三章第十二話 答えが出ない時
「こんなところに居たとはね。探したわよ、カトリ・デアトリス」
首都レーデンの街の一角を横切る小川、そのほとりで水面を見つめるカトリの姿をリュヌは見つけ声を掛けた。
「……リュヌさん」
返答は弱々しく、一度上げた顔をカトリはすぐまた下げて嘆息する。
「酷い顔をしているわね。もしかして眠っていないの?」
「眠る? ……ああ、もう夜が明けていたんですか。どうりで眩しいわけです」
「……本当にどうしたの?」
たった一日で変わるには、カトリの様子は恐ろしい程の変貌であった。
常に前を見ていた瞳は虚ろであり、伸びていた背筋は下に向かって曲がり、まったく生命力というものが感じられない。
「どうもしていませんよ。むしろ今までがどうかしていたんです……」
「はい?」
何を言うのかと思えば、カトリは急に今までの自分というものを否定しだした。
「盲信的に、盲目的に、魔法を学び、剣を振り、無念を晴らそうとしてきた日々……復讐が何も生まないとは解っていても、仇の骸を並べるその時を望みながらただ足掻いてきました。それが、本当に虚しい独り相撲だったなんて……」
良く見れば、カトリの顔には涙のあとが残っていた。付き合いの短いリュヌには、彼女が泣きはらし心を折る様な何かが思いつかない。
「……考えてみればおかしい事ばかりでした。病気もせず、怪我もすぐ治り、致死毒にも負けなかったこの体。剣を持って数年の小娘が、訓練を受けた屈強な騎士に勝るという不合理。そして何より、自分でも持て余していたカタナさんへの拘り……どうして今まで疑わなかったのか」
「何があったの?」
「知ってしまったんですよ、私が人ではない事を……魔元生命体だという事を……」
カトリは絞り出すように、そう呟いた。か細く消え入りそうな声だったが、リュヌは聞き逃しはしなかった。
「……そう。それでカトリ・デアトリスは、価値観が狂ってしまって途方に暮れていたという訳かしら?」
しかしリュヌはそれほど驚く様な素振りも見せない。まるで最初から知っていたかのようなその振る舞いに、むしろ驚いたのはカトリの方だった。
「知っていたんですか、貴方は……もしかしてカタナさんも?」
「早とちりされては困るわね、私は何も知らなかったわ。おそらくだけど、我が君もね……ただ、私には似たような経験があるから理解できるという事よ」
人では無くなるという事は、普通の生き方が出来なくなるという事。そう思っていた時期がリュヌには長くあった。
「……でも今の私なら、カトリ・デアトリスにアドバイスできる事があるかもしれないわ」
「何ですか?」
期待を込めるようなカトリの視線。それだけ今の彼女の心は不安でいっぱいなのだろう。
リュヌはそんなカトリの危うさに、かつての妹達の姿を重ねる。
「私はカトリ・デアトリスがどういった思いのままに生きてきたのかは知らないけれど、無理に今までの自分を捨てる必要は無いと思うの」
「……捨てるも何も、知ってしまった以上はもう昨日までの私ではいられませんよ」
「それが捨てるという事よ、諦めとも言うわね。自分が周囲と違う存在だと自覚して、今までと同じ生き方が出来ないと思っている。でもね、それは違うと私は思うわ」
「え?」
「たとえ普通の人間ではなかったとしても、貴方はカトリ・デアトリスという事よ。他の誰でもない、この世界を構成する一人。そして必ずしも一人きりというわけでは無い」
リュヌはカトリから視線を外して遠くを見る、その中に羨望が混じる事を悟られたくなかったから。
「我が君はカトリ・デアトリスを心配しているわ。今は先日のゴタゴタで動けないけど、私は頼まれて貴方を探していたの」
「カタナさんが……?」
「そう、望む望まないに関わらず、おせっかいを焼く者がいる。それは中々幸せな事では無いかしら? もしもカトリ・デアトリスの気持ちの整理がつかないとしても、貴方の戻れる場所は存在している。一人で悩んでも答えが出ないなら、気に掛けてくれる誰かと一緒に考えてみるのも悪くは無いのではないかしら?」
たとえ戻る場所が茨だらけだとしても、一人で行きどまりに座り込むよりはマシ。リュヌは笑ってそう言った。
「……ふ、ふふ。カタナさんが一緒に考えてくれている姿なんて、全く想像できませんよ」
カトリは考えてみて、その可笑しさに涙が出そうだった。
「あら、もしかして今笑った? カトリ・デアトリスが笑う所なんて初めて見たかもしれないわ」
「リュヌさんが変な事を言うからです。それに私にも感情がありますから、当然笑いもします」
当たり前の事だと自分でそう言いながらも、カトリはそれがまるで新しい発見のように感じていた。
そして一息吐き肩の力を抜いて、背筋を伸ばして立ち上がる。
「ありがとうございますリュヌさん。無理に生き方を変える必要は無い……少し解った気がします」
「そう、良かったわ」
「はい……でも、まだもう少し考えてみたい事があります。そしてそれは一人で答えを出さなければいけない事なんです」
「……そう。カトリ・デアトリスがそう決めたのなら、私はこれ以上何も言わないし、何も聞かないわ」
カトリの表情には迷いも見えるが、それでも瞳には少しだけ意志の光が見て取れる。リュヌは、今はそれで充分だと頷いた。
「もし決心がついて私の答えが出たら、その時はカタナさんの下に戻ってみようと思います。許されるなら、あの方の従騎士として……」
「大丈夫よ、私が許容されている内は、カトリ・デアトリスも我が君はきっと受け入れるから」
カタナの面倒くさそうにしている顔ははっきりと浮かぶが、カトリもリュヌの妙に説得力がある言い分に納得して、きっとそうなると信じられた。
「それじゃあ、私は戻るわね」
別れの言葉は告げずに去って行くリュヌ。カトリもその必要は無い事が解っていたので、視線だけでその後ろ姿を見送った。
答えは未だ出ていないが、それでも一つ確かなものが見つかったカトリは、胸の内に巣食っていた不安が消えていくのを感じていた。
新たな約束をしたからなのだろうか、これまでに感じた事の無い体を軽くさせるような気分に、もう少し踏み出せばカトリは答えが出るような気がした。
カトリが前に進む意思を見せたからか、それともただ単純にリュヌが去るタイミングを計っていたからか。その時不意に、思い寄らない声が掛けられる。
「そこの綺麗なねーちゃん、ワシと茶しばきにいかへんか?」
「は?」
それがナンパだったなら、カトリは振り返らずに無視して立ち去っていただろう。
だが後ろから聞こえてきた声は、カトリの良く知っている人物の声だった。
「『室長』!? なぜここに?」
きっちりと固められた髪と、それとは相対的な無精ひげのその男は、帝国特務の総括する立場にあり指令官のような役割を担っていた人物。
カトリにとっては、デアトリス家が無くなった後に引き取ってもらった人物でもあった。
そしてその室長の後ろには、同じく帝国特務の『風神』と、そして何故か協会騎士団の鍛冶師であるリリイ・エーデルワイスの姿もあった。
「文通はしとったけど、こうして面を合わせるのは久しぶりやな。元気にしとった?」
「え、ええ、まあ」
リリイとの組み合わせは元より、どうして帝国特務の指令と実戦部隊の実質ナンバーワンであった風神が何故こんな所にいるのか、カトリが驚くのも当然であった。
「いやあ、こっちは色々と散々な目におうてな。帝国特務は取り潰しになるわ、ワシみたいなおっさんは他の部門でも要らん言われて、もう職無し状態になってもうて。まあ、仕方なしにこうやって暇つぶしの観光をしとる訳や」
「……本当ですか?」
「勿論、嘘やがな。本当の所は逃がしたネズミを狩りに来たんやけど、一足遅かったみたいやな」
聞きなれた帝国の南部訛りで話す室長は、軽い口調のせいかそれほどカトリには残念そうには見えない。
「ネズミとは何の事ですか?」
「ああ、まあ立ち話もなんやし、落ち着ける場所に行こうか。ちょうどカトちゃんにも用があってん。ほら馬鹿弟子、さっさと案内せいよ」
室長はカトリを伴いながら、リリイに顎をしゃくって案内を促す。
「はいはい、まったくボクの都合も聞かずに勝手な事ばかり……論理的に考えて師弟の関係なんてとっくに切れているというのに……」
小声で愚痴を零しながら、白衣を翻したリリイは嫌そうに先頭を歩いていく。風神も無言でそれに続き、室長は何が何だか状況を理解しきれない様子のカトリをしばし待つ。
だが待ちきれなかったのか、室長は用というのを一言だけカトリに伝えた。
「カトちゃんには、今まで隠していた事があんねん。デアトリス家の事、そしてもう一つ……カトちゃんの身体の事や」
それを聞かされて、カトリはもう立ち止まってはいられなかった。