二章第二十四話 ソレイユの『幻惑(ヒプノシス)』
ソレイユは笑う。
何も可笑しい事は無い。何も嬉しい事は無い。されど笑う事を止められずに、強いられているかのように笑い続ける。
「きゃはははははははは……」
天に向けて響かせている笑い声、それが彼女なりの追悼だった。
今しがたこの世から消えた命に対しての、自身が食らった姉に対しての、ソレイユが出来たせめてもの事であった。
「はははははははははははははははははは……はーあ、もういいや」
ようやく感情が収まった時、ソレイユは初めて笑みを消した。常に笑っていよう、そう決めたのはまだ人間であった時からで、吸血鬼になってもそれは忘れなかった。
上の姉は騎士で、下の姉は魔法士、しかし自分には何もない。ならせめて、いつも笑っていよう。それが取り柄になるように。
病床についていたソレイユにはそれしかできなかった、だからそう決めていた。
「馬鹿馬鹿しい、そんなの化け物になった時にとっくに治ってるのに、律儀なものだったわね」
吸血鬼と呼ばれる存在になった時、ソレイユの全ては変わった。
今にも散りそうな儚い灯の様な命から、人間の命を奪って生き長らえる化け物に。
そうなった理由は、体内に巣食った病原菌によるものだと、研究熱心だった下の姉のエトワールが語っていた事をソレイユは憶えている。
魔術式の刻まれた病原菌、通称『黒死病』。人の体内に入り込めばまず大多数は死に絶え、奇跡的に耐えて生き残った者は、吸血鬼という化け物に体内から作り変えられてしまう。
吸血鬼は人の血を欲する。霊力を多分に含むそれを定期的に取り込まなければ、体内の病原菌の活動が維持できなくなり、結果としてそれで保たれる吸血鬼の命も保たれなくなるから。
吸血鬼となったソレイユも、今までに数えきれないほどの人間をその手にかけてきた。一人目を殺した時は感情を持てあましたが、二人目の時には慣れてきて、三人目からはほとんど何も感じなくなっていった。
それだけ肉体だけでなく精神も化け物に変わっていったということなのだろう、いつしかソレイユは人間を家畜ようにしか見れなくなってしまっていた。
人を殺さずに、少量の血を得るだけに留めようとした事もある。しかし吸血鬼の存在が知られれば、当然その存在を許容される筈も無い。敵として追われる事がソレイユの人間に対する差別視に拍車をかけたのだ。
「でも、まあそんなの別段大した事なかった。私が本当に化け物になったのはきっと、今この時だよ……エトワール姉様」
一線を超えたという自覚がソレイユにはあった、人を初めて殺した時以上の。
もう戻れない、取り戻せないものを失った実感があった。
「ありがとう」
もう亡骸も残っていない姉、今しがた自分が喰らいつくしたものに対してソレイユは別れを告げた。
しかしそこには後悔も悲哀も無い。
「これからは私がエトワール姉様の分まで生きて、今まで以上に楽しむから……だから……精々私に呪いを捧げてよ」
そしてソレイユは笑顔を取り戻す、作ったものでは無く、心からのもの。
自分を真の化け物として認め、もう何も怖くは無くなった彼女だからこそ出来る顔であった。
「それじゃあ踊ろうか、お二人さん」
ソレイユの視線の先には剣を構えたカタナと、その後ろに控えるフランソワの姿が映っていた。
++++++++++++++
目の前にカトリ・デアトリスが立っていた。
それがあまりにも突然の事で、カタナは思考が追いつかなくなる。
(どうしてここにカトリが? いや、それよりも……)
フランソワの姿が無い、それに先程まで笑い声を上げていたソレイユの姿も。
場所は同じ館の中、その筈なのに別の空間に迷い込んだような違和感をカタナは感じていた。
「どうかしましたか?」
カタナが逡巡していると、カトリが不思議そうに声を掛けてくる。
「……お前は誰だ?」
「何を言っているんですか? 私はカトリ・デアトリス、貴方の部下ですよ」
そう返すカトリには不審な点や違和感を感じない。外見は元より、細かい仕草もカタナが知っているカトリ・デアトリスそのものだ。
だが、それも次の瞬間には間違いであったとカタナは知る。
「――!?」
目先をかすめるような剣閃、カトリの腰から抜き放たれた魔法剣が横一文字の軌跡を描く。
間一髪で回避したカタナは間合いをあけて、巨無を構えた。
「……どういうつもりだ?」
「さすがですね。完全に不意を打ったのに……まあ、それでこそ倒す価値があるのですけど」
問いには答えず、カトリは駆身魔法を発現させる。困惑するカタナをよそに、完全に戦闘態勢に入っていた。
「いきます」
いつだったか、初めて対した時のように、カトリは必殺の剣気を漂わせてカタナに突きを放つ。
駆身魔法によって高速化された動き、それを伴うカトリにとっての最速の剣。
カタナにとっては以前に見た動きであり、かつて破った技。
如何にカトリが駆身魔法によって動きを速めても、カタナの生まれ持った身体能力を上回るには及ばない……筈だった。
「……何?」
肩口に広がった痛み、同時に血が流れだす。
カトリの刃はカタナの身体を貫いていた。急所は外しているが、それは決してカタナが見切っていた訳では無い。
「まずは最初の一戦の雪辱です。どうです、手加減される気分は?」
今のカトリの動きは、カタナの知っているそれとはまるで別物であった。いや別次元と言っても良い、反応すら許されなかったその剣の動きは、カタナが痛みを感じるまで全く見えていなかった。
「本気を出す気になれましたか?」
これで終わらせる気は無いらしいカトリは、次の一撃の為に新たに構えを正す。
カタナも肩の痛みに耐えながら、構え直す。
しかし本気も何も、それでいえば間違いなくカタナは本気であった。警戒していたからこそ、最初の不意打ちに気付けたわけであり。受けた突きも、始動までは注視していた。
それでも見切れなかったなら答えは一つ。
「つっ……ぐう」
またしても、カトリの剣はカタナに傷を負わせる。今度はもっと深く、そして更に続く連撃によってカタナの身体は切り裂かれた。
力の差は間違いなく、カタナが膝をついた事で歴然と示していた。
「まさか、これが貴方の本気ですか? 幻滅です、私がいつか超えると意気込んだものがこの程度だったなんて……」
カトリは剣を収め、つまらなそうに呟く。
「弱い貴方には、もう興味も価値もありません。さっさと死んでください」
カタナは噴出した血に染まり、ついには自身の血だまりに倒れる事になった。
(……くそ、この傷の深さ、不味いな)
敗北の苦汁や、傷の痛みには慣れている。しかし血を流し過ぎたカタナは、身体の自由を失い始めていた。
既に出血死してもおかしくない程であり、意識を失っていないのが奇跡に近い状態。
このままでは絶命も時間の問題であった。
「相変わらずのようだな『魔剣』」
(今度は何だ?)
倒れたカタナを見下ろすように、いつの間にか銀髪の女性が立っている。
それはいつも不機嫌そうな表情を浮かべていた記憶のある、かつて帝国特務にカタナが所属していた時の相棒の姿。
「風……神?」
カタナがやっとの思いで絞り出したその名に応えるように、銀髪の女性――風神は頷いた。
「忘れていなかったようだな裏切り者」
「う……があああ!?」
突如としてカタナは押しつぶされそうな程の重みをその身に感じ、全身が軋みを上げていた。
「その姿、本当に滑稽だ。裏切られて殺される、ふ……貴様のような裏切り者の末路にはとても相応しいぞ」
立ち上がる事すらままならないカタナを更に鞭打つように、重力の負荷を増大させる空間魔法の『重烙』を風神は発現させている。
外套に仕込んである守天導地の法式も、カトリによって切り刻まれた事で機能していないらしく。一点に集中され最大の効力を発揮しているそれにより、カタナは自身の骨が砕けていく音を聞いた。
(……どいつもこいつも)
悲鳴を上げる気力すらカタナには残されていない。それでも悪夢ともいえるその現実は終わらない。
「お久しぶりっすね隊長。あ、『元』隊長だったっすね」
今度は背中を足蹴にされる感触、カタナは見上げる事すらできなかったが、その声は聞き覚えがあった。
「……」
「あれ、僕の事忘れてますか? ヤーコフっすよ、ヤーコフ」
忘れてはいない。カタナがゼニス市の駐屯部隊の隊長であった時の副官で、魔竜の一件では一番の功労者であった男。
軽いようだが実直で、正義感に溢れた騎士。口に出した事は無いが、カタナが最も認めていた部下である。
「いいざまっすね、ボロボロじゃないっすか。大口叩く割に大した事ないんすね」
だが、カタナを足蹴にしてせせら笑う姿は、抱いていたヤーコフのイメージとはかけ離れたものだった。
「そんなもんっすよ。あんたみたいな怠け者は結局、いざという時に何もできないで終わる。世の中そんな甘くないって事っすね」
それこそ、カタナの抱いていたヤーコフのイメージが間違いであったと印象付けるように。
「でも最後に、この右足の落とし前だけは付けさせてもらうっすよ」
ヤーコフは剣を抜き、魔竜との戦いで義足となった右足を指して言った。
(……好きにしろよ)
身じろぎも出来なくなったカタナに許されているのは、只々痛みに耐えるという事だけであった。
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「きゃははははははははははは!!」
ソレイユは笑いが止まらなかった。
目前で繰り広げられる光景は、残酷で醜悪な行為の数々。その渦中でひたすら耐え続けるカタナの姿。
それがあまりにも無謀で、無意味な事と知っているからこそ、嘲笑せずにはいられない。
「きゃははははは! 可笑しい、可笑しすぎる!!」
いくら耐えても終わらない、耐えられなくなった時が終わりだというのに、それが意地なのかどうなのか、カタナは屈せずに続けている。
それがソレイユにはたまらなく可笑しい。
「さっさと折れちゃえばいいのに、何がそうさせるんだろ。あなたもそう思わない?」
ソレイユは隣に立つフランソワ・フルールトークに同意を求めた。
「……これは、貴方が見せている幻?」
「そうだけど、そうじゃないわ。幻だけど、現実でもある。それが私の力――『幻惑』、凶星さんとあなたは今、私の意識下にあるのよ。あなたは以前に経験したわよね?」
「そうですわね、この悪趣味さ。記憶にあります」
「きゃはは、生意気言ってくれてさ。毅然としてるようでも、以前より心が揺れてるのが丸わかりだよ? あなた達が私の意識下にあるように、私の意識もあなた達の所にある、いわば共有した状態なんだから」
視覚情報と思考を共有し、記憶を改竄する、それがソレイユの力の大元であり、カタナしか知らない人物をこの場に登場させられる事の裏付けでもある。
ただ今は、カタナからフランソワやソレイユの姿は見えないように細工がしてあった。
「さて私達はじっくりと見物しましょう。姉様のおかげで力の許容範囲も持続時間も大幅に伸びたから、随分と余裕があるわ」
そうしている間にも、カタナに続けられている責めはまるで休まる気配が無い。幻とはいえ、次々と彼の身体には傷が作られていった。
「こんな事無駄ですわ。ただの幻におにーさまもわたくしも屈するはずがありませんもの」
目を背けたくなるような光景を目の前にしても、フランソワはカタナを信じる態度だけは揺るがせない。
だが、ソレイユには決定的なものが既に見えていた。
「あなたはそうかもしれないけど、でもあちらはどうかな?」
「……どういう意味ですの?」
「あなたには彼という心の支えがある。それこそどんな時でも、彼が助けに来てくれるという希望を持てるほどの支えがね。でも彼の方にはそれが無い」
それがソレイユに見えていた決定的なもの。カタナの心に巣食う弱さであった。
「きゃはは、本当に面白いわー。だっていま凶星さんを痛めつけている人達は、彼にとっては大事で親しい筈の人達ばかりなのに、彼自身はその仕打ちを受けても当然だと、心の中では思っているんだから。だって彼も自分は化け物だって自分自身を認めてるもの」
魔元生命体である事はカタナにとっては周囲との壁であり、窮極的にはこの世界には相容れないと思っている。
「どんな目にあっても、誰も助けに来ない。そう思っている彼には、この状況下で僅かな救いも存在しないのよ」
それこそ気が狂う程の痛みを与えられて、廃人と化すまで、カタナには道が無かった。
「この力……本当は男に使うのは嫌だったの。解るでしょ? 思考を共有するって事はあの下衆な生き物の頭の中を見なきゃいけないって事なの、私達みたいな美人を前にしたら大概いやらしい事考えるからねあいつら」
自分の幻惑の力は女性にしか使えないと姉達に言っていたのは、実のところはソレイユの嘘であった。
ソレイユは見下している人間の中でも、更に男に対しては嫌悪に近い感情を抱いている。それこそ、女性以外からは血も受けつけないと定めた程に。
「でも凶星さんは中々いいね。もし使えそうなら私の騎士にしてあげようかな? きゃははははは」
「ふふふ……はは、ようやく貴方から笑える冗談が聞けました」
「……何?」
フランソワにあてつけたつもりが、思わぬ返答が返ってきた事でソレイユの眉根が寄る。
「貴方はおにーさまの事を何も理解していませんわ。あの方の知る苦しみも痛みも、貴方の幻では超える事は出来ない。そもそも想像する事すら不可能でしょう」
「何よ、何が言いたいのよ!!」
「思考や記憶と言っても、押し隠したものまでは貴方には覗けない。ということが言いたかったのですわ」
「はあ!?」
余裕を感じさせるフランソワに、ペースを乱されたのはソレイユの方である。
「おにーさまを見ていれば解ります。一人で生きる事がどれだけ辛い事か、他人と違う事がどれだけ寂しい事か……しかし、だからこそあの方は強いのです」
フランソワはカタナの生い立ちも出自も知らない。しかし神童と呼ばれた少女には、接していくうちに漠然と実感した事が確かにあった。
「どんな逆境も、おにーさまにとっては問題にはなりえませんわ。誰に頼らずとも這い上がる強さがある、孤高という言葉が誰の為にあるのか、きっと貴方はすぐ知る事になるでしょう」
「……相も変わらず口だけは達者な奴ね」
いっそのことフランソワを先に始末するかソレイユは考えるが、どうにかしてこの余裕顔を歪ませてやりたいと、当初の順番通りに事を運ぶことは変えなかった。




