三章第十七話 死がふたりを分かつまで
「頼む、もう少し急いでくれクーガー」
「ピ、ピー」
抑えられない逸る気持ちは、全速で空を駆ける飛竜を更に急かすほど。
それだけの胸騒ぎをカタナが感じたのは、かつての相棒の声が耳に届いたからであった。
(さっきの声……いや、音は、確かに風神のもので間違いなかった)
風によって音の振動を操り、遠くの相手に呼びかける風信という魔法。カタナの耳に突如として届いたのは、間違いなくそれで風神が呼びかける声であった。
<……魔剣>
帝国特務に所属していた時に名乗っていた、魔剣という名でカタナを呼ぶ風神の声は、どんどん細くなっていく。集中していなければ、クーガーが翼で起こす風に掻き消えてしまう程に。
「……あっちだ、クーガー」
それでもカタナは見失わない、風神から発せられる風を。
かつて常に傍にあり、大いに彼を助けたその存在を。
<――>
その声が聞こえなくなっても、カタナは風の残照を頼りに、風神の下までたどり着く。
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風神の姿を認めた時、カタナはこれまでの全てを深く後悔した。
血に染まった身体、青白くなった顔、致命傷を受け命脈尽き果てそうなその身体を抱きおこし、カタナは呼びかける。
「おい、しっかりしろ!」
息はしていないが、体温はまだ温かい。カタナは止血の為に風神の身体を圧迫した。
<……その声…………まさか魔剣か? ……本当に?>
まるで奇跡であった、風神の意識が残っていたのは。
傷付いた体はピクリとも動かないが、発せられた霊力の起こす風がカタナに風神の意思を伝える。
「ああ、俺だ」
風神は眠っている状態でも魔法を発現する事ができた。それは体を休ませながら、精神を保つという荒業であるが、まさか死の一歩手前でも同じ事ができたのは、本人も驚くとこれであっただろう。
<……夢みたいだ。最期に貴方に会えるなんて>
カタナを呼んだのは意識下か無意識下か。霊力が尽き果てた筈の状態からまだ魔法を発現できるのも、火事場の馬鹿力というものなのかは風神にも解りかねる事。
だが確かなのは、これが風神にとって何より望んだ最期であり、だからこそ今までのどんな時よりも素直でいられた。
<……私は、ずっと待っていた。貴方が去ったあの日から、私はまたこうして同じ時間を過ごせるこの時を>
「すまん……」
<謝らないでくれ……本当は気付いていたんだ、待っているだけでは駄目なのだと。あの時も、本当に一緒に居たいのなら引き留めるのではなく、何もかも捨てて貴方に付いて行くべきだったのだと……>
「もういい、今はその意識を保つ事だけを考えてろ。すぐに医者に見せてやるから」
<……いや、それには及ばない。どうあっても致命傷なのは自分の事だから解ってる、だからこの最期の時間は私の好きに使わせてくれ>
今のこの瞬間はありえない程の奇跡なのだ。だからこそ何度も望んで叶うようなものでは無い事は、誰より風神自身が解っている。
カタナも解っていたのか、それを苦い顔で受け入れた。
<……聞いてほしい、貴方に言いたかった事がある>
本当は再会した時に言いたかった言葉、捨てられたと意固地になっていた故に言えなかったが、今ならば伝えられる。
<ありがとう、貴方のおかげで私は自分の生まれた意味を見いだせた。貴方のおかげでこの世界に生まれてきた事を、素晴らしい事だと思えた……>
「……風神」
カタナには返す言葉が無かった。押し寄せる慙愧に耐えながら、風神が伝える事を深く心に刻む。
<……願わくば、ずっと一緒に居たかった…………この世界で……貴方と……ず……っと>
「――!? おい、風神!」
カタナの呼びかけに応える声は、もう無かった。
「……」
あるのは、腕の中に安らかな顔で生命活動を完全に止めた、風神だったもの。
悠にあっさりと、意図せず訪れる二度目の別れの時。
「ふ、はは、はははあっははははは!」
カタナは沸々と湧き上がる感情を持てあまし、乾いた笑いを響かせる。
本当なら、人間ならば涙するところだろう。だが、カタナにはその身体機能が備わっていないのか、どんなに悲しくても泣く事ができなかった。
だからカタナは笑う、重くなった心を少しでも軽くするように、少しでも早く足を踏み出せるように。
(ありがとう? ……感謝したいのは俺の方だ)
かつてゼロワンを失い、一人になったカタナの前に現れた風神という女。
彼女が居なければ、カタナはとっくに足を止めていた。彼女と共に駆け抜けた日々は、カタナにとっても生きる意味を与えるものだった。
(俺は、人間じゃなくて、涙も流せない失敗作で、この世界に存在していいものじゃない。だけど俺がこの世界に存在する事を許してくれる、お前みたいな優しい奴がいるから、俺は生きてこられたんだ)
風神だけじゃない、フランソワ・フルールトークから、ヤーコフから、他にも多くの者達からカタナはその意味を貰った。
もし少しでも返せる事があるとするなら、面倒だなんて言っている訳にはいかない。それが今のカタナの持っている答えだった。
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「待って、シャチョー」
まるでタイミングを計ったように現れたサイノメの、相変わらずな神出鬼没さ。こちらに限っては、カタナの中での扱いは微妙な所である。
「悪いが急ぐ」
風神を斬った者の痕跡はしっかりと残っていた。カタナが本気で追えば、今ならばまだ間に合うだろう。
だからサイノメの話に付き合うのは、後回しにしたかった。
「はあ、あたしを置いて一も二も無く飛び出したと思えばさ。やっぱり風ちゃんに呼ばれたからかあ、流石に絆が深いのね」
「……黙れ」
だが冗談めいたサイノメの言葉に足を止め、カタナは射殺す様な鋭い視線を向ける。
「まあ、落ち着いて。あたしは別に冷やかしに来た訳じゃないよ。もしかしたら風ちゃんはまだ助かるかもしれない、それを教えに来ただけさ」
「何?」
眉を潜めるカタナに、サイノメは肩を竦める。
「シャチョーは風ちゃんに生きていて欲しいんでしょ? だったら、あたしがどうにかしてあげるよ。この大陸一のいい医者を知ってるんだ」
「……無理だ、風神はもう」
どんなに手を尽くしても、死んだ者は蘇らない。医者は治す事は出来ても死人は生き返せないのだ。
「そんな常識、あたしは知らんね」
だが妙に自身があるようにサイノメは言い切る。
「サイノメ・ラインはあたしが自ら引いた情報網。信じる信じないはともかくとして、そこから導き出される答えが助かるっているんだ。だからあたしは、シャチョーにそれを提示しているだけさ」
「……」
「だからって、別にシャチョーに何かを求めてる訳じゃないよ。ただ、少しだけ頭に血が上っているようだったから伝えたかっただけさ。平静を欠いて選択を見誤らないように、シャチョーがあたしに言った言葉が嘘にならないようにするためにね」
なんとなくだが、カタナには風神を斬ったのが誰か解っている。そしておそらくサイノメも、それを知っているようであった。
「もしこれが凶星の持つ運命だとしたら、あたしとしてはそれを歪めたい。あたしにシャチョーを止めたりする権利は無いけど、だからこそここはあえて言わせてもらおうかな……」
サイノメは真面目な顔になって言う。
「風ちゃんはあたしが絶対に死なせないから、シャチョーは自分の意志のままに決着をつけてきなよ」
サイノメの口から初めて聞いた『絶対』という言葉に、カタナは説得力と僅かな希望を感じずにはいられない。
「……信じていいのか?」
「うん」
誤魔化すことなくサイノメは頷き、風神を運ぶのにクーガーを借りると言って、カタナの手でその背に運ばせる。
それ以上は余計な事を言う気が無かったのか、サイノメはしばらく黙っていたが、飛び立つ寸前に一言残していった。
「あたしは、最後にシャチョーが笑っていられるような未来を望んでるよ。だからシャチョーも……」
カタナはそれを最後まで聞かずに頷いて、自分が出した答えの導を追って走り出した。