第二十六話 残ったものと残らないもの
「おや? カタナ様ではありませんか」
カタナがある人物を探してブラブラしていると、嘘のような偶然で逆にその人物から声が掛かった。
「マスター、無事だったんだな」
カタナが探していたのは、カタナの行き付けだった喫茶店の店主。名前は知らないので皆がそう呼ぶように、カタナはマスターと呼んでいる。
こんな時でも、誰しもを穏やかにさせるような独特の空気と、落ち着いた身のこなしは健在で、周囲の悲壮な雰囲気とは真逆であった。
「ええ、何とか逃げてくることが出来ました。カタナ様も御無事で何よりです、御姿が見えなかったので心配しておりました」
「……少し街を出ていてな、俺は少し前に合流したばかりなんだ」
「そうでしたか、何にせよご無事だったのは嬉しい限りです」
「……そう思うか?」
「ええ、私にとってお客様方は家族のようなものですから。私の様な独り身の爺にはそれが全てでもあります」
笑いかけながらそう言ったマスターには、少しも無理をしている様子が無い。相変わらず言葉使いは堅苦しいが、それすらもマスターらしさを表すような自然体であった。
「家族……か」
そういうフレーズに慣れていないカタナには、少し照れくさい。
「はい、もう店は無くなってしまいましたが、私はずっとそう思っております」
何故かそれに引け目を感じるように、申し訳なさそうに言うマスター。初めてその顔に陰りがさす。
それを言う事で、カタナがどんな思いをするのかを、案じているような様子であった。
「……もう店はやらないのか?」
「どう、でしょうか……もし新たに始めるとしても、それは別の場所の別の店になってしまいますし。ゼニスがあの状況では、同じものは望めないでしょうから」
「そうか……」
このままいけばゼニスは地図から消える運命にある、それはもう誰しもが理解している事なのかもしれない。
しかし、誰しもがそれを納得しているわけでは無い。街があって人がいて、でもそれだけではない思いも、あの場所にはあった筈なのだから。
「なあマスター、前から聞こうと思っていた事があるんだ……」
「何でしょう? 私に答えられる事なら遠慮なくどうぞ」
カタナは、かつて行き付けだった喫茶店を思い出しながら問いかけた。聞きたかったのはそこの看板に書かれていた文字の事。
「『コシーロ』ってどういう意味だ?」
変わった響きのある言葉だと思っていた。カタナが知っている言語の中には無い言葉であり、それでいてどこか懐かしいと思っていた。
「ああ、私の店の名前ですね。コシーロは私の故郷の古い言葉で、『居眠り』という意味があります。お客様方に我が家で過ごすようにくつろいで頂けるよう、あの店にそう名付けました」
「居眠り……か」
「特にカタナ様は、あの店の在り方の体現者でありましたね」
「コーヒー一杯で入り浸って、迷惑だったろ?」
「そんな事は一度も思いませんでしたよ、むしろ嬉しい事です。カタナ様は私の店をそれだけ愛して下さっていた、私にはそれだけで充分なのです」
それを誇りに思うと言って、マスターは笑う。それが今はもう戻らぬ過去の事だとして、一抹の寂しさを感じながらも。
「……あの店を開いて良かった。今までの御贔屓、本当にありがとうございました」
それが最後の挨拶であるかのように、マスターは腰を折って頭を下げようとする。
しかし、カタナはマスターの額に手を押し当てそれを阻んだ。
「――!? ど、どうされましたか?」
予想外の事をされたマスターは、驚きで目を白黒させている。常に落ち着いた雰囲気のマスターが、初めて見せる表情であった。
「いやな、勝手に店じまいにされるのは困るんだ。俺はまだマスターの店に満足はしていないからな」
どこか意地の悪い笑みを浮かべながら、カタナはそう言った。
「あんたのコーヒーは、俺には少し苦い。次に行く時はもう少し甘くしてくれ」
「……次に、ですか?」
「そう、マスターの店で。俺が……いや、皆が愛したあの店でな」
まるで決定事項であるように、カタナは言う。それがもう無理な事であるとは、微塵も思わせないような説得力がその言葉にはあった。
それが幻だったとしても、マスターには否定することができない。
誰よりもマスターの店を、喫茶店コシーロを愛していたのは、マスター自身なのだから。
「……ええ、解りました。次こそはカタナ様が望まれるものをお出しできるように、私も精進いたしましょう」
「ああ、約束だ」
そう言ってカタナは手を差し出す。マスターはそれを固く握りしめた。
「……ところで、申し上げにくのですが。カタナ様には、折り入ってお願いしたい事があるのです」
「何だ? マスターの頼みなら大抵の事は引き受けるぞ」
「ありがとうございます……では遠慮なく」
そうしてマスターからのお願いを聞き終えた後、カタナは安請け合いをほのめかした事を深く後悔した。
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カタナの目の前には、泣いている女性の姿があった。
その女性はカタナにとっては既知の人物であったが、弱々しく泣いている姿を前にしては、流石のカタナもおいそれと声をかける事が憚られる。
しかも泣いている原因がカタナにもあると思われる事が、いっそう声をかけ難い思いを強くしている。
結果、カタナは泣いている女性を前にして立ち尽くすという、醜態を晒す事になった。
(マスターめ、こんな無理難題とは聞いてないぞ……)
心中で愚痴を零すが、そのマスターの姿は近くにはない為、恨みの念を発散させることもできない。
本当なら今すぐにでもこの場を立ち去りたい所なのだが、マスターとの約束を反故にしない為にもそれだけはできなかった。
「……おい、ウェイトレス」
どうにか決心を固めて、カタナが声をかけると、膝を抱えて泣いていたその女性が顔を上げた。
泣きはらした目でぼんやりとカタナを見上げたその女性は、喫茶店コシーロのウェイトレスを勤めていたリーネ。
マスターのお願いとは、理由も話さず泣き続ける彼女を、元気付けて欲しいという事だった。
「ぐす……あんたか……消えてよ」
しかし開口一番に、そう切って捨てる台詞が出てくるあたり、ハードルの高さはとてつもないという事をカタナは実感した。
「本当はそうしたいが、お前の事を頼まれたからな」
「……頼まれたって……ヤーコフさんに?」
どこか複雑そうに、それでいて少しだけ嬉しそうな顔で、リーネは訊いた。
「いや、マスターにだが……」
ここは嘘を吐くべきかどうか迷ったが、カタナは真実を伝える。瞬間、リーネの顔がまた伏せられた。
「ぐす……そうよね……ヤーコフさんが、私の事なんて気にする筈ないわよね……」
いじけた様に、ぶつぶつとリーネはネガティブな事を呟く。それにカタナは少しだけ違和感を感じた。
「いや、気にするだろ。一応はあいつの彼女なんだからな」
「……一応って言うな。あー、でもそうかもね……本命の超絶美人がいた訳だし」
「あ? 何の事だ?」
違和感は更に深まった。ヤーコフは確かに数人と同時に付き合うという、健全とは言い難い異性交遊を構築している。
しかし、ヤーコフはその中で本命というような、特別な相手を決めてはいなかった筈だ。カタナが知っている限りでの話だが。
「……さっきのあの子がそうなんでしょ? 金髪の女性騎士。ぐす……あんな美人、反則だよ……」
だがその言葉で、カタナは違和感の正体に気付いた。そしてリーネがどうして落ち込んでいるのか、正確に理解した。
カタナはリーネが泣いている理由を勘違いしていた。邂逅した時のように、ヤーコフの怪我の事か、ゼニスの今後の事について、その事を考えていると思っていたのだ。
それが全くの見当違いだと分かった時、カタナの腹から笑いが込み上げた。
「くくく……ふははははは……」
カタナが声に出して笑うのは珍しい事。それは本当に久方ぶりの事だった。
「ちょ!? なに笑ってんのよ!! 私がフラれたのがそんなにおかしいわけ!?」
泣き顔だったリーネも、流石にカタナに対して怒りを向けた。
「くはは……っと、悪い。お前の勘違いがあまりに可笑しかったんでな……」
口元にはまだ笑みの残るカタナは一応弁解する。そして誤解を解くためにリーネに説明を始めた。
「あの女騎士とヤーコフは、そういう関係じゃ無い」
「……なんであんたにそんな事が言い切れるのよ」
信じられないと言った様子で、怪訝そうにリーネはカタナを半眼で睨む。
「あいつは、俺の女だからな」
「は!? 本当に!?」
「冗談だ」
「最悪……もう、死んでよ……むしろ殺したい」
本気で殺気を向けてくるリーネに、冗談が過ぎたと反省し、カタナは説明を続けた。
「今のも悪かった。こういう時に冗談を挟むのが癖なんだ、だが最初に言った事は冗談じゃない」
「……あの金髪の美人騎士とヤーコフさんは恋人じゃないって事?」
リーネは希望を手繰り寄せるように問う。
「そうだ。どうしてそう思ったのか知らんが、それは絶対にない」
「……だって今、あのテントに二人っきりでいるし、私を追い出したのだってそういう事じゃないの?」
「全然関係ない。あの女がヤーコフと一緒に居るのは、怪我をしたヤーコフの補佐する為であって、それは俺が決めた事だ。それと、ヤーコフがお前に席を外すように言ったのは、俺達だけで留めておきたい話があったからだ」
カタナは一点だけぼかして言ったが、伝えたいのはカトリとヤーコフが恋仲ではないという事実だけなので、それで充分だ。
もっとも、理由が下らなさすぎるので、言いたくなかったという事もあるが。
「でも、あんたが知らないだけで、そういう可能性も……」
そこから先は言いたくなかったのか、リーネは口を噤む。しかし、その心配は無いと、カタナは首を横に振った。
「あの女……カトリ・デアトリスにはやるべき事がある、今はその為にしか生きられないと言っていた。それにヤーコフも気が多い奴だが、今はその心配もなさそうだ。お前になら解りそうなものだが」
「……どういう意味よ?」
「ヤーコフの事、ここまで支えてきたんだろ? 俺達が来るまではあのテントに、お前とヤーコフしかいなかった。つまり、そういう意味だ」
「あ……」
それとカタナは気付いている。ヤーコフに巻かれた包帯が、少し不器用に巻かれていた事を。
あれだけの傷と素人が向き合うのは辛かった筈だ。応急処置はヤーコフが自分でやったのだとしても、血を見るのに慣れていない者が、その場に居る事はそうできる事では無い。
「解ったか?」
「解った……ような気がする。正直あんたの言っている事だから信憑性は薄いけど……でも、なんとなく自信はでてきた、かな?」
言葉は微妙だが、さっきと比べてリーネは随分持ち直したようだった。カタナとしても、ここまでフォローしたのだから、その労苦が少しでも報われた事に満足感を感じた。
「……しかし、勘違いとはいえ、こんな時に色恋沙汰で悩むとはな」
「こんな時だからよ。こんな時だからこそ、信じているものには……裏切られたくないに決まってるじゃない……」
「……なるほど」
納得できる理屈かもしれないとカタナは思った。そして昔に聞いたある言葉を思い出した。
(『女は一途』……確か帝国に居た時に、風神が言っていた気がするな)
そう考えれば、カトリ・デアトリスもリーネにも当てはまる事だ。自分の決めた道からは外れようとはしない。
だからこそ、さっきのリーネのように、道が無くなったと思った時には進めなくなってしまうのだろう。
(道が無くなれば別の道を探せばいい……そう思うのは、人でなくとも俺が一応は男で、気が多いという証拠なのかもな)
なんでそんな事を思ってしまったのか、なんとなく浮かんできたそんな考えを、カタナは心の奥底に沈める事にした。
「それじゃ私は行くわ、ヤーコフさんの所に」
そう言って、さっきまで塞いでいたリーネは、少しばかりの笑顔を浮かべて立ち上がった。
「さっさと行け、そして絶対にフラれるなよ。こんな面倒は二度とごめんだ」
「……言われなくても、そのつもりよ!!」
捨て台詞を吐いて、リーネは走り去っていった。
何とかマスターからの頼みごとを達成したカタナは、遠くなったリーネの姿を一度確認してから、後ろを振り向く。
「呼ぶまで隠れてるつもりか、マスター?」
「ばれておりましたか、さすがですね」
少し離れたところにあった太い樹の陰から、マスターがひょっこりと顔を出した。
「……マスター、こんな頼み事はこれっきりにしてくれ」
「はは、申し訳ございません。この年になっても、やはり女性の涙というものは苦手なものでして……」
「得意な奴はいないだろ。それに別に俺じゃなくても、ヤーコフに任せた方が良かったんじゃないのか?」
終わった事を蒸し返すわけでは無いが、その事にカタナは今更気付いた。
「理由が解らなかったので何とも言えませんが、きっとカタナ様ならどんな場合でも、リーネちゃんを元気付けられると思っていましたから」
「……なんだその理由」
「前に言いませんでしたか? リーネちゃんはカタナ様に対してだけは遠慮がないと……」
そういえば、前に店に行った時にそのような事を言われたと、カタナは思い出した。
「つまり、ストレス発散に使ったと?」
「いえいえ、きっとあれはリーネちゃんなりにカタナ様に甘えたのでしょう。私と同じように、リーネちゃんもカタナ様の事を、家族も同然に思っているのかもしれませんね」
「……そういう誤魔化しは……ん?」
言葉の途中で、何かに気付いたようにカタナは周囲を見回した。
「如何されました?」
マスターの問いかけにカタナは曖昧に首を振りながら、やがて方向を見定めて耳を澄ませた。
「これは……」
カタナの耳には僅かに笛の音が届いた。そしてその音が聞こえてくる先には、ゼニスがある。
それは、想定していた最悪の事態が起こった事を意味していた。
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「魔竜がこちらに向かっているぞ!! 早く避難を!!」
警笛を鳴らしながら、自警団員が早馬で急報を知らせる。しかし、数分ほど前に、その急報にいち早く気付いた者が居たおかげで、既に避難の準備は完了していた。
そして逃れていくゼニスの市民達とは別に、周囲には誰もいない森の中。
カタナは魔竜の方に向かうべく、クーガーの背に乗った。
そしてそこにはもう一人、カトリ・デアトリスの姿もあった。
「……お前は連れて行かないと言った筈だぞ」
少し呆れたようにカタナが言うと、カトリは首を横に振った。
「解っています。ここに来たのは隊長に渡す物があったからです」
そう言ってカトリは、腰に帯びた剣を鞘ごと外した。
「魔法剣か。俺が使って良いのか? 家宝だったんだろ?」
「無手では手に余る相手でしょうから。それと、貸すだけですのであしからず」
カトリは『貸す』という部分を強調して、エーデルワイスをカタナに手渡す。
カタナは口元に笑みを作り、カトリの言葉の意味とエーデルワイスを受け取った。
「恩に着る……行くぞ、クーガー」
「ピーーーーーーーーーーーー!!」
月が雲に隠れる夜空に、飛竜の甲高い声が響き渡る。
「御武運を」
「……」
高く飛び立ったクーガーの背で、カトリの言葉に答えるように、カタナは一度だけ頷いた。