三章プロローグ 帝国特務が壊滅する時
ガンドリス帝国軍の帝国特務に所属する『風神』は戦慄していた。
空間魔法により広げた意識と知覚の範囲。それによって風神は周囲一帯の戦況を誰よりも正確に認知している。
後方支援としてその戦況を即時に仲間に伝える事が任務であり、それ以上のものは誰も風神に求めていない。
だが時としてそれが、何よりも残酷な事実を風神に突きつけることもある。
今がまさにそうであった。
<……よう風神。聞こえているか?>
「聞こえているよ『雷雲』」
風の振動を操り、遠く離れた相手と会話が出来る風信魔法。風神は姿の見えない仲間の最後の言葉を聞き逃さまいと、集中を強めた。
<どじったわ、俺はもう駄目だ。他の奴はどうだ?>
「……ほぼ全滅。『鋼』が残っているが、奴の性格上退く事は無いだろう」
<そうか……まあ、あいつならそうだろな。悪いな風神、面倒な役を任せる事になりそうで>
「……」
<泣いてるのか?>
「……泣いてなどいない。私の事よりも、他に何か言い残す事は無いのか?」
<ああ、はは。何か言っとこうと思ったんだけどよ、意外に何も浮かばなくて困ってんだ。きっとこんなとこで中途半端に死ぬってのが、帝国特務に入った時に覚悟出来てたからかもな……>
徐々に小さくなっていく仲間の男の声、聞いている風神にもう長くないだろうという事を実感させた。
<……いや、きっとお前と最後に話せて満足しちまったんだな。知ってたか? 俺、風神のこと狙ってたんだぜ>
「知っていた。すまん」
<はは、謝んなよ。まあそうか……そうだな、これで本当に思い残すことが無くなったわ。姿は見えないけど……これって好きな奴に最期を看取ってもらってるわけだもんな……>
「……雷雲」
<俺みたいな……はみ出し者には…………じゅうぶん……すぎ……>
「……」
そしてまた一人、仲間の命がこの世から消える。
慣れてしまったのか、それともそれを感じたくなかったからか、風神は即座に自分が行わなければならない次の事に頭を働かせる。
(こうなればもう私がここに居る理由は無い。本国に帰り、この凶報を伝えねば)
自分だけが安全地帯に居る事、それを申し訳ないとは思わない。
それが風神の役割で、決して超えてはいけない一線。今は心を凍りつかせる事が何よりも必要なのである。
(かたき討ちは次の機会でいい。今は生き延びる事が最優先)
この戦場で失われた五十八の同胞の命を無駄にしない為に、風神は最後に残った仲間に一言だけ伝えた。
「撤退する。その気があるのならポイント拾壱まで来い」
きっとこの戦場で失われる同胞の命は、五十九になると解っていながらも。
++++++++++++++
<撤退する。その気があるのならポイント拾壱まで来い>
かすかな風と共に、感情が冷え切ったような落ち着いた声が『鋼』の耳に届く。
「悪いさ風神。こんな最高の場所から逃げるなんて、俺には無理さ」
風神からの返答は無い。鋼にとっても独り言に近い言葉だったので、それでも良かった。
全身の刺青――そこに隠された人体魔法印を起動させながら、鋼は正面に立つ敵に向かって堂々と宣戦布告を言い渡す。
「俺は帝国特務の戦闘狂、鋼。さあ、喧嘩を楽しもうさ」
魔法印から発現するのは錬金魔法の最高峰、『錬装』。鋼の身体を隈なく守る赤い全身装具が、霊光と共に現れる。
「……戦闘狂に喧嘩か、死線の中だというのに実に楽しそうだな。ならば、こちらもその礼儀に則ろうか」
鋼の相対する敵は、可笑しそうにその黒い瞳を見開いた。
「私はオルトロス部隊の先駆け、ギルダーツ。鋼とやら、その楽しみを自己の満足で終わらせないでくれよ」
鋼の身体よりも一回り大きい巨体を揺らし、ギルダーツは名乗りを上げる。鋼もまたそれに応えるように手甲を握り締めた。
「あんた中々ノリがいいさね。でもその余裕は、ちょっと鼻に付くさ」
「それはそうだろう。そちらとこちらでは既に立っている土俵が違うのだからな」
「あん?」
「その鎧からも解る、そんな物で身を守らなければ戦えない惰弱さは私には無い。この身体が一つあれば、どんな武具もゴミ同然であるからな」
自信満々に言ってのけるギルダーツは確かに軽装で、平服と何ら変わりない格好に武器も何一つ持っていない。
だが鋼には解った。その言葉と自信に裏打ちされる単純な強さが、ギルダーツにはある事に。
(ビリビリくるさ、この脅威と重圧。コイツは勝てない相手さ)
直感で敗北を悟りながらも、鋼は笑った。
ここは死地だが、それすらも感謝出来る程だった。
「弱いとかゴミだとか言われなくても解ってる事さ。だけど強さってのは色々あるもんで、時には運すら関わってくるってのが俺の持論なんさ」
「……何が言いたい?」
「つまりは、何でもやってみなきゃ解らないし。そうやって壁にぶつかっている時が最高に楽しいって事さ!!」
鋼は手甲を打ち鳴らし、拳に刻まれた魔法印の法式を起動させる。
「まずは一発喰らっとけ!!」
発現するは三連魔法印・天上天下。拳打の衝撃強化、鋼にかかる反作用のみを反転、更に衝撃を分散させないという連式の魔法印。
三つの内二つも物理法則を無視したものなので、それだけ使用者の負担も危険も多い。鋼に許されている使用回数は僅か一撃分のみである。しかも発現するのは拳の先の僅かな範囲のみ、それを外せば全ての衝撃が鋼に返ってきて粉々になる。
「っらあああああああああああああああああ!!」
そんな諸刃の拳を、鋼は何の躊躇も無く打ち出す。
命を懸けた大一番。その一瞬に限って言えば、地下闘技場の闘士として生きてきた鋼の場数は誰よりも優れているだろう。
自分よりも強い相手と命のやり取りをしてきた経験、そして勝ち続けてきた経験は、鋼から迷いを取り除いていた。
だが、迷いが無いという点では対するギルダーツも同じ。
「良い気迫だ」
避ける素振りも見せず仁王立ち。厚かましいまでにその自信は鋼にとっては最高の好機であった。
天上天下を伴う鋼の拳は、ギルダーツの身体の中心を直に捉える。
そして衝突。
法式によって衝撃が分散しない為に音は全く響かず、反作用もないので鋼は全く手応えを感じない。だが、今までの生涯で最高の一撃を打てた事だけは自覚できた。
だからこそ目の前の敵が立っている事に、いや人の原型を留めている事に鋼は納得がいかなかった。
「……気迫に違わぬ良い一撃だ。竜鱗十層分相当の私の装甲を通し、痛みを与えられるとはな」
竜鱗十層分と言ったギルダーツの言葉が正しいのであれば、ただの地肌を堂々と装甲と言ってのけるのも頷ける。
「時には運も強さに関わる――そう言ったそちらの言葉は、久方ぶりのこの痛みと共に胸に刻んでおこう。そして、次は私の持論を評してもらおうか」
ギルダーツは拳を引き、そして打ち出す。
「強さとは硬さだ」
「う……」
鋼は咄嗟に、利き腕を庇って左手を体の防御に回した。切り札は不発に終わっても、勝利への執着はまだ捨てていないのだ。
だが無常。ギルダーツの拳は鋼の左腕をへし折り、錬装によって生み出された鎧を砕き、身体の中の臓腑を壊して吹き飛ばす。
「がはっ……あうあ、げほ……」
体内から込み上げてきた色々なものを吐き出しながら、鋼は認める。
(あー、もうこりゃ無理さ)
悟っていた敗北が現実となった事を、鋼は認めるしかなった。
「硬き者こそが砕く権利を常に持ち続ける。どうだその身に刻まれたか?」
人にとって豆腐を砕く事が造作も無いように、ギルダーツが鋼の身体を砕く事は造作も無い、という事なのだろう。
「……一発で、ここまで腹の中グチャグチャにされちゃ……反論……も、できねえさ」
霞みだす視界、自由の利かない自身の身体、喉の奥からあふれ出てくる血流、もうどんな医者に見せても命は助からないだろうと鋼は自分の死を自覚した。
しかしそんな状態でも、あさっての方向に曲がった左腕を引きずりながら、鋼はフラフラと立ち上がった。
「何故立った、もう戦えまい?」
「そりゃ……意地があるからさ…………男にはな」
敗北は認めても屈してはいない。最後まで挑戦の意思を持ち続ける事で、鋼は心だけは折れていなかった事をその身で示した。
「……ならば武人として、全力で相手しよう」
もはや構えすらとれない鋼だが、ギルダーツのその言葉に応えるように、最後の力で右腕を振り上げた。
「何をダセーことやってんだ、ギルダーツのおっさん」
「――ぐあ!?」
突如として鋼の右腕はバラバラになった。まるで網目を通したように、賽の目状に斬れて地面に落ちていく。
しばし鋼は無くなった利き腕の先を探すように呆然と見つめたが、次の瞬間には背筋が凍るような殺気を感じ取る。
(ああ、本当に……ままならないさ)
何が起こったのか理解できない以上に、どうあっても今の状態では抗う事が出来ない。鋼にはもう、どうする事も出来なかった。
「こんなゴミにいつまでも時間かけてんなよな。俺の仕事が増えたじゃねえか」
全身がバラバラになっていき、鋼は望んだ死に方を得られぬままその人生を終える事になった。
同時に、決して表の歴史には上がらない世界の裏側で行われた二度目の戦争、バティスト王国のオルトロス部隊とガンドリス帝国の帝国特務の戦いは、人知れず幕が引かれる事になった。
++++++++++++++
ネズミの様な顔つきの黒髪黒目の男は、バラバラになった鋼の死体を蹴飛ばして嘆息した。
「ギルダーツのおっさんさ、もうちょっと自覚しようぜ」
「何を自覚しろと?」
ギルダーツはネズミ顔の男を咎めるように、好戦的な視線で答える。
「俺達は武人だとかそんな立派なもんじゃねえって事だよ。木偶人形がそういう事言うのって、結構寒いもんがあるぜ」
「私には、自分自身を木偶と言ってのけるそちらの神経が理解出来んよ、グリシルク」
「いや、だってそうだろ。魔人だとか呼ばれて、自分達で黒の民だとか主張したりしても、俺達の本質は木偶……使い潰しの操り人形だ」
ネズミ顔の男――グリシルクは諦観の混じった表情でギルダーツの巨体を見上げた。
「私もお前もこうして自分の意思で戦っている。何をして操り人形とほざく?」
「戦ってるのはラスブートに言われたからだろ、他に道が無いからあいつに付いていってるだけで、それは自分の意思とは言わねえよ」
「……贅沢者の意見だな。本来道が無かった私達に希望を示したのが黒の巫女であり、それに乗る事が出来たのがラスブートだ。不満ならば、グリシルクは自分で道を探せばいい」
「それが出来ればこんな所でダセー文句ばかり言ってねえよ。あーやだやだギルダーツのおっさんは、正論ばっかでこういう時までガチガチに硬いんだからよ」
ギルダーツの物言いにグリシルクが呆れ、その逆もまた然り。
それでも二人が行動を共にするのは、一応目的に対する実力だけは認め合っているからだった。
「また喧嘩してるのか?」
そう言ってもう一人、ギルダーツとグリシルクの間に割って入る者が現れた。
「何だ新入り、文句があるのか」
「……文句は無い。ただ現状の確認がしたかっただけだ」
新入りと呼ばれた男もまた黒髪黒目であった。しかしギルダーツやグリシルクとは全く違った特徴も持っていた。
それは肌、浅黒い肌のギルダーツとグリシルクとは対照的に、新入りと呼ばれた男の肌は病的なまでに白い。
「現状の確認だ? そんなもんいるのかよ? 明らかに皆殺しで、はいお終いだろ」
「……グリシルクの事は気にしなくていい。新入りよ、何か気になる事があるのか?」
「戦っている間ずっと、離れた所で気配がしていた気がするが……今はしない。誰か逃がした可能性があると思ったが、お前達は何も気付かなかったか?」
その言葉に、ギルダーツとグリシルクは眉を潜める。思い当たる節は無い様子であった。
「新入りの気のせいじゃねえのか?」
「……そういう事にしたいならそうすればいい。それと、俺のは新入りでは無くゼロワンだ」
新入りと呼ばれた男――ゼロワンは、自分だけが気付いていた謎の気配の事よりも、呼び名に関してだけ強く主張した。
「へ、そんなダセー名前よりも新入りの方がしっくりくると思うぜ」
「……死にたいのか、ネズミ」
「あ? なにキレてんだ病人野郎、バラバラにされてえのか?」
途端に一触即発の殺伐した空気になるグリシルクとゼロワン。ギルダーツは呆れながら今度は仲裁に割って入る。
「やめろ、ただでさえ三人しかいない部隊なんだ。一人でも欠ければ次の任務に支障が出てしまう」
「一人くらい欠けても問題ねえよ。あっちにゃ協力者もいるし、ニンゲン相手なら今回みたいに楽勝だろ」
グリシルクはそう言って聞く耳持たずであったが、ゼロワンはギルダーツの言葉に同意するように殺気の混じっていた気配を抑えた。
「……次の任務、ミルド共和国の協会騎士団を相手にするんだったな」
「ああ、そうだ」
「ならそれまでは我慢しよう」
「何勝手に納得してんだよ新入り。ケンカ売っておいてそれじゃ話になんねえぞ!」
グリシルクはあえて挑発するように新入りと呼ぶが、ゼロワンは無視してその場を去る。背後からの悪態も全く気に掛ける様子は無い。
「ちっ、あの野郎。新入りの癖に生意気だぜ」
「グリシルクも相当なものだがな」
仲裁はしても馴れ合いはお断りらしく、ギルダーツとグリシルクで再び火花が散り始めるのであった。
バティスト王国のオルトロス部隊――魔人だけで構成されるその部隊は、かつて協会騎士団と帝国特務によって壊滅させられた。
しかし双頭犬の名を冠するが故か、構成員僅か三名とはいえ再びその牙を剥く。
帝国特務の精鋭六十名を退けた後、次に噛みつくのは協会騎士団。
その必然は、確実に誰かが仕組んだものであった。