エピローグ 聖騎士と従騎士
「結局徹夜か……」
窓から差し込む夜明けの日差し、同時に机に積み重なっていた書類の処理が完了した。
流石に量が多かったので、一晩かかったが、これでも本来の三分の一だという事を考えて、カタナは深々と溜息を吐いた。
そしてベッドを見やると、すやすやと眠るサイノメの姿。
残りの三分の二を担当した筈なのに、カタナよりも遥かに早く終わらせて、サイノメはカタナのベッドでさっさと眠りについていた。
「……やはり、全部押し付けるべきだった」
後悔は先に立たない事を実感し、半ば八つ当たり気味にカタナはサイノメを叩き起こす。
「起きろ、朝だ」
「……ほえ? ああ、もう朝か。おっはーシャチョー、昨晩はお楽しみでしたね」
寝起きでそんな嫌味を言えるくらい、サイノメの頭の回転は速いらしい。
「いいから俺の聖域から出て行け」
「……いや、仮にも協会騎士団の聖騎士なんだから、ベッドを聖域とか言っちゃうのはどうさ?」
「知らん。だが俺は気分良く寝られる場所を守る為なら、全力を尽くす事が出来る、それだけは確かだ」
「なんでそんな、微妙に格好悪い事を真顔で言うのか……シャチョーってそういう所で損してるよね」
「それこそ知るか。良いから早く起きろ、放り投げられてから後悔しても遅いぞ」
「別に起きてもいいけどさ、もうすぐ出発なんだから、シャチョーが寝ている時間は無いよ?」
もうすぐゼニスを発つ迎えの馬車が来る、なんとなく知り合いと顔を合わせたくなかったので、出発は早朝と決めていた。
「解ってる、ただお前にベッドを占領されているのが気にくわないだけだ」
「横暴だなあ、いつもの事だけどさ」
ようやくベッドから這い出したサイノメは、乱雑に置かれた書類を片していく。
その隙にカタナはベッドにもぐりこんだ。
「おい!? 何してんだよ!! 迎えの馬車がもうすぐ来るんだから、寝てる時間は無いっての!!」
「解ってる、なんとなく最後にベッドを使ったのが、お前だったのが気にくわなかっただけだ」
カタナの聖域へのこだわりというものを、サイノメが理解するのは難しかったらしく、終始微妙な表情で書類を片付けていた。
++++++++++++++
ゼニスの郊外で、カタナとサイノメは馬車の到着を待っていた。
カタナはいつも通り黒い平服姿、外套は魔竜との戦いで失ってしまったので着ていない。もっとも、日に日に日差しが強くなってくる季節なので、あってもじゃまなのかもしれなかった。
そしてカタナの手には最小限にまとめられた荷物、移動には身軽な方がいいので、残りの荷物はサイノメの手配で、後で送ってもらう事になっていた。
サイノメはカタナの見送りだけなので、秘書官の服装で特に荷物は持っていない。
「それにしても、良かったの? 誰にも別れを告げなくて」
「……言ってどうする、変に気を遣わせるだけだろ?」
「おお、シャチョーが空気を読むとは、これは天変地異の前触れかな」
「いや、ただ面倒なだけだ」
「あはは、そういう事にしておこうか」
本当は少し引け目があるというのもある。ゼニスの危機にその場に居なく、そして今も皆が復興に力を注ぐ中、出て行かねばならない事に。
(……まあ、居ても居なくても実際は対して変わらないがな)
結局のところ、カタナは一度もゼニスの復興には関わらなかった。復興するゼニスの姿を喜びはしても、その中に混ざって行こうとは到底思えなかった。
それは結局、カタナが自分自身を、この世界の異物としか見えていない性である。魔元生命体のカタナが、人の社会に干渉するという事だけで、それが罪のように感じてしまう。
魔人が、魔獣が、魔竜が、この世界の住人に受け入れられぬように、魔元生命体もまたこの世界には受け入れられない。それがカタナの根底にはあった。
(それでも、異物は異物なりに出来る事はある)
それはカタナが自分自身を、この世に存在する事を許している理由。人を殺さず魔だけを討つ力として、その存在を義務付ける。それがこの世界と自分自身との間に引いた境界線。
(……結局、それしかない所に逃げたというのが正しいがな)
そう自重して、頭の片隅に浮かぶ他の選択を仕舞い込む。やる前から解っている苦難と戦えるほど、カタナは意欲的では無い。自らの惰性が、道を閉ざしている事を解ってはいても、それを変えようとは思わない。
(面倒だからな)
いつもの結論に落ち着き、怠惰な自分を認識する。何度考えても、それが一番のカタナの自然体であった。
「シャチョー、考え事?」
不意にサイノメから声が掛かった。
「まあな、自分とこの世界の有り様について考えていた」
「……そういう冗談はもういいって、言いたくないならそれでいいのに」
本当の事を言ったのに、そう取られたのは普段の行いのせいなので、弁解はしない。ただこれから先、真面目な事を言った時に、同じ対応で返されそうなのが少しだけ気にかかった。
「それよりさ、シャチョー気になっている事ってない?」
「何だ? 藪から棒に」
「例えば部下の事とか」
「部下?」
サイノメは何か期待するように聞いてくるが、カタナには思い当たることが無い。
「……ヤーコフは今日から俺の代わりに隊長になるが、元からほとんど隊長みたいなもんだったし、隊員達も特別な混乱は無いだろう。まあ、ヤーコフには辞令が届くまで知らせないから、多分驚くと思うが」
ヤーコフのこれまでの実績は、そのカタナの信用に値するものだった。とはいえ、知らせていないのは、ただの悪戯心からだが。
なんとなく、慌てながらもしっかりと仕事をこなすヤーコフの姿が想像でき、カタナは満足な気分だった。
「そっちじゃなくて、あるじゃん、ほら……」
サイノメは何かに気付かせたいのか、カタナの腰元に視線を送る。
そこにはカトリ・デアトリスから借り受けたままの、魔法剣が帯びてあった。
「ああ、これか。一応借り物だからな、置いていくわけにはいかないだろう?」
「返すつもりはあるんだ」
「そりゃ、家宝らしいし。なんでそんな大事な物を忘れて行ったのかしらないけどな」
「それはきっと……」
サイノメが何か言いかけたところで、迎えの馬車がやってくるのが見えた。
それなりに良いつくりで、荷物運搬用では無く旅客用の椅子が乗り物部分に作られているタイプのものだ。
以前に乗った馬車はそういう物が無く、荷台にそのまま座り込む快適とは言えないものだったので、首都までの長旅にはありがたかった。
「それで、カトリ・デアトリスがどうかしたのか?」
カタナが話を戻すと、サイノメは首を振って応えた。
「いいや、もうすぐ解ることだし」
それだけ言って、サイノメは馬車の到着を待つようにカタナに言った。その意味を、カタナは程なくして知る。
馬車の乗り物部分に、既に座っている人物がいる事を気付いた時に。
++++++++++++++
「なんでお前がそこにいるんだ?」
以前にもこんな事があったのを思い出しながら、辟易とした表情でカタナは問いかけた。
カタナを迎えに来た馬車の、乗り物部分に既に乗っていたのはカトリ・デアトリス。帝国に戻ったという事を最後に、この三週間行方が知れていなかったかつての部下。
サイノメから、帝国特務が遣わした間諜である事も既に聞いている。また会う事もあるかと思っていたが、これほど堂々と目の前に現れるとはカタナも予見していなかった。
「お久しぶりです、隊長」
そしてしれっとそう挨拶するカトリを見て、カタナは何となく自分が謀られたのだと気付く。
「……サイノメ」
視線を隣に向けると、サイノメはそっぽを向いて口笛を吹いていた。あからさま過ぎてもはや誤魔化す気も無い態度。
「知っていたのか……いや、お前以外にこんな事できる奴はいないな」
「言い訳するわけじゃないけど、カトちゃんについてはシャチョーに調べろって言われてないしー。聞かれた事には答えてた筈だけど?」
確かにそうだったが、なんとなく納得のいかないものがある。だがサイノメについては、これ以上何を言っても寝耳に水なのは解りきっているので、放っておくことにした。
カトリの方に向き直り、カタナは問いかける。
「とりあえず、単刀直入に聞く。お前はどの立場でこの場に居る?」
協会騎士団の従騎士としてなのか、それとも帝国特務の間諜としてなのか。まずはそれを、はっきりさせなければならない。
それを聞かれる事はカトリには解っていたのだろう、考える素振りも無く返答はすぐに返って来た。
「協会騎士団の従騎士として。今日からは貴方付きの従騎士として付き従う為に、ここに来ました。今までの不在について書面上では、持病の療養の為という事になっています」
それについて確認する意味で、隣に視線を送ると、サイノメはわざとらしく応えた。
「あれーおかしいなあ、その書類はシャチョーに渡してあったんだけど。ああそうか、シャチョーが片付けないから、あたしが処理したんだったよそういえば」
「……コイツ」
嘘っぽいが、本当の事なのだろう。最初からカタナが書類に手を付けない事を、サイノメは見越していたらしい。いつもの行いを考えれば当然の事だが。
「……何で戻ってきた?」
カタナは再び、カトリに問いかけた。純粋に、目的が知りたくて。
「元々、戻ってくるつもりでした。エーデルワイスを置いて行ったのは、決意を鈍らせない為です。そしてその理由は、以前と何も変わっていません……」
もしかしたら剣を取りに来ただけかもしれないと、カタナは思っていたが、どうやら違うらしい。
「強くなる為、貴方を超える為、以前は別の名目も思惑も付いていましたが、そう言った事は嘘ではありません」
カトリ・デアトリスのその瞳は、あまりにも真っ直ぐにカタナを映していた。そしてその真っ直ぐな思いは、本来隠しておくべき事をさらけ出しすらした。
「……しかし、私は帝国との関係も断ってはいません。祖国を裏切る事はできませんし、守りたいものも、まだ残っているのです」
「そうか……」
わざわざ言わなくてもいい事を隠さなかったのは、カトリの精一杯の誠意なのだろう。
「今ここに居られるのはサイノメさんの御厚意あってのものです。本来、私は協会騎士団には受け入れられるはずの無い者。ですから隊長が私を信じられなければ、慎んでここから去ります。でも……」
一度言葉を切って、カトリは思いの丈をぶつけるように宣言する。
「もし、信じてもらえるのならば……私は絶対に裏切りません」
その言葉が、嘘偽りのない事がカタナには解った。カトリの真っ直ぐになその瞳にはおぼえがあり、魔竜との戦いの際に垣間見たものだ。
だからすんなりと答えは出る。あの時のカトリを信じなければ、カタナは今この場に居なかったのかもしれない、そう思えば簡単に信じる事が出来た。
「それならいい、好きにしろ」
「……いいのですか?」
「二言は無い」
カタナがそう言うと、カトリ・デアトリスは笑顔を見せた。何気にそれは、初めて見せた表情かもしれなかった。
そしてカタナの前に手が差し出された。
「改めて、宜しくお願いします隊長」
「……さっきから中々指摘するタイミングが無かったから言わなかったが、俺はもう隊長じゃないぞ」
カトリも一応は知っていた様で、しまったという顔をしていた。呼び方には癖が伴うので無理もない事だが。
「では、何とお呼びしましょうか……聖騎士殿?」
「それだけは断固却下だ。普通に名前で呼べ」
まだ新しい役職も決まっていないし、一々呼び方を変えられるのも面倒なので、それが一番いい。
それにカタナは自分の事で唯一、カタナという呼び名だけは気に入っていた。
「では……カタナ様」
「……もう少し普通でいい」
本当なら様付けを強要してやろうと密かに思っていたのだが、自然にそう呼ばれると否定したくなる気分になった。
「ではカタナさん。私の事も、どうぞ名前でお呼び下さい」
「……まあ、気が向いたらな」
カタナは曖昧にそう言って、差し出された手をそっと握り返した。
それが怠惰な聖騎士と、二心ある従騎士が真に手を取り合った瞬間。
当事者以外では傍らにいたサイノメだけが、それを知っていた。