第二十九話 錬装と天下
魔竜の尾撃が振るわれる。
それはまるで視界いっぱいに迫る壁、カタナに避ける選択を許さない。
「うぐっ!」
地面と共に薙ぎ払われ、カタナは大きく弾き飛ぶ。
一転、二転、三転、転げまわる事で衝撃を逃がし、カタナはその勢いのまま立ち上がる。
抜身の魔法剣を持ったまま転がった事で、体には少なくない切り傷が付いたが、それはむしろ掠り傷の様なもの。
(……左腕、折れてるな。喉の奥から血液がはい上げってくる、こりゃ内臓もいくつかやられたか)
冷静であるが、それがまずい状態でない筈がない。
万全の状態でも厳しい勝ちの目が、さらに遠退く。それも、もはや届かない所にまで。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
魔竜の雄叫びは、闘志に満ちているように響き渡る。手負いの相手でも容赦するつもりは無いようだ。
「……手加減してくれてもいいと思うぞ」
もちろんカタナの要望に魔竜が応えてくれる筈も無く、巨体は全力で突進してくる。
「ちっ……」
魔竜の動きに合わせてカタナは三歩飛び退く、その数俊後には魔竜の前足の爪にカタナがいた場所の地面が抉られていた。
カタナは飛び上がり、魔竜の鼻先を足場に、そこから更に前進する。
いくら魔法剣で斬りつけても、遥かに固い竜鱗には傷もつかない。ならば竜鱗に守られていなく、そして戦闘を優位に運びために効果的な部位を狙う。
魔竜の右眼に狙いを定め、不安定な足場から振り落とされそうになりながら、カタナは剣を振り下ろす。
――確実に奪った。
そう思った時、絶望的な音がカタナに現実の厳しさを知らしめた。
ガキンッ
またしてもカタナの剣は、魔竜に傷を負わせることができなかった。
眼を守る為に魔竜が反射で閉じた目蓋、そんな薄皮一枚も切り裂けずにカタナは振り落とされて宙を舞う。
(――鈍が!!)
カタナは心の内で借り物の件に悪態を吐く。
実の所はここまで乱暴に使って折れなかっただけでも、名剣の様相を呈していると言えるのだが、魔竜相手にほとんど役に立っていない事は事実。それではカタナにとって何の意味も無いのだ。
そして宙で無防備なったカタナを、魔竜の前足が下からすくい上げるように打つ。
「ぶふっ――」
大きく弾き飛ばされ、それはもはや擬似的に空を飛んでいると言ってもいい滞空時間を以って、カタナは受け身も取れずに地面に叩きつけられた。
(くそ……痛えな、もうどこがどう痛えのか解らないぐらい、全身が痛え)
地響きが聞こえる、魔竜が向かってくる足音。
(……まあ粘った方か、魔竜を相手に三十分は持ったか? 何にしても、逃げ出さなかったのが誇らしいな)
魔竜の一歩一歩の歩みがやたらとゆっくりに感じた。倒れたままの相手をまだ警戒しているのだろうか。
(しかし、思っていたよりも死ぬ時は呆気ないもんだな。こんな場所で、変な意地みたいな理由でか……)
魔竜と戦う事はカタナの中では決定事項だった。それは市民を守る為だとか、協会騎士としての誇りだとか、そんな立派なものでは無く。
ただ単純に、ゼニスという居場所を奪った事が許せなかった。
誰の為でもなく、自分の為。自分の怒りの為。だからこうして誰の迷惑にもならずにそれをぶつける事が出来ただけでも僥倖。
(本音を言えば、一矢くらいは報いたかったがな……)
そういった後悔も骸になれば残らないだろう。
もう立ち上がる力も無いカタナは、自然とそれを受け入れていた。
「……何を怠けているのですか?」
目を閉じようとした時、呆れたような声が近くから聞こえてきた。
幻聴かと思ったが、それを認める前にもう一言、同じ声が聞こえてくる。
「手を貸します、立って下さい隊長」
すると差し伸べられる手がカタナの視界に映った。
「お前……どうしてここに?」
「とりあえずは隊長に手を貸す為です。さあどうぞ」
カトリ・デアトリスが差し出した手を、カタナは取り、その助けをかりながらカタナは立ち上がった。もう立ち上げれないと思っていたのに、余力は意外とまだ残っていたようだ。
それでも重症である事に変わりないカタナはフラフラだったが、カトリが肩を支えた事でもう一度地面に沈む事は無かった。
そしてカタナとカトリの横を通り抜け、赤毛の男が前に出る。
「なかなか男前な喧嘩してるさね、おにーさん。俺にも一枚かませてほしいさ」
肌のほとんどを刺青で染めたその男は、楽しげにカタナにそう持ちかけた。
「……確か、帝国特務の」
一度の邂逅だが、その奇抜な見た目は忘れる方が難しい。
「鋼さ、憶えてくれていたようで何よりさ」
何故ここに? という疑問が咽から出かかったが、その前にカトリがカタナの体を手繰り寄せる。
「ここは彼に任せて、私達は離れましょう」
「おい、待て」
半ば抱えあげられるように、カタナはカトリに連れて行かれる。
「本当はおにーさんとも喧嘩してみたいけど、それは次の機会にとっておくさ」
鋼と名乗った男は、離れて行くカタナとカトリに背を向けたまま、大手を振るった。
「そいじゃ、いっちょ前哨戦として、竜殺しでもしてみるさ」
軽いノリでそう言って。赤毛を逆立て、平服に身を包んだその男は、無手で真正面から魔竜と対峙した。
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鋼は笑っていた。
眼前に立つ強大なものは、喧嘩の相手としてはこの上なく望ましい。
きっと自分より強く、きっと自分より多くのものを壊している。最高の喧嘩が出来る予感があった。
(いいさ、いいさ、これさ、これだよ!! これを求めて俺は生きてるのさ!!)
頭の冴え、心臓の鼓動、五体の律動、全ては目前の強者を倒す為。
敗北の二文字は心の片隅にもない。戦う以上は勝つ、どんな相手でも勝つ、ただそれだけ、その為に戦う。
それがかつて帝国の裏闘技場で、五百戦無敗を誇った拳闘士の、ただ一つの心意気。
(最高だ、こんな相手に勝ったら本当に最高さ)
勝利して最高の気分の自分を想像する、そうする事で現時点で最高の自分を用意できる。
「最初から飛ばしていくさ!!」
鋼は着ていたシャツを脱ぎ捨てる、露わになる引き締まった上体。しかし地肌のほとんどには、奇妙な紋様の刺青が刻まれている。
その刺青は魔法印を隠す為。禁じられた人体刻印の魔法、それは鋼の行動一つで発現する。
「しゃあああああああっらあああああああ!!」
左の掌を胸の中心に合わせる。そして上る霊光、その輝きは魔竜すら怯ませる。
「グウウウウウウウウウ……!?」
「どうさ? 結構シャレていると思わないか?」
鋼の全身を包んだ霊光は、あるものを形作る。
それは真紅の全身装具。
鋼の全身を覆っているその鎧は魔法の発現によって、今この時に作られた物。それが鋼の全身に刻まれた魔法印の力の一端。
錬金魔法の最高峰である『錬装』の力。
大気の霊子から霊鉱石を精製し、それを錬成して装着する。そしてさらにその上から付加魔法による強化も施される。
鋼にはその過程を一寸も理解できていないが、魔法印に刻まれた法式によって、霊力さえあればそれが可能になる。
帝国特務が鋼に目をかけたのは、五百戦無敗と言う肩書きよりも、鋼が生まれつき持っていた膨大な霊力量だった。
魔法を発現するには知識と修練が必要だが、人体刻印の魔法印によってそれを補えば、鋼は魔法士の十数人の霊力を扱える戦力になる。
そして力の矛先は、鋼の眼前の魔竜ただ一点に向けられている。
「……ふう、この鎧は妙にフィットしてて息苦しいさ。何にしても待たせたなって――!!」
いきなり鼻先を魔竜の爪がかすめる、魔竜は鋼の準備が終わるのを待っていたわけでは無く、ただ霊光の輝きに目が眩んでいただけ。
「ワビサビってもんがあるだろうさ!!」
鋼は魔竜の前足を全速力ですり抜け、わき腹に向かって飛び上がる。
付加魔法による強化は、鎧を通して鋼の身体全体を包んでいた。
「うらあ!!」
空中で一回転して遠心力が加わった、鋼の右手の正拳が魔竜のわき腹に突き刺さる。
「ガアアアアアアアアアアアアッ!?」
その威力は魔竜に苦悶の叫びを上げさせた。
傍目から見れば、手甲で覆われているとはいえただの人間の正拳である。それが固い竜鱗に守られた魔竜に痛みを与えた。それは異常な事。
実際に鋼の拳には、異常と言ってもいい自然の理に反した魔法が発現している。
『天下』と呼ばれる、付加魔法に分類されるその魔法は、発現している場所に対する、反作用力だけを反転させる効力を持つ。
物理の法則を完全に無視するその魔法により、ものを殴りつけた時の力に、拳に返ってくる分のそれと同じだけの力を上乗せする事が出来る。それと同時に拳が砕かれる事を危惧して力を抑える必要が無くなり、人の限界の力を行使する事が出来るようになる。
「そらあっ!!」
もう一打、今度は魔竜の足にクリーンヒットし、その巨躯を転倒させる事に成功する。
しかしその力も鋼は理解しているわけでは無い。彼にとっては、本気で殴れて拳も痛くならないという単純なもの。実際に凄いのはそれを発現させている鋼では無く、その法式の魔法印を鋼の身体に刻んだ者なのだ。
「はいダウンさ、ワーン、ツー、スリー……お、もう立ったか」
だが鋼は本能で、『錬装』と『天下』という他人に与えられた武器を正しく活用していた。それは自身の肉体を、凶器として扱う彼にとっては、もっとも相応しいものだったから。
「グウウウウウウウウウウウ!!」
「おうおう、ヤル気満々さね!」
鋼は久々の奮い立たせてくれる相手に、存分にその力を行使する。
++++++++++++++
「……あれは何なのでしょう?」
驚いた様子で後方を振り返るカトリ・デアトリスに、肩をかりているカタナは、気持ちは解らないでもないと同意した。
「人は見かけには寄らないな……あんなアホそうな奴があそこまで戦えるとは」
二人の視線の先では、魔竜と鋼が真正面からの殴り合いをしていた。
見ている限りでは優勢なのは鋼、体格の違いを利用して魔竜を翻弄している。
「隊長は驚かないのですね……」
「なんとなくは知っていたからな、刺青で隠された人体刻印式魔法印。『錬装』と『天下』とは、また尖った組み合わせだが、あの鋼とかいう奴は随分と場数を踏んでいるみたいだ」
魔竜の考えを先読みするような動き、体格の違いを考えれば、数俊先を読んだだけではだめだという事を、カタナは身を以って知っていた。
鋼のその動きを、カタナは経験に基づいた勘によるものと見た。
修羅場をいくつも潜り抜けた者だけが至る境地。カタナのように格下の者だけしか相手にしてこなかった者には、到底遠い道のりだった。
とはいえ、カタナよりも各上の存在というもの自体が、この世界ではごく一部に限られるので、無理ない事であるが。
「だが正直言うと、まだ帝国特務にあれだけの使い手がいるとは思ってなかった。絶対にあんなのを相手取りたくは無いな」
それがカタナの正直な本音、鋼には喧嘩を売られた事もあるし、実際にまた売られそうな事を言われたので、警戒しておかなければならないだろう。
「意外ですね、隊長がそんなに逃げ腰なのは」
「ああいう輩は苦手なんだ。あいつはきっと、死ぬまで負けを認めないタイプだろうからな。そんなのを相手にしてられん」
「なるほど……」
何納得してるんだ、お前もそうだろが。という言葉をカタナは呑みこんだ。
「……それより、このままだとあいつは負けるぞ?」
続く鋼と魔竜の戦いを見て、カタナはそう判断した。
「私には魔竜が劣勢に見えますが?」
「今のところはな」
表面上は確かにそう見える、だが見えない部分で差が生じているのがカタナには解った。
「あいつが魔竜にダメージを与えられるのは、『天下』が発現しているからだ。あれがあるから、固い竜鱗の上からでも打撃の効果を与えられるんだろう。だがな、天下は本来そんなに長い時間維持が可能な魔法じゃない」
直接攻撃において絶大な効力を発揮する天下、しかし帝国ではその魔法を正式採用していない。
その理由は、自然の理に反する事による法式の複雑さと、維持の為に使用者にかかる霊力面での負担。
自然に存在する霊子の力をかりて発現する魔法は、理に適っているほど負担が少ない。正しい力を正しい流れのままに扱うのが、本来の魔法の在り方。
だから天下のような魔法は、常識を覆せる事の引き換えに、本来の魔法以上の負担を使用者に強いているのだ。
「あいつがどのくらいの霊力を持っているのか知らないが、決め手に欠ける以上はその内に底をつくだろうな」
カタナは研究者に刻まれた記憶の、戦闘に関する記録を元に、そう分析する。
鋼の打撃は魔竜に効果があるように見えるが、竜鱗を砕くほどの破壊力が無いのは明確。内側に通すような打撃で、魔竜の内臓にダメージを与えてはいるが、体格差が大きい分それだけで倒し切るのは難しい。
「だから、お前は帰れ」
「何ですか唐突に……!!」
カタナは肩をかりていたカトリ・デアトリスから、突き飛ばすようにして離れた。
「お前の目的も、お前の所属も、俺は深く知らない。何故ここに来てしまったのか、何故帝国特務の奴と一緒に居たのか、それもとりあえず今はどうでもいい」
カタナは向き直り、鋼と魔竜との戦いの場に向けて指を指す。
「お前はあの中に割って入る自信があるのか?」
そこで繰り広げられているのは、人外と人の中でも選りすぐられた者の戦い。
「――ありません」
僅かに逡巡して、カトリは悔しそうにそう言った。それもそうだろう、自身の無力を認める事こそ、悔しいものは無い。
「ならば帰れ……俺は」
「た、隊長!? 駄目です!」
魔竜の方に向かおうとするカタナを、慌ててカトリは制止した。
「止めるな」
「止めます!! そんなフラフラの状態で、左腕だって折れ……て?」
カタナの左腕は魔竜との戦いで折れていた、酷い骨折だったからカトリも見てすぐに気付いていたのだろう。
だからこそ、その差異に気付いた。
「……あのくらいはすぐに治る、内臓の方はもう少し時間がかかるが少し休めば完治する」
左手の調子を確かめるように、カタナは動かしていた。
「それが……魔元生命体の治癒力、ですか」
「まあな、気味悪いだろ?」
魔元生命体という言葉を聞いて、カトリを困らせるような自虐的な言葉が口をついてしまう。
(……悪い癖だ)
ともかくとして、はっきりと意志は示さねばならない。
「俺は、まだ戦える。最後まで戦う」
「……何がそうさせるのですか? もう充分戦った、ボロボロになって、それでもまた立って、誰もそこまで望んでいないでしょう……」
何がそうさせるのだろう?
楽に生きたいと思っていた筈だった。
だが気づけばいつも面倒な道を選んでいるように思う。
それは何故か?
(……解っていた。これはきっと、破滅願望……なんだろうな)
世界に受け入れられない存在として生きるのは辛い、自分を殺して生きるのが辛い、だからいっそ誰かに殺されたい。
自分で自分を殺す事は出来なかった。自分の命を諦める事も出来なかった。きっとカタナを作り出した研究者達は、それを出来ないようにカタナを作ったのだろう。
気が付けば、色んなものから逃げ出していた。そのせいで、この世界と自分自身が嫌いで仕方なかった。
「ここは俺の死に場所だ。だから誰も付き合う必要は無い」
「……馬鹿な事を言わないでください」
だからカトリ・デアトリスにそう言われた事を嬉しく思ったのは、自分自身で本当に意外に感じた事だった。
「貴方が死ぬ必要なんてない。私はそうさせない為にここに居るのです」
強がりなどでは無い、カトリ・デアトリスのその瞳は、純粋な力強さに満ちていた。嘘偽りの無い決意、それを堂々とカタナの眼を通して見せつけていた。
「『戦術魔法』を発現させて魔竜を討ちます。貴方にはその為の力を貸して貰わなければなりません」
そう言って、カトリ・デアトリスはカタナの手を取り、強く握りしめた。




