三章第五話 風切り音が呼ぶ大物
早朝、カトリ・デアトリスはいつものように剣を振っていた。
誰も居ない練兵場に一番乗りするのも最早いつもの光景で、澄んだ空気をカトリの剣の残像が切り裂いていく。
従騎士の制服を翻し、型稽古を続ける彼女が見据える先は闇。
剣を持つとどうしても思い浮かべてしまう仇の顔、それは決して拭えないカトリの心の闇であった。
(……もっと速く、もっと強く!)
霊光が上り、駆身魔法が発現する。剣の鋭さが増し、風切る音も静かな場内に響き渡る。
本当なら一人で剣を振るよりも、一緒に訓練できる相手が欲しいとカトリは思っている。
しかし、カトリの剣の鋭さは生半可な者では相手が務まらず、ここ協会騎士団の騎士を相手にしても逆に腕を錆びつかせる結果となってしまうと、彼女自身が判断するほどであった。
(……もっと、もっと)
向上心と焦燥感。
どういう訳か、カトリはそれをずっと感じている。
初めて剣を持ったのが七歳の時、今から十年前の事。たった十年で協会騎士団の正騎士のほとんどを、ごぼう抜きにしたにもかかわらず、カトリは自身の実力に未だ満足していない。
指標が高すぎるからという事だけでは無く、心の中で燻る何か。それが何か解らなくとも、何もかも燃やし尽くすように剣を振っていたカトリは突然倒れる。
単純な限界。
霊力も体力も力尽き、地べたに横になりながら回復を待つ。
(……結局、いつもとそう変わらない。これが限界ですか)
苛立ちすら覚える程に、カトリは踏み越えられぬ一線に疑問を持っていた。
「浮かない顔をされてますね」
「……え?」
カトリの思考を遮るように、不意に声が掛かる。
見上げると、初老位の男性が柔和な面持ちで太陽を背に立っていた。
「あの……貴方は?」
剣を振るのに夢中で気付かなったのか、広い練兵場でいつの間にか近くに居たその男性に、カトリは身を起こして問う。
「いえ、通りすがりの者ですよ。良い音が聞こえたので少し足を延ばしてみただけで、どうかお気になさらずに」
「そう言われましても……」
知らない者が近くに居れば、気になるのが普通。
そしてその相手が、明らかに普通じゃないと気づけば尚の事である。
(この人、この距離なのに……気配がしない)
カトリが気付いた普通じゃない事とはそれで、すぐ近くに居る筈のその男性には、全くと言っていいほど気配が感じられなかった。
気配を消して相手に気付かせないという事とはまた違う。
まるで植物を思わせるような完全な自然体であり、むしろ心霊現象だと言われた方がカトリは目の前の人物を許容できそうであった。
「そんなに警戒されなくても大丈夫ですよ。私はゴーストではなくて、ただの見物人ですから」
「……私、何も言っていませんが」
心の内を見透かしたような男の言葉に、カトリは目を細めた。
「ああ失礼しました、初めてお会いする相手にはよくそんな風に言われるもので……うーん、やっぱり名乗らない訳にはいかないようですね……」
カトリの視線が鋭くなったからか、困り顔になったその男性は少し悩むようにして名乗りを上げる。
「初めまして、私はシュトリーガル・ガーフォークといいます。どうぞお見知りおきを」
「シュト……って、まさか!?」
協会騎士団の騎士団長にして『剣聖』と謳われる人物、それがシュトリーガル・ガーフォーク。
カトリは機会があれば会ってみたいと思っていたが、まさかの遭遇に唖然となった。
「いえ、しかし……騎士団長は七十を超える齢の筈です」
詳しい年齢までは知らないが、五十年前の大戦で功績を挙げた人物であるため、下手するともっと年老いている可能性もある。
だから目の前の男がシュトリーガルというには、カトリは少し若すぎると思った。どう見ても四十そこそこの初老であり、抱いていた老巧なイメージとは不釣り合いであったのである。
「若作りの賜物というやつですよ。この年で騎士の現役を続けるには、衰えたところを見せる訳にはいきませんからね」
「……確かに、そうかもしれませんね」
ヨボヨボの老人が協会騎士団を率いるというのは無理がある。それに、目の前の男がシュトリーガルであるというなら、気配を感じられないという異常にも少しは納得できるかもしれないとカトリは思った。
「御無礼をお許しください騎士団長」
もし本当にそうなら、随分と失礼な態度を取ってしまったと、カトリは気が付き敬礼する。
「いいんですよ、貫録の無さは私自身も自覚していますから気にせずに。それとあまり畏まった態度も出来れば控えて頂きたいです。今は公務中ではありませんし、寂しい気分になりますから」
そんな寛大な対応で返されたカトリは、とりあえず肩の力を抜く事にした。
「ところで最初の質問に戻りますが、貴方は何故浮かない顔をされていたのですか?」
シュトリーガルは何よりもそれが気になるようで、改めてカトリに問いかける。
「浮かない顔……してました?」
「ええ、あれだけ自在に剣を振れる者は騎士団内でもそうはいません。そんな貴方が充実した顔を全く見せずに暗い表情をしているなんて、何か悩みでも?」
「……そうですね、自分の限界にでしょうか」
カトリは少しだけ自分の実力に対して感じている不満をシュトリーガルに聞かせる。
実はカトリはもし剣聖に会えたのなら、感じている壁を超えるアドバイスを貰えるかもしれないと、そんな期待を抱いていたりもする。
「限界ですか……ふむ」
シュトリーガルはしばし考え込むように目を閉じ、やがて何か閃いたように見開く。
「それならばどうでしょう、一手、私と手会わせしてみるというのは?」
そして提案されたまさかの事に、カトリは二つ返事で頷いた。
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「という事が、今朝方ありまして……」
カトリ・デアトリスから早朝の練兵場であった事の顛末を聞いたカタナは、最大級の嫌そうな表情を向けた。
「……あのジジイ、何やってんだよ」
「流石は騎士団長といいますか、私の剣が全くかすりもしない相手はカタナさん以来でした」
「そうかい、なら弟子入りでもしてみたらどうだ? 経験者から言わせて貰えば絶対にお勧めはしないがな」
一時期カタナは後見人でもあるシュトリーガルの教えを受けていた事があった。
その時の事と言えば、ひたすら説法を説かれたり、ひたすら座らされたり、ひたすら滝に打たされたり、ひたすら組手という名の一方的に急所を殴られる事をされたりと、散々な目にあった記憶しかなかった。
「確かに、あの方から学ぶのは難しいでしょうね。私にも結局、『自分の限界は自分で超えるしかない』と告げるだけでした」
それはそれで詐欺みたいな話である。
「……無駄に生傷を作っただけの話みたいだが、何か手応えでもあったのか?」
「ええ、凄いものが見れましたから。剣の道の頂に登りつめた者の技、それを見れただけで手合せした甲斐があったというものです。何せ……」
「やっぱり話さなくていい」
長くなりそうだったのでカトリの話の腰を折り、カタナはその場に寝そべった。
「……私の事は別にいいのですが。それはそれとして、騎士団長から一つ頼みごとをされておりまして」
「それも話さなくていい、どうせ俺を連れてくるように頼まれたんだろ」
「あ、はい」
内容は解りきっていた。
本日の昼、カタナはシュトリーガルに呼び出されている。何か用があるとの事だが、詳しい事は聞かされていなかった。
いつもなら何か小言を言われるだけだろうと、すっぽかすところである。しかし、今日のカタナは少しだけ事情が違った。
(サイノメが言い残した事……ゼロワンの行方と、今日それが解るという話。それが確かなら、あの狸の呼び出しに関係があるのかもしれない)
元々サイノメをカタナに引きあわせたのはシュトリーガル・ガーフォーク。彼が帝国特務からカタナを引き抜いた張本人である。
(何か面倒な事になる気がするが、しょうがないか)
動かざるを得ない状況という事が、拭えない嫌な予感を感じさせるが。カタナは諦めて騎士団長の執務室に向かう事を決めていた。