三章第一話 日課が起こす事
カトリ・デアトリスの朝は早い。
強くなる、その単純だからこそ茨の道である目標を掲げた彼女は、鍛練の為に時間を使う事を惜しまない。
だからカトリが食事や睡眠の時間を切り詰めている事は、当人にとってはむしろ当たり前の行動であった。
しかし、そんな中で絶対に欠かしていない日課も存在する。
(今日も私が一番のようですね)
協会騎士団本部には聖堂と呼ばれる場所がある。
そこにはかつて世界を救った勇者、ミルドレットの像が祀られており。戦いと希望の神としても崇められているミルドレットに、信者達は毎日そこで祈りを捧げている。
カトリの日課というのも、一日の始めにはそこで祈りを捧げる事であった。
(……)
何を願うわけでも無い、ただの縁起を担ぐようなもの。敬虔な信者という訳では無いので時間にして数十秒の事。
だがその日に限っていえば、その数十秒が意外な人物と顔を合わせるきっかけとなる。
聖堂に誰かが入ってくる気配を感じてカトリが振り返ると、気難しそうな顔の壮年の男性が立っていた。
「……あ、おはようございます副騎士団長」
「む……」
協会騎士団の副騎士団長にして、『鉄血騎士』とも呼ばれるルベルト・ベッケンバウワーは、カトリの敬礼に対して意外そうな顔をしていた。
多くの騎士達が模範とするほど折り目正しいルベルトが、そのような態度を取るのは珍しい事であった。
「どうかされましたか?」
「……いや、失礼。おはようカトリ・デアトリス」
ルベルトは思い出したようにカトリに敬礼を返した。姿勢は正しいのに、まだそれでもどこかぎこちない様子である。
(なんでしょう? 前に顔を合わせた時は、こんな態度では無かったと思いましたが)
合同訓練やカタナの使いで何度か会った事を思いだしながら、カトリはルベルトの態度を不思議に思った。
「……祈っていたようだが、キミもミルドレットを信心しているのか?」
「ええと、はい。それほど熱心という訳ではありませんが……」
「いや、謙遜せずともよい」
厳めしい顔にどこか嬉しそうな感情を滲ませるルベルト。
「こんな早朝から祈りに来るくらいなのだ、それほど我らが勇者を敬愛しているのだろう? 協会騎士団の騎士としてその気持ちは当然の事であり、隠す必要はないぞ」
「え? あ、はあ」
勝手に頷きながら決めつけてくるルベルトに、更に戸惑うカトリ。
「何せ今のこの世界が平和であるのは勇者の功績であるからな。五十年前の大戦で人々に希望を与えたのも、異界の脅威からこの世界を守り続けていたのも勇者と聖剣の力だ。そして協会騎士団が存在するのは、勇者の残した平和を繋ぐためであり、その誇りは今も我々の胸に深く刻まれている。そうだろう?」
「……そうですね」
何故か誇らしげに語り出したルベルトに対してどう接すべきか解らないカトリは、ただ相槌を打つしかない。
「実は私の師は勇者と共に戦った歴戦の戦士でね、共和国の建国にも携わっていたんだ。今は故人となってしまったが、その想いは私と部下達に引き継がれているよ」
「……素晴らしいですね」
「ところで、前から考えていた事なのだが……カトリ・デアトリスよ、騎士として私の部下になってもらえないだろうか?」
「……それもいいですね……って、はい!? いや、待って下さい」
脈絡のないルベルトの言葉に、危うく適当に返事をしかけたカトリだったが、すんでところで我に返った。
「キミが一日のほとんどを自身の鍛練に費やしている事は知っている。武競祭で見せた剣の冴えもそうだが、私が評価しているのは他の騎士も驚くほどの鍛練に対する力の入れようだよ。そしてキミのように常に上を目指すものを、環境の良い場所に置きたいとも思っている」
「有難い申し出ですが、私は聖騎士カタナの従騎士です。自ら希望した事でもありますし、それを投げ出す気はありません」
「その誠実さは大変結構であるが、あの男の下にいてもキミの将来が閉ざされるだけだろう? あんな怠け者の下にいても、無駄に時間を取られるだけだ」
「……」
カトリは反論できなかった。一日をダラダラと怠惰に過ごすカタナと共に居ても、求める強さを得られないのは事実である。
「カタナが強いのは私も認めている。少なくとも敵に回る可能性を潰す意味で、同じ騎士団に所属しているというのは心強い。だが正直に言えば、あれは味方に必要ない」
「味方に必要ない?」
「そうだ、むしろ害悪と言っていい。あの男には、騎士に必要なものが欠け過ぎている……理念、協調、誇り、倫理、挙げればきりがないほどにな」
「……確かに騎士としては失格してる部分は多いですけど、あの方はあの方なりに自分が動くべき時を見極めて、そういう時に全力を出す人です。事実、カタナさんの強さが誰かを救っている姿を私は何度か見てきました。害悪は言い過ぎなのではないでしょうか?」
カトリの反論に、ルベルトは否定の意味で首を振る。
「むしろそれがいけないのだ。普段怠けていても肝心な時だけ功績を挙げる、躍起になって努力する者を怠惰な者が常に置いていく、そういう事では他の者の士気に関わってしまう」
「……こんな事を言いたくはありませんが、そのような事を気にする人達こそ騎士に必要なものが欠けているのだと私は思います」
「む……」
辛辣とも言えるカトリの言葉に、ルベルトの眉根も寄る。
「もし確固たる理念があるのなら、功績など必要ない筈です。もし誇りがあるのなら、自身の努力を信じられる筈です。そんな弱さを誰かのせいにするのは、それこそ騎士失格です」
「そのような事をはっきりと、中々に言うな」
普段は落ち着いた物腰でも、結構直情的な所があるカトリ。悪い癖というべきなのか、副騎士団長を前にしても思ったままを口に出してしまっていた。
「申し訳ありません、従騎士風情が言うには出過ぎた事でしたか?」
「いや、私の中のカトリ・デアトリスの評価がまた上がったよ。やはりキミの様な者にこそ、協会騎士団の一翼を担うに相応しい。是が非でも私の部下に迎えたくなった」
寛容なのか、それともそれほどの何かを期待しているのか、ルベルトはカトリの言葉を不問にして勧誘を続ける。
「……それはもうお断りした通りに」
「ふむ、どうしても駄目か?」
「ええ、実は正直に言いますと、副騎士団長の言うような騎士に必要なものを、私は持ち合わせておりません。本来ならばここに居る事も許されざることなのですから」
「……何を言う、キミがどれほど鍛練を積んでいるのか私には理解できる。そしてそこまで自分に厳しい者こそ、人々の盾となる騎士には相応しい」
「確かに強くなることを誰かの為に望むのならそうなのでしょう……ですが、私は違います」
「何?」
「私が強くなりたいと願うのは自分の為なのです。自分の目的の為だけに剣を振り続けています。それでもなお、私が騎士に向いていると思われますか?」
「……」
カトリがこの協会騎士団に入って思い知った事がある。それはここの騎士のほとんどが、続く平和を守るために強くなろうとしている事。
訓練を共にしてみて、復讐の為に剣を振る自分とは根本的に違うと身に染みていた。
「カタナさんよりもきっと、私の様な者こそが害悪なのです。では失礼します」
幻滅した様子のルベルトの視線から逃げるように、カトリは聖堂から出て行こうとする。
「待ちたまえ、キミの目的というのは何なのだ? あくまでカタナの従騎士の位置に拘っているという事は、奴に関連があるのか?」
ルベルトの問いにカトリはかぶりを振る。
「いいえ違います。私が聖騎士カタナの従騎士でいるのは、彼が私の知る中で最も強く、目指す指標にしておきたいから……ただそれだけです」
他の理由は今のカトリには考え付かなかった。
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時刻は正午を回り、昼食の時間となる。
そしてその時間、カトリ・デアトリスはもう一つの日課となっている事を済ませる為に、騎士団兵舎の中庭に来ていた。
(……なんでこんな人のフォローを、私はしてしまったのでしょう)
朝の副騎士団長とのやり取りを思い出し、目の前の光景に嘆息しながらカトリは前髪をかき上げた。
カトリの目の前には二人の男女が並んで眠っている。
一人は強い日差しの下で熱くなっていそうな黒い外套を着た、灰色の髪と灰色の瞳に、病的なまでに白い肌をあわせもった不健康そうな男――従騎士としてカトリが仕えている聖騎士カタナ。
そしてその隣でカトリの到来と共に身を起こして目を擦る、侍女服姿の赤髪赤目の美女。
「あら、おはようカトリ・デアトリス。いつもご苦労様ね」
「おはようには遅い時間ですよリュヌさん。いえ、そんな事より何をしているんです?」
カタナの隣で眠っていたリュヌに、カトリは怒りを抑えながらかろうじて落ち着いた声音でそう聞いた。
「え? 何って、添い寝だけど」
「だから、何でそんな事をしているのかと聞いているのです!!」
とぼけた様子のリュヌに、カトリの怒りは一秒も抑えられていなかった。
「我が君が寝ていたからだけど……サイノメに今の時代の従者は、主人が寝ていれば添い寝して当然って言われたけど、違ったの?」
「違います!! ああもう、あの人は本当に!」
頭痛がしてきたようにカトリは頭を抱えた。
カタナの従者としていきなりやってきたリュヌは、最近のカトリの悩みの種であった。
それは吸血鬼である事に対してというよりも、時折見せるリュヌの浮世離れした行動に対してと、それを目撃した周囲の反応。
「いいですか、貴方のせいで変な噂が立っているんです! もう少し自覚を持って節度を考えて下さい」
今のところカタナに付き従う様子のリュヌであるが、他の騎士からはそれを良く見られていない。
美女をはべらす好色な男として、カタナは騎士団本部中で噂され。元々一部の者からそのように見られていたカトリにも風評被害が強まっていた。
更にはフランソワ・フルールトークの事まで持ち出され、年端もいかぬ少女まで弄んでいるとして、ある意味自業自得ともいえる悪評が広まってしまっている。
「我が君はそんな噂気にしていないわ。ある意味事実なのだから、放っておけばいいのよ」
「私に関しては全くの無根です!」
「あら、カトリ・デアトリスは我が君の事嫌いなの?」
「か、関係ないでしょうそれは。好きか嫌いかとは、また違った問題です!」
落ち着いた空気と大人らしさを持っているリュヌだが、少し天然が入っているのか突拍子もない事を言ったりして、時にはカトリを苛立たせたり困らせたりすることがあった。
「……うるさい。ああ、もう昼か」
カトリとリュヌの噛み合わないやり取りの横で、カタナはのそりと身を起こす。昼に起こしに来るのが日課となってしまっているカトリの声で、時間を知ったようだ。
「貴方という人は本当に!!」
「……なんでいきなり怒りが爆発してるのか知らんが、ちょうど良かった。カトリ、お前に頼みがある」
「ぐ……な、なんですか?」
説教をするタイミングを逸らされた事と、カタナからの頼みというどうしようもない程の嫌な予感に、カトリは身構えた。
そして予感は的中していた。
「変態鍛冶師がお前を呼んでいた。そのついでにリュヌと会ってみたいと言っていたから魔窟に連れて行ってくれ」
「……私を指名ですか? 本当はカタナさんも呼ばれているんじゃありませんか?」
「俺は自分から用が無い限り、あの変態には会いたくない」
そう言って面倒を全てカトリに押し付けるカタナの態度は、いっそ清々しいものである。
「高くつきますよ、これは」
「解っている。その報酬代わりに明日は、お前にとって有意義な人物と会わせてやる」
「有意義な人物?」
疑わしそうに半眼で睨むカトリ、件の変態に会う事と釣り合うような人物がいるのかどうか、それが怪しいと判断しての事なのだろう。
「協会騎士団の騎士団長シュトリーガル・ガーフォーク、お前にとっては『剣聖』の呼び名の方が、そのありがたみがあるだろうが」
「本当ですか!?」
それはカタナの予想通りの食いつきであった。
「少しくらいは都合できる、一応俺の後見人でもあるしな」
「解りました。ではリュヌさん、行きましょうか!」
「えーと、変態とか魔窟とか何の話なのかしら? あまり良い響きでは無いようだけれど……」
状況を把握できていないリュヌを引きずるように、カトリは意気揚々と法士棟の方に向かって行く。
昼食の時間だと、カタナに知らせる為にここに来たことを忘れて。
「……あいつ、昼飯抜きか」
面倒を押し付ける事に成功したカタナは、悠々と食堂に向かうのであった。




