プロローグ 特異であり平凡でもある日常
プロローグ 特異であり平凡でもある日常
熱気を帯びた風、ヒグラシの声、茜色の空。
平凡な日本の住宅街における、八月の夕暮れ時である。
しかし、それはこの世界の一側面に過ぎない。
例えば、屋根の上を飛び移りながら疾走するマントを纏った少年、新上雄也の姿に、いったい誰が気付いただろうか。
例えば、その雄也の視線の先にいるモノ、二メートルほど長身に、二本の角と、蝙蝠に似た翼と、鋭くとがった細長い尾を持った、漆黒の異形に、いったい誰が気付いただろうか。
「――逃がさねーぞ」
そう呟きながら、雄也は漆黒の異形を追い、空中を駆け抜ける。
彼に飛行能力があるわけではない。
靴に刻み込まれた呪印が大気中の霊気と反応し、見えざる足場を作ることによって、あたかも空中を移動しているかのように見えるのだ。
さらに体に直接描いた呪印から霊気を体内へと大量に取り込み、霊力へと変換しながら爆発的に開放することによって、一時的にではあるが身体能力の向上を行っている。
それに加えて、雄也の纏っているマントには周囲からの認識を歪める呪印が記されている。これにより、雄也の姿は、よほどのことがない限り、周囲の人間から認識されなくなるのだ。
雄也が追う漆黒の異形、夜鬼と呼ばれるソレは、負の思念を受けた霊気が凝縮した存在であり、ごく一部の人間を除いては知覚することが非常に困難なのである。
故に、この戦いには誰も気づかない。
追われ続けていた夜鬼が、雄也の方へと反転した。
そして、鋭い鉤爪を備えた腕で雄也へと攻撃する。雄也もそれに応じて、右手に握っていた一振りの得物、呪印の刻まれた木刀を振り下ろす。
衝突。
互いの纏う霊力が反発しあい、衝撃と共に後方へと弾き飛ばされる。
「――くっ、こいつ」
木刀から腕へと伝わる衝撃に顔を歪ませながら、雄也は夜鬼を睨みつける。そして、再び木刀を構え直すと、夜鬼の方へと向かって一直線に間合いを詰めた。
夜鬼は雄也の方へと向かって手を向けた。
次の瞬間、夜鬼の指先へと一気に大気中の霊気が収束し、そして一筋の禍々しい光となって解放される。
「――っ!」
雄也は、その光線が放たれると同時に左手で空中に星形のようなものを描いた。
『旧神の印』と呼ばれる印である。
複雑な手順を踏めば多くの超越的存在の『封印』を可能とし、簡易的なものでは『拒絶』を表す、退魔師の基礎的な術だ。
描かれた『旧神の印』は『拒絶』を司る『盾』となり、雄也の霊力によって実体化すると、夜鬼の放った光線を弾いた。
雄也は、それと同時に夜鬼の懐へと一気に間合いを詰め、木刀を上へと勢いよく振り上げる。
次の瞬間、鈍い音を立てて木刀は夜鬼の無防備な腹部を直撃した。攻撃を受けた夜鬼が体勢を崩す。
雄也の攻撃はさらに続く。再び木刀を振りかぶると、今度は真横に薙ぎ払った。
しかし、二度目の攻撃は成功しなかった。夜鬼は即座に防御態勢をとり、木刀を受け止める。そして、木刀の『刃』に当たる部分を握ると、そのまま力任せに真上へと放り投げた。それはつまり、木刀を握っていた雄也を空中に放り投げた、と言うことである。
放り投げられた雄也が落下を開始するまでの時間はわずか数秒。
この間に夜鬼は、再び光線を放とうと霊力を収束させる。
それと同タイミングで、雄也は空中で体制を変え木刀の切っ先を夜鬼の方へと真っ直ぐに向けた。
「これで――」
雄也は木刀を強く握り念じる。
(――この一撃で終わらせる!)
それに反応し、木刀に刻まれたいくつもの呪印が大気中の霊気を吸収する。そして、木刀の刀身が青白い輝きを放ち始めた。
放り投げられた雄也の落下が始まる直前、この時点での夜鬼と雄也との距離はおよそ十メートル。
雄也が空中に出来た霊力の壁を蹴り、真下にいる夜鬼へと一気に間合いを詰めた。それと同じタイミングで夜鬼の指先に収束していた霊力が光線となって放たれる。
しかし、夜鬼の放った光線は、青白く輝く刀身に触れた瞬間、弾かれ、拡散し、そして霧散した。
一秒にも満たない攻防。しかし、それによってこの戦いの勝敗は決したのも同然となった。
降下によって十メートルの距離を一気に詰めた雄也が、青白く輝く木刀を一気に振り下ろす。
「うおおぉぉぉぉぉぉ――――!!」
木刀による渾身の一撃。
刀身が、夜鬼の体を真っ二つに切り裂く。
次の瞬間、夜鬼の体は黒い霧のような物へと変化し、そして霧散した。
「ふぅ、――――って、おぉぉ!?」
雄也が素っ頓狂な声を上げる。
その原因は至極単純なものだ。
今、彼は家の屋根の上を飛び移りながら夜鬼と空中戦をしていた。そして、真下へと向けて急降下しながら攻撃を行った。攻撃に集中していたこの雄也が着地のことなど考えているはずもない。
「しまっ――――」
目の前にはアスファルトの大地が迫る。
雄也は何とか身をひねり、落下の衝撃を殺しつつも派手に落下した。常人ならばただでは済まない。
「――っ痛、チクショウ、最後の最後でしくじった。まだまだって訳か。まあ、これが人様の家の屋根でなかったのは不幸中の幸い、と考えるべきかな」
雄也はそう言いながら何事もなかったかのように起き上った。呪印による身体強化の賜物である。
「ともかく、今日の任務はこれにて終了、ってところかな。さて、帰るか」
×××
夜鬼と呼ばれる存在がいる。その漆黒の異形は、大気中の霊気に生命体の負の感情が取り込まれ、凝縮することによって生まれる。
夜鬼は人に対して害をなす。夜鬼は人を見つけると、捕まえそして飛び去っていく。そしてどことも知らぬ場所へと消えていくのだ。一説によれば、空間を飛び越え別次元へと連れ去っていくと言われているが、真偽のほどは定かではない。
夜鬼だけではない。幽霊、屍食鬼、吸血鬼、深きもの(ディープワン)、そして、旧神と邪神……。この世界には、我々が知らないだけで、多くの超越的存在がいるのだ。
人類の中には、極稀にではあるがそういった存在を知覚し、交流し、あるいは利用することが出来る者がいる。
先ほど夜鬼と戦闘を繰り広げていた少年、新上雄也もまた、そういった者達の中の一人である。
彼、厳密にいうのであれば、彼の一族は、代々退魔師を名乗ってきた。夜鬼に代表されるような超越的存在を知覚する能力は先天的な資質に大きく左右される。新上家は代々その才能が受け継がれており、雄也もまた例外ではなかった。
国内外を含め一般的に『退魔師』を名乗る者たちの行ってきたこと、あるいはその行動原理とは、「超越的存在を秘匿し、人に害を及ぼさないように追い払い、あるいは駆逐する」ということだ。
ただし彼、新上雄也は退魔師としてはまだ駆け出しである。今回彼が戦っていたのは、本来ならばこの街を担当しているはずの退魔師、彼の両親が現在旅行に行っているからであり、その留守中、夏休みの数日間だけ、この街を守るように頼まれたからであった。
×××
「――疲れた」
自宅に帰り開口一番、雄也が口にした言葉がそれだった。今、新上家の中にいるのは彼一人だ。故にこの言葉は、誰に対して言った言葉でもなく、強いて言うのであればただの独り言だった。
「『跳んだ』のは久しぶりだったけど、呪印の負担が結構でかいな。こりゃ明日は筋肉痛だ」
そんなことをぼやきながら、雄也は冷蔵庫の残り物で適当に夕飯を作る。
「ったく、親父たちも親父たちだ。毎回急なんだよな。なんで前日に言うんだよ。それも四日間だぞ、何でこのタイミングで行くんだよ、おかげで俺の夏休みが――……」
雄也の両親は父親が考古学者兼作家、母親が大学の史学科教授だ。二人ともその筋ではそこそこ名の知れた人物であるらしく、発掘調査を手伝ったり講演会に呼ばれたりということをしょっちゅうしている。また、専門分野が近いため、二人が同じ所へと呼ばれることもたまにある。
今回はまさにそのケースだった。
なんでも、ある漁村の近くで奇妙な遺跡が見つかったとかで、その調査のために雄也の両親が呼ばれたのだ。
「――意外と美味いな、我ながら」
雄也が冷蔵庫内の残り物で作った夕飯を食べながら独り呟いた。
独り言は雄也の癖だった。
超越的存在を知覚し、干渉することが出来るだけの力を持っている雄也は、幼いころから周囲の人間と一定以上の距離をとるようにしていた。
『超越的存在は秘匿されなければならない』と両親や祖父母から教えられてきたから、というのもあるが、それ以上に他人から気味悪がられたり嫌われるのを恐れていた、というのがある。
避けられたくなければ近寄らなければいい。
そんな考えに至った雄也が他人との接触を極力避け、それ故に幼いころから家で一人遊びをすることが多かったということは、彼の独り言の多さとは決して無関係ではないだろう。
「残った分は明日の朝、だな。これで手間が省ける。――しかしまあ、母さんはともかく、親父が呼ばれたってことは、どうせ『まとも』な物じゃないんだろうな」
雄也の父親、新上恭一は退魔師だ。今の雄也に超越的存在にかかわる多くの知識を教え、この街を守ってきた人物だ。
そして、その知識は彼の表の顔、考古学者としての知識に結びついている。わかりやすく言うのであれば、俗にオカルトやら超常現象と呼ばれるような『トンデモ』なものを専門として扱っているのだ。
しかも新上恭一自身が退魔師というその『トンデモ』の張本人であるというなかなかたちの悪い話なのだ。
『業界』の中で彼が『本物』であるということを知る人間(要するに恭一の親しい友人)はそういったものを見つけると、真っ先に彼に連絡するのだ。超常的存在の秘匿を使命とする退魔師としては、いち早く状況を解決しなければならず、そのことは恭一も、また彼の息子である雄也も十分に理解していた。
ともかく、八月十二日の夜。
高校一年生、新上雄也は、今回両親が呼ばれた仕事がおおよそ『まとも』ではないということをいつもの経験から理解していた。故に、それに関わらずに済んだことを喜ぶと供に、数日間厄介な仕事を任されたことを嘆いていた。
そして「もしかしたら親父に実力を認められたのでは?」という喜びと、「さて残りの宿題はいつやろう」という悩みと、その他諸々のことには思いを巡らせながら、最終的には「今日は疲れたから早く寝よう」という結論に至ったのだった。