関わってきたであろう人物のその言葉に、自分が置かれている状況を認識し直した。魔導書というものが抱える危険性を再び思い出していたのだ。
「なに、そんなに緊張する必要は無い。『ポセイドンの書』は魔導書とはいえ、その中ではたいして危険度は高くない。言うなればこれは、粗悪な複製品だからね」
「……複製品? ということは、この本の元になった本があるということですか?」
雄也の言葉にハワードは大きくうなずいた。
「その通りだ。雄也君、それにクー君。『R`lyeh Text』、日本語で言うのであれば『ルルイエ異本』と呼ばれる魔導書に心当たりはあるかね」
「…………いや、ワシはきいたことがないのう」
「俺もありません」
「ふむ、まあそんなとこだろうね。『ルルイエ異本』というのは、著者や書かれた年代が一切不明な魔導書で、比較的多くの写本が作られているんだ。これに書かれている内容というのが、ある異形の『邪神』やそれにまつわる歴史、あるいはその『邪神』が封印されている場所、崇拝のための儀式の行い方などでね。その『邪神』の封印が説かれれば、世界に破滅がもたらされると言われているんだ。それ故に危険視され裏で回収され焚書にされたり、コレクターやそういった知識を求める者たちの間で高額で取引されていたりするんだ。もっとも、原書に近ければ謎の古代文字で内容が記されていて、読み解くことすら困難なんだそうだが、ほとんどは解読済みの写本だね」
「……その『ルルイエ異本』と『ポセイドンの書』に、……いったい、どんな関係があるっていうんです?」
雄也はそう質問しつつも、内心では非常にいやな予感がしていた。
ハワードの今の説明からおおよそのことが想像できてしまったのだ。そして、もし『そう』であるならば、納得のいくことが多くあった。
「端的に言おう。『ポセイドンの書』は『ルルイエ異本』の写本の一種だ」
「――っ!」
雄也は、ハワードの言葉に衝撃を受けつつもどこか納得していた。
「しかし、それはおかしいじゃろ」
ハワードの言葉にクーが反論した。
「雄也が言うには『ポセイドンの書』の内容というのは、現代に伝わるギリシャ神話とか言うものを扱っておるそうじゃよ。おヌシの言う『邪神』とは無関係に思えるがのう。大体それほど貴重な本ならば、何故簡単に手に入れることが出来たのじゃ?」
「クー君、確かにそれはもっともな意見だ。しかし、これはなかなか厄介な問題でね。『ルルイエ異本』に記されているその『邪神』を崇拝しているという教団があるわけだが、そこでは多くの人に『教え』を説くために、『ルルイエ異本』を翻訳した写本を配っていたそうだ。しかし、その教団は資金集めのために行っていた違法行為などを口実に政府の摘発を受け、その時に『聖書』である翻訳版『ルルイエ異本』を全て焚書にされてしまたんだ。解体され力の弱まった教団は逃げの伸びたメンバーで再び布教のための『聖書』を作り始めた」
ハワードのその話によって雄也は閃いた。
「……まさか、その『聖書』が――」
雄也の言葉にハワードは頷く。
「そう、それこそが『ポセイドンの書』だ。『ルルイエ異本』の内容を英語に翻訳しつつ、単語の多くをギリシャ神話のものに置き換え、さらに複雑な暗号化を施すことによって摘発を免れながら、出版社を介することなく製造と頒布が行われた魔導書……。それが『ポセイドンの書』なのだよ」
「じゃあ、さっき言っていた『粗悪な複製品』っていうのはどういう意味です? 確かに複製品というのはわかりますけど、粗悪っていうのは一体……」
「単純な話だ」
ハワードはそう言いながら雄也の持つ『ポセイドンの書』を指さした。
「『ルルイエ異本』からの翻訳の過程でいくつかの欠落や誤訳が生じているのさ。さらに言うのであれば、翻訳の際に参照にしたその『ルルイエ異本』も、結局は写本の繰り返しによって作り出されたものである確率が高い。つまり、この時点で『原典』と内容に関して大きな齟齬が発生している。そして、単語の置き換えを行い、暗号化を施したことによって、内容のカモフラージュを行うことは出来たが、今度は内容を読み解くことすら困難になってしまった」
そこまで言うとハワードは雄也に対して、『ポセイドンの書』を渡してほしい、というジェスチャーをした。
雄也から『ポセイドンの書』を受け取ったハワードはぱらぱらとページをめくると、「やはりな」、と小さく呟いた。
「さらにこの『ポセイドンの書』は、『魔導書』としてではなく『希少本』としての側面に注目した人物がその複製として作成し頒布していた、いわば『偽書』だ。その証拠に、暗号を解くために必要な文字以外のいくつかの要素が欠落している。まあそれでも、魔導書としての最低限の機能は維持されていたようだがね」
ハワードはそこまで言うと『ポセイドンの書』を雄也に返した。
「さて、ここからは少し厄介な話になる。そして、雄也君、クー君、君たちにとって非常に重要なことだ」
「重要なこと……ですか」
「雄也だけではなく、ワシにとっても重要なことというと……、もしや、ワシの記憶にも、関係があることなのか?」
二人の言葉を受けたハワードは深く頷いた。
「その通り、恐らくは君の記憶が欠落していた理由は、今この場で説明できる。そしてそのことは、先ほど雄也君が倒れたことにもつながるし、もちろん、記憶を取り戻す方法もある」
「ほ、本当なのじゃな?」
「ああ、本当だとも。ただし、……それは、雄也君の覚悟次第だ」
ハワードの言葉に、雄也とクーは首をひねった。
「……雄也の覚悟、じゃと?」
「俺の……、覚悟……?」
「ああそうだとも。とりあえず順を追って説明していこう。……雄也君、『所有者の契約』と言われる儀式を知っているかね?」
ハワードの質問に対して、雄也は自信なさそうに答えた。
「ええっと、確か、魔術師と魔導書の間で交わされる儀式、だったと思いますけど具体的にどういうものかまでは……」
「その通り。『所有者の契約』とは、魔術師と魔導書との間で交わされるある契約のことだ。これを結んだものは、その魔導書を守護する責務を負わされる。これは運命に干渉する契約とも言っていいもので、これを結ぶことによって魔術師の行動はその魔導書を守るためのものへと無意識のうちに変化し、もしも契約を結んだ魔導書が損傷したり破壊されるようなことがあれば、それ相応の対価、場合によっては命を差し出すようなこととなるんだ。ただし、その見返りとして、魔導書に記されたすべての知識を、自身の脳に記憶することが出来る」
ハワードはそこまで言うと言葉を切った。
この時、雄也の脳裏には、二日前の光景が鮮明に映し出されていた。
禍々しい光を放ちながら宙へと浮ぶ『ポセイドンの書』。脳へと直接響くような、機械的で無機質なあの声。
『これより契約の儀式を執り行います』
高速でめくられていくページ。
『契約完了。Book of Poseidonは新上雄也を所有者と認め、その英知の全てを与えます』
そう、『ポセイドンの書』は雄也へと向かって確かにそう言った。
「聡明なキミならば、もうおおよそのことは理解できているだろう」
ハワードの言葉がどこか遠く雄也の脳内に反響する。
「君はあの日、『ポセイドンの書』と契約を結び、その知識を全て手に入れたんだ」
ハワードの、その決定的な言葉に雄也は少しの間、呆然としていた。
雄也は、何とか口を開くと言葉を発した。
「……それは、喜ぶべきなんでしょうか……」
雄也の言葉に、ハワードは肩をすくめた。
「それはわからない。君がそれをどのように解釈し、どのように選択し、どのように行動するか。それは君自身が決めるべき事だからね。ただし、ある意味では幸運だったと考えるべきかもしれない」
「……幸運?」
雄也は思わず聞き返した。『幸運』という言葉は、今の自分を表現するには場違いなように思えたからだ。
「そう、幸運だ。君の話を聞くに、本の中に挟まれていたしおりの内の一枚は、恐らく『所有者の契約』を強制的に行う術が仕掛けられていたのだろう。悪戯にしては多少性質が悪いが、それでも『ポセイドンの書』だったことは幸運だったと言えるかもしれない。何しろ、所有者の契約なんてものは普通の魔術師は行わないものだからね。どうしてかと言えば、魔導書の知識を全て得ることによって正気を失いその精神を破壊されてしまうということが起こりうるからなのさ」
ハワードの言葉にクーが反応した。
「ハワードよ、おヌシは一体何を言っておるのじゃ? 知識を得ただけで精神を破壊されるじゃと? そんなことが起こるはずないじゃろうに」
「クー君、私は君が何者であるかは分からない。しかし、とりあえずこう言っておこう。人間の精神というものはそれほど強いものでは無いんだ。知りたくもない真実を知った時、今まで心の支えとしてきた価値観を否定された時、そんな時に、人間の精神というものは容易く砕かれるものなんだ」
「ふむ、そういうものなのか?」
「そういうものなのだよ。そして、大抵の魔導書というものはそういった情報が大量に記されているものだ。耐性の無い人間なら、ほんの少し読んだだけで廃人同然になってしまうということもざらにある」
「しかし、ならば何故、雄也は無事なのじゃ? 雄也は『ポセイドンの書』という魔導書の知識を得たのじゃろ?」
「ああ、俺もそれについては同じことを思った。自己申告ですが、今の俺は正常ですよ」
二人の反論にハワードが答える。
「確かに、二人の疑問は当然のものだ。まあ、誰もが精神を壊されるって訳ではない。様々な魔導書から知識を得ながらも平然としている人や、『所有者の契約』を行っても平気そうな顔をしている人だってたくさんいる。しかし、そう言った体質や相性の問題以前に、『ポセイドンの書』そのものの問題点を思い出してみるといい」
「問題点……、っ! そうか、そういうことか」
「どうやら気が付いたようだね」
「俺の契約を結んだ『ポセイドンの書』そのものが、解読不能なまでに内容が変化している。だから、いくら内容を記憶していても、例え理解することが出来たとしても、それは中途半端なものになってしまう。そういうことですよね」
雄也の言葉に、ハワードは拍手をしながら顔をほころばせた。
「そう、まさにその通りだ。理解が早くて助かるよ」
「……でも、ちょっと待ってください」
雄也が再び声を上げた。
「さっきハワードさんは『魔導書に記されたすべての知識を、自身の脳に記憶することが出来る』って言いましたよね」
「ああ、言ったとも」
「でも俺は、『ポセイドンの書』の内容なんてわかりませんよ」
「それはね、雄也君。君がまだ魔導書の『使い方』を、まだちゃんと理解していないからさ。だが、確実にその片鱗は現れている。今日になって、今まで読めなかったはずの本の内容を読むことが出来たということだ。これは、『読むことが出来た』のではなく、『思い出すことが出来た』のだよ」
「『思い出すことが出来た』? …………っ! つまりあれは、内容を読んでいたのではなく、『ポセイドンの書』に記されている文字を見たことがきっかけとなって、記憶していた内容を『思い出すことが出来た』ということですか?」
「そう、そういうことだ。他にも何か心当たりがあることがあるのではないかね」
ハワードにそう言われ、雄也は自分の見た『悪夢』の光景を思い出していた。
そこに出てきた光景は雄也の記憶にないものだった。少なくとも今まで雄也はそう思っていたため、それを不思議だと思っていたが、もしその光景が、『ポセイドンの書』に記述されていたものによって作り出されたイメージだとすればどうだろうか。
確かに、理屈的には合うかもしれない。
夢の中に現れた光景が『ポセイドンの書』の中に記されている光景と奇妙な一致を見せる理由。
なぜならば、それらは『ポセイドンの書』と契約を結んだことにより、間違いなく雄也の記憶に存在するからなのだ。
そう考えることによって、雄也の中に会った疑問は解消された。
「……なるほど。納得できましたよ、ハワードさん」
ハワードは雄也のその言葉に対して頷くと、クーへと向かって声をかけた。
「さて、次にクー君の記憶の欠落についてだ」
ハワードのその言葉に、クーが反応した。
「……おヌシ、……本当にわかるのか?」
クーのどこか不安そうな声に対してハワードが応じる。
「君が何者であるか、ということに関して私は答えられない。しかし、なぜ記憶が欠落しているのか、ということに関しては答えられる」
「……では、いったいなぜ……」
クーの言葉に対してハワードは、再び『ポセイドンの書』を指さした。
「クー君は、便宜上、雄也君が召喚したということになっている。恐らくは雄也君の言っていた二枚のしおりの内のもう一枚が、召喚のトリガーとなり、魔導書の力を借りて召喚された。ここで重要なのは、君を召喚するためにいかなる知識と、いかなる魔導書が用いられたのか、という点だ」
「それは『ポセイドンの書』じゃろ。しかし、それと記憶の欠落に一体どんな関係があるというのじゃ」
「雄也君は、『ポセイドンの書』に記されている不完全な知識によって呼び出した。そのことが君に影響を与えているのさ。恐らくは『ポセイドンの書』の元となった『ルルイエ異本』の中のどこかに、君のことが記されているはずだ。しかし、『ポセイドンの書』では改変によって君の名前は変えられ、君に関する多くの内容が改ざんされてしまっていた。その影響で、呼び出された君は『ポセイドンの書』によって改変を加えられた場所の記憶が欠落し、同時に能力が弱体化した、というわけさ」
ハワードの話に対して、クーは神妙な顔をしながら答えた。
「……まあ、おヌシの話を聞いておる間に、おおよその見当はついておったが……、しかしまあ、なんとも迷惑な話じゃ」
「ちなみに、戦闘中に雄也君が倒れたのも、ここらへんに関係のあることだ」
「何じゃと?」
「どういうことです?」
ほぼ同時に反応した二人に対して、苦笑しながらもハワードは答えた。
「クー君はもともと『ルルイエ異本』に記されていた存在である可能性が高い。もしそうであるなら、雄也君が召喚時にクー君のことを正しくとらえきれていなかったために、不完全な召喚が行われてしまったということは十分に考えられる。倒れていた時の雄也君の様子からすると、あれは負荷の掛かり過ぎだろうね」
「負荷というと、いったい何の負荷なのじゃ?」
「わかっていることかもしれないが、クー君は、雄也君を介してこの世界に現界するための霊気を吸収しいている。しかし、それは本来、最低限、召喚者との繋がりがある、という程度のもので構わないはずなんだ。そして、戦闘で用いるような霊気は、本来ならばクー君が自力で外部から確保できるはずなんだが、今のクー君は、あらゆる活動における霊気の吸収を、雄也君を介してでなければ行えなくなっている。そのため、大量の霊気を消耗するような技を使うと、雄也君に莫大な負担を強いることになるんだ。クー君が一気に弱体化したのは、雄也君に負担をかけ過ぎたせいで、処理が追いつかなくなり一種の防衛本能のようなものによって君への霊気供給がストップしてしまったことによるものだ」
「……つまり、あれはワシのせいじゃったということなのか。ユウヤ、済まぬことをした」
「いや、もう過ぎたことは気にするなって。それに、ああなっちまったのは、俺が、俺自身の置かれている状況を、正確に把握しきれてなかったことにもあるんだ。俺の方こそ悪かった」
「さて」
そう言ってハワードは、再び場を仕切り直す。
「私は、それらの不備を解消し、クー君の記憶を取り戻しつつ、霊気の供給を正常化させる方法に心当たりがある。そしてそれを、今この場で行うことが出来る。ただし、最初にも言った通り、これは、雄也君の覚悟次第だ」
「俺の覚悟、というのはどういうことです? 記憶を取り戻すとなれば覚悟が必要なのは、むしろクーの方なのではないですか?」
「確かにそれはそうかもしれない。しかし、それ以上に雄也君の覚悟が必要ということだ。具体的には、命を懸けてもらう必要がある。それと、私が提示するのはあくまでも選択肢と手段に過ぎない。だから無理強いをするつもりもないし、ほかに手段がないとは言わない」
「っ! 命、を?」
ハワードは、雄也の問いに答えず、一人、ベンチから立ち上がると、雄也の一メートルほど前に立ち雄也の方を向いた。そして無言のまま右手を雄也の方へと手をかざした。
次の瞬間、ハワードの右手の先にB4サイズほどの大きさの光の板のようなものが数枚出現した。板、というよりの紙に近いだろうか。
あるいは本のページとでもいうべきだろうか。
ハワードの突然の行動に驚く雄也に対して、ハワードが語りかける。
「先ほど言い忘れていたが、私も君と同じように『死霊秘法』と呼ばれる魔導書と『所有者の契約』を結んでいる。契約を結んだ魔導書を正しく使いこなすことが出来れば、好きなタイミングで適切な知識を素早く引き出すことが出来る。そして、それだけでなく、このようにしてその知識の一部を、霊力を用いて具現化することが出来る。さすがに『死霊秘法』に関しては、名前ぐらいは聞いたことがあるだろ?」
雄也はハワードの言葉に無言で頷いた。
『死霊秘法』。
それは、超越的存在の領域に足を踏み入れたものならば誰しもが一度は耳にするであろう魔導書の名前だ。
アラブの狂詩人アブドゥル・アルハザードが七三〇年にダマスクスで執筆したと言われている魔導書であり、多くの秘法や超越的存在についての記述がなされている。アルハザードの書いた原典は『アル・アジフ』と呼ばれ、それを基にしていくつかの言語へと翻訳が為されているのだ。
広く様々な範囲の知識が記されていると言われるこの書物は、その汎用性の高さゆえに多くの翻訳本や複製本が作られており、超越的存在の領域に関わりの無いものであっても、その名前だけは知られている。
事実、大型の国立図書館などではこの魔導書、あるいはその写本を所有しており、閲覧サービスを行っている場所もある。
しかし、多くの知識が記されている反面、読んだときに精神を壊され正気を失ってしまう危険度も大幅に上昇しているという、諸刃の剣ともいうべき禁断の魔導書なのだ。
「ここに創り出したのは、私の中にある『死霊秘法』の知識の一部を複製して創り出した『断章』ともいうべきものだ。これを使うことで君の中にある『ポセイドンの書』に欠けている部分を補うことが出来る。つまり、知識の内容のみを『ルルイエ異本』と同等のものに変えることが出来るのだよ。『死霊秘法』はあらゆる分野の超越的存在に関する知識を網羅していると言っても過言ではない。この『断章』は『死霊秘法』の知識の一部、名前や地名などの様々な固有名詞とその周辺の基礎的な知識を抽出して創り出している。つまりこれを使うことで君の中にある『ポセイドンの書』の内容の改変されている固有名詞と暗号化の部分を元に戻すことが出来る」
「それを使えば、クーの記憶を元に戻すことが出来るんですか!?」
雄也の言葉に対して、ハワードは頷いた。
「もちろんだ。今にクー君の記憶は君の記憶に連動していると言っても過言ではないからね。さらに言うのであれば、正しい知識によりクー君を捉え直すことによって、召喚を完全なものとし、霊力の供給を正常化させることもできる」
ハワードのその言葉を受けた雄也は、ベンチから立ち上がり、ハワードの正面に立った。
「お願いします。俺に、その『断章』を使ってください。さっきからいろいろ教えてもらったり助けてもらったりしてばかりで、偉そうなことなんて言えない立場に自分がいることは十分にわかっているつもりです。それでも、あなたの話を聞く限りはそれ以外の選択肢がない」
雄也はそう言うと、ハワードに向けて深々と頭を下げた。
「君に『断章』を使うことは構わない。クー君も雄也君も、その力を正しく使えるだけの信頼に値する人格の持ち主であるということは、先ほどまでの会話でよくわかっている。しかし、『断章』を使うことによって生じるリスクを、君は理解しているのかね」
しばらくの沈黙の後、雄也は答えた。
「……『ポセイドンの書』の改変カ所を補える知識を得るということは、原型である『ルルイエ異本』に近づく。そして、……それに俺の精神が耐えることが出来ずに、精神を壊されてしまうということ。……そういうことですよね」
「……ああ、その通りだ」
「例えそれだけのリスクを負ったとしても、十分にやる価値があると思っています。クーに対して記憶を取り戻すことを手伝うと約束したその時から、俺の覚悟は決まっています」
「……ユウヤ、おヌシ……、何もそこまですることはないんじゃよ? 大体、おヌシの最終的な目的は、ワシを元居た場所へと還すことじゃろ。ワシの記憶を戻さずとも、その方法を探す方が、おヌシにとって必要なことなのではないのか?」
クーが雄也に掛けた言葉は、いつものクーらしくもないどこか弱気なものだった。そして、それが雄也を気に掛けたが故のものなのか、それとも雄也を試すためのものなのか、あるいは、本当は記憶を取り戻すことを望んでいなかったのか、それを推し量る術を今の雄也は持ち合わせてはいなかった。
「俺は言ったはずだぜ。クーの記憶が戻るように全力を尽くすってな。そうやって約束しちまったんだ。破るわけにはいかねーよ」
「そんな言葉に、おヌシの命を懸ける必要などないじゃろ」
クーの言葉に、雄也は首を横に振った。
「いいや、必要ある。少なくとも俺はそう思っている。それに、クーに出会ったことで俺の人生には、大きく変化しようとしているんだ。まだそれが『何』なのかは分からないけど、少なくともクーが俺のことを変えてくれたことは間違いない。俺の人生を変えてくれた恩に報いるなら、何度だって命ぐらい賭けてやる」
「……おヌシ、何と言うか、言っておることが支離滅裂じゃよ。……じゃが、お主の覚悟は確かに受け取った。ワシも、どんな記憶であろうとも受け入れる覚悟をしよう」
二人の会話を聞いていたハワードが口を開いた。
「……どうやら、話がまとまったようだね。さっきも言った通り、私がここで君に見せているのは、一つの手段であり、また数多くの選択肢の中の一つでしかない。そして、それを無理強いするつもりはない。それでも、君は選ぶというのだね」
ハワードの言葉に雄也が答えた。
「はい、ハワードさん。覚悟はできています。俺に、『断章』を使ってください」
「わかった。君の覚悟は確かに受け取った。では、『断章』を授けるとしよう」
そう言うとハワードは雄也へと向けて手をかざした。
『『死霊秘法』の所有者ハワード・カーターの名の下に、新上雄也へ『断章』の贈与を行う』
ハワードのその言葉と共に、『断章』が強い光を放つ。そして、雄也の体の中へと吸い込まれていった。
「――っ!……っあっ……ああぁぁぁああああああ――――!」
直後、雄也が叫び声を上げた。
「ユウヤ!」
雄也へと駆け寄ろうとしたクーをハワードが左手で制する。
「今、彼は戦っている。『死霊秘法』に記された知識と、そして、それによって真の姿を現した『ポセイドンの書』と」
「しかし――」
クーはその先の言葉を言うことが出来なかった。
クーの目には、雄也は苦しんでいるように見えた。そして、事実、今の雄也は今までにない苦しみにさらされていた。自分を救おうとしてくれている人物が、苦しみにさらされている姿にクーは耐えられなかったのだ。
自分に関する記憶を奪われこの世界に召喚されたクーにとって、唯一すがることの出来る相手というのは雄也だけだった。
しかし、どれほど気丈に振舞っていたとしても、心の奥に広がる空虚な闇によってもたらされる不安と恐怖は決して消えなかった。
今のこの世界でクーのことを認識できる存在は限られている。もしも雄也を失うことになれば、霊気の供給源を断たれて消滅してしまうという極めて現実的な恐怖以前に、自身のことを認識できる存在が居なくなるということの方がクーにとっては恐怖だった。それは認識という『外側』からと、記憶という『内側』から、自己が消滅し空虚な闇の中に落とされてしまうという、死や消滅よりもはるかに暗い究極の孤独だ。
クーの根底にあるのは孤独への恐怖なのだ。
その恐怖から逃れるために、自身が孤独にならないために雄也を守ることを誓ったのだ。
例え記憶の一部が欠落しているクーであっても、痛みや苦しみの究極的な先にあるものが『死』であるということは認識している。
そして、今の雄也は苦しみにさらされている。ハワードの話した魔導書のリスクを信じるのであれば、雄也は間違いなく『死』の領域に近づいていることになる。
クーにはそのことが耐えられなかったのだ。
崩れ落ち、地べたへと座り込むクーへと向けて、ハワードは振り返ることなく言葉をかけた。
「目を逸らすな。雄也君は君のために覚悟を決め、決断し、そして行動した。ならばその覚悟がいかなる結果を導こうと、それを見守るのが君の責務だ」
「ワシの……責務、見届ける……ユウヤの…………覚悟……」
ハワードの言葉を受けたクーは、雄也の方へと向けて、静かに視線を上げた。
×××
『断章』が体の中に入った瞬間、雄也は、今までに感じたことのないような痛みを感じた。無論、その痛みは物理的なものではない。あくまでも、精神的なイメージでしかない。
しかし、全身が自分以外の何者かに変化してしまうようなその感覚は、自分の中にある十数年分の記憶を高速で巻き戻しながら同時に引き裂いていくようなその感覚は、今までの自分の行動の全てを無意味で無価値なものであると嘲笑われるそのイメージは、雄也の感じてきたどんな『痛み』よりも強烈なものだった。
「――っ!……っあっ……ああぁぁぁああああぁぁぁぁああぁぁ――――っ!」
無意識のうちに叫び声を上げる。
耳から聞こえてくるその声は、とても自分のものとは思えないほどに悍ましく、野性的で、非人間的なものだった。
雄也は、以前にも似たような苦しみを感じたことがある。それは『ポセイドンの書』と契約を結んだ時だ。
しかし、今回のものはその時の比ではなかった。
消えそうな意識を何とか保とうとする雄也の脳裏を、いくつものイメージが高速で走り抜ける。
底知れぬ混沌を内包した暗く深い海、物理法則を無視した形状の建造物、様式化された水棲生物のシンボル、緑の光を放つ石で造られた禍々しい神殿、魚類を限りなく醜悪に擬人化したかのような生物の群れ、あらゆる水棲生物をグロテスクに合成したかのような巨大且つ異様な化け物……。
やがて、それらの無数のイメージと共に、雄也の脳内に男とも女ともつかないような無機質な声が響き渡る。
『――……『ルルイエ』の城の中、死せる『クトゥルフ』は悠久の夢の中、復活の時を待ち続ける……すべての星が正しい位置へと揃った時、長き眠りより『クトゥルフ』は目を覚ます。自らの子と、その血族を正しき未来へと導くために……『アザトース』は宇宙の始まり。世界は『アザトース』の夢なり。『アザトース』から、無名の霧あるいは門すなわち『ヨグ=ソトス』、闇あるいは母すなわち『シュブ=ニグラス』、這い寄る混沌あるいは無貌すなわち『ニャルラトホテプ』が生まれた……『クトゥルフ』の血族は年三十半ばにして海の底にある神の国へと誘われる……『クトゥルフ』は、外なる星ゾス星雲より地球へと飛来した神である。その後、『クトゥルフ』とその臣下たちの軍勢は、『古のもの』率いる『ショゴス』の軍勢と戦い敗北。『ルルイエ』へと身を潜めるが星の力が弱くなったことにより『ルルイエ』は水没する。『クトゥルフ』も『ルルイエ』の中で終わること無き夢を見続けることになる。しかし、『クトゥルフ』の血族の祈りにより星の力が取り戻された時、『ルルイエ』は浮上し『クトゥルフ』は本来の力を取り戻す。そして自らの子とその血族を正しく導き、世界をあるべき形へと作り変えるであろう……――』
雄也は理解した。
この世界が大いなる愚神『アザトース』の夢に過ぎないことを。
自分が見た『悪夢』が全て歴史の真実であることを。
海底神殿の名が『ルルイエ』であることを。
それを創り出したのが人類有史以前に地球に飛来した神『クトゥルフ』とその眷属であるということを。
『邪神』と呼ばれる存在の前に人類が無力であるということを。
神は、人を愛してなどいないということを……。
×××
ハワードの背後でクーが倒れた。
「……成功、か」
振り向き、そのことを確認するとそう呟いた。
ハワードの前後には雄也とクーが倒れており、どちらも気を失っている。
「苦しみに耐え、ここから立ち上がることが出来れば、君たちの『勝ち』だ。その覚悟、見届けさせてもらうぞ」