二章第二十五話 姉の妹
休む間もなく続けられる責苦は、まるでかつての日々を思い起こすようであった。
四肢は切り裂かれ、内臓は押しつぶされ、ズタボロになりながら這いつくばり、それでも決して命までは取られない。
終わりが見えないという事が、感じる痛みや苦しみ以上に絶望を呼んでいる。
コツコツ
(……今度は誰だ?)
暗闇の中、カタナは足音を聞く。何者かが近づいてくる音は、新たな苦痛の始まりなのか否か。
「おにーさま?」
フランソワ・フルールトークが自分を呼ぶ声を聞き、カタナはもう動かないと思っていた首を持ち上げ、重くなった瞼を開いた。
「フ……ラウか?」
血を吐き出しながら、かろうじて聞こえる程度の声をカタナは絞り出す。潰れた咽から出る声はまるで他人のものの様であったが、声が出ただけでも奇跡に近い状態である。
「そうです。わたくしがお分かりになりますか? 良かったですわ、生きておられて……」
カタナの無事を喜ぶように胸を撫で下ろしたフランソワ。そして、傷つき倒れたカタナの身体をそっと抱き起す。
「おにーさまをこんな目にあわせるなんて、許せません。いったい誰がこのような事を……」
フランソワがカタナの手を握る。すると不思議な事に、痛みが和らぐような感覚をカタナは感じた。
「……まずはお休みくださいおにーさま。今はこの傷が治るように休養が必要です、わたくしにも少しだけなら治癒魔法の心得がありますから」
「……」
冷え切った身体に熱がともるのをカタナは感じた、自然治癒力を高める魔法が効いてきたのだろう。
暖かな安らぎは、同時にカタナの眠気も誘う。
「わたくしは……わたくしだけは何があってもおにーさまの味方です。だから安心してお眠り下さい」
「……味方か」
「そうですわ、ですからわたくしの事も頼りにしてください。おにーさまがわたくしを守って下さったように、わたくしもおにーさまの事をお守りしたいのです」
その言葉は、信じる事が出来ないカタナに対する、輝かしいまでの希望であった。
「……ずっと一緒にいましょう、おにーさま。いえ、ずっと一緒にいさせてください」
それは絶望と孤独の中で生きるカタナには眩しく、それでいて心のどこかで願っていた言葉。
道具として生き、道具として終わる、そのカタナの有り様を変革させられるかもしれない、ただ一つの言葉である。
フランソワはギュッとカタナの手を握りしめ、真摯な表情でカタナの返答を待った。
当然答えなど、決まっている。
「……ああ、ずっと一緒にいよう」
「おにーさま……」
まるで永劫の愛を誓い合うように、見つめ合う二人。
「――なんて言う訳ないだろ偽物」
しかし、解っていた。そして、決まっていた。
カタナの傍にいるフランソワが本物ではない事が。
「偽物? どうしたのですか、おにーさま? わたくしはわたくしですわ。本物も偽物もある筈がありません」
目を白黒させるその少女は、あくまでもフランソワだと主張する。
「無駄だ、お前はフランソワじゃない」
そう言ってカタナはその少女を突き飛ばす。ようやく自力で立ち上がれるだけの傷が癒えていた。
「きゃっ……」
「あいつは泣き虫なんだ、それに心配性でな。前に仕事をサボる口実の為に入院した時には、それでえらい目にあったんだ」
その時のフランソワがあまりに心配して泣くものであったから。カタナは絶対に傷付いてるところを見せてはいけないと、密かに心の内に決めていたのだ。
「……なるほどね、泣き喚けばよかったのか。整然としていて強いフランソワしか見た事無かったから、イメージ湧かなかったなあそれは」
「ようやく姿を現したか偽物」
フランソワの姿をしていたその者は、本来の姿に変容していった。
「偽物じゃなくてソレイユだよ。凶星さんには名乗らなかったっけ?」
赤髪赤目の吸血鬼は、不快そうに表情を歪ませながらそう言った。
「俺はカタナだ、凶星じゃない」
「ふん、お互いさまって事ね。それにしても馬鹿だよね」
「何が……ぐ」
聞き終えるより速く、カタナの身体は自由を失い、その場に突っ伏した。
「あのまま私をフランソワとして認めていたら、いい夢を見られたのにって事よ。苦しむ必要も無く、いつまでもあの子の騎士でいられたのに。このまま悪夢を見続けてる事を選んでしまったあなたは、馬鹿としか言いようがないわ」
きっとソレイユの言いなりになった者達は、彼女が言う悪夢に耐え切れなかったのだろう。
普通は絶望の中に置かれて、僅かでも希望が見えたのならそれに飛びついてしまうものだ。それをはねつける方が異常であると言える。
「馬鹿か……確かにそうだな。だが偽物、親切で教えてやるが、もう何をしても無駄だぞ」
「は?」
「お前の力じゃ、俺には通用しない」
「……負け惜しみやハッタリなら、もう少しマシな言い方をしたらどう? これからあなたには永遠に続く痛みと苦しみが待っているの、もう泣いて謝ってもやめるつもりは無いよ」
「はっ、永遠ね……。本当に永遠続けられるならやってみせてくれ」
「――!?」
途端に、ソレイユの顔から余裕が失われた。
「だろうな、どんな力でも永遠は続かない。この世界で限りの無いものはなんてありえないからな」
それをカタナはよく知っている。
例えば無限の魔力を生み出すというコンセプトによって作り出された魔元心臓――理論上は可能でも、限界以上を引き出せば反作用によって所有者の身体が滅びてしまう為、本当に無限を生み出すのは不可能。
「この空間は幻だ、お前自身がそれを身を以って示した。どうやってるのか知らんが、守天導地が反応しなかったのなら空間掌握、視覚改竄、精神感応、その辺の三段階以上の魔術や技術が発現している。それを維持する魔力がどれだけのものか、お前が一番知っている筈だ」
「……くう」
「はたしてあと何時間だ? 何日だ? 何週間だ? 何か月だ? もし一時でも隙を見せれば、俺はお前を切り捨てる。追い詰められているのはどちらだろうな」
カタナが強気でいられるのは、この幻で死ぬ事は無いと解っているから。
身体に備わっている感覚である痛みは再現できたとしても、体験した事のあるはずのない死までは再現できない。それが幻の限界で、心さえ折れなければカタナに負けは無い。
そしてカタナが握っている主導権の最大の要因は、慣れている事。
「お前が見せる絶望がどんなものでも、きっと俺が知るものは超えられない」
魔元生命体として作り出されたあの場所で、狂った科学者から受け続けた拷問のような実験の数々。
それを五年もの間耐え抜いたカタナに、ソレイユの見せる幻はまだぬるい。
絶望の中で生き続けるカタナに、希望をあえて跳ね除けるカタナに、悪夢を見せようとしても当たり前のこと過ぎて笑われるだけなのだ。
カタナの思考からそれを読み取ってしまったソレイユは、逆に絶望を感じる程に打ちのめされた。
「く、くそ、くそくそくそくそっ!! なんだって、なんだっていうのよ。どうして望み通りにならないのよ!!」
ソレイユは息を荒げて、ヒステリーを起こす。愚かで憐れみすら感じる姿を晒していた。
「これじゃあ、何のために……」
「私を喰らったのかって?」
何かを言いかけたソレイユは、その後に続く言葉が背後から聞こえた事に驚愕した。
「うそ……エトワール姉様?」
「正解よ、ソレイユにしては珍しく賢いわね……でも、もう遅いわ。さようなら」
「ひっ」
振り向くと同時に、ソレイユの喉笛に牙が付きたてられた。
血肉が飛び散る様な事は無く、霧消していくソレイユの体。それを感慨深げに見下ろすもう一人現れた赤髪赤目の長身の吸血鬼。
「全く愚か者だわ。魔力をまともに活用できない足りない知識もそうだけど、私がそうやすやすと取り込まれると思ったその浅はかさがまさしくね」
喜ばしげに語るのはエトワール。それが幻なのかどうか、傍で見ていたカタナには判断がしかねる状況であった。
だがそれもすぐに解る。
「さあ、凶星。本物の吸血鬼の力を見せてあげるわ」
エトワールの言葉と共に、カタナは現実へと引き戻された。
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「おにーさま!」
すぐ傍にフランソワの姿を認め、カタナは自分の身体を見回した。
どこにも異常の無い全くの無傷、ボロボロになっていた筈の外套も元通りになっており。やはりさっきまで見ていたのは、ソレイユの見せていた幻であったのだろう。
周囲には、ソレイユの人形と化していた女性達の倒れている姿もある。
「フラウ、大丈夫か?」
「わたくしは大丈夫です。それよりもおにーさまの方が……」
心配そうに瞳を潤ませ見上げるフランソワを見て、カタナは問題ないと判断した。それ以上の問答を避けたのは、他に注意を向けるべき対象が存在していたからだ。
「流石に二度は隙をつけないわね。なかなか聡いじゃない凶星」
階段の上、赤髪を揺らす姿はソレイユに間違いない。しかしどこか違和を感じる振る舞いであった。
「……あの人、さっきまでと雰囲気が違います」
フランソワの目にも何かが引っ掛かったらしく、それを指摘する。
「そちらも中々目聡いわね。そうよ、この身体はソレイユのものだけれど、心は私エトワールのものになったの。魂理論って知っているかしら? いや、凶星は知っているわよね」
「……生命体の活動が肉体的なものだけでなく、精神的あるいは霊子的なものと共にあるという理論だ」
「そうよ。生命体の思考や意識は、肉体的に見れば脳の活動という以外に考えられないけど。実際にはそれ以外のその生命体の内面を形作るものがある、それが魂」
魔法によって発展した生物の学問において、新たに発足した理論。
カタナはそれをよく知っている。何せ自身が作り出された事に、深く関係している事であるのだから。
転生、伝承――魔元生命体の人工の身体にカタナという人格が宿ったのは、精神的あるいは霊子的な方法で魂を吹き込まれたから。
「吸血鬼と呼ばれる私達にもそれはある。こうやって妹に取り込まれる形になっても体を奪えたのは、『黒死病』の研究を長く続けてきたおかげよ。あれは魂理論に深く関わっていたもの」
得意げに知識をひけらかすのは、研究者としての性なのか。エトワールは聞いてもいない事を語り出していた。
「どうして人の身体ではなくなっても同じ記憶を持っていたのか、私はずっと疑問だったから魂の研究は目から鱗だったわ。まさかこうして実際に役に立つとは思わなかったけど……」
研究という言葉を聞くと、カタナとしてはどうしても否定的な考えが浮かんでくる。エトワールの話し方も、かつて散々な目にあわされた研究者達の物言いと似通っていて、癪に障るのだ。
「その研究、お前は何人犠牲にした?」
カタナの問いかけは、その否定的な感情が間違いではないかを確かめる為。もし予想が正しければエトワールの研究には相応の実験体が必要であり、その対象は人間という事になる。
「六十三人よ、それがどうかした?」
人数を憶えているだけ良心的、とは思わなかった。あまりにも気の無い返答は、奪った命に対して何も感じていない事を如実に表している。
「もういい、お前の話など興味は無い」
「あっそう、貴方はやっぱり私の嫌いなタイプだわ。でも私は興味が湧いたの……魔元心臓、ソレイユが貴方の思考を読み取った中にそれはあったわ。あの子の浅慮もたまには役に立つのね」
エトワールの目は、既にカタナを敵ではなく研究対象として見ている。それが感じていた不快感の正体だったのだろう。
「もし魔元心臓を渡すのなら、フランソワ・フルールトークは見逃すわ。私はその子に何の興味も無いから」
「……またそれか。どう思うフラウ?」
「聞く必要はありません」
先程のエトワールの気に入らない返答もさることながら、カタナの手にフランソワが戻っている以上、それは交渉にもなっていないように思われる。
しかし実は、この場の優位性は一転して微妙な状況である。
(……四、いや五。見えているだけでもそれだけの魔術陣か)
壁や床から魔光が上っており、いつ魔術が発現してもおかしくない。カタナが二の足を踏んでいるのもそれに起因している。
一人ならば特攻がおそらく最善手になるが、フランソワを伴っている状態では危険が多すぎた。
(退くのはもっと危険だろうな。これだけ準備していた相手だ、退路に何もしかけてないはずが無い)
仮に逃げ延びたとしても、また結局はフランソワが狙われるという事になるだけ。その悪循環は考えたくも無い事である。
「迷っているわね凶星。ならそのまま死になさい、貴方の中にある遺物だけは後で頂く事にするから」
そう言ってエトワールは飛び上がり、高い天井に蝙蝠のように逆さ釣りに立ち、カタナ達を見下ろした。
「『血の剣』、さあ血の雨を降らしなさい」
錬金の魔術によって生み出された赤い刃が、広い天井の全面から無数にその切っ先を覗かせた。