二章第二十三話 異様の中で
階段を駆け上がるカタナを見て、ソレイユは戦慄した。
目の前で姉が切り捨てられた事よりも、その危険が一瞬後には自分に迫っている事に対して。そして、カタナという男への認識が甘かった事を後悔していた。
「――こ、この子が……」
人質として効果があると思っていたフランソワ・フルールトークを盾にしても、カタナは止まらない。
ソレイユは気付いていなかった、カタナから発せられる明確な殺意に。人ならざる力を持っていても、ソレイユはそういう世界に無縁であった故、上の姉のように気配に敏感では無かったからだ。
しかしそんなソレイユも、その時は並々ならぬ恐怖を感じていた。
それはカタナというホンモノを目の前にしたという事と、そしてその手が構えた黒い刃を目の当たりにし、ある種の本能が呼び覚まされたからか。
初めて感じた明確な死の恐怖は、ソレイユを混乱させた。
(ヤバイ、無理、嫌、死ぬ)
逃げる事も、立ち向かう事も出来ない、それを悟りながらどうにか生き延びたい、しかしその糸口も見えない。
混乱の中回り巡らせた思考の中で、ソレイユがそれを狙って行ったかは不明だが……次に起こした行動はカタナを踏みとどまらせることに成功した。
「き、おにーさ……」
ソレイユは盾にしていたフランソワを、縛り付けた椅子ごと階段の上から放り投げた。
吸血鬼の膂力によって、少女は広間の宙を舞い落下を始める。受け身も取れないであろうその状態で床に落ちた時、どのようになるかは想像に難くない。
「フラウ!!」
カタナは目の前で立ちすくむソレイユを無視し、フランソワに向かって踏みしめた足で飛び掛かる。
そして空中で受け止めながら、無理な体勢のままであるにも関わらず、無事に広間に着地してみせた。
「そ、そいつを殺せ!! なんとしてでも殺せ!! 早く!! 絶対に私に近づけさせるな!!」
カタナがフランソワを取り戻した一部始終を目にしながら、その最中ずっとソレイユはそう叫び続けた。
感じた恐怖はまだ心臓に早鐘をうたせており、死を回避した安堵よりも、初めて感じたその不安にソレイユの心は乱されたままである。
そんなソレイユが叫び続けていたのは、カタナを囲むように並び立っていた女性達に向けて。ソレイユの幻惑の力によって心を失い、主の命に従う人形となった者達である。
「……」
女性達はソレイユの言葉に答えずとも、その命令には忠実に応える。命令のまま、フランソワを抱えたカタナに、誰一人声を上げずに無機質に向かっていく。
「はあ、はあ、はあ……なんだっていうの。こんなの話が違うわ、聞いてないわ。なんなのよ……」
眼下の光景に目を背けながら、ソレイユは胸の鼓動を抑えるように手を当て、一瞬で立っていられなくなるほどの疲労を感じて膝をつく。
「……私は一番可愛くて、一番強くて、一番賢い、そうよ、そうなのよ。だって今までそうだったんだから、昔みたいに姉様達のお荷物じゃないんだから……強い私に生まれ変わって、邪魔な奴はみんな殺して、みんな私の力に変えていくんだから。あんな奴に負ける訳ないじゃない」
ソレイユは目を見開きながら震えていた。口から出てくる言葉は、その震えを誤魔化すためのものなのか、妙に力強い。
半世紀ほど前に吸血鬼の生を得たソレイユに、今の今まで敵はいなかった。大陸を支配している人間達は彼女にとって、その身体と力を維持する為、あるいは高める為の餌でしかなく。貧弱な下等種として見下せる者が溢れかえる世の中では、ソレイユが脅威を感じる必要が無かったからだ。
「そうよ、その気になればこの世界だって私の物になるんだから……別に欲しくないし、今は楽しければそれで良かったから放っておいてるだけ。本当ならみんな私に跪くべきだど、姉様達がうるさいから我慢してあげているだけ……」
それがどれ程狭い視野で見ていた事なのか。魔人やカタナの様な力を持った者を敵に回した事が無かった事が、幸運であったのか不運であったのか。今までそれをソレイユが考える必要が無かった事は、この場では不幸という他ない。
「……本当なら姉様達だって、私に感謝するべきなのよ。足手纏いでも傍に置いてあげていたんだから……なのに、何で大事な時にいないのよ!!」
ソレイユは知らない、自分がどれだけ姉達に守られていたのかを。吸血鬼としての生は、彼女の視野を醜く歪めていたのだから。
「ぐ、うう……」
「エトワール、姉様?」
聞こえたか細い声の方にソレイユが顔を向けると、そこには上半身だけで這いつくばるエトワールの姿があった。
エトワールがカタナに斬られた傷口からは、流れ出る血の代わりに魔力の霧が吹き出している。それは身体と命を繋ぎとめる最後の灯のように、魔光を上げて消えていく。
そんな状態でも、エトワールは階段を上り何かを目指していた。
「……まさか、守天導地を仕込んでいるなんて……あの密度の法式を、どんな方法で外套に…………相当な埒外だわ」
完璧だと誇っていた術式が破られ、完膚無きまでの敗北を味あわされたエトワール。
「ソレイユ、ちょうど良かった……貴方に用があったの」
這いつくばりながら階段を上りきり、エトワールはソレイユに向かって手を伸ばした。
「貴方の血を……その魔力を私に寄こしなさい」
「え?」
エトワールが妹に求めたのは、吸血鬼にとっての命そのものであった。
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フランソワ・フルールトークはカタナの腕の中にいた。
一瞬前まではエトワールの術式の中に囚われ、もう二度と会う事は出来なくなったのだと思っていたカタナが、呼吸音が聞こえてくる程すぐそばで自分を抱いている。それをフランソワは数秒の後に実感し、嬉しさ恥ずかしさその他諸々の感情によって顔を紅潮させた。
「おにーさま……」
「フラウ、さっきは随分と好き勝手を言ってくれたな。死ぬなだとか、勝てだとか、揚句に自分は死んでもいい? 流石に我儘言い過ぎだ」
カタナのその言葉で、フランソワは顔は更に真っ赤になった。
「あ、あれは、その……」
感情のままに声を上げ、カタナに対して普段は絶対言わないような事まで言ってしまった事、それがフランソワの顔を紅潮させる原因であった。
「まあ、悪いのは全部が全部俺だから偉そうな事は言えないか。お前を守ると誓ったのに無様に攫われて、助け出すのもスマートにはいかない。やはり聖騎士なんて名乗れる器じゃないな」
「そんなこと!! おにーさまはこうして来てくれました、わたくしにはそれだけで……」
言いかけて、フランソワは口を噤んだ。続く言葉は本心を隠した建前であったからだ。
本当はいつまでもカタナと共にいたい、カタナの隣でいつまでも同じ景色を見ていたい。それがフランソワが口にしなかった本心で、涙を流した理由であった。
「……何にしても、こうしてフラウを取り戻せた事を素直に喜べる状況でもないか」
カタナは抱えていたフランソワを立たせて、警戒するようにその身で庇う。
「あ……」
そしてフランソワも気付く、二人の周囲にはソレイユの操り人形になった女性達が、今にも飛び掛からんとして身構えている事を。
「――フラウ、見たくなければ目を瞑っていろ」
「目を?」
「今からこいつらを無力化する」
カタナは片手に持っていた巨無を床に突き刺し、片腕をフランソワにあずけて、もう片方で拳を作る。
それはカタナが常人を相手にする時に最も適した戦い方。徒手の手加減は、師である協会騎士団の騎士団長に、死にかける程仕込まれている。
「お前には刺激が強いかもしれない。もっとも、そんな事を気にするのも今更かもしれないが」
これから巻き起こる戦いの惨状を予想し、カタナはフランソワにそう言った。
無力化するといえば聞こえは良いが。カタナが行うのは当身等で気絶させたり、関節を外させたりといった暴力。既に一人斬り捨てるのを成行き上見せてしまっていたが、そういう世界をなるべくならフランソワに見せたくないという葛藤が、カタナにはある様子であった。
「やはり俺は騎士なんてガラじゃないな。フラウを碌でもない目にあわせてばかりだ」
「そんな……それは違います」
フランソワはかぶりを振った。自嘲したカタナが、そうやって引け目を感じている事が悲しくて、それだけはどうしても否定したかったから。
「わたくしはおにーさまと出会えて幸せでした。今この時も、おにーさまと同じ世界に居られるという事がたまらなく幸せですわ。おにーさまの痛みも苦しみも、本当はもっと分かち合いたい、そう思っていましたから……」
フランソワは目を瞑らなかった。カタナの選択も業も、共にいられる今この時は自分自身のものであると誇れるようにするために。
「……お前も大概、変な奴だな。普通はこんな目にあえばそんな事を言っていられなくなると思うが」
「ふふ、なればきっとおにーさまの隣にいる為の資格がそれなのでしょう。こればかりは天に感謝いたします」
カタナは呆れた様子であったが、少しだけ嬉しそうでもあった。フランソワはそれに気付き、おそらくその何倍も嬉しく思った。
しかしカタナの表情は、次の一瞬には曇っていた。
訪れた状況の変化は、予想も対応も追いつかないもの。
「何だ?」
カタナとフランソワを取り囲んでいた女性達が、不意に意識を失ったように倒れだし、剣呑な状況は一変して、肩透かしを受けた様になってしまっていた。
その中で明らかな異様が、この場を覆いだす。
「――霧?」
視界を隠すような黒い霧、どういう訳か館の中にも関わらずそれが周囲に充満していた。
「この霧……まさか」
カタナは何かに気付いたように、ある一点を見上げる。霧はどうやら動いているようで、その一点に向かって集束しているようであった。
「きゃははははははははははは!」
突如として響き渡った笑い声。
霧が集束するその中心で、ソレイユが狂ったように笑い声をあげていた。