二章第十三話(裏) 帝国特務の風神
風神はいつも以上に不機嫌さが滲む表情で、扉の前に立っていた。
扉の横にかかる『室長室』という立札は、その部屋の主が面白いと思って作った物だが、風神にとってはそれも目障り以外の何物でもない。
(……やっぱり、帰るか)
扉をノックしかけた手を止め、そう思い直した時、部屋の中から声が掛かった。
「おう、風ちゃん。よう来たな、入りや」
気配で気付かれた事に内心で舌打ちしながら、風神は扉に手をかける。
「……失礼します」
風神が扉を開けると、大きな机の上に並んだ書類と、睨めっこをしている中年の男性が居た。
「久しぶりやな。元気やったかい風ちゃん」
顔を上げて帝国の南部訛りでそう話しかけてきたのは、この部屋の主であり帝国特務を総括する立場にある『室長』と呼ばれる男。シワの無い服装と、しっかり固められた髪はきっちりしているように見えるが、何故かいつも無精髭を生やしているせいで台無しに見える。
室長というのは元は役職の略称であったが、その呼び名が定着したせいで、それ以外の名で彼を呼ぶ者は誰も居なくなってしまった。
そして室長は風神の魔法の師であり、帝国特務では唯一頭の上がらない苦手な相手でもある。
「風ちゃんと呼ぶのは、いい加減やめて頂きたい」
風神はもう何度目になるか解らない程そう言ってきたが、室長は一向に改めるつもりは無いらしい。
「ええやん。昔からそう呼んでんやし、今更変えるなんて可笑しいやろ?」
「部下が真似をします。それでは規律が保てません」
風神が室長には敬語を使うのも、それに則ったものである。
「はは、規律か風ちゃんらしいなほんまに。昔はそんな事お堅い事言う奴おらんくて、ワシも纏めるの大変やったわ」
「……それは室長の性格が軽いせいでしょう。間違いなく」
「せやな、だから風ちゃんには感謝してんねんで」
誤魔化すように言うその口に、今更何を言ったところで変わりない事は解っているが。風神としては室長のそういう軽いところが、たまらなく苦手だった。
元々、今日は久しぶりに帰って来たこの上司に、ついでの挨拶に寄っただけなので(本当はやめようと思ったが)風神はこれで失礼しようと思っていた。
だが、室長には風神に用があったようで、退室しようとした風神を呼び止める。
「せや、風ちゃんに、見てもらいたいもんがあんねんけど……」
そうして室長が取り出したのは一枚の書類。
「これは……ゼニスの一件についての報告書ですか?」
風神にも見覚えがある。何せ、自分が書いたものだったのだから。
「やっぱり書いたの風ちゃんかい。鋼の奴、見かけたらどついたる」
元々は鋼が書く物を風神が代わりに書いたのだが、やはりバレバレであったらしい。もっとも、たまには鋼に灸を据えるのを誰かに任せる為の代筆であったので、風神としてはしてやったりと言った気持であった。
「それはともかくな、この市長についてやけど……十年近くも街に住んでいて、市長なんて役職に就いてて、誰も魔人だって気付かなかったっておかしいと思わん?」
「……確かに。しかし、魔術ならばそれが可能なのではないですか?」
「それも無いとは思わへんけど、そんな魔術有ってほしくないなあ」
風神としてもそれは同感であった。魔術によって姿を偽れるのなら、魔人と人の見分けが付けられない事になる。
とはいえ、これまでの見分ける方法も髪や瞳の色だけという不明瞭な方法であり、それには例外も存在している事は良く知っているので、元々確実であったとは言えないが。
「それに魔術なら、発現すんのに魔光が生じる筈や。人前で黒光りさせてる奴がいたら、流石に誰か気付くやろ」
「では、魔術では無いと?」
「せや、多分これはこの魔人の特異能力やな。たまに居るらしいで、そういう奴」
「特異能力? その言葉は初耳ですね。どういったものですか?」
「ワシも記録でしか拝んだことないやけど、何でも魔術以外に特定の魔人が持つ固有の能力らしくてな。特異言うだけあって、ぎょうさん魔人のおった五十年前の大戦中でも、三人しかそれを持った奴はおらんかったらしいで」
「……その記録には、どんな能力か記述はありましたか?」
「ああ、あったで。確か名称は『黒死病』に、『不明視』と『災予知』やな。どれから聞きたい?」
「どれからでも」
さっさと話せ、という風神の無言の圧力を察したのか、室長は頭を掻きながらつまらなそうにする。
「さよか、ならゼニスの事と関係ありそうな『不明視』からやな。これは言うなればカメレオンみたいな擬態能力でな、自分の身体を変色させて周囲の風景と同化させる。かなりの精度だったみたいで、一度見失えば見つける事は不可能と言われてたらしいで」
「変色、風景との同化……ではゼニスの市長も、それと似たような能力を持っていたと?」
「推測やけどな、情報通りやとすれば化けてるときは壮年で、魔人に戻った時は青年に見えたらしいから、色だけでなく顔つきとかも変えられたんやないかな?」
「……魔人という種は、どこまでも常識の範疇に収まらないのか」
魔術という力だけでも相当厄介な相手なのに、そのような能力まで備えているのは反則と言っていい。風神は今まで知らなかったその事実に、溜息をこぼす。
「ちなみに他のはもっとえげつないで、『災予知』は未来予知の能力でな、大陸側が魔人に負け続けたのは、この能力を持つ『巫女』の予言のせいやって言う説が有力やな」
「み、未来予知?」
更に常識を外れた言葉を室長から聞かされ、さしもの風神も驚きを隠せない。
「どんな絡繰りでそんな力を使えるのか、偉い学者はんとかが考えても理論すら浮かんでこないらしいな。でもそれが確かにあった事と、ミルド協会の連中は唱えているな」
「どうしてミルド協会が? 勇者崇拝の者に、何かの関わりが?」
「それがな、『災予知』を持つ『巫女』の予言を打ち破ったのは、『勇者ミルドレット』やと、そう提唱しとってな。で、実際当時の記録にもそういう記述があってん。だから、『勇者は未来予知すら打ち破った偉大な御方や』っていうのを広めたいのと違うかな?」
「……一気に信憑性が薄れますね」
「はは、せやな。この災予知については勿論、巫女についても諸説あってな、何でも勇者と恋に落ちて駆け落ちした、なんて話もあるそうやで?」
「そんな詩人や劇作家だけが好みそうなだけの話を、室長は一々真に受けているのですか?」
「手厳しいなあ、ええやんそういうロマンの話もたまには。あんまりお堅いと、男が逃げるだけやで」
「……もう一度言ってみろ」
「すんません。いや、そんないきなり怒らんでもええやろ。ワシ上官やで?」
そういう話題は風神にとって、一番触れられたくないものらしく。さしもの室長も素で謝ってしまった。
「堅い堅いと、私に向かっていつも言ってくるのは誰です?」
風神がそう冷ややかに言うと、室長は返す言葉も無かったらしく、しげしげと話を元に戻した。
「ええと、なんやったっけ? ……ああ、そうそう『不明視』と『災予知』について話したな。後は『黒死病』やね」
それについて話すときだけ、室長が僅かに声を落とした事に風神は気付く。そしてその理由はすぐに分かった。
「『黒死病』は人を魔人に変える能力や」
「は!?」
驚きで声を上げた風神に、室長は口の前に人差し指を立てる。
「何でも『黒死病』の血を受けた人間は魔力を宿し、身体能力も向上させたらしいで。他の魔人からはそういう事が無かったらしいから、そいつにしか無い能力と言われとる」
今までのと同様に相当信じがたい話だったが、それとは別に話を聞いて風神の中にある考えが浮かぶ。
「それは、結果としては人間の戦力を増強する事になりませんか?」
人が魔人の力を得て人の為に使えばそういう事になる。それに近い例を風神は一人だけ知っている。
「それがそうでもないねん。黒死病によって魔人の力を得た人間は『吸血鬼』と呼ばれてな。その性質から人間とは相容れないものなのは確かや」
「吸血鬼……確か民間伝承に、そういう化物の伝説がありました」
それこそ劇作家や小説家が生み出したようなもので、夜な夜な美女の血を吸って力を増す怪人の話。風神はそれを、本か何かで目にした事は記憶にある。
「そっから名前を取ったらしいわ。なにせ『吸血鬼』はその伝承と酷似しとってな、人間の血をどうしても求めてしまうらしいねん。諸説によると吸血鬼は、魔力を宿していてもそれを自分の体内で生み出す事は出来ず、他の魔人あるいは人間からそれを取り込まざるを得ないって事やな」
「……なるほど、それで血ですか」
血と霊力は密接に関係している。全身を巡る力である霊力は血の流れと共にあり、心臓がその力の源であり、それが魔法的な考えでは魂に置き換える事がその由縁である。
実際に人体では最も霊力を多く含む血を霊媒にして、魔法を発現させるという技法も存在している。
「吸血鬼が人間に相容れない理由はそういう事や。魔人よりも人間の方が餌食にしやすいっちゅうこっちゃな、個体数的にも単純な力量的にも」
「しかし、霊力と魔力は似て非なるものでは?」
はたして人間の血から霊力を取り込んで、吸血鬼は魔力として補う事ができるのか。
その疑問の答えは、思わぬところにあるかもしれないと、室長は答えた。
「魔力を霊力に変換する……そんな話を最近耳にした記憶あるやろ?」
「――!?」
それは、ゼニスの一件でカトリ・デアトリスがやってのけた、魔力を霊力に変換して戦術魔法を発現した事。
もしかしたら、デアトリス家に伝わっていたというあの技法は、その吸血鬼という者の力の構造を解明して、法式に変えたものなのかもしれない。
「魔力を霊力に変えられるならば、その逆も可能と思わない方がおかしい事や」
「確かに……」
理屈はともかく、その可能性は否定できない。しばし考え込んだ風神に、室長はそんなに気にする事でもないと、いつもの軽い調子で告げた。
「今言うたのはワシが文献から読み漁った中にあった過去の事や、深く考えずに記憶の端に留めておく程度にしときや。そうじゃないと風ちゃんは真面目やから、延々と考えを追及するやろ」
言い当てられた事は悔しいが、確かにその通りであり、そういう所もまた風神が室長を苦手に感じる部分であった。
「でもまあワシらの職業柄、何時そんな理解不能な事態と向き合う事になるやも解らんからな。先達の残した物を知っておくのも重要な事や、敵を知り己を知ればなんとやらって言葉もある事やし」
適当にお茶を濁す感じでまとめられては、言っている事が真剣になのかどうか判断できないが。わざわざ話したという事は、少なくとも風神はそれを知っておくべき事と判断したのかもしれない。
「それはともかく、協会騎士団に送り込んでいるカトリ・デアトリスから何か報告は受け取んの?」
「……いえ、特に変わった事は。魔剣は相変わらずのようですし」
「相変わらずね、なるほどなるほどと……」
そうして話を変えた室長の表情に嫌な含みがある。これは風神にとって愉快な流れにはならないと感じ取った。
「今日はこれで失礼します。元々室長に伝えるべき要件もありませんので」
「そんなん抜きにして相談があるならいつでも乗ったんよ? 主に恋の相談とか……」
「失礼する!!」
ドアが壊れないか心配になる音を立てて、風神は退室する。
「怒らんでもええのに……」
その勢いで床に落ちた書類を片付けつつ、室長はふと窓の外の夜空に目を向けた。
星も月も出ていない闇、そういう空が気になった時には何か予定外の事が起こるというのが、これまでの経験から培った特に理由の無い室長のジンクスであった。
「まあ、変わりないなら大丈夫やろな」
その心配は誰に向けたものなのか、室長はそれ以上は言葉を発さずに、ある書類に目を通していった。
風神って誰? 新キャラ? なんて言われても言い訳できないくらいの投稿ペース
忘れられているのではないかと、不安になりながら書いてました。