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第四章 『私』は『私』の為に


 第四章 『私』は『私』の為に

 

 ハワードが雄也へと夢を通して話しかけてきたことは、雄也にとっては重要なヒントとなった。

 夢見人はその力を使いこなすことで他の夢の世界を渡り歩くことが出来る。つまり、意識的に他人の精神世界に干渉することが可能ということだ。そして、超越的存在は夢を使って人間にコンタクトすることを得意とするという事実。

「なら、その逆も可能なはずだ」

 それが雄也の出した答えだった。

 雄也が今いる場所は物理的にクティーラの体内であると同時に、精神的にもクティーラの中である。そこからクティーラの意識に、この夢を通して働きかけようということだ。

「俺に、夢見人としての力があるならっ!」

 雄也は意識を集中し、クティーラの夢の最深部へと潜っていく。

 そこに、クティーラの意識がいる筈だと直感的に理解したのだ。

 雄也は夢の中を、この深く暗い海を潜っていく。

 永遠に続くかのように思えた闇の中を潜り続けた雄也は、ついに海の底へと辿り着いた。

 そこは緑色の巨石たちが狂気じみた様子で立ち並ぶ場所だった。

 雄也はその場所の名前を知っている。

 その名はルルイエ。

 忘却の神殿であり、悠久の時を夢見る『邪神』クトゥルフの墓所。

 そして、クティーラの故郷である。

 もっと厳密な言い方をするのであれば、『ポセイドンの書』とクティーラの記憶によって形成されたルルイエの虚像、とでも言うべきなのだろう。

 最初にこの光景を見たとき、雄也は言葉では言い表すことの出来ないような恐怖を感じた。あらゆる常識を無視して存在するこの構造物に対して、防衛本能的な嫌悪感を覚えた。しかし、不思議なことに、夢で何度もルルイエを訪れるたびに、不思議と恐怖感は消え、嫌悪感はなくなっていった。

 そのことを不思議に思っていた雄也だが、今、その理由が理解できた。

 何故なら、ここはクティーラの故郷なのだから。

 雄也の見た『夢』は、同時にクティーラの見せた『夢』でもある。この光景がクティーラの記憶から成り、自分がクティーラと一緒にその夢を見ているのだとすれば? 

 『夢』の中の『私』が自分とクティーラの精神が混ざり合ったものなのだとすれば?

「そう考えれば、あの奇妙な懐かしさにも納得がいく」

 雄也はさらに、ルルイエの奥深くへと進んでいく。

 ただ先へ、ただ前へ、ただ奥へ。何かに突き動かされるように雄也は進んで行く。

 無数の巨大な石像群を越え、幻影のように変化し続ける道を進み、鈍角の内側と鋭角の外側を潜り抜けたその先で、雄也はやっと進むのをやめた。

 ルルイエの最深部と思われる場所、大きく開けたドームのような場所の、その真ん中にクティーラの姿を見つけたのだ。

「ユウヤか。ルルイエ内の構造は、人間の頭では到底理解など出来ないはずなのじゃが、よくここがわかったな。」

 雄也に向かってそう話しかけてくるクティーラは、十メートル越えの『邪神』ではなく、緑色の髪の少女の姿だった。

「わかるさ。ここは俺の夢でもあるんだ」

 雄也はそう切り返しながら、クティーラの方へと歩みを進めた。

「時間がないんでな。短刀直入に言わせてもらうと、今すぐお前に正気に戻ってもらいたい。何とかしてくれ」

 雄也はそう言いながら目の前のクティーラの様子を観察する。

 さっきの受け答えと、今の様子、表情や仕草などは、とてもではないが狂気に陥っているとは思えないほどに『いつも通り』のクティーラだった。『クー』と名乗っていた、記憶を取り戻す前の様子と何ら変わりはなかった。

「おヌシもすでに理解しておるじゃろ。おヌシ等と戦い、先ほどおヌシを取りこんだ醜い姿の化け物。あれがワシの本性だ。この世界に死と破壊を招く存在がワシの正体だ。ワシは本来、そのために存在すると言っても過言ではない。ワシも夢で幾度となくこの景色を見せられ、おおよそ察しはついておったのじゃよ」

 クティーラの喋り方はあまりにも『普通』だった。

 しかし、本来ならそれはありえない。

 今のクティーラは狂気に犯されているはずなだ。

 理性を失い、思考が停止し、自分の意思で自分をコントロールできない状態にあるはずなのだ。

「じゃからワシはおヌシが『断章』を受け入れ、ワシの記憶を戻してくれると言った時、心の底では恐怖しておったのじゃ。ワシは、ワシの中にあるどす黒い本性を見つめるのが心底怖かったのじゃ」

 クティーラのその言葉に雄也の脳裏には数時間前に彼女から問いかけられた言葉を思い出した。

『……ユウヤにとって、ワシは……、今のワシは、邪魔な存在なのかのう』

『ワシはおヌシに何か危害を加えるつもりもないし、加えようとも思ってはおらん。何かお主の迷惑になるようなことをしているつもりもない。しかし……』

 雄也はクティーラがなぜこんな質問をするのか、不思議に思っていた。しかし、あの時点でおおよその察しがついていたのだとすれば、納得のいく話だった。

「何もおヌシが気に病む必要は無いぞ。ワシがおヌシの下へと召喚された時点で、遅かれ早かれこうなる運命だったのじゃよ。ワシもおヌシには済まないことをしているとは思っておるが、しかしこればかりはどうにもならん。あえて言うならば、おヌシの不幸を呪うんじゃな」

「……クティーラ、質問させろ」

「構わんよ。どうせ時間はいくらでもあるのじゃから」

 クティーラのその言葉に、空也は強い口調で答えた。

「いや、時間はない」

 精神世界と外の現実世界では、どうやら時間の進み方が違うらしいが、どのみちハワードから雄也へと提示された時間はあまりにも短いものだった。

「何故、俺を取りこんだ? 何故、俺をここへと呼んだ?」

 クティーラは、ハワードの問いへと笑みを浮かべながら答えた。

「何故取りこんだ、か。お主のことだ、大体の察しはついておるのじゃろ?」

「……弱点をなくすため、だろ」

 雄也とクティーラは命を共有している。どちらか一方の死が、もう一方の死へとつながるならば、クティーラが雄也を体内に取り込んだ理由としてはそれが一番妥当だろう。雄也が死なない状況を創り出せれば、それはクティーラにとっても弱点を克服したことになるのだから。

「ふむ。確かにそれもある。『弱点』であるおヌシを外に出しておけば命に係わるが故の、本能的な行動と言えよう。ワシとおヌシが命を共有しているということは、ワシを斃すためにお主の命を狙うのが最も効率的な方法となる。ワシが存在する限り、おヌシは常に命を狙われることになるじゃろう。あのハワードという男も何をしでかすかわからんからのう」

 クティーラの言い分は、確かに真実だろう。雄也も、そのことは十分に理解していた。そして、いくつかのことに気が付いた。

 それは、雄也を取りこんだのはクティーラの意思によるものだということ。もう一つは、クティーラは、ハワードのしようとしていることに気が付いていない、ということだ。

 ハワードはクティーラの夢に干渉し、雄也に対して『殺す』と明確に言った。しかしクティーラはそのことを知らないのだ。

「いずれおヌシも『個』としての意識を保てなくなり、ワシの意識に、ワシの夢の中へと同化する。おヌシは、ワシの中で、ワシと共に永遠の夢を見のじゃ。おヌシのことはワシが守る。ワシと共にいる限り、おヌシは決して死ぬことはない。身勝手なことだとは分かっているが、これは、ワシに出来る唯一の償いなのじゃ。」

「……それは、好意として受け取るべきなんだろうな。でもな、クティーラ、それを本当に生きていると言えるのか? 死ぬこと無く、永遠の夢を見続ける。そんなものを人生と呼べるのか?」

 雄也の問いかけに、クティーラは即座に答えた。

「呼べるぞ」

 どこまでも、自身に満ちた答えだった。

「ワシにとっての今までの人生は、まさにそれじゃからの。ただ一人、暗闇の中で永劫の時を過ごす。確かにそれはひどく退屈なことかもしれん。だが雄也よ、案ずることはないぞ。お主は独りではない。ワシが常にそばにいる。それに、夢は自在に形を変えられるのじゃから、お主の望む世界に変えることが出来る」

「俺は、そんなことは望んでない。夢の中で永遠に仮初の人生を生きることなど、俺は望まない」

「何故じゃ、何故受け入れんのじゃ。ワシは雄也のことを……」

「そこまでに考えることが出来るのなら、何故、『外』のお前はあんなことをしている? お前が元に戻りさえすれば、こんなことをする必要は無いんじゃないのか?」

 雄也の言葉に対して、クティーラは首を横に振った。

「『外』のワシは狂気に犯されてなどいない。あれは言うなれば、お主と出会う前のワシじゃ。お主とであった記憶の欠落によって形成されたワシの人格、つまりは今ここにおるワシは、本来のワシの人格にとってはほんのわずかな要素でしかない。今はこうして理性の人格であるワシを切り離し深層意識から辛うじて押さえ込んでいる状態なのじゃ」

「……待て、なぜわざわざ理性の人格を切り離したんだ? そんなことをすれば暴走するにきまっているだろ」

「逆じゃよ。今『外』にいるワシの人格に完全に融合すれば、理性を司る部分など完全に取り込まれ消滅してしまうにきまっておる。……雄也、分かってくれ。ワシはもう、『クー』に戻ることなど出来ないのじゃ。おヌシだってワシの本性を知っておるはずじゃよ。壊し、殺し、滅ぼし、恐れられ、忌み嫌われ、そして崇められ……。そんな『邪神』と呼ばれる存在であるが故の『クティーラ』なのじゃよ。ワシはそれしか知らんのじゃ。そうすることしか、そう振舞うことしか、そう行動することしか知らんのじゃ」

 夢を通じて幾度となく無てきた光景。

 あるいは、クティーラを召喚した時に現れたイメージ。

 そして、今『外』にいるクティーラの姿と行動。

 それは、雄也にクティーラの残酷さや凶暴性を示すには十分すぎる要素だった。

 『邪神』というものが本来いかなる存在なのかを、雄也が理解する為には十分すぎる情報量だった。

「でも」

 雄也は反論する。

 なぜなら雄也は知っていたからだ。

「それはお前の一部でしかない。たった二日だけだったとしても、それは俺にとってクティーラが他人を思いやり理性で行動できるほどに人間的であるということを知っている」

「……それは、……それは所詮仮初の私じゃ。記憶の欠落によって疑似的に作り出された虚像に過ぎんのじゃ」

「だが、それもお前の一部だ。闘争の衝動と、その膨大な力を押さえるだけの覚悟があれば……」

「出来ぬ言っておるじゃろ!」

 クティーラが叫んだ。

「闘争に支配された本性を制御など出来るわけがない。あの膨大な力を制御することなど出来はしないのじゃ。そのことは、他ならぬワシが一番よく知っておる。確かに、おヌシと共に過ごした二日間はワシの一部じゃ。じゃがな、それは所詮ワシの今までの記憶の中では砂粒ほどの存在でしかない。今に至るまでにワシを形成してきた記憶にとっては取るに足らない存在でしかないのじゃ」

「だからって、何もしないで諦めることはないだろ。なぜ試す前から諦める? 何故、自分自身と向き会おうとしない?」

「おヌシは何もわかっておらんのじゃ。何故試さぬか、じゃと? そんなこと明白じゃろ。よいか、雄也よ。試す、試さぬ、出来る、出来ぬ、そんなことを言えるはずがないのじゃよ。ワシという存在は、この世界を滅ぼすために存在している。そのために存在している限り、そうしなければならないんじゃ。ワシがワシであるということ、おヌシがおヌシであるということ。あらゆる存在は、その存在意義によって行動を規定されておる。その行動を外れることなど出来ない。すべての記憶を取り戻した今、ワシはこの世界を滅ぼすための存在として、世界そのものに規定されたのじゃ。いかに抗おうと、いかに否定しようと、その本質を変えることなど出来はしないんじゃ!」

 自身が『邪神』という存在であるということを理解してしまった以上、そこから逃れることは出来ず、『邪神』として振舞わなければならない。

 故に、力を制御することは出来ない。この世界を滅ぼさなければならない。

 それがクティーラの言い分だった。

 それでもなお、それを理解した上で、雄也は、クティーラへと向けて叫んだ。

「お前はお前だ。どんな姿であろうとも、どんな力を持っていようとそれが変わることは決してない。『邪神』だから世界を滅ぼさなきゃならないだと? ふざけるなよ! それは、お前がそう思い込んでいるに過ぎないことだろ!」

「……っ! 黙れ、安い希望など与えてくれるな! もう一度言うぞ、最早闘争に支配されたワシの本性を制御することなど、あの膨大な力を制御することなど出来ないのじゃ。そんなことをすれば、この僅かな理性すらも取り込まれてしまう。最早わかりきったことなのじゃよ! 方法などないのじゃ。今のワシが『正気』に戻ることなど! 今のワシを『正気』に戻す方法など……」

「いいかクティーラ。これだけは言っておく。どう行動し、どう生き、何を考えるかは、お前がお前自身で決めることだ」

 雄也の中でクティーラの言葉がフラッシュバックする。

『なあに、安心せい。ワシが『何者』であったとて、おヌシを裏切ったりなどせんよ。そのことは心の底から約束しよう。例えどれほどの力があろうとも世界を滅ぼしたりなどせぬし、おヌシを殺したりもせぬ。だから安心せい』

 出会った最初の日、戦いの終わった夕焼けの中、クティーラは雄也にそう言った。

「俺は、お前に嘘をつかせない」

 そう言いながら雄也は右手で空中に星形のようなものを描いた。

 それは『旧神の印』と呼ばれる印。

 手順を踏めば『邪神』の『封印』、簡易的なものでは『拒絶』を表す『旧神』達が人類に与えた『邪神』への対抗策。

 雄也はそれを、『クティーラの精神世界』からの『拒絶』という意味を込めて描いた。

「ユ、ユウヤ! おヌシ、何をする気じゃ!」

 『旧神の印』が光を放つ。

 その閃光に雄也の姿が飲まれていく。

「俺は先に『帰らせて』もらうぜ。お前も、すぐに連れ戻す。この悪夢から目覚めさせてやるよ!」

 

 ×××

 

「そろそろ時間か」

 クティーラと対峙していたハワードが呟いた。

「解決策は出ず、か。不本意ではあるが、やるしかないな」

 ハワードは刀をクティーラの方へと向けて構える。その直後、刀の前方に巨大な魔方陣が展開された。

「今のクティーラは確かにそこそこの高さの攻撃力と、強力な再生能力を有している。だが、防御能力に関しては低い。少なくとも、霊気を込めた刀で腕を容易く切断できる程度のものだ。ありったけの霊気を込めた砲撃でまず腹部を吹き飛ばし、再生するよりも早くその中にいる雄也を、……切る」

 刀を握る手に力がこもる。

 展開された魔方陣へと、周囲の霊気が集まっていく。

 だがクティーラも、ハワードの攻撃をただ待っているということはない。

 クティーラが、ハワードへと向けて勢いよく拳を突き出した。ハワードはクティーラへと距離をとっているため、その拳が当たることはない。だが、クティーラの狙いはただの拳打ではない。突き出された腕は、その直後、解けるように無数の触手へと変化し、一気に伸びるとそのままハワードへと襲い来る。

「嘗めるなっ!」

 ハワードは構えを崩さずに、横移動だけで触手を回避。

 だが、それだけではクティーラの攻撃は終わらない。避けられた触手を反転させ、ハワードを背後から貫こうとする。

 ハワードは即座にこれに対応。

 最小限の体制移動だけで背後からの攻撃を回避すると、構えを片手に変え、左手をクティーラの腕、触手の発生点へと向ける。左手の先にも魔方陣が展開され、即座にそこから光線が放たれる。

 閃光。

「――――ッ!」

 触手が根元から切断され、クティーラが叫び声を上げる。

(今だっ!)

 雄也を取りこんでいるということは、今のクティーラの弱点は、取りこんだ雄也のいる腹部である。単純に考えれば、そこが最も防御の堅い場所であるはずだ。

 霊気の光線による一撃でその防御を抜き、再生に使わせる時間を最も短くさせるには、接近というリスクを犯す必要がある。理想となるのはゼロ距離射撃。そのためには、クティーラがハワードへと迎撃を行えないようなタイミングで接近する必要がある。

 それが今だった。

 その隙をハワードは逃さない。

 刀を構え、クティーラへと向かって素早くその一歩を踏み出そうとしたその時、不意に、ハワードは動きを止めた。

「――、――、――ッ? ――――ッ!」

 クティーラの叫び声が、明らかに今までと違うものとなったのだ。

 何かに戸惑っているような、あるいは驚いているような、そんなことを感じさせるような叫び声だった。

「……何が、いったい何が起こっているというのだ」

「――、――、――ッ――ッ!」

 クティーラが、腹部を抱えて呻く。

 直後、腹部が裂け、雄也が勢いよく『吐き出された』。

「……在り得ん、まさか、こんなことが……」

 ハワードは、吐き出され無抵抗のまま一五メートル近くの距離を転がり、自分の足元で止まった雄也を見下ろしながら、そう呟いた。

 ハワードにとって、今目の前で繰り広げられた光景は全く想定していなかったものだった。

 雄也が自力で抜け出してくるなど、想像もしていなかったのだ。

 雄也が、ゆっくりと起ちあがった。

 もしこの場でハワードが、展開した魔方陣の霊力を解放すれば。いや、そんなことをせずとも、構えている刀をただ突き出すだけで、雄也の命を絶つことが出来る。

 それが、今まさにハワードのやろうとしていたことであり、そうすることによって、『勝利』がもたらされる、はずなのだ。

 だが、ハワードにはそれが出来なかった。

 理屈など分からない。しかし、クティーラが苦痛に満ちた叫び声を上げたその瞬間から、ハワードは動くことが出来なかった。

「雄也、君は――」

 ハワードは、絞り出すようにして、目の前の男、今まさに、自分が殺そうとしていた人物、新上雄也へと向けて言葉を発した。

 雄也は、それに応じなかった。

 まるでハワードの声など聞こえていないかのように、まるでその場にハワードなどいないかのように、ゆっくりとクティーラの方へと向けて歩を進めた。

 そして、雄也が呟いた。

「クティーラ、今、そこに行くぞ」

 クティーラと雄也との距離はおよそ一五メートル。

 その距離を詰めようと空也がさらに一歩踏み出した時、クティーラが咆哮と共に無数の触手を展開し、そこから雄也へと向けて光線を放った。

 雄也はそれに対して、一歩も動かなかった。

 雄也の姿が閃光に飲まれ、霊気の余波が周囲の空気と共に砂埃を巻き上げる。

 砂埃が晴れ、雄也が姿を現す。

 光線の直撃を受けたにもかかわらず、雄也は怪我一つしていなかった。否、光線は雄也へ当たっていなかった。

「『ポセイドンの書』の知識の応用による魔術だ。まさか見よう見まねでここまで上手くいくなんて思ってなかったけどな」

 雄也は静かにそう呟く。

「こりゃ確かにスゲーな。霊力を再構築し虚空から水を創り出す。そしてそれを自在に操作する『水流操作』。冷静に考えるまでもなく、とんでもない高等技術だよ」

 雄也の周囲には、水の塊によって作り出された『盾』がいくつも浮いていた。

 雄也は、クティーラの放った光線が命中する直前に、『盾』を創り出し、それによって攻撃を防いだのだ。

 「行けっ!」

 雄也のその掛け声とともに、『盾』が球形の『弾丸』へと姿を変え、クティーラへと向かって一斉に放たれた。

 しかし、クティーラへは当たらない。

 クティーラは触手を自在に操り、『弾丸』を撃ち落したのだ。

 だが、雄也にとってもこの攻撃は本命ではない。触手によって自分が攻撃を受けないようにするための陽動なのだ。

 クティーラへが『弾丸』の迎撃を行っているその隙に雄也は一気に間合いを詰める。

 前進。

 大地を蹴り、クティーラへと近づいていく。

 距離、残り約五メートル。

 そこまで近づいたとき、雄也が足を止めなければならなくなった。目に見えない、壁のようなものに阻まれ、先へと進むことが出来なくなったのだ。

 それは、クティーラが霊力によって作り出した障壁だった。

「こんなもので!」

 雄也は叫びながら、両手の拳を障壁へと叩きつける。

 障壁はびくともしない。

 そもそも『邪神』の作り出した障壁に対して、ただ拳を叩きつけるだけで突破できるなどということはありえないのだ。今のクティーラなら、例えこの場に核ミサイルを投下したとしても傷一つつけることは出来ない。

 それほどの防御力を誇る障壁なのだ。

 だが雄也には、これを突破することが出来る。

 触れた僅かな感触、周囲の霊気の変動、それらと『ポセイドンの書』の知識をフルに使って障壁を解析する。

 そもそも、クティーラの使う術は、その総てが『ポセイドンの書』に記されている。クティーラの知識の内、彼女が行動として周囲に示したことは、そのほとんどが記録として書き留められている。

 雄也にとってはクティーラの手の内は全てわかっているのだ。

 術の中には、先ほどの『盾』や『弾丸』のように、雄也自身が使うことの出来る者も存在する。

 それが出来なくとも、解析し、打ち破ることなどは容易にできるのだ。

 突破。

 拳を叩きつけたカ所から、ガラスにひびが入るようにして障壁が壊れていく。

 雄也が障壁に両拳を叩きつけてから数秒で圧倒的防御能力を誇るクティーラの障壁が破壊された。

 雄也はそのまま歩を進める。

 距離、残り約三メートル。

「――――――ッ!」

 咆哮と共にクティーラの触手が鞭のように襲い来る。

「くっ」

 雄也はとっさに回避を試みるが、間に合わない。触手の攻撃を受け、再び後方へと吹き飛ばされる。

 距離、残り約十五メートル。

 詰めたはずの距離が、再び離される。

「まだだ、まだこの程度でっ!」

 雄也は立ち上がる。

 いくら呪印による強化があるとはいえ、所詮は生身の人間なのだ。攻撃を受ければ痛いし、怪我もする。体力も無尽蔵というわけではない。

 しかし、それでも雄也は立ち上がった。

 クティーラを救う為に。

「――――ッ!」

 咆哮と共に再びクティーラが無数の触手を伸ばす。そのどれもが雄也の方を向き、全ての触手の先端に霊気が集まっていく。

 閃光。

 無数の触手の先端からクティーラの霊力による光線が放たれる。

 雄也は再び水の『盾』を展開し防御を試みた。

 無数の『盾』を展開しながら、攻撃される場所を先読みし『盾』によって光線を防御していく。だが不利に変わりはない。雄也の展開する『盾』では防御能力が低く、光線の一撃で霧散してしまう。そのため相殺するのがやっとなのだ。

 雄也は次々と無数の『盾』を展開し、攻撃を相殺する。しかし、それも長くは続かない。

 術を行使するためには、周囲の霊気を体内に一度取り込み、それを自分が使いやすい霊力へと変換するという呼吸にも似たプロセスが必要となる。体に取り込み変換する霊気の量や回数が増えれば、当然体に負担がかかる。無数の『盾』を生み出しているこの状況は、まさに、大量の霊気を何度も変換する必要がある場面だった。その上、クティーラの攻撃位置を瞬時に把握することが求められる。

 雄也にとっては膨大な負担を強いられることとなり、長続きするはずがない。

「――っ! ちいっ」

 雄也の防御が突破された。

 相殺しきれなかった光線が雄也に命中し、その後立て続けに何発もの光線が雄也を直撃する。

「……………………まだだ」

 雄也は倒れなかった。

 常人ならば一撃で消し跳ぶ威力。呪印による身体強化などを含めても、まず立っていられる筈がないだけの攻撃を受けながらも、雄也は倒れなかった。

「……弱いんだよ、効かねーぞ、そんな攻撃」

 クティーラを助けたいという強い意志。

 絶対に助けられるという自信。

 あるいは、ただこの場で『負け』たくないという思い。

 気合と言ってしまえばそれだけの、しかし、何かを為し得るためには絶対不可欠の要素によって、雄也は意識を保ち、クティーラの姿を見据え、立ち続ける。

「お前は言ったよな、世界を滅ぼすって。だが現実はどうだ? お前は、目の前に立ちはだかる人間一人殺せやしねーんだ。この程度で、こんな攻撃で世界を滅ぼすだのなんだのとでかい口を叩いてんじゃねーよ! 聞いてるかクティーラ! 制御できねーとか、存在がどうとか、自分の在り方がどうとか、そんな下らねーことで悩んでんじゃねーぞ。テメーの在り方はテメーで決めろ。自分が何者かは、自分で決めろ。それでもまだ永遠の眠りがどうとか寝言見てーなことをほざきやがるなら、今からぶん殴って醒まさせてやる!」

 その言葉を今のクティーラが理解できたかどうかは雄也にはわからない。

 理解することが出来たなら、クティーラにはきちんと理性があり、助けることは容易い。

 理解することが出来ていなければ、その宣言通りぶん殴って目を覚まさせる。

 どちらにしても、雄也がとる行動は一つだった。

「――――――――ッ!」

 クティーラの怒りをあらわにしたような咆哮が響く。

「……そうか、やっぱりな……。それでいいぜ、それでいいんだ」

 雄也が小さく呟く。

 その声には、何か確信めいたものが含まれていた。

「さあ、――――行くぜっ!」

 雄也はそう叫ぶと拳を握り、クティーラへと向けて真正面から突っ込んだ。

 大地を蹴り、目の前を見据え、ぼろぼろの体を、最後の気力を振り絞り駆動させる。

 呪印の能力を最大限にする。周囲に霊気を体内に取り込み、爆発的に開放する、いわばドーピングのような方法。骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げ、その代償に身体能力が数倍に跳ね上がる。

 それに並行させ『ポセイドンの書』の力をフル稼働させた。クティーラの一挙手一投足に合わせてそれを突破するために最も必要な情報が示される。毎秒数十ページ分、それを読み解けるだけの思考速度へと変化する。

 高速化する雄也の思考の中で、全ての事象がスローモーションへと変化する。

 左手は前へと突出し『盾』を展開、右手の拳は固く握り、真後ろへと振りかぶった。

 そして、永遠にも思える一瞬の中を雄也は全力で走りだす。

 距離、残り約十四メートル。

 クティーラが展開した無数の触手から雄也へと向けて光線を放った。

 雄也は光線の軌道を予測。防御、回避、防御、防御、防御、前進、防御、防御、攻撃に耐えきれなくなった『盾』が破壊される、構わず前進、回避、回避、回避、回避、前進、回避、回避、回避――――――…………。

 被弾。

 激痛。

 左の肩に熱された鉄を押し付けられたような痛みが走る、さらに被弾、被弾、回避、被弾、前進、被弾、被弾、被弾、回避、被弾、被弾、被弾、被弾、被弾、被弾、被弾、被弾、被弾、被弾、被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾被弾………………、『盾』を失った雄也を、無数の触手から放たれた光線が焼く。

 だが倒れない。

 クティーラの姿を見据えながら、走る。

 大地を蹴り前進する。

 攻撃を受けながらも強引に弾幕の中を突き抜ける。

 距離、残り約九メートル。

 触手からの光線が突然止んだ。

 クティーラが両手を伸ばし、その手の間に膨大な量の霊気が収束していく。恐らくはこれがクティーラの切り札。

 必殺の威力を秘めた砲撃。

 距離、残り約八メートル。

 直径およそ五メートの霊力の集合体が禍々しい光を放ちながら周囲の霊気を吸収し、膨張と圧縮を絶えず繰り返す。

「うおおおおお――――っ!」

 叫び声を上げながら、雄也が奔る。

 あと一歩の踏み出す勇気。それさえあれば『世界』は変わる。変えられる。

 雄也はそのことをクティーラから教えられた。

 信じていた価値観なんて、揺るがないと思っていた日常なんて、ほんの些細な、ちょっとした偶然で変わってしまう。

 『ポセイドンの書』を手に入れたこと、クティーラが現れたこと、それが誰の差し金なのか、そんなことまでは雄也にはわからない。だが、今の雄也にとって、そんなことは些細な問題だった。

 クティーラが現れたあの日、クティーラのために記憶を取り戻す手伝いをすると約束したあの瞬間、雄也の中で、確かに『何か』が変わった。それが『何』なのかは雄也にもよくわからない。

 だがあの時雄也は、初めて明確な誰かのために、退魔師としての力を使うことを決めた。自分がクティーラの役に立てること、その最大の理由である退魔師としての『力』に初めて感謝した。今まで疎ましくすら思っていた『力』が、たったそれだけのことで誇らしいものへと変化したのだ。何となく過ごしていた、特異でありながらも平凡な日常に、初めて明確な目標が生まれたのだ。

 クティーラと出会ったという、ただそれだけのことで。

 きっかけさえあればいい。

 どんな些細なことでもいい。

 それはクティーラも同じだと、雄也はそう思った。

 存在理由に縛られ、自分の思いを心の奥底におしこめ、変わるはずがないと諦め、自分の運命に絶望し、それすらも忘れ、全てを壊し……。

 それが、クティーラの心から望んでいることなら構わない。その時は全力を尽くしてクティーラを叩き潰す。しかし、それをクティーラが望んでないのなら、それでクティーラが苦しみ、悲しむのなら、そんなことがあってはいけない。それが雄也の思いだった。

 それは確かに偽善かもしれない。

 独善かもしれない。

 ただ己のエゴを押し付けているだけなのかもしれない。

 だがそうであったとしても、雄也はあの精神世界の中で、クティーラが悲しんでいるのをしっかりと感じ取った。苦しんでいるのを理解した。知ったうえでそれを放置することなど、今の雄也には出来なかった。

 距離、残り約五メートル。

「俺にはこれしか思いつかなかった。俺に出来ることはこれだけだった。愚かだろうさ、笑いたければ笑え、でもな、俺は信じている! お前の言葉を!」

 だからこそ、雄也は今、行動する。

 握りしめた拳へとさらに力が加わる。爪が掌へと食い込み血が滲む。

 かまうものか。

 前進、前進、前進、前進――――ッ!

 目の前には球形の霊力の収束体。その先にはクティーラの姿。

 踏み出す。

 その一歩が、運命を変えると信じている。

 変えられると知っている。

「終わらせる、お前の悪夢をっ!」

 自分には、それが出来ると信じている。

「アアアアアアアアアアァァァァァァァァァァ――――――ッッッ!」

 クティーラの咆哮。

 それと同時に、収束し圧縮された霊力が解放され雄也へと迫る。

 町一つ、否、国一つを消し飛ばしてもおつりがくるほどの莫大な威力。

 かつて、人類有史以前の超越的存在同士の戦争において、大地の形を変え、無数の命を奪ってきた霊力砲が雄也へと向けて放たれる。無論、直撃を受けて形を保てる生命体などいる筈がない。

 しかし、雄也はそれに対して正面から突っ込む。

 そして反射的に右の拳を突き出した。

 すべての思いを乗せた渾身の拳。それが、今の雄也に出せる最大限の威力を伴って、クティーラの放った霊力砲とぶつかり合う。

 光。

 視界が閃光に包まれる。

 突き出した右腕が、全身が、新上雄也の全てが、光の中に飲みこまれていく。

 轟音が響く。

 痛みはない。

 意識が遠のく。

 ………………。

「ユウヤアアアアアァァァァァ――――」

 誰かの声が聞こえる。

 悲痛な叫び声が。

 視界いっぱいに光が広がっていく。

「……クティーラ――――」

 その光の先に、雄也はクティーラの姿を幻視した。

 緑の髪の少女の姿を。


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