断章 フランソワ・フルールトークとカタナ
フランソワ・フルールトークは、豪奢な馬車の窓から美しい湖面を見つめていた。
晴れない表情、晴れない心には水面から反射する太陽の光はとても眩しく映る。
フランソワがそんな晴れない気分でいるのは、目の前に座る人物の影響がとても大きい。
「どうしたのフラウ。せっかく息抜きに外に連れ出してあげているのに、あまり楽しそうでは無いようだけど?」
「いいえ、お母様。わたくしはとても楽しんでおりますわ」
フランソワは実にそっけなく、母であるエトルリア・フルールトークに返事を返す。
外に数人の護衛はいても、馬車の中には二人だけ。親子水入らずである筈なのに、空気はほとんど凍てついていた。
理由はフランソワがエトルリアにどう思われているか気付いているからだ。
(……楽しくないと思っているのは貴方でしょうに)
フランソワが神童と呼ばれるほど才能に恵まれ、フルールトークの娘として商才を振るい始めた時から、エトルリアは愛を向けなくなっていた。
生まれた家柄以外は何の才能も持たず、フルールトーク家への嫁入りも政略結婚であったエトルリア。娘の才能に最初は喜びを見せていた彼女も、平凡さ故か次第に妬みや嫉みに感情を変化させる。
今ではエトルリアがフランソワに向ける目は忌々しいという、邪魔者を扱う様なものであった。
「お父様がお仕事で残念だったわね。一緒にお出かけしたかったでしょう?」
「……いいえ。お仕事なら仕方ありませんわ」
それが今日に限って妙に、エトルリアはフランソワを気に掛ける素振りを見せる。
いつもなら道端の小石のようにフランソワの存在を無視しているのに、出かけましょうとエトルリアが誘ってきたのも珍しい事であった。
(今更家族に戻りたい訳でもないでしょうに……きっと世間体だとか、そんなところですわね)
家での酷い扱いを考えれば、フランソワがエトルリアに対して穿った気持ちを持つのも当然である。最近ではエトルリアの影響で、使用人達ですらフランソワの事をないがしろにし始めているのだ。
幼くして庇護を失ったフランソワが生きる道は才能を生かして強くなるしかない、しかしだからこそそれを妬む者からは風当たりも強くなる。
そうした悪循環は、フランソワの身に最悪のシナリオを呼び寄こす。
「ぎゃああ!!」
「――!?」
馬車の外から響く叫び声、驚いたフランソワがその方向に目を向けると、鮮血が飛び窓が赤く染まっていた。
外に居たフルールトーク家の護衛達は何事か騒ぎ立てながら、乱れた隊列を組み直している。しかし突如現れた集団にあっという間に周囲を囲まれ、多勢に無勢であえなく散っていく。
初めて身近に見る人の死に、フランソワは馬車の中で赤く染まっていく視界に恐怖を抱いた。
「ふふふふふ……」
「お、お母様?」
しかしエトルリアはフランソワとは全く違った反応を見せる。
まるでその表情はこの時を待っていたかのように歓喜に満ち、口からは笑いが零れだしていた。
「あははははは、良かったわねフラウ。貴方にお迎えが来たようよ!」
「お迎え……まさか」
護衛が討ち倒され、危険が迫る中でのエトルリアのその言葉。フランソワは真実に気付いてその狂気に唖然とした。
「あら賢いわあ、もう気付いたのね。そうよ、私が計画したの……目障りな貴方の為にね!!」
襲ってきた集団はエトルリアが呼び寄せた者達であった。
久しぶりに娘を外に連れ出したのも、家族の交流を図る為では無く、フランソワを排除する為の謀だったのである。
「そこまで……そこまでわたくしが憎らしかったのですか」
「当たり前よ!! 貴方のせいで、私が周りからどんな目で見られているのかわかっていて? 子供は神童と呼ばれているのに、その母親はとんだ凡人だと笑いものにされているのよ!」
それは神経質な性格と、貴族特有の見栄からくる被害妄想に他ならない。
そもそもフランソワの事は当主が外には漏れぬように、重要に扱っている。一部を除いて身近な使用人達ですらその本質は知らない。
だがそのエトルリアの被害妄想によって、フランソワの事は外部に漏れてしまう事になってしまった。
「それにしても簡単だったわ。貴方のおかげで大きくなったフルールトーク家の敵は多いから、ここまで連れて来ればそれで終わりだもの」
他家を巻き込んでの計画、目先の事しか見えていないエトルリアには、それがどれ程愚かな事か気付いていなかった。
「なんて事を……」
「そんなに震えなくても大丈夫よフラウ。貴方の事は殺しはしないように頼んでおいたから、精々どこか遠くに売られてしまうくらいかしら?」
そして馬車の閂が打ち壊され、血で染まった剣を持った賊が侵入してくる。
歪んだ笑みを浮かべていたエトルリアであったが、次の瞬間にはそれが驚愕に変わる。
「――え、どうし……が」
「お母様!!」
胸を剣で一突きにされ、エトルリアはフランソワの目の前で死に至る。
「悪く思うな、全員殺せと言われているんだ」
エトルリアの見通しは何処までも甘かった。そのような事を計画した時点で、自分も口封じの対象だと認識するべきだったのだ。
子を売った親の末路としては必然というべきだが、それを目の当たりにしたフランソワは以外にも心に悲しみが満ちてくるのを感じていた。
(結局……私はこの人の子供だったんだ)
愚かであったのはどちらだろうか、しっかりと母を見ていれば気付けたかもしれない、それによってこの結末は回避できたかもしれない。
自分に神童と呼ばれるような何かがあるのなら、この為にそれを使いたかったとフランソワは思う。
幼くして心を閉ざしかけていたフランソワがそう思ったのは、死がもうすぐ傍まで迫っていたからだろうか。
そして奇跡が起きたのは、誰かがそのチャンスを与えてくれたからなのだろうか。
「――ぐえ」
フランソワに剣を向けていた賊は、呻き声を上げて馬車の外に放り出された。
その入れ替わりに入ってくる男――灰色のくすんだ髪に同じく灰色の濁った瞳、真っ黒な外套が長身を覆っている。
「……おいチビ、これを被って姿勢を低くしていろ」
その男は徐にフランソワに外套を被せ、馬車の床に押し付けるようにした。
「な、何を……それに貴方は誰ですの?」
「俺はカタナ、協会騎士団の騎士――いや、話は後だ。一分で終わらせるから少し待て」
射かけられた矢を受け止め、カタナと名乗った男は奔走する。
(……騎士?)
その振る舞いも見た目も、カタナはフランソワのイメージする騎士の姿とは遠かった。
しかし、頼れる何かがあるという事が解ったのは、それから四十九秒後のこと。
「凄い……」
提示した一分を待たずして、賊を全て戦闘不能にして場を制圧したカタナに、フランソワは感嘆する。
「……どこがだ、来るのが遅れたのに」
「あ……」
カタナはフランソワに被せていた外套を取り上げ、今度はエトルリアの死体に被せた。絶命の瞬間に見開かれた瞳も閉じさせている。
「母親……だったか。恨み言なら聞いてやるぞ」
「命を救ってもらった恩人に対してそんな事は……」
言いながら、フランソワの頬には涙がつたう。
他人に泣く所を見せるなど、物心ついてから初めての事かもしれなかった。
「俺は人の死にはそれなりに慣れている。ここに来たのも命じられたからで、この女が死んでしまった事には何の感慨も持ってない。でも、お前は違うんだろ」
「……慰めてくれているのですか」
「どこをどう聞いたらそうなる。俺はただ、無理するなと言ってるだけだ。我慢せずに泣きたい時には泣けばいい」
その時にフランソワは見えたようであった。カタナの言葉を通して、彼が何を思ってそう言っているのか。
だからそれに逆らわず、思いの丈を涙に込める。
「私は、ただ褒めてもらいたかった……その為に今まで頑張ってきたのに……うっ、うう、どうして……こんな仕打ちあんまりですわ……」
「……」
何の事は無い、神童と呼ばれている少女も年相応である。それだけの話だ。
望まれていたいという事が望み、親など必要ないと反抗していたのも本当は甘えたいという事の裏返しだ。
カタナは泣き崩れるフランソワの隣に居た。何を言うわけでも無く、何をするわけでも無く、ただ泣き止むのを待っていた。
そしてフランソワの様子が落ち着くと、カタナは手を差し伸べた。
「落ち着いたのなら帰るぞ、お前を連れ帰るまでが俺の仕事だ」
「……帰りたくはありません」
差し伸べられた手を取るのを躊躇うフランソワ。
帰っても、結局はフルールトーク家の道具として扱われる毎日が来るだけ。そして誰かから疎まれる感情を浴び続ける。
そんなのはもう嫌だった。
「騎士様、わたくしを連れて逃げてくれませんか?」
フランソワからそんな台詞が出たのは、きっと本の読み過ぎであったからだろう。似たような体験から、願望が漏れてしまったのだ。
見ず知らずの騎士に頼む事ではない事は、本人が一番解っている。
「いいぞ」
「え?」
カタナは承諾した。あまりにあっさりと承諾するものだから、フランソワの方が驚きで呆然とする。
「その代り、責任はお前が持て」
その一言は、少女に僅かな夢も見させない痛烈さだった。
「責任……」
「そうだ、お前を連れ去るという事はフルールトーク家を敵に回すという事、それはさっきみたいな危険が襲いかかり安息を失うという事だ。そんな面倒に他人を巻き込んで、お前は責任を取れるのか?」
「それは……無理ですわ」
本当に、騎士とは思えない言動だった。子供に諭すにしても他にもっと言い方があるだろうに、どこまでもぶっきらぼうな男だとフランソワは思う。
しかしカタナはそれだけの男では無かった。
「お前の望みは聞けないが、その代りに俺は俺の責任を果たしてやる」
代わりの夢をフランソワに与えたのだから。
「お前が望むなら、俺は駆けつけてお前を守ってやる。一度救ったからといって、放り出すような無責任な真似はしない」
その一言がどれだけフランソワの生きる世界を変革させたか、カタナ本人は自覚していないだろう。責任という言葉で拒否した事に対する、せめてもの代償といった程度の事だったのだから。
「わたくしの為に? 本当にわたくしが望めば駆けつけて頂けるのですか?」
「……ああ」
フランソワの目に光がさす、寄る辺なき者が希望を見つけた瞬間。
そしてカタナは再度手を差し伸べる。
「何でもいいから、もう帰るぞ」
「はい、おにーさま」
「あ?」
今度こそフランソワはカタナの手を取った。
カタナのまるで体温の無いようなその手から、確かな温もりを感じ、フランソワの中で一つの感情が芽生えだしていたのだった。




