第三章 変容 三
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「さて、どうしたものか」
ハワードは独りクティーラと対峙していた。
限界まで距離をとり、盾として出現させた魔方陣をクティーラへと向けながら、あくまでも生存を優先として行動する。しかし、その顔は僅かに苦痛に歪んでいた。
(……こうなることは予測していたが、さすがに結界の維持が限界に近いな)
クティーラの攻撃自体は、防御なり回避なりの対抗によって一発も受けてはいない。しかし、その回避した攻撃は結界へと当たる。結界の強度自体は絶対的なものだが、結界へのダメージはその制御者へも苦痛を与える。結界の展開からすでに二十分近くが経過しようとしているが、ハワードの体力はすでに限界を迎えようとしていた。
そもそもハワードは、直接的な戦闘というものを得意としていない。
対『邪神』特化退魔師組織『アーカム・ハウス』においても、純粋な戦闘能力で言うのであればハワードを上回る実力者は数多くいる。
それでもなお、彼が組織のリーダーとして推薦され慕われているのには、確固とした理由があった。
それは彼が『邪神』に対抗するための『総合的な能力』において優れているためだ。
『死霊秘法』という最強の魔導書と契約を結んだことによって得た知識と、先天的な魔術の才能、そして目的のために手段を選ばない合理性。
時に正面から、時には搦め手で、最も効率的な方法で作戦を成功させる。
そんなハワードにとってセオリーともいえる戦術がある。それは、何らかの制約を設け弱体化した『邪神』を一旦何らかの方法で召喚し、再び封印することによって、二度とその『邪神』の力を悪用されないようにする、というものだ。
クティーラに対しても、ほぼ同様のことを行うつもりでいた。
記憶を取り戻した時点でクティーラが暴走しなければ、力に制約を設ける『呪い』を与え、その後の暴走や悪用を防ぐ。もし仮にクティーラが暴走した場合は、雄也からの霊気の供給を強制的に停止させ、クティーラを弱体化させつつ斃か封印する。それがハワードの作戦だった。
「そもそも、なぜ『偶然』私がここに現れたのか。それに対して彼が疑問を抱かなかったのは幸いだったな。もっとも、疑問を抱くなどという余裕がある状況ではなかったようだが」
他にもある。
何故、禁断の知識をここまで容易く教えたのか。
何故、それほど重大なことの決断に猶予を与えなかったのか。
何故、ほとんど見ず知らずの相手にこれほどの『親切』を行ったのか……。
偶然などでは無い。
全てはハワードにとって計算の上のことだった。
そもそもハワードは、ニャルラトホテプがこの事件に絡んでおり、彼が『邪神』を呼び出そうとしていることは事前にわかっていた。
ニャルラトホテプがなぜそんなことをしようとしているのかまではハワードにも判らない。しかし、彼の狙いが何であれ、これはハワードにとっては好機だった。
その計画を利用し、呼び出した『邪神』の能力を奪うことで、これ以降その『邪神』の力が使われることがないようにする。
それがハワードの狙いだった。
『死霊秘法』の知識を掌握しているハワードが、クティーラのことを知らないはずがない。ハワードは、最初に『クー』と出会った時点で彼女のおおよその正体を見抜いていたのだ。
見抜いたうえで、あえて計画を実行に移したのだ。
ただ、ある一点を除いては。
それは、クティーラの召喚を行う魔方陣にニャルラトホテプの施した細工だった。
それによって、ハワードの考えていたいくつかの『平和的な方法』は実行不可能となってしまった。もとより雄也とは赤の他人であり、ニャルラトホテプが行動を起こしていたとはいえ、ハワードが一方的に状況をややこしくしたと言っても過言ではないのだ。
ハワードとしても、雄也の命を奪うようなことはしたくない。しかし、一方でそれは現状、最も効果的で効率的な方法なのだ。
雄也を殺せばクティーラも死にこそしないもの、大幅に力を削られ、数千年単位での休眠が必要となるだろう。雄也と命を共有している今のクティーラにとっては、雄也こそが唯一の弱点と言ってもいい。
このままクティーラを野放しにすれば、いずれ何千何万という命を奪う厄災となる。だが、今雄也一人の犠牲でその未来が、この世界が救える。ハワードも、そのことは十分に理解できていた。
人類の敵である『邪神』をただ一人の命のために野放しにすることが、ひどく愚かなことであるとハワードは認識していた。
「合理的に考えれば、取るべき行動は一つ、か」
刀を握る手に加わる力が強くなる。
『邪神』相手に今更説得など無意味だろう。それは、『死霊秘法』によって、あらゆる超越的存在に関する知識を得たハワードの回答だった。
力はもとより、外見、思考、生態、価値観、ありとあらゆるもの人類と異にする超越的存在の中にあって、さらに、その本質が人類にとって害悪であるものが『邪神』と呼ばれる存在だ。理解することが出来ない邪なる存在であるが故の『邪神』なのだ。




