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夢Ⅱ


 

 夢Ⅱ

 

 これは夢だ。

 『私』は水の中にいた。緑色の淡い光が揺らめく海底神殿に『私』はいた。

 あらゆる線と形の歪んだ無数の建造物が乱立するその様は、まともな感性の持ち主であれば、いつ気が狂ってしまってもおかしくはないだろう。

 しかし、この海底神殿を見ている『私』の感じたものは、懐かしさにも似たものだった。

 『私』は狂ってなどいない。

 『私』は正常だ。

 そのことは、誰よりも『私』自身がよく知っていることであり、また自覚していることだ。

 しかし、ならば何故、『私』はこんな感情を抱いている。『私』はこの景色を初めて見たはずだ。いや、それはおかしいのではないか。夢とは記憶が作り出す虚像だ。そうであるならば、私はこの景色を見たことがあるはずだ。であるならば、『私』がこの遺跡を懐かしく思うことには、何の疑問を抱く必要もないのではないだろうか。だが、もし仮にこれが夢ではなく現実だとしたら、この感情が意味するものは、一体何なのだろう。

 理解できない。

 思い出せない。

 気持ちの悪い違和感が私の心の中を渦巻いていく。

 『私』の意識が遺跡の中を進んで行く。右へ、左へ、上へ、下へと泳ぎ、凹面を登り、凸面をくぐり、鈍角の中へ、鋭角の外へ、物理法則がねじれ狂気的な変化を起こす道を『私』の意識が進んで行く。

 海底神殿を奥へ奥へと進み、いつしか『私』は神殿の中にある、暗く狭い部屋の中へと辿り着いた。

 石造りのこの部屋は、まるで古代エジプトのファラオの棺を安置する部屋のようであった。

 部屋の奥の壁にガラス窓があった。

 ガラス窓の向こう側も薄暗く、この場所と同じような石造りの部屋がある。『私』の意識は知らず知らずのうちにガラスの奥へと引き寄せられていった。

 ガラスの奥には一人の少女がいた。

 緑の光彩を放つ長い髪、透き通るような白い肌、左右非対称の奇妙な服、そして鮮血のように赤い瞳。

 『私』は自分の心臓の鼓動が早鐘のようになるのを自覚した。

 もう一度会いたいと、一目でいいから見たいと思っていたあの美しい少女が、こんなにも近くにいたのだ。そのことに対する驚きと喜びに、『私』は魂の底から打ち震えていた。

 何故会いたいと思ったのか。

 そんな問題は些細なことだった。これは最早本能なのだ。そうに違いないと『私』の心の奥が叫び声を上げる。『私』の魂が彼女を求めているのだ。

 『私』がガラス窓の向こうの少女へと近づくと、彼女もまた長い髪を揺らしながら私の方へと近づいてきた。

 『私』はガラス越しに少女へと微笑んだ。少女も緑の髪を揺らしながら『私』へと微笑んだ。

 『私』はまだ、この少女のことを何も知らない。

 知らないはずだ。

 ただ一度だけ夢の中で出会ったというだけの関係。声すらも聞いたことがないのだ。素性など全く分からない。

 分からないはずなのだが、『私』はどうやらこの少女のことを知っているようだった。

 彼女の姿を見るたびに、『私』の記憶が刺激される。『私』の記憶が、『私』へと向けて訴える。

 「あなたは、この少女のことを誰よりも知っているはずだ」と。

 『私』は悩む。薄暗い石造りの部屋の中、独り、この奇妙な感覚の正体を探り、そして正解へと辿り着けないもどかしさに苦悩していた。ガラス窓の向こうへと意識を向けると、『私』と同じような部屋の中で、彼女も少し困ったような表情をしていた。

 彼女も何かに悩んでいるのだろうか。


「よくここまで辿り着いた」


 不意に背後から声が聞こえた。海底神殿の静寂を破る声に、『私』は驚き振り返った。

「舞台は全て整えた。さあ、幕を開けようじゃないか」

 声の主、私の背後に突然現れた存在は、一人の男だった。

 痩せこけた頬、浅黒い肌、銀色の長髪、あちこちに金具や装飾が付けられた黒い服、そして毒蛇のような狡猾そうな瞳をもった、長身痩躯の優男。

 そんな特徴的な外見だが、『私』はそのことが全くどうでもいいことのように思えた。外見など、この黒衣の男のことを説明するためには不要な要素であると、そう直感することが出来たのだ。

 無貌の王、スフィンクス、暗黒の男、預言者、神父……。この男の存在を表すことが出来るイメージが、濁流のように『私』の意識の中へと押し寄せる。

 危険だ。

 この男は危険だ。

 この黒衣の男は、あらゆる厄災の元凶だ。

 この黒衣の男にとっては、外見など全く意味を持たないものだ。邪悪で混沌とした詐欺師的な道化。そんな存在であるということがこの黒衣の男の本質であり、いかなる姿をしているかは重要ではない。

 そんなことを、恐らくは初対面であるにもかかわらずはっきりと理解することが出来た。

 『私』がこの黒衣の男から受けとることが出来るイメージは、それほどまでに強烈なものだったのだ。

 黒衣の男は『私』の方を向き、そして語りかてくる。

「何も恐れることはない。君はこれからすべてを失うが、やがて取戻し、そして大切なものを手に入れるだろう」

 『私』は思わず後すさる。

 『私』は恐怖した。

 この黒衣の男によって、この空間、この次元、この状況が私にとって耐えがたいものへと変化していくのを確かに感じたのだ。

 黒衣の男が『私』の方へと向けて、一歩踏み出す。

「さあ始めよう。これが神話の、新たなる一ページとなる」

 黒衣の男は一冊の本を小脇に抱えるようにして持っていた。

 それはとても大きく古びた本だった。黒く分厚い表紙は紐によって閉じられており、その表紙は、判読不明の文字によって書かれて表題と、様式化された無数の水棲生物と空想上の怪物によって禍々しくも荘厳に彩られている。

 黒衣の男はその本の表紙を、芝居がかった動作で『私』の方へと見せた。

 次の瞬間、本の輪郭が蜃気楼のように歪み、別の本へと変化した。

 大きさはさほど変化していない。しかし、表紙に描かれていた水棲生物や怪物などは明らかに粗雑なものへと変化しており、表題の文字も判読可能なものへと変わっていた。

 表題にはローマ字で『Book of Poseidon』と書かれていた。

 黒衣の男は手のひらの上にその本を置き、ゆっくりと紐を解いた。

 『私』の意識は黒衣の男が持つその本の方へと固定され、決して動くことはなかった。

「さあ、始めるとしよう」

 黒衣の男がそう呟いた直後、本のページが勢いよく開いた。

 古びた紙に描かれたローマ字の文字列と、いくつもの奇怪なシンボル、そして非ユークリット幾何学的な図形。それらが『私』の意識の中を勢いよく駆け巡った。

 呆然としている『私』に対して黒衣の男が囁いた。

「覚醒の時が来たのだよ。今こそ己の魂に刻まれた使命を思い出すがいい。そして、その運命に抗って見せるがいい。私は、『君たち』に期待している」

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