3-1、Wonder Wanderer
日本への帰国まで残るは飛行機に乗り込むだけだったのだが、空港の出口へときびすを返した来栖天羅を待ち受けるのは倫敦夜会と、そして、『英国の番犬』だった。
<Prologue→英国パート2>
Wonder Wanderer
もう少し早ければ、キャンセル料だけですんだはずだと思いながら、飛行機のチケットを一枚無駄にし、封筒の手紙に記されていたとおりに空港からヒースロー・ターミナル駅に降りると、ちょうどロンドン行きのヒースロー・エクスプレスが到着したところだった。
流動的な人の波が騒々しい構内のど真ん中で辺りを見回す。そして、気づいた時には、約束の人物は初めからそこにいたかのように天羅の十数メートル先の正面に現れた。
長年愛用したような褐色のトレンチコートに身を包んだ男は胸に手を押し当て、軽く会釈をした。その脇には見慣れた薄い冊子が抱えられている。
どうしてもため息をつきたくなるが、夜会の人間を前にして失礼なので、サンドラさんの笑顔でも想像してよう。そこで石須の笑顔ではないことに情けなくなったが。
「先日から僕は依頼を受け付けてません。マエストロからは伝わっていませんか?」
「今回は違います。特別な依頼を伝えに参りました」
歩み寄る役員は小脇にレストランにあるようなメニューを抱えている。
「ええっと、まず、すいませんが、無駄になった飛行機のチケット代を払ってもらえるといいな、なんて。弟子上がりの風当たりは厳しいですから、僕の懐事情も困ったことになっていて。それと、すぐに終る仕事ですよね?」
自分が間の抜けたタイプだと自覚している分、言葉でカバーするが、それが今利己的な言葉であったことに天羅は、目の前の人物の固定された顔を見て、「あっ」と声を上げるように慌てさせられた。慇懃無礼な言葉にも紳士は平然と言う。
「それは貴方の腕次第です。まず報酬内容をご確認して下されば、納得して頂けるかと」
差し出された小切手を手にする。それは紫に染め上げられた羊皮紙の特別製の小切手であり、この地の夜会の報酬証明書であった。ただ、そこに書かれている金額を見て、疑いが深まる。『チケット』と書かれた横には、エコノミーでもなく、ビジネスクラス以上の金額が記されている。だが、その下に書かれている『+Present』の意図が理解出来ない。
昨日電話越しに聞いた生瀬の笑い声が脳裏をかすめる。気持ち半分すでに日本に到着してるのかもしれないと天羅は自省をした。
「それでは、まず依頼内容ですが」
と、通例を繰り返した男は冊子から依頼を読み上げようとするが、天羅はストップと言うように掌を前に出した。
「お断りします」
「失礼ですが、あのマエストロのお弟子であるのなら、この程度の依頼を断る理由がないかと思われます。それでも無理だと?」
絶対そう言うと思った。一応は師であるマエストロの面子もあるし、断れば、自らの名を下げる事につながる。へっぴり腰に仕事は来ない。という普遍の言い訳もある一方で、別の言い訳も立つのだが。
「安心して下さい。この依頼は、昔から追い出す弟子を祝しての伝統です。例え、通り名がすでにあっても、歴代の弟子達がこの儀式を経験していますよ」
線引きをしようとする天羅を役員はまくしたてた。つまりはそう言う事だった。まったく、その筋の弟子が毎年輩出されるみたいに言ってくれる。天羅は嫌々それを口にする。
「依頼主はマエストロなんですね」
「ええ。ロンドン夜会における弟子の巣立ちを祝うための伝統です。なにぶん流れ者や野良も多いこのロンドンではそうやって正式に認定する儀式が昔からあるのです。ただ、弟子を輩出される方はここ何年もいらっしゃらず、かつ通り名を持つ方を送る以上、だいぶ簡略化されます」
そんな話をいつか生前の親父から聞いた事があった。
「ここで断ってもマエストロが残念がる程度の内容ですので、問題ありませんよ。しかし、その場合、報酬は受けられません。報酬内容にあるプレゼントとは夜会からのサプライズとなります。成功の折にはご希望の品をご用意させて頂きますがいかがいたしましょう」
何かと痛いところを突かれてしまう。考える暇さえない。報酬にくらんで、とうとう二つ返事で返すしかなかった。
「報酬は、本当に何でもありなんですか?」
「はい。基本的にロンドンで入手可能なものであれば、今日明日中にそろえる事も可能です。金額や数に制限はありませんが、そこは自身を値踏みして頂ければよいかと」
夜会の権力をもってすれば、明日までにそろえるというのは可能だろう。思わず喜びの声を上げそうなものを、天羅は沈黙に徹する。
どうやら帰国するための飛行機の出発直前で依頼をうってきたのは、どうしても受けないといけない状況にするためだろう。実に夜会のノリだ。そういう突発的な嫌がらせほど誰かを思わせて不愉快になる。とはいえ、日本にいた時は親父共の金魚のふんのようにしか交渉の席には立たなかったし、親父が逝ってからは、ほぼ生瀬家に交渉役を任せきりだった。そして、ここロンドンでは、地位のない人間が動くには師の顔を借りるしかなかった。
なので、直接来る依頼には不満もない。この二年が無駄ではなかったと思いたい。それにどんな形であれ、この依頼をむげに断る大きな理由も確かにないのが自分にとって悲しい。
「飛行機のチケットはK国際空港着の直通便。便の時間は依頼の成功確認後に言います。席はビジネスクラス。差額は円で指定口座に振り込んでおいて下さい」
「はい。それでは、もう一つのプレゼントはお決まりですか?」
報酬のプレゼントはアレしかない――のだけど、それには多少の問題が懸念される。
「それなんですけど、何でもありの報酬は、今ロンドンで売り切れになっていても存在していたなら、入手できるとか。あっ、あと、日本の支店の本店がこっちにあってとか」
「言わんとしている事はわかります。こちらもお国に帰られる方の事を考えると、ロンドン限定は少々無理がありますね」
「つまりその、限定品の類は入手できるんですか?」
天羅は件のぬいぐるみについて話した。
「ああ、それは……結論を言いますと、可能と言いたいのですが、確実と言えません。日数超過や、最悪、入手不可能をご覚悟してもらわないと……」
「そう、ですね。けど、依頼が終わるまでは一応こういうものを探しておいて下さい。あった時の届け先は日本の生瀬純孝宛てでお願いします」
天羅はポケットに入れていたカタログの切れ端を手渡した。
かしこまりましたと、メニューを閉じた役員は人ごみの中に消えていった。
天羅はため息をつく。あの役員の様子ではぬいぐるみは見つからないだろう。すぐにでもサンドラさんに連絡をつけた方が望みは大きいと直感が訴える。早速、公衆電話から連絡をつけたのだった。
トランクを空港の預かり所に預けた後、空港発ロンドン行きの特急に乗ってロンドン都心部に戻る。
目的の場所は閉館まで観光客で混雑するので、ぽっかりと空いた時間を利用し、最後の倫敦でのひと時を散策しながら、そこら辺のカフェやレストランでちまちまと時間を潰して夜を待つつもりだった。
だが、その最中、出会いたくない人物に道をふさがれた。
「よお、こんな場所で会うなんて驚きだな」
今日はよく正面に人に立たれる。
実年齢は三十代前半だが、絞り込んだアスリートのようにこけた頬が彼の印象を幾ばくか年熟させると共に、自信の大きさと思慮深さを表出していた。事実、彼はやり手である。
「ハロー、警部さん」
天羅はうだるように挨拶を返す。
安コートに身を包んだ天羅が貧相な野良猫であるなら、この人は血統書つきの駿馬だろう。癖っ毛のブロンドの長髪は常に後ろ手に結ばれ、クリーニングからおろしたてたオーダーメイドスーツをびしりと決めた姿には、市警の人間という事に違和感を覚える。その笑顔は、むしろ企業の筆頭など多く人の世を渡ってきたように深みがある。引きつけられさえする顔の造形は才能の反映か。内に秘めたものを目に光らせたこの人の笑顔は一種の武器である。
「ヴィンセントでいいと言っているだろ。ところで空港の駅で人と会っていたようだが、あれは誰だ?」
「何で知ってるんですか。たまたまマエストロのお知り合いに会っただけですよ」
ふーん、とヴィンセント・カドグラファは眉をひそめて、天羅を目でなめまわした。
「夜会との取引だろ」
「はい? ヤカイ……って、ああ、新しくできたナイトクラブにそんなものがありましたっけ?」
一応通過儀礼としてとぼけてみる。互いがカードを切り始めてもいない。
「ほお。では飛行機に乗らなかったほど、その人物には何かあるみたいだな。容疑者リストをあたってみるとして、空港に預けた荷物は何だ?」
やはり、そこくらいから後をつけられていたらしい。電車の中で妙な気配が一定の距離を保っていたので注意はしていた。
「勘違いされてるみたいなんで言いますが、あの人はマエストロの知り合いです。それに、どうしても欲しかったお土産が見つからなかったので、最後まで粘ろうかと」
「……土産とは、どこかの美術館から宝でも盗んで、という隠語らしいな」
「は? 想像しすぎです。お土産ですよ? 僕は明後日に日本に帰るんです」
それでも内心では宝石という言葉に反応してしまう。
「知っている。マエストロから聞いたな。最後の大仕事と洒落こむ気だろうが」
人をコインの表裏で区分するなら、この人はコインの縁といえる稀少な類の人間。疑いに対して恐怖が薄い。疑いがあるなら知ろうとする。暴こうとする。そのために表裏どちらにも類さない。
それは階級で固められた貴族の血筋からだけではない。彼は突出して自身の信念に対して忠実に疑念を取り払い、躍進する真からのエリートである。
下手に隠して、悪く勘ぐられても困ると、天羅は白状する。
「ぬいぐるみですよ。クマのぬいぐるみ。その手で有名な会社と大手のブランドのコラボレーションの物がどうしても欲しいんです」
煙に巻くと思っていたのか、想像からかけ離れた答えに、ヴィンセントは腕を組んでみせた。
「日本人のブランド傾倒は理解しかねるな。ああいうものは本来円熟した人間が持つものだ。それだけのために戻ってきたのか。金のかかる女を連れて歩く年でもあるまい」
「お仕事がんばって下さいね」
天羅は浅く一礼し、彼の脇を通り抜けようとしたが、まるで古くからの親友のように肩を組まれて振り向かされる。
「なぁ、リヴィング。まだ時間はぎりぎりアフタヌーンだ。今から一杯付き合え」
「相変わらず強引ですね。それと、リヴィング? ああ、そういえば言ってましたね。リヴィングっていうのを今捕まえようとしてるんでしたっけ。残念ですが、人違いですよ。それに僕は豆よりも緑の茶葉派ですので、では」
「そうか。俺もだ。ただし紅い方のな」
そう言って、ヴィンセントは最寄りのオープンカフェへと天羅を連行した。座らされた席さえ逃走しにくい店内奥の壁際を選ぶあたり、取り調べは長くなりそうだ。それでも何とか切り抜けるつもりである。
ダージリンティーを天羅はストレートで、ヴィンゼントはミルクで注文し、さらに彼はパンケーキメニューを二種類も頼んだ。軽い夕食の量である。
席に座り、相対する二人だが、紅茶の芳しい香りが漂う中、えもいわれぬ午後のひと時に沈黙を満喫する。どうやらこの店は立地の雰囲気と共に味も当たりらしい。これならサンドラさんの紅茶タイムにもっと付き合うべきだったと今さらながら思いにふける。ただし、共にするのが、砂糖小さじ九杯を投下する眼前の男などを除けばだが。
沈黙を薄れさせるように、ヴィンセントは味を台無しにした紅茶を一口つけた。
「ここ最近、怪盗が出ないはずだ。日本に逃げる準備をしていたか」
「そんなに頻繁に出てたんですか。ですが、僕は日本に戻って高校に行くんです」
その間にパンケーキ一つを三口で胃の中に押し込んだヴィンセントに対し、天羅は飲み水をとりに行こうと腰を浮かせるが、意識的に警戒を高めたヴィンセントに気圧され、ズボンの財布を確認するふりをして、座り直した。
「お前がマエストロの所に来たのはいつだった?」
取り調べにしては、ずいぶんと懐かしい事を訊く。
「一昨年の夏ですよね。ヴィンセント警部とはホテルで目があった時に知り合いましたね」
それは渡英直後に泊まったホテルのロビーでのことだろう。
「覚えておけよ、天羅。奴はヴァシュロンの甥の中でも、切れ者だ」
マエストロはそう言った。最初の教えは予測と認識の符合。よく覚えている。
その時から、この男の怖いもの知らずの口ぶりは変わっていない。
「男女であれば運命的な出会いだろうな」
歯が浮く台詞に、途中まで持ち上げたティーカップを降ろす。
嫌味でいったつもりが、熱意のある目を向けるあたり、話をそらす気はないらしい。話術をもっと勉強すべきだったかと反省する。年の功というものか、表現力も語彙もとても足りそうにない。日本語なら勝てるのか自信をなくしそうになる。
お茶を片手に二品目を片付けようとするヴィンセントは、獲物を狙う上目遣いで尋ねる。
「なぁ、夜会の事を少しでも教えてくれたら、今は見逃してやってもいいぞ」
何を言い出すやら。自分以外にも情報源は存在しているくせに。いや、見事に引っかかってくれたと思うべきか。
夜会とは、ある類の人間の社交界である。
だが、貴族階級や労働階級などの特権階級にいるからと言って、夜会に名を連ねるとは限らない。ヴィンセントも元は貴族出身であるが、夜会の内実に関すれば、何一つ知らない。
だが、早急にこの話題に触れるあたり、何を焦っているのだろう。天羅はそう思い、かまをかける。
「今日は急用でもあるみたいですね」
ほおばりかけていたケーキを皿に置き直し、紅茶の香りで気を和らげるヴィンセントは、眉間にしわを寄せ、難しく疲れを顔で表現した。
「いつかのヴァカンスをどこぞの狼藉に潰され、娘との約束を守れず、この時季外れにヴァカンスに行こうとした。だが、なぜか旧知の方の所に住んでいた少年が、たった一人で空港にいる。これは何かあるに違いないと急遽俺一人だけ予定を変更したのだよ」
「ドタキャンで折檻されたみたいに言いますよね。……ん? 警部、いつ結婚されたんでしたっけ?」
時間差で気づく新たな事実に怪談じみた土産話ができたと、意気揚々になる。ああ、この人ノーマルなんだと一つ安心。それもつかの間。
「見ろ。あいつが踏みつけた」
ヴィンセントはスーツの内ポケットからテーブルの上へとそれを放り投げた。滑りながら、テーブルの上をくるくると回転し、二人の中心でピタリと止まる。
「…げ」
唯一の救いは折りたたみ式が特定層で普及していない事だった。
それは、液晶はへこまされ、ボタンの幾つかは落ち込み、バッテリーの蓋はゆがみ、角は傷だらけになった携帯電話だった。原形を留めているとはいえ、ここまで破壊できるらしいので、企業は早急に耐久精度試験をやり直した方がいいはずだ。
横目に見ると、両隣の席の黒人とアラブ人までも見ずにいられない様子。さらに、ふらっと来たウェイターのおねえさんに、無表情でしみじみとぐっと親指を立てられ、お代わりを注がれる。
「これは何の事件の証拠や遺品ですか? もう犯人の目星は付いているんですか?」
「五日前に買ったばかりだ。なかなか、どうして、高い買い物だった」
無残にも、それはロンドンで発売されたばかりの新機種携帯電話だった。家族に時間を割けない男に見られる典型的なお仕置きのされ方である。
天羅は顔をあげると、ヴィンセントはにやりと自嘲し、しかし、どうだと自慢げに腕を組む。二人して対岸の人物と携帯電話を交互に見比べた。うわー、幸せそーだなー。
「いやぁ、はは、さすが年季が違いますね。携帯に高級品があるなら間違いなくヴィンテージだと思います」
そこまで意思表示してくれる女性がいる事が本当にうらやましいと思いつつ毒づく。
機嫌を損ね始めた年上を前に、逆に冷静にふいに昔話が脳裏をかすめ、一つ合点がいく。
「もしや階級を捨ててまで、そのひとを選ぶ、とか?」
ぎょっと目を開き、日本人にはないほりの深さで感情を面に出す警部であった。
「そういう面だけマエストロの弟子らしいな。君はなぜかそういう裏事情にも詳しい。それともゴシップ好きの暇人か。なるほど、賊商売をやめさせてやるから、すぐに宮殿の門前で女王に忠誠を誓え。間違った日本観であるハラキリは古典の中だけでいいぞ。こう言え。私は社会の夜に夜明けをもたらすため、御身御国の犠牲となります、と」
「いえ、マエストロから耳にしただけと言いたいですが、警部今日はよく自分のことを話しますね」
口は災いの元。話の弾んだところで、ここはあえてウェイターを呼び、店でオススメらしい高いケーキメニュー二つを彼のために注文する。
「罪滅ぼしのつもりか」
言いながらも、すぐに来たケーキに警部は手を出す。
甘い物好きの人は、どうしてか欲望に弱くて助かる。さらに話題をそらすべく、突然思い出したかのように天羅は空港での件を語りだす。
「そう言えば、空港であのぬいぐるみの実物を見たんですよ。こんなちっちゃな女の子が大事そうに抱えてたんですけど、人形がぬいぐるみ抱えてるみたいで、もんっっのすっごい可愛いかったんですよ。そのお母さんも美人だったから、光源氏計画しとく分にももったいないくらいの子でしたね」
ケーキを楽しみきるために、ちまちまと動いていたフォークの動きが完全停止。話題にのってこないどころか、警部は、カップを口に付けた天羅の眉間に向けて、三つ又の銀を走らせた。
ゼロメートル距離から放たれたフェンシング熟練者の一撃は天羅の眉間寸前でぴたりと停止。一連の動作をあえて気づかなかったふりで貫くが、肝は冷える。
そのまま、にんまりと悪意のない嘲笑で警部の一言。
「ロザリーの名付け親は俺だ、光源氏」
ぶはぁっ、と盛大にむせた。気管に赤い熱湯が入り、胸が焼けて咳がとまらなくなる。口元を手でぬぐいながら、警部を見やる。
「光源氏物語を読んだ事が?」
「最近出版された原語版解説付きのをな」
一泡吹かせた事に気を取り直し、ヴィンセントはウェイターにフォークの替えを頼む。
どんだけロンドン狭いんだ。いや、ちょっと待て。それでは年の計算が合わない。
自分の知っているヴィンセントは最初に会った時、約二年前にロンドンに来た時は独り身だったはずだ。あの女の子は5才程度。例え結婚せずに子をなす文化観はあれど、この男に私生児や養子の噂はもとより、婚約に結び付く浮いた話は誰からも聞いていない。
怪訝な表情から悟ったように、ヴィンセントは自ら白状し始める。
「このまま寄り添いあえるのなら、あいつにとっては二度目というだけだ」
なかなかはまらなかったパズルのピースがはピタリとはまる。
階級とは社会的になくなったように見えても、実際は色濃く残っていることは多い。女王の御膝元ではその影響力はまだまだ強い。
そんな中で、いつだったか夜会や社交界で話題になった話がある。貴族階級の身でありながら、一般階級の連れ子持ちと深い仲になった人物がいるらしいと。それはヴィンセントの事だったのか。
なるほど。ヴィンセントが元々いた家柄といえば、相当の位置にある名家だと聞く。血族主義が強い家ならば、不肖の者など初めからいなかったとするほど厳しい緘口令がしかれたのだろう。
そういう事なら思い当たる節がある。ある時期、駆け落ちじみた依頼内容が流行ったのは、祝福か嘲笑か、それに対した周囲の態度だったという事らしい。貴族の私的なことを嘲るのは直接無理でも、皮肉は表に出てくるものだ。
話題にならずとも、秘密主義が前提の夜会もそういう風刺は抜け目ないものだ。
これはパズルが出来上がったら、一枚の一家団欒の画になるに違いない。だけど、ねえ?
「あんなお相手をほっぽり出して犯罪者を追いかけてるなんて、本当にかわいそうだと思いますよ。ヨーロピアンはもっと悠長に人生を満喫するのでは?」
「勤勉な日本人から出る言葉とはとても思えんな。今現在、社会の悪い芽を潰している。働く父親の鑑として申し分ない」
盛り上がる観客を前に、演者に仕立て上げられた警部は気分を害し、八つ当たりの如くケーキを口に運ぶ。その様は親にうまい事そそのかされて、すねる五歳児のようだ。
こういう会話と光景にはノスタルジックのグラスから水があふれてしまいそうな気分になる。自然と舌が動きだす。
「男女が二人で歩けば、男の歩みはベルトコンベアの上を歩くよう、女性の歩くリズムは幾つもの歯車の上を行ったり来たり」
「何の話だ?」
「男は毎日ベルトコンベアの上を歩いてばかりいるから、女の人に歩く速度を合わせるとやきもきしてほとんど後ろ向きで歩く始末。女性はそれを早足に感じる。女性は女性で、目移りしながらゆったりしたいから、幾つもの好奇心むき出しの歯車に乗ってあっちへこっちへ……」
面と向き合っての舌鼓、ではなく舌打ちに言葉を遮られる。
「説法のつもりか」
「親父曰く、そういうものらしいですよ」
頭の痛い話だという風に、警部の珍しいため息が家族生活の全てを物語っている。
女性には男が早すぎて忙し(せわし)なくて、男には女性が自由な生き物で。仕事人間の男ほど、彼女とウィンドウショッピングに付き合えば如実に現れる心情を悟ったらしい。それにはまず合わせられる側が合わさないといけないのだそうだが、意思疎通はいつもできるわけではない。
ふと見ると、さらにヴィンセントの頬張るケーキの量が増えていた。
やれやれ、自分とヴィンセントは、接点はあるが、深い仲ではない。私生活に関してなど今になって初めて知る事もあるのだなとぼんやりと思っていると、吹き込んでくる季節の風にさらに口が滑るのだった。
「いいですね。僕の親父は結構前に死にましたから。プレゼントも旅行もあんまりなかったですから、うらやましいですよ」
ケーキ一つを楽しみ終えた後、最後に残ったパンケーキも三口で平らげた警部は、優雅さと平然さをもってカップを口に運ぶ。
「それは俺に早死にせずにすむよう、転職しろという警告か?」
「誰も警部に警察を辞めろだなんて言ってませんが、ただ、僕は……」
「刹那的な悲劇の主人公はフィナーレにたどり着けないぞ」
そう言っている時点で謝っている事と同義だ。だが、少々自分のペースで足早にかけてしまったらしい。このままでは身の上話から親父の話につながってしまう。話題を切り替えようと、今更ぽっと出た疑問に代わって、頭を下げてみた。
「警部、空港からご苦労様です」
駅から電車、そしてロンドン到着まで。やけに敵意のこもった視線が後方から突き刺さっていたのだ。
「今更だな」
「はぁ……」
「何だ?」
「もうヴァカンスに行かれたらどうです?」
ふんと、一連のかまかけに失敗し、警部は最後のケーキを突っつくのに戻る。それでも、いまだ話は名警部ヴィンセントの掌の内にある。
「早く夜会の事を吐け。そしたら今すぐにあの人形をプレゼントしてもいいぞ。なぜかうちに気に入られなかった方がある」
「え? いや、それは、えぇ~~?」
これには、さすがに動揺してしまう。アフタヌーンティーの漂いが夕凪の中にかもし出される。
あからさまに罠としか言いようがないのだが、しかし、塞翁が馬か棚牡丹か。夜会の報酬として入手できるかも怪しい限定品だ。自分のような下っ端の報酬に本気を出すはずがないと半ば諦めかけているだけに、その密約を交わすにあたり、怪我の功名で元がとれても、後から虎の穴から出てこなければならないようだ。確かに欲しい。どうしてもそれを日本に持ち帰らなければ、できない事がある。
二年前の自分が犯したであろう失敗を償わねばならない。成功するかはさておきだが、やらないよりはましだった。
それに相談したサンドラさん曰く、「仲直りには宝物になるものをあげるの」というのが有効らしく、ぜひ実行せねばならない。
だが、警部甘いぞ。そのミルクティーを日に何杯も飲んでいるから甘い。ここまでの話を総合すると、警部自身が夜会には触れられる可能性を示唆する事が言える。
「警部にいい話をしましょう。噂話なんですけど、警部も縁があれば社交界に招待されるかもしれないです」
「社交界にか? 家督を断たれた身に来るはずがないだろ」
天羅はその事には意味ありげに軽く首を振った。
再び機嫌を悪くする警部の手元には、ミクルティーの糖分も切れかかっている。不可解な発言と否定に首をかしげられ、天羅は付け加える。
「たぶん、マエストロだとわかると思います。あの人、そういう話もできる人ですから」
根拠はある。貴族階級を捨ててまで、ただ一人を(いや二人も)選んだ騎士を夜会が放っておくわけがないのだ。人は人に溺れるという、それは別の物語となるのだが。
そろそろこの幕間もおしまいとなる。天羅は席を立つ。
「待て。話は終わっていないぞ」
「ロンドン二年そこらの僕よりもマエストロに聞くべきですよ。僕は外の人間ですし。その方がきっといいです」
マエストロの名前が利き、押し黙る。ヴィンセントもそれは十分に知っている。天羅から崩そうとするのは、マエストロは口が堅い事もあるし、リヴィングに関して疑いがある天羅の方が夜会の事をより多く知っているからだと推測しているためだ。
だが、あくまでも客は演者に踊らされ、結末で裏切られる運命にあった。苦渋を飲みながらヴィンセントは懐をまさぐってピリオドを打つ。
「財布を忘れたようだ」
「ええ? 日本に帰るのに貸しにしっぱなしは嫌ですよ」
「どこぞの怪盗がまだロンドンにいて尻尾を出せば、取調室ででも返してやるさ。なぁ、リヴィング。せいぜい闇夜のロンドンには気をつけるんだな」
「来栖天羅です。で、ロンドンといえば霧ですよね?」
二年いたとはいえ、ロンドンには自分の知らない領域がまだあるようだ。この二年の経験が簡単に削がされるような気がして、自信が揺らぐ。
「まあな。最後に一つ。親父と言ったな? 今いるリヴィングは何代目だ?」
回答の代わりに、ひょんな事を聞く。何を言っているのか本当に分からないと首を傾げてみた。
「まず、リヴィングの命名は警部だと聞いてますが? 確か、その怪盗、名前が英訳できないとかで、何年か前の誰かの通称から引用したと聞きました」
「そういう事を聞いてるのではない」
ヴィンセントは取り出した手帳の白紙にペンを走らせ、それを見せつけた。
「リヴィングの日本での、この名前として何代目なんだ?」
それを見て、少々カチンときた。そこには大きく、漢字慣れしない手で書いた【首猟い尋鬼】という歪な文字があった。
「シュリョウ……タズネオニか? いや、音読みだか訓読み? 英訳するとB級映画みたいな名前としてだ」
ヴィンセントに命名のヒントを与えたのはマエストロだ。ロンドンでの初仕事後、マエストロに【首猟り尋鬼】がどういう意味なのか聞きに来たのは、ヴィンセント本人であり、そして、怪盗のある怪技から『リヴィング』と名付けたのだ。
「マエストロマエストロ……、自分で調べて下さいよ」
「本人に聞くのが一番なんだろうが」
倫敦に来てから二年弱も経つのかとふけりたいが、どうしても食らいついてくるヴィンセントにうんざりする。
「この字、日本にはそんな字はないはずですよ。この猟の字は手編ではなく獣編です」
空中で書き順も正しく獣編を描く。それがどういう意味か分からず、呆気にとられた警部をよそにレジへと去る。
汚い『り』はいいとして、普通は『猟り』を『かり』とは普通読めないのだから、しらを切るしかない。
そこで天羅はこの自分のおせっかいさは直すべきだと実感。お金を払い、思考のるつぼにはまっている後姿へわざわざ引き返した。
「ちなみにそれ、かなり低レベルな間違いです」
背後からの耳打ちに、すぐさま警部は何かの罵声を飛ばす。自分の字の汚さがわかったらしい。
「警部、僕は明日には発ちますので、ぬいぐるみはその時までに会えたなら。では、失礼します」
そして、もう会いたくないと思い、さっさと逃げるのた。
自ら警部と仲良くするにも今は利益が感じられない。ロンドンに来る事は当分ないのだ。見え透いた罠にはまりに行く獲物がどこにいるのだろうかな。
元から期待はしていないし、ぬいぐるみはサンドラさん伝いに頼めば届きそうな気もした。日本に帰れればもういいとさえ思い始めているが、帰りたくないとも思う。
「複雑だよ。石須文路……」
前回の投稿から一ヶ月も開いてしまいすいません。ちょっと机には座れない体調だったので。全体的な清書や登場人物の入れ替えをしないといけないので<2、帰国>はちょっと飛ばします。多分割り込み投稿をするかもしれないけどナンバリングはするので。