第二章 ポセイドンの書 三
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「――……うぅっ」
弱々しい呻き声を漏らしながら、雄也は眼を開けた。
「どうやら目を覚ましたようだね」
雄也は声のする方へと視線を向けた。そこには季節外れのコートを身に纏い、右手には杖を持った面長の外国人男性、ハワードの姿があった。
「ハワード……さん、……俺は、一体……」
雄也はハワードから差し出された手を握ると、何とか立ち上がった。
「雄也君、まずは、おめでとう、とだけ言っておこう。君は見事に『死霊秘法』の知識に耐え抜いた。完全となった『ポセイドンの書』は、君のことを真に所有者たりえると認めたようだ」
「……そう、ですか」
雄也は腕時計へと視線を落とした。
『断章』を授けられてから記憶を失っていたのは、どうやら僅か数分のことらしい。しかし、今の雄也は、まるで数十年の眠りから覚めたような、そんな奇妙な感覚に襲われていた。
何か夢を見ていたような気がしたが、しかし、そのことを鮮明に思い出すことは出来なかった。
雄也は視線を腕時計から、ハワードの背後へと移した。
「っ! クーっ!」
そこには地面に倒れたクーの姿があった。
駆け寄ろうとする雄也を、ハワードが制した。
「落ち着きたまえ雄也君。彼女も、君同様にすぐに目を覚ます」
ハワードのその言葉の直後、倒れていたクーが、ゆっくりと起き上がった。
「…………い……した……」
クーが何かを小さく呟いた。
「思い出した……」
クーは、確かのそう言った。そして、その言葉を聞いたハワードが振り返る。それとほぼ同時に雄也が口を開いた。
「思い出したって、クー、もしかして記憶が――」
雄也の言葉にクーは、どこか力無く頷いた。
「……うむ、全てを、思い出すことが出来た。……ワシの記憶。……ワシが、何者であるかを。……その、……全てを、……思い出すことが出来た」
クーはそこまで言うと、息を大きく吸い込み、雄也とハワードの方を向いて宣言した。
「我が名は『クティーラ』。外なる神の一柱にして、大いなる神『クトゥルフ』の娘なり」
×××
「……まさかとは思っていたが、本当に、こんなことが……奴め、いったい何を……」
クーの、いや『クティーラ』の言葉に対して、まず真っ先に反応したのはハワードだった。そして彼の発した言葉は、動揺と驚愕に彩られていた。
「ハワードさん? いったい何を――」
「雄也君、今の君にならばわかる筈だ。いや、『知って』いる筈だ」
ハワードのその言葉を受け、『クティーラ』という言葉を強く意識した瞬間、雄也の脳内にいくつもの情報が駆け巡った。
(っ! これが魔導書の、『ポセイドンの書』が持つ本来の力か! なら……っ!)
確かに、雄也は『記憶』していた。『クティーラ』という名の存在を。それが、世界を滅ぼすだけの力を持った『邪神』であるということを。
「嘘、だろ……」
雄也が『知って』いる『クー』と『クティーラ』はまるで違うイメージを持っていた。少なくとも雄也は『クー』のことを『醜悪な悪魔的存在』などと思ったことなどなかったし、『様々な水棲生物をもっとも醜悪な形に合成した存在』などのようには見えなかった。『やがて蘇り人類を破滅へと追いやる存在』などとはとても思えなかったし、『大いなるクトゥルフ復活の鍵となる存在』であるなどとはとても信じられなかった。
しかし、それらは揺るぎようのない真実だった。
『ポセイドンの書』に記された知識は、『クー』と『クティーラ』を問答無用で同一の存在として結びつけた。
そう。
雄也は理解してしまったのだ。
知ってしまったのだ。
もう二度と、この現実から後戻りすることも、目を背けることも出来ないのだ。
クーが、『クティーラ』が、人類にとって害悪となる最悪の『邪神』であるということを
認めなければならなかった。
「クックックックック、アッハッハッハッハッハハハハハハハハハハハハハ――――――」
突如、公園に場違いな笑い声と拍手の音が響き渡った。
笑い声は公園の外から聞こえ、階段を登りながら徐々に近づいてくる。
雄也とハワードは、思わずクティーラから目を逸らし後ろを振り返ると、公園の出入り口の方を見つめた。
階段を登り、笑い声をあげ、手を叩きながら公園へと入ってきたのは一人の男だった。
痩せこけた頬、浅黒い肌、銀色の長髪、あちこちに金具や装飾が付けられた黒い服、そして毒蛇のような狡猾そうな瞳をもった、長身痩躯の優男。
とても可笑しそうに、冒しそうに、犯しそうに笑う、道化じみた黒い男。
その男を見た瞬間、雄也は全身が泡立つような恐怖を感じた。
雄也はこの男を『知って』いた。
『断章』によって知識を補われるよりも前に、夢の中でこの男に会っていた。そして、その時、確かに雄也はある種の本能的な恐怖を感じた。その時感じた恐怖が、再び雄也の中に蘇る。
(……危険だ。こいつは危険だ。こいつは、あらゆる厄災の元凶だ!)
今の雄也には『断章』によって補われた『ポセイドンの書』の知識がある。その知識が、この黒衣の男を何者であるかを断定する。無貌の王、スフィンクス、暗黒の男、預言者、神父……。無数のイメージが雄也の中に流れ込む。しかし、それも無意味なことだ。この黒衣の男にとっては、外見など全く意味を持たない。邪悪で混沌とした詐欺師的な道化。そんな存在であるということがこの黒衣の男の本質であり、いかなる姿をしているかは重要ではない。
ただ唯一、この男を表す確かな名前。禁忌なる『邪神』の一柱、原初なるスフィンクス、這い寄る混沌、嘲笑する者……。
「……ニャルラトホテプ」
雄也がその名前を呟くよりも早くハワードが動いた。現れた黒衣の男へと向かって、全速力で走り出す。
「貴様あああぁぁぁ――――っ!」
先ほどまでの温厚そうなイメージとはかけ離れた叫び声を上げながら、杖を手に持ち黒衣の男へと突貫する。いや、正確には杖ではない。
杖に偽装した仕込み刀だ。
抜刀し、鞘を左手で握りながら、右手に握った刀を黒衣の男へと向かって、一切の迷いなく振り下ろす。
黒衣の男は笑みを浮かべたままその場を動かない。
ハワードの振り下ろした刀は、黒衣の男には当たらなかった。
黒衣の男の周囲に発生した霊力の障壁によって斬撃が防がれたのだ。
全身に力を込め、さらに踏み込みながらハワードが吼えた。
「見つけたぞ、ニャルラトホテプっ! 貴様の仕業かっ!」
対する黒衣の男、ニャルラトホテプは笑みを浮かべながらそれに応じる。
「お久しぶりですね、ハワード・カーター。しかし、久しぶりの再会だというのに何とも酷い扱いです。何でもかんでも私のせいにすればいいというものでもないでしょうに」
そう言って一度顔を伏せた直後、より一層邪悪な満面の笑みを浮かべながら、口を三日月のように開き、とても楽しそうな声で言った。
「まあしかし、私のせいであるというのは、間違いではないのですけどね」
「やはり貴様がっ!」
ハワードの持つ刀の刀身が輝きを放ち、ニャルラトホテプの作り出した障壁を貫通する。直後、ニャルラトホテプがニヤリと笑い右手をハワードの方へと突き出した。
「――っ!」
ハワードがとっさに左手に逆手で持っていた鞘をニャルラトホテプの方へと向けた。
次の瞬間、ニャルラトホテプの右手から禍々しい光を帯びた霊力の光線が放たれ、ハワードはそれを左手の鞘で防御した。
空間を震わすかのような衝撃と爆音が響く。
吹き飛ばされたハワードは、雄也の隣へと器用に着地した。
「ハ、ハワードさん、いったい何が、それにあいつは――」
雄也の問いに対して、ハワードは静かに答えた。
「君が言った通りだ。奴の名はニャルラトホテプ。私が日本に来た理由の内一つは個人的なものだと言ったね。私が追跡しているある人物、魔術絡みで因縁のある相手と言ったが、それがこいつだ」
そう言うとハワードはニャルラトホテプの方を睨みつけた。
ニャルラトホテプは、雄也とハワードの方へゆっくりと近づいてくる。
「クックック、久しぶりの再会だというのに、ずいぶんなご挨拶じゃないですか。ハワード・カーター、それに、お久しぶりですね、新上雄也。君とも初対面ではないはずですよ。どうです? 私のプレゼントは」
ニャルラトホテプのその言葉に、雄也はいくつもの出来事がフラッシュバックする。
夢に出てきた黒衣の男、その男が手に持っていた書物、脳内に響くその声、『ポセイドンの書』の記述……。
「……まさか、お前が『ポセイドンの書』を――」
ニャルラトホテプの格好は、古本屋の店主が言っていた『ポセイドンの書』を売りに来た外国人の姿に一致する。そして、今聞いているこの声は、夢の中で語りかけてきた男の声と一致する。
初対面ではないというニャルラトホテプの言葉。
超越的存在は、時として夢を通じて人間とコンタクトを図ろうとするという事実。
雄也にはある程度『夢見人』としての力がある。
それらの事実が何を意味しているのか、雄也の中で、一つの答えが導き出されようとしていた。
雄也が次の言葉を口にするよりも早く、ニャルラトホテプが言葉を発した。
「その通りですよ、新上雄也。恐らくは、君の考えていることは正解ですよ。大正解です。君が『ポセイドンの書』を買うように仕向け、クティーラを呼び出させたのは、ほかでもないこの私なのです。なかなか気の利いたプレゼントでしょ? さあ、心の底から私に感謝してくださいよ」
ニャルラトホテプがそう言い終わると同時に、ハワードは再び刀をニャルラトホテプの方へと向けて構えた。
「答えろ、ニャルラトホテプ。貴様、いったい何を企んでいる」
「ハワード、君は一体何を言っているのですか? 君ほど聡明な男が、いったい何を勘違いしているのです? その質問に答える義務が、果たして今の私にあるのでしょうか? 否、ある筈がない」
「答えろ! ニャルラトホテプ!」
ハワードのその言葉と同時に、刀の先に巨大な魔方陣が展開され、そこから、大量の夜鬼を一撃で粉砕したものと同じ、黄金の光を放つ無数の光線が、ニャルラトホテプへとめがけて放たれた。
放たれた無数の光線が、ニャルラトホテプの体に命中する。
「……なかなかいい攻撃ですね」
しかし、ニャルラトホテプは、それを全く意にも介していなかった。
「私が何を企んでいるか。私が君たちに教える必要は無い。そして、それを君たちが考える必要もないのですよ」
「……何が言いたい」
ハワードはそういうと、再び刀を構え直した。それに対してニャルラトホテプは、どこかおどけたような大げさな仕草をしながら答えた。
「おお怖い怖い、さすがは『邪神』専門の退魔師を名乗るだけのことはありますね。しかし残念ながらもう遅い、手遅れです。いいですか? すでに機は熟したのです。ここからが真の本番なのですよ。……そうでしょ、クティーラ」
ニャルラトホテプのその言葉に、雄也とハワードはクティーラの方を振り返った。
「…………」
雄也とハワードの背後には、無言のまま立ち尽くすクティーラの姿があった。雄也は、そのクーがいつもとはどこか違う雰囲気であることを感じ取った。
「どうしたんだ、しっかりしろ、クー!」
雄也の背後からニャルラトホテプの声が響く。
「さあ、クティーラよ。今こそ己の使命を果たすときです!」
「……私の……私の、使命、……果たすべき、こと、……私が……――――」
そう言うとクティーラは、突然悲鳴を上げてうずくまった。




