二章第二十六話 妹の姉
最悪、としか言いようがない。
降り注ぐ赤い凶刃はその広間の全てを標的としている。
そう、全て。
「コケにされた事は忘れてないんだよねえ凶星。存分に私の魔術を堪能するといいよ」
エトワールには慈悲は無い、躊躇も無い。
(……なんて奴だ)
錬金魔術によって生み出された『血の剣』、頭上から降り注ぐそれらに、カタナ自身は何ら脅威を感じていない。
しかし、この場に居るのはカタナだけでは無い、傍らのフランソワ・フルールトーク、そしてソレイユに操られていた女性達が床に倒れ伏している。
その全てを守る事、可能か否かは考えるまでも無かった。
「――すまない」
カタナは救えない命に対して詫びる。
もし仮に英雄や勇者と呼ばれる器の持ち主がこの場に居たら、全てを救う為に全力をかけるだろう。結果としてそれが無理だとしても、その為に尽力するだろう。
しかしカタナは、もしかしたら救えるかもしれない命すらも放棄した。
この状況下で注意を向ける先が増えるというのは、それだけ隙をうむ機会が増えるという事。そのリスクと人命を量りにかけた結果である。
(これじゃ奴と何も変わらないな。救える命を見捨てるなら、それは自分の身勝手で命を奪う化け物と同レベルだ)
たった一言ではその贖罪にもならない。だからカタナはその罪を背負う事を決めていた。
迷わせることがエトワールの狙いなのだ、ならばカタナがしなければいけないのは、迷わずに心を固める事だ。
(道具のように心を無くせ、今はそれでいい)
心配そうに見つめる視線をフランソワから感じ、そっと頭に手を添える。言葉は交わさない、今のカタナがそれを拒んでいるのを聡い少女が気付いていたのか、口を噤んでいた。
瞬間、赤い剣が降り注ぐ。多くは重力に添って真下に、一部はカタナを狙って軌道を変えて。
それに対してカタナは巨無を構えて迎撃に備える。外套の守天導地は魔術や魔法の干渉に強いが、錬金魔術のように事象ではなく物体として生み出されたものは無効化出来ず、防御能力はただの布地と変わらないのだ。
そして向かってくる剣を捌くためにカタナが剣を払おうとした時、それは起こった。
「……な!?」
「何だと?」
まるで時間が止まったようであった。
いや、実際は止まったのは時間ではなく、天井から無数に降り注いだ剣であった。
エトワールによって発現した血の剣は空中で全てが制止し、数拍の間を置いて全てが消失した。
倒れている女性達に変化は無い。剣はそこまで届く前に消え失せて、彼女たちが何かをした様子も無かった。
「……どういうつもり?」
その現象に驚いていたエトワールは、何かに気付いたようにそう言った。カタナも同時に一つの気配に気付く。
「あんたは……」
霧、いや魔力の奔流と共に姿を現したのはリュヌ。吸血鬼の力を受け入れず、しかし妹達の為にその生を捨てきれなかった者。
だがその赤い瞳に宿る光はカタナに敗北した時とは違い、強い意志が宿っていた。
「姉さん、凶星に負けて情けをかけられたのはソレイユの下僕から伝わっていたけど、私の邪魔をするなんて気でも触れたの?」
「……エトワール、それにソレイユ。私が間違っていたわ、許して頂戴」
「はあ?」
突然の懺悔によって噛み合わない会話。エトワールもカタナも、リュヌの真意が量れない。どちらがどちらとも警戒を向けている。
「貴方達のこれまでの行い……多くの人を殺めてきた事。生きる為だから、仕方のない事だから、放っておいても人は死ぬから、そう様々な理由をつけて私は黙認してきたわ」
リュヌはエトワールと、その身体の元の持ち主であるソレイユにも向けるように言う。
「でも違った、私は逃げていただけだった。貴方達が変わっていくことを認めたくなくて、私だけが置いて行かれる事が寂しくて、ただ目を逸らしていただけだった」
リュヌの言葉には感情を押し隠した以前とは違い、伝えたいという熱が強い意志を表していた。
「あまつさえ、その自分の罪の清算を他人に肩代わりさせようとまでしたわ。こんな卑怯な私は貴方達の姉を名乗る資格はもう無いのかもしれない。それでも……」
その熱は魔光となって彼女の力となる。明確な意志、それが世界に干渉する条件。吸血鬼としての力を忌避し、失う事を望んだリュヌが見せる最初で最後の全力。
「私は貴方達の姉でいたいから。だから止めるわ、恨まれても憎まれても、それが貴方達に出来るただ一つの事だから」
「……止める? あっそ、じゃあやって見せてよ」
エトワールはそんなリュヌを嘲笑うかのように、魔術陣を発現させる。
上下左右から縛呪の魔術が生じ、その絶大な負荷はリュヌを完全に身動きできなくさせた。
「力を取り戻したようだけどさ。ずっと眠らせてた姉さんと磨いてきた私とじゃ、もう勝負にならならないんだよ!!」
そしてリュヌを中心に局地的な空間湾曲が生じ、重なった魔術陣の中心に向かって集束を始めた。
「そのまま消えな!!」
エトワールにとって、リュヌは邪魔者でしかないらしく。自身の魔術で押し潰す事を何の躊躇も無く実行している。
むしろそれを心から望むように、エトワールは喜々として行く末を見つめていた。
「確かに勝負にはならないわね……」
しかし、生じた霧はかつての記憶を呼び覚まし、エトワールの表情は一瞬で曇る。
霧消するリュヌの身体。集束する魔術陣の中心から魔力の霧となって消失し、エトワールの目の前でそれは再構成される。
「う、『霧魂』……それも、完全な……」
魔力と魂を同調させ、自身の身体を霊子レベルにまで分解、再構成する技術。エトワールが欲した吸血鬼、いや生物としての一種の到達点にリュヌは立っていた。
「私は貴方達を止めるだけ、勝負するつもりなんて無いわ。この忌むべき力もその為だけに使う、これが私の答えよ」
「そうやって……そうよ、そうだわ……私は……アンタのせいで!!」
激昂するエトワールは持ち得る魔術陣の全てを発現させた。成行きを見守っているカタナの事など眼中にないように、文字通りの全力をリュヌに向ける。
それはまるで怯えている様であった。
「ごめんなさい」
しかし事も無げにあっさりと、収まるところに収まるように。リュヌはその全てに同じだけの魔術を、同じだけの力で発現させ打ち消した。
完全に魔力と同調した魂は、その場の全てを等しく正しく把握する。そうなれば二手先三手先を読む事すらも容易い。
愕然とするエトワールとは対照的に、リュヌは感傷的な表情で見つめる。
「貴方が力を求めたのも、私のせいなのね……」
「く、見下して……いつだってそう。人であった時も、アンタは王国初の女近衛騎士で、私はしがない魔法士。吸血鬼になっても、私やソレイユがどんなに求めても達せない頂きにいて。あろうことか、それを捨てて生きようとした!!」
エトワールは憎かった、姉の才能が。どんなに生まれ変わっても研究を積んでも他人の命を犠牲にしても、埋まらないその溝が。
世界の有り様がそう決めているように、知れば知るほどにそれが如何に絶対のものかを理解させられた。
だから力を憎み、力を持つ者を憎み、最後まで力を求めたのだ。
「こんな力なんて無意味なのよ……本当に欲しいものはこんなものでは手に入らないのだから」
リュヌが欲したのは、ただ妹達と笑っていられる生活。その言葉も想いも、残念な事にエトワールには届いていなかった。
「そうやって守る事が当たり前みたいな顔をされて、私が……私達がどんなに惨めだったか……」
屈折した思いは積もり積もって歪みを見せた。その結果が誰も望まなかったはずの終着点になる。
「ねえ、エトワール。もうやめましょう、いつか力を失ってこの身が滅ぶまで、人として生きましょう」
「うるさい!! ならその力、私が貰うわ!!」
エトワールにはどんな言葉も受け入れられない。進む先は曲げられず、戻る事も出来ない、だからその手を伸ばし続ける。
ソレイユにしたようにリュヌの身体も奪う。そんな浅はかな考えがまかり通る筈の無い事を知っているエトワールだが、それ以外は恭順だと決めつけていた故の視野の狭さがそうさせた。
「……解ったわ。もうこれしかないのね」
エトワールの伸ばした手はリュヌに届いたが、むしろ体の自由を奪われたのはエトワールの方。
力の資質も量も上回っているのだから、そうなるのは必然。そのまま全てを奪われる事をエトワールは覚悟した。
しかしリュヌが出した答えは全く違う、ここには見届ける為に来たのだ。最後の命を捧げに、ずっと先延ばしにしていた罪の清算に来たのだから。
「そんな……姉さん、まさか……」
僅かでもその魂に触れたエトワールはそれに気付くが、もう遅い。
「聖騎士カタナ、今一度貴方にお願いしたい。私の妹達を、私を、殺して……身勝手な頼みだけど、貴方にしか出来ない事だから」
リュヌの願いはカタナの凶刃に託されていた。