章間 ???と???
一つの卓と二つの椅子、その場には二人の人物だけが居た。
一人は初老と思われる男。伸ばされた背筋と折り目正しい態度は生真面目な印象を与えるが、温厚そうな表情がそれを和らげている。
そして向かい合うのは幼い外見の女。卓の上に片肘を付き、高い椅子のせいで浮いた足をブラブラさせていたりして、正面の男とは正反対な程に落ち着きも礼節も持ち合わせていない。
そんな二人だけが向かい合う空間、ここで交わる話もその二人のみが知る事。他の誰も知らない事。
「まずは先に礼を述べさせていただきます。貴方のおかげで狙い通りに事が運びました、本当にありがとうございます」
男がそう述べると、女は首を横に振った。
「礼には及ばないよ。働きに見合った対価は先に貰ってるんだから、あたしがそれに応えるのは当然の事じゃん」
「そうかもしれませんが、狭い条件の中思惑通りに事を動かすのは、骨が折れたでしょう? 私にはそれに報いる義務があると思うのですよ。勿論、言葉だけでなく形としても」
それを聞くと、女は目を輝かせた。
「追加の報酬を期待していいって事かな?」
「もちろんですよ。今後の働きを期待する意味も込めて、ですがね」
「どうかなあ? あたしは受けた仕事は手を抜かない。だからそれが、今以上を求めてるって意味なら難しいよ」
「それは承知しています。これはいわば、貴方を手元に置いておくための、機嫌取りの様なものです。これからも貴方にしかできない事を頼むのは、どんどん多くなりそうですから」
「ああ、そういう意味なら効果はあるね。流石は年の功って訳だ」
女は褒めたつもりだったのだが、その一言は男の表情を少し硬くした。年齢について触れる事を言うべきでは無かったようだ。
「……ともかく良くやってくれました。これでまずは一つ目の予言の成就が成り立ち、時代の波が動き出してくれました」
「予言ねえ、『巫女』だっけ? たしか勇者と駆け落ちしたとか言う魔人が残したものでしょ? 色々とあたしが手を尽くしたのは、それを都合よく実現させる為なんだよね」
「そうです。黒の予言の第一幕『獣が世界を蹂躙する』、魔竜によってゼニスが崩壊した今回の一件はその為の出来事です」
「街一つでもそこに住む人の主観からすれば、世界そのものが蹂躙された事に等しい……だっけ? 屁理屈っぽいけど、否定はできないよね」
「ゼニスの市民の多くにとっては不幸な結果でしょうが、止むを得なかった事です」
「まあ本当に世界を蹂躙されるわけにはいかないし、出来得る限りの最善ではあったんだと思うよ」
だが、本当の最善は別にあったという事を両者とも知っている。
「そうですね、こちらも予言の成就は望む事ではありましたから、予言そのものを阻止するわけにはいかない。そう考えた結果の最小限度の被害ですから」
その気になれば両者とも、予言を覆せる位置に居た。魔竜の召喚を阻み、魔人の存在を隠し、異界と繋がったこの世界の見えざる危機を、衆目に晒す事も無かった。
しかしそれでは変わらない。人々は見えざる危機に気付かずに、偽りの平和の中で安穏と暮らし、いずれ手遅れになった後でそれに気づく。
それでは駄目だった。
「巫女は人と魔人に同じ予言を残しました、しかしその意味は全く同じではありません。演劇の趣が、それを演じる者と観る者それぞれによって変わるように、人と魔人が求める真逆の未来は、違う結果を奪い合う」
「そうだね、でも予言云々は関係ないとあたしは思うけどね。結局はうまく立ち回った方が、望んだ結果を手に出来るってだけなんだからさ」
「……そうかもしれませんね。固定概念に拘りすぎるのも良くない、貴方にはこれからも自由な発想で私を助けてもらいたい」
「もちろん、貰うものは貰っているからね、その分の働きはしっかりするつもりだよ」
「それは有難い。ところで、一つだけ聞きたいことがあるのですが、よろしいですか?」
男がそう問いかけると、女は首肯した。その表情から、なんとなく何を聞かれるのか解っている様子だ。
「貴方の目から見て、『凶星』は何か変わりましたか?」
「どうだろうね。見て解る様な、めぼしい変化はなさそうだけど、今回の一件はそれなりに堪えた様子だったよ」
「そうですか、それなら及第点です。今回の事は彼に敗北を知ってもらう為の、良い機会でもありましたから。何か一つでも成長を促す要素があったのなら幸いです」
「まあ元が元だからね、劇的な変化は無いだろうけどさ。それについては、あたしは基本ノータッチだし」
「その割には、細かく手を回しているようですが?」
「あたしは、これでも結構細かい性格なんだよ? 指定されている事以外は自由にやってい良いって約束だし、趣味でやっている事にケチを付けられる所以は無いよ」
「ふむ、なるほど。まあ、こちらの仕事に支障が出ないのなら構いません。では引き続き、指示があるまでは対象の監視をよろしくお願いします」
「あいよ、そんじゃね」
そう言って、女は男の前から居なくなる。用が済めばすぐに消えるのは、いつも通りの事で、それだけ両者の関係が淡白である事を如実に表していた。
一人その場に残った男は、卓の上に乗っていたグラスを、思い出したように手に取った。
「……これから、か」
男はグラスを揺らし、その中の水面を覗きながら、独りごちる。
その瞳は、揺れる水面を通して、彼の過去を覗いていた。
「レット、バシリコフ、私は私のやり方でこの世界を守っていくつもりだ。君達は認めないかもしれないが、もう私にも時間が無くてな」
かつて男の隣に居た、誰よりも頼りになった仲間達を思い出しながら、男はその残照と決別する。
「……私は君達ほど、他人を信じる事が出来ない。この世界の命運を次の世代に託す事は、私には出来ない」
そう言って、男はグラスの中身を飲み干した。果実酒の甘みと、アルコールの熱さが咽を伝い、男はグラスを卓に戻す。
もう過去の残照は消えていた。
代わりに浮かんでくるのは、男が思い描く未来の道。そして、ある人物の顔。
「さて『凶星』、君はこれからどんな選択を取るのだろう……君が道化で終わるのか、それとも切り札になるのかは、その選択次第……」
動き出した時代、歪んでいく世界、その中でかつての勇者のように、人々が求める存在に昇華するのか否か。
「……あまり悠長に待ってあげる事はできませんよ」
期待と憂いを胸に秘め、男もまたその場を立ち去る。
そしてその場には誰も居なくなった。