第十八話(裏) 英雄と神話の終わり
「……んーと、朝……なんすかね」
薄暗い牢屋の中で、ヤーコフは目を覚ました。
日の光は届かない地下、妙にジメジメしているのはもはや牢屋の御約束と言ってもいい。
そして自分の手には錠が掛かっており、足には枷が付き、更に首には魔法を封印する魔封錠まで付けられていた。
「完全に凶悪犯用のフルセットじゃないっすか」
眠って目を覚ませば少しは事態が好転しているかな、という甘い理想も描いていたが、残念ながら現実はそんなに甘くないようだ。
「しかも隔離牢とは、完全に特別待遇っすね。何か恨まれること……は、してたな」
自警団のダルトンには結構な恨みを買ってしまっているようだった、完全に逆恨みと言えるが、それも恨みの内だ。
溜息が出そうになるのを堪えながら、辺りを見回してみる。
鋼鉄の牢は錬金魔法の技術も使われているようで、かなり頑丈そうだし、手錠足枷に至っても同様である。
(うん、まず脱出するのは無理っすね。さすが我らが共和国、いい仕事してるっすね)
そうやって早々に色々諦めつつも、今できる事はやっておこうとヤーコフは思った。
まずは思考をクリアに保っておく事。
こういった場所に居続けると、精神を病んで狂ってしまう事がある。どうしても牢屋という所が陰鬱な雰囲気になってしまう場所なのだから、こういう時こそポジティブな思考を保持するのが大事だ。
騎士たる者、どんな極限状態であっても己を見失ってはいけない。
部下に聞かせれば笑われそうな、いつものヤーコフの騎士理論だが、この時ばかりはその心掛けが彼を支えていた。
(さて、色々考えておくことはあるっすけど。まずはやはり、市長の事っすね)
ヤーコフを捕らえるように命令を下したのは、市長だとダルトンは言っていた。
ダルトンは新しい街作りの為に、ヤーコフ達が邪魔になるからと言っていたが。それだけの理由で審議もなしに、駐屯部隊を牢屋に入れるのはかなり無理がある。
下手をしなくても公になれば、協会騎士団の本部が黙っていないだろう。
(それを承知の上で行動を起こしたとするなら……干渉されるまでの僅かな時間でも、邪魔が入らなければ良いと考えてるから?)
まさかと思うが、不安は拭いきれない。市長がカタナをゼニスの街から遠ざけたのも、目論見の一部である可能性もあるのだ。
だが精々数日の僅かな時間で、人が出来得る事は限られる。それも理解しているヤーコフは尚更、市長の真意が見えないでいた。
(……やっぱり解らない事はいくら考えても解らないっすね。せめて相談役でも居ればいいんすけど)
生憎と他に捕まった部下たちとは別に隔離されているから、そんな相手もいない。牢屋の中で文字通りの八方ふさがりであった。
「お困りのようだね、ヤーコフ副隊長君」
どうしたものかと天井を見つめながら途方に暮れていると、牢の外側から声が掛かった。
「え!? 秘書官殿!?」
そこに居たのはサイノメ。不敵な笑みを見せながら、ヤーコフにとって全く予想外のタイミングで、全く予想外の相手が現れた。
「……ふふふ。中々いい格好だね、まさか副隊長に自縛趣味があったとは」
「違います!! そうじゃないっす!! これはどういう訳か自警団に捕まって……」
「解っているよ、あたしを誰だと思っているのさ。ここに来たのは君をそこから出す為なんだから」
そう言ってサイノメは、ヒモに通してあるいくつかのカギをヤーコフに見せびらかした。
「それはもしかしてこの牢の鍵っすか?」
「そうだよ。ちゃんと手錠と足枷用のもありまーす」
軽い調子で言っているが、どうしてそれをサイノメが持っているのかを考えれば、ヤーコフは少し恐ろしくなった。
「も、もちろん許可を得て持ってきたんすよね?」
「んなわけ無いじゃん、盗んできたんだよ。ここに来るのだって正規の手続きを踏んでないし」
「やっぱり!!」
完全に犯罪だ。
いや、ヤーコフがこうして捕まっているのも、正規の手続きを踏んでないようなのでお互い様とも言えるが。それでも犯罪は犯罪、許されることではない。
「ほいじゃ、開けるよ」
「ああああ、駄目っす!! 開けちゃ駄目っす!!」
慌てて止めるヤーコフに、サイノメは怪訝な表情を見せる。
「何で? そこから出たくないの? ……ハッ、やっぱり自縛趣味が!?」
「だから!! そんな趣味は無いっす!! ……僕が言いたいのは、僕の為に秘書官殿が罪に問われるような事をしちゃ駄目って事っす」
「何だ、そんな事を気にしてたの? 大丈夫、こうして不法に侵入してる時点でもう罪に問われるような事しちゃってるし、問題なし」
大有りだ。むしろ何をもって問題がないと言っているのか、ヤーコフには理解不能だった。
「ま、まだ誰にも見つかってないんすよね? だったら見つからない内に、ここから出て行った方がいいっすよ。僕の事は放っておいてくれていいっすから」
助けてもらえるのはとてもありがたい、しかしながらその後の事を考えると、犯罪まがいの手段でここを出るのはよろしくない。
少なくとも法を犯した時点で、協会騎士団からは何かしらの罰則があるのだから。
「悪い事は言わないっす、秘書官殿がここに来たことは黙ってますから」
「心遣いは嬉しいけどね。今はそんな綺麗事や悠長な事を言っている場合じゃないんだよ。副隊長にはどうしても、やってもらわなくちゃならない事があるんだから」
少しだけ強い口調でサイノメはそう言った。それが妙に迫力のあるものに感じて、ヤーコフは呑まれてしまう。
「な、なんすか? 僕がやらなくちゃいけない事ってのは……?」
恐る恐る尋ねるヤーコフに、サイノメは満面の笑みを作って答えた。
「なあに、簡単な事だよ……」
言いながらサイノメは徐に牢の鍵を開いた。
舞台は既に整っている、後は役者を揃えるだけ。その為に全てを負う決意も既にできている。
だからサイノメは笑う。これから起こる事と、起こす事の残酷さと冷酷さを理解したうえで尚、全てを包み込むような笑顔を見せる。
それがこの世で最も醜い偽りだと理解した上で。
「副隊長には、英雄になってもらうよ♪」
ヤーコフに宣告した。
++++++++++++++
ゼニス市の中央広場、いつもは出店や商店が出そろうその場所が、今日は一風違った賑わいを見せている。
その理由は、突然に決まった市長の演説。何やら重要な事を全市民に伝える為として、自警団等の人出を使い、集められるだけの市民を中央広場に集めていた。
普段あまり人前に出ない市長が直々にという事もあり、集まった市民は何かしらの期待や不安を抱きながらその時を待っている。
「あ、おい来たぞ」
自警団が道を空け、中央広場の中心に特設された演説台に向かって歩く、市長の姿に衆目が集まった。
市長の普段通りとも言える気難しげな表情は変わらず、市民から呼びかける声には何の反応も示さずに演説台に上る。
市長のそういった無愛想な態度は、以外にも市民からは不満には思われていない。それはこれまで九年もの間、ゼニス市の市長という職を、立派に勤め上げてきた実績によるものが大きい。
だからこそ市民は市長の呼びかけに応じてこの場に集まり。市長が演説台に上ると、それまで聞こえていた囁き合う声も落ち着き、皆が市長の言葉に耳を傾けようとしていた。
そして完全に静まるのを待った後、市長は口を開いた。
「……まず始めに、突然の事ながらこうして皆が、私の呼びかけに応えてくれたことに対して礼を言わなければならない。本当にありがとう」
そう言って頭を下げた市長の態度に、静まった筈の市民たちはざわめき出す。
これまで市長がそういう態度を示した事は、未だかつてなかった。常に強気の姿勢で事に当たり、その仕事ぶりが完璧であったから誰にも頭を下げる必要が無かったとも言えるが。
それは集まった市民からすれば逆に不安も感じてしまう。重要な事を伝える為として市民を集めた市長の態度に、そういう違和感があるとすれば、何か良くない事態を想像してしまうからだ。
そんな市民たちの反応を気にしていないかのように、市長は頭を上げた後、続いて話を進める。
「ここに諸君らに集まってもらった理由であるが、どうしても知ってもらいたい重要な事柄を、私の口から伝えたかったからだ……」
改めて主旨を自身の口から語る市長。
「諸君らの知っている通り、我らがミルド共和国の民は、五十年前に起こった大陸と魔界の戦いを終わらせた、『勇者ミルドレット』の意志を継ぎ。勇者が守ったこの世界が、再び戦火に包まれぬように努力してきた」
かつてこの世界は魔界という異世界と繋がった事で、世界規模の戦争が起こった。
それを終わらせのたが勇者ミルドレット。かの者が『聖剣』の力により異世界との繋がりを断った事で五十年前の大戦は幕を閉じている。
そしてその後建国された共和国の起こりは、勇者ミルドレットの英雄的偉業を崇拝した者達が、『ミルド協会』という共同体を作り上げた事から端を発する。
ミルド協会は勇者という救世の英雄を神格化し、その思いを信仰とした。それは勇者が望んだ『戦争の無い世界』を維持する為、後に大陸最強を謳われるミルド協会騎士団を生む事になった。
「我らは戦争の無い平和な世を五十年もの間維持し、過ごしてきた。これは有史以来見られなかった人類の快挙でもあり、同時に勇者がもたらした平和という神話が、今でも続いている事を示している」
当然ながら市長の話を聞く市民の中で温度差が生まれた。
五十年という月日は、人の価値観を容易に変えてしまう。平和を待ち望み、勝ち取った世代。戦後の荒れきった土地に生まれ、険しい日々を送った世代。平和で豊かな世に生まれ、それが当たり前になった世代。
それでもそこに居る誰もが、勇者に対して敬虔な思いを持ち得ている。
それがミルド共和国という国の教えであり。そこに属す誰もが持たなければならない風潮でもある。
「だが、諸君らには改めて知ってもらいたい……」
市長は一度言葉を区切って、強調する。市民達は張りつめたような空気を感じとった。
「勇者がもたらした神話が既に終わりを告げている事を」
そしてその一言に、周囲が大いにざわめく。
市長が言った一言は聞こえようによってはミルド協会の教えに対する冒涜にもとれる、そういう言葉は共和国民である以上禁句であり、場合によっては異端者ともとられかねない。
しかし、あくまで市長は周囲の反応には気にも留めない姿勢で話を続ける。
「今ここに、その証明を示そう……諸君らの黎明の終わりを身を持って知るがいい。そして根源に刻まれよ。フフフハハハハハハハ……」
市長は笑っていた、とても楽しげに、まるで人が変わったように。
それは文字通り確かに人が変わっていた。性格だけでなく、その外見までも市長は別人となっていた。
それまで演説台に居たのは、シワ一つない紳士服を着こなした白髪の壮者だった。しかし、今市民達の目の前に居るのは、黒い髪と黒い瞳を持つ若い男。
その突然の変化に、ついて行けるものはその場に居ない。市民達は驚愕で目を丸くして、ただ言葉を失う。
「ハハハ、やはり愚かだな。見えている世界が全てだと思っているからこうなる。騙されている事にも気づかずに、疑う事も出来なくなる、これこそ具の骨頂というもの……」
そして、と市長ことベルリークは最後に付け加える。
「見えない場所にこそ、罠が仕掛けられているものだ」
同時にその場が悲鳴で騒然となった。
突如として中央広場の全域に黒い幾何学模様が浮かび上がる。とてつもない異様な光景は、恐怖として伝染し、危険を察知したものはそこからすぐに逃げ出そうとした。
しかし、もう遅い。
その場を支配する力は逃げ惑う事を許さない。まるで蛇に睨まれた蛙のように、市民達はその場を動けなかった。
魔術陣『縛呪』
魔術を最大限効率化するために施す術式の事を、魔術陣と呼ぶ。魔力や霊子の流れを自在のものとし、術者の技量以上の事象を起こす事が可能になる。
反面、その為に複雑な術式を組むことになり、膨大な時間を要する場合があるが。
ベルリークが長い時間をかけて地層深くに仕込んだ魔術陣は、その場に集まった千に近い数の市民達を行動不能に陥らせた。
++++++++++++++
「……お、おい! これはどういう事だ!! 市長はどこへ行った!?」
自警団の次期団長を夢見た男――ダルトンは、それが潰えた事にまだ気づいていないのか、ベルリークに抗議する。
「ほう、私の術中にありながら、まだ叫ぶ元気があるとはな。過分な夢を見た愚か者だと思っていたが、存外適任だったのかもしれんな」
ベルリークは興味深そうにダルトンに向き直って眺める。その黒い眼は同じ生き物を見るようなものでは無く、ダルトンは背筋が凍るようだった。
「それで、貴様が出来る事は叫ぶ事だけか? それだけならばこの場で何も意味を成さない。むしろ、その無駄な行いが命を縮める事にもなるぞ」
実際に、この場に居る全ての人がベルリークに命を握られている。ダルトンとて全く動かなくなっている自分の四肢を思えば、それも脅しでは無いのだという事が理解できる。
そして動けないという事以外にも、何かに自分の力を奪われる感覚というものを、ダルトンは感じていた。
それでもなおダルトンは食って掛かる。
「うるせえ、お前なんぞは眼中にねえ! 市長はどこに行った! 俺を自警団の団長にするって話は!?」
「……ふん、愚か者は所詮、愚か者か。私がこの九年、ゼニスの市長を務めてきたベルリークで間違いは無い。ただ貴様らに本当の私が見えてなかっただけでな」
「な、何い? 意味が解らない。お前、何言ってんだ?」
「……解らないのなら、そのままそこで死ね。本当なら貴様のような愚か者は有無を言わさず処分するのだが、貴様の白き力が今は必要だ。生かしておいてやる」
「てめえ! 何だか知らねえが、上からもの言いやがって! ゆるさねえぞ!!」
ベルリークの言葉にいきり立つダルトンだったが、回るのは口だけであり、体が麻痺するような感覚は消えない。
周囲からは苦しむような声、自警団の同僚たちも顔色を悪くしていた。
その原因は地面の黒い模様だというのは明らかであるが、動けない以上はダルトンに打てる手は無かった。
「畜生! おい、誰か動ける奴ぁ射ねえのかよ!!」
「無駄だ、私の魔術はそれほど容易くは無い。この陣の中で動けるものなど居るものか」
ベルリークの言葉通り、誰ひとりとして立ち向かえる者も逃げ出せる者も居ないように見えた。
もしこの状況でそれが出来るとするなら、それは英雄の器だと呼べるだろう。
ベルリークとしても、そんな不確定要素が現れない為に手は打ってある。自警団の主力は罠にはめて弟に処分させた。そしてそれをダシに協会騎士団の駐屯部隊隊長であるカタナをこの街から離れさせ、残った駐屯部隊の隊員もダルトン達に命じて拘束してある。
万事手抜かりなく、計画通りであった。
(……黒の予言、巫女が示した我らが繁栄を極める道。それを阻むものを許してはならない)
ベルリークの悲願、その為に今まで生を繋ぎ、そしてその為に死ぬ。その決意があるからこそ抗い続けてきた。
(そして巫女が示した最大の障害は『凶星を運ぶ聖騎士』。協会騎士団では八人しかいない『聖騎士』の称号を持つ者が、まさかこのような辺鄙な所にいると知った時は運命というものを呪ったものだが)
カタナがこの街に居るだけで、その存在はベルリークを不安にさせていた。早々に処分する事も考えたが、それをする事で協会騎士団への影響がどう出るか、それこそ不確定要素が多くなりすぎる為、苦渋の末断念した過去もある。
(この段階まで至れば、その心配も杞憂だったという事か……我ながら滑稽だな)
もはや計画の成就を確信したベルリークは、込み上げてくる歓喜を止めることなく笑い続ける。
既に勝利を確信しているが故の気の緩みであった。
しかしその耳にどよめきが届き、その思いも一蹴される事になる。
「な、何だと!?」
どよめきが続く方向にベルリークが目を向けると、ただ一人向かってくる者がそこに居た。
++++++++++++++
ベルリークの魔術によって動けなくなった市民達の間を縫いながら、高速で駆け抜ける男がいる。
黒い外套を身に纏い、眩い輝きを放つ長剣をその手に持ち、颯爽と現れる者。
それはまさに、民衆の危機に現れる英雄という概念そのものように。
そしてその男の胸中に宿る意志は、まさに英雄と呼ばれて相応しいもの。
(皆を助ける)
その一心が男を進ませる。
そして、とうとうベルリークの前に躍り出た。
「……君は、確か見覚えがあるな」
ベルリークの黒い双眸が男を睨み付ける。
「覚えておいて下さったようで、嬉しい限りっすよ」
軽い口調でベルリークの言葉を受け流す男。そしてその背後からはその場の雰囲気をぶち壊す大声が轟いた。
「あ? あああああー!? てめえ、駐屯部隊のハーレム騎士じゃねえか!? どうしてこんなとこに居やがる!?」
ダルトンが空気も読まずにそんな事を叫ぶものだから、男――ヤーコフは大勢の市民達の前で大恥をかくことになった。
「ちょっ!? こんな時までやめて下さいっすダルトンさん!!」
格好をつけたいわけでは無いが。今まさに敵と相対している時に、緊張感を無くすような事を言われるのはとても困る。
「いや、そんなこたあこの際どうでもいい! おいハーレム野郎、俺達は身動きがとれねえんだ。なんとかしやがれ!」
更にそんな事をのたまうダルトンに、ヤーコフは軽い殺意を覚えた。
大勢の前で殴られたり、大勢の前で恥をかかされたり、牢屋に放り込まれたり。思い返せば散々な目にあわされている。
そもそもこうしてヤーコフが此処に居るのは、この状況を何とかするために決まっているのに、わざわざ命令するように言われたのも癪に障った。
(……と、いけない。今は目の前に集中しないと)
何やらまだ後ろで叫んでいるダルトンは無視する形に決めて、ヤーコフは気持ちを切り替える。
ヤーコフが今相対しているのは『魔人』なのだ、かつてこの大陸を蹂躙した種。その恐ろしさは伝え聞いているものしか知らないが、それでもベルリークの隙の無さや感じる圧力は、その種の差というものを感じ取るには充分だった。
(……これは骨が折れそうっす)
とはいえ悠長にしている時間もなさそうであるのは、周囲を見れば明らかである。市民達は魔術によって動けなくなっているが、ただ動けないだけではなさそうなのだ。
ヤーコフは確認の為にダルトンに声を掛ける。
「ダルトンさん、動けないみたいっすけど。それ以外に何か異常は無いっすか?」
「……あ? ああ、そういえばずっと力が抜けるような感覚があるな」
それを表すようにダルトンの騒々しさも薄れている。やはりベルリークの魔術には別の何かあるようだ。
「……ヤーコフだったな、どうして私の術中にありながら自由に動くことができるのだ?」
「秘密に決まってるっす」
興味深げに聞いてくるベルリークを、当然のようにヤーコフは突っぱねる。
実はヤーコフがベルリークの魔術陣の中に居ても自由に動けるのは、サイノメからある物を託されていたからだった。
それはヤーコフが今着ている黒い外套。これはカタナが普段から着ている物と同じ物であり、彼が着回ししている代用品だった。
その外套には高度な魔法印が刻まれていて、ヤーコフが聞いた限りでは共和国一の魔法の使い手が作り上げた物らしい。
(しかし、まさか魔術すら完全に防ぐとは……隊長が普段からこんな暑苦しい格好をしている理由が解るっす)
編みこまれた霊糸によって、障壁魔法が自動で発現しているからヤーコフには負担は無い。この場では何よりもありがたいものだった。
そしてもう一つ、ヤーコフの手には普段は持たない特別な装備。
魔法剣――無銘であるが、協会騎士団の本隊にのみ支給されるもので、当然ながら普通の鉄剣よりも数段上の性能である。本来なら騎士勲章と一緒に剥奪される筈の物だったので、もう持たないと決めていたのだが。
ヤーコフは魔法剣を構える。
「今すぐこの魔術を解いて投降すれば命までは奪わないっす」
「フン、何を言うかと思えば戯言を。ニンゲン風情が私に敵うとでも?」
ベルリークの手には武器は無い、それでも全く臆することない態度は余裕そのものである。
しかし、ヤーコフはそれが偽りであると見抜いていた。
「そういう強がりは少し痛々しいっすよ」
「……何?」
ベルリークの目が細まる。
「これだけの魔術を維持するのに消耗しない訳がないっす。貴方が今まで偽っていた白髪の老人では無く、その姿になったのも余裕がなくなった証拠っす」
姿を偽る事が出来るというのはヤーコフにとって衝撃的だったが、かつて祖父が言っていた魔人に常識は通用しないというのは、まさにこういう事なのだろう。
「ほう……少しは頭が回るようだな」
ベルリークは感心するように頷いた、しかしそこに含む笑いにヤーコフは気付いた。
「……何が可笑しいっす?」
「何、私も思ったのさ。弱者の強がりは痛々しいとな」
今度ははっきりと嘲笑いながらベルリークは言う。
「ハハハ、確かに私は消耗しているが、君程度のゴミを片付ける程度の余力は十分に残している。それは君自身がよく解っているだろう? 先程からずっと隙を窺っているようだが、その機会がないと思うからそのような言葉で惑わそうとしているのだろう?」
(……バレバレだったっすね)
確かにベルリークは消耗している、だがそれを鑑みても歴然たる力量差は揺るぎ無い。
力の差と、心の内まで見透かされるという絶望的状況。だが、まだ一つだけヤーコフに勝機は残されていた。
それはベルリークがヤーコフよりも、優位に立っていると思い込んでいる状況。付けこむ隙があるというならそこだけだ。
霊光が上がり、ヤーコフの身体に白い光が灯る。
「――駆身魔法、発現」
瞬間、世界が加速する。
「……ほう」
一瞬で間合いを詰めたヤーコフに臆することなく、ベルリークは魔光が上がった腕を振るう。
黒い線が刃のようにヤーコフに襲い掛かる。
「――っつ」
全方位から襲い掛かる黒い刃、逃げ場はない。だからヤーコフは立ち止まらずに走り抜ける。
「何だと!?」
賭けであった。ヤーコフがサイノメから聞いてあったベルリークの黒い刃の攻撃に、対抗できるすべがあるとするなら、それはカタナの外套に賭ける事だった。
対魔法、対魔術のあらゆる法式、術式に対応する、その規模内で言えば現代最高の防護魔法。
『三連魔法印・守天導地』
外套に刻まれた三つの複雑な魔法印が合わさり、発現されるその魔法はヤーコフの全身を包み。ベルリークの放った黒い刃のことごとくを防ぎきった。
「はああああああああああ!!」
ヤーコフは上段から魔法剣を振り下ろす。ベルリークの放つ魔術の中を突き進み、得た最大の好機。一瞬の逡巡などでもそれを逃してはならない。
一閃、それはその場に響いた。
ポタリと血の滴る音。ベルリークの身体から流れ出る赤い血は、ヤーコフを青ざめさせていた。
「まさかこの私に血を流させるとは……君の事を大分過小評価していたようだな」
ベルリークは荒げた息を整えながらそう呟いた。
「それは……僕も同じっすよ……」
魔人に常識は通用しない、だから間違っても正面から戦うな、もしそうなったら迷わず逃げろ。かつてヤーコフが祖父から教わったその言葉の意味を、本当の意味で実感していた。
ヤーコフの剣はベルリークの素手に受け止められていた。
与えた損害は軽微、手の皮一枚を裂いただけ。渾身の一撃でその程度。
そして次の瞬間、ヤーコフの魔法剣はベルリークによって握り砕かれた。
その戦いを見守っていた周りの自警団や市民達も消沈し、そしてその顔が絶望に染まった。
「名誉な事だよヤーコフ君、五十年前の大戦でさえ私は一度も血を流す事が無かったのだから」
「……それは、随分と臆病者だったんすね」
そうやって憎まれ口を叩くのが、今のヤーコフにできるただ一つの抵抗。
それをベルリークは鼻で一笑に付し、血に塗れた手でヤーコフの首を掴む。
「――あがっ」
「君は中々良くやったよ、この私の計画を少しだけ狂わせた。そのお礼に、精々苦しませて殺してあげよう」
魔法剣すら握り砕いたその手は、ヤーコフの首の骨を砕かないように加減され、じわじわと窒息させる。
「が、うあ……」
無駄と悟り、ベルリークの手を外そうともしないヤーコフ。諦めたのだと誰もが思っていた。
(……やっと見つけたっす)
だがもしベルリークが人間というものを、もっとちゃんと見ていればそれに気付けただろうか。
ヤーコフの目がまだ死んでいないという事を。
(……我らが勇者が、絶望の中に希望を見出したように。僕にもそれを見つける事ができたっす)
最後の最後、声を出す事が出来ないのが悔しいが、ヤーコフは心の中で高らかに叫ぶ事にした。
(隙あり!!)
ヤーコフが取り出したのは短刀。
祖父の形見であり、ヤーコフが常に持ち歩く、相棒とも言える存在。
銘は『バシリコフ』、祖父の名がそのまま付けられている。
五十年前の大戦を生き抜き、共和国の建国に尽力した騎士の刃と意志は、時を経て受け継がれ。
刃渡り二十センチメートル程の魔法付加された刃は、易々とベルリークの胸の中心を刺し貫いていた。
「……馬鹿な」
心臓に突きたてられた短刀をヤーコフが引き抜くと、先程とは比べ物にならない程の鮮血が流れ出た。
ヤーコフの首にかかっていたベルリークの手から力が抜ける。
「けほっ、ぐえ……やった」
咳き込みながら、その手応えを感じたヤーコフは控えめに呟いた。それは確かな勝利宣言であり、ヤーコフが一時の英雄になった瞬間だった。
広場を覆っていた魔術陣は消え、市民達は身体の自由を取り戻す。ほとんどの者が疲弊し、幾人か気絶している者も居るようだが、命に別状は無いようだった。
そして無事な者達からヤーコフに向けて歓声が届く、現金な事にその一員にダルトンもいた。
「……クフフフフフフフ」
しかし、その歓声を吹き消すかのようにベルリークが乾いた笑いを漏らす。
「何が可笑しいっす?」
「フフ、秘密に決まっている。と言いたいところだが……私の生を終わらせる君には知っておいてもらおうか……」
もはや目に焦点が定まらない瀕死の状態で、勿体付けるようにベルリークは言った。
「――?」
「私の魔術陣が……ただニンゲン共の動きを止めるだけだったとは、思っていないだろう?」
「……そうっすね、だからこそ力付くでも止めた訳っすから」
ベルリークがその気になれば、この場に居る者全員を皆殺しにも出来たかもしれない。ヤーコフとしてもベルリークの発現した魔術の意味は気になっていた。
「……縛呪は動きを止めると同時に、力を奪う……君達の言葉で言うと霊力だったか……」
ダルトンが力が抜けるような感覚がある、と言っていたのをヤーコフは聞いている。そして疲弊したり気絶したりという症状も、体内の霊力が枯渇した時の状態と同じだ。
「街の皆から霊力を奪って何をしようとしたんすか?」
「……この世と、かの世を繋げる為。その為には我ら黒き民の力と……貴様らニンゲン――白き民の力が同量必要だった……」
「この世と、かの世を繋げる?」
「……そう、君達が魔界と呼ぶ、私達の世界とこの世界を繋げる為……」
「な!? 馬鹿な……五十年前に、勇者が聖剣によって異世界との繋がりを断った事で、それは出来なくなった筈だ!?」
それは世界の常識とも言える事で、現実にこの五十年の間は一度も、異界とこの世界が繋がる事は無かった。
「……フフフフ、愚かな……この世に永遠などという幻想は存在しない……ましてただ一人が世界に干渉した結果だ……五十年持っただけでも驚異的な話だろう……」
もはや先程の歓声は消え、ベルリークの話を聞く誰もが青ざめている。
話が本当なら信じているものの根底が崩れる事になるのだ、平和な世を生きている現実も、平和な世がこの先も続いていく幻想も。
「……そして、君は少し遅かった……」
「な……」
ベルリークの真下から黒い光と白い光が天に向かって伸びていく。
これこそ、ベルリークが十年の時をかけて完成させた魔術陣。ベルリークの血が霧消していく、その血に含む魔力すら陣が吸い取っていくように。
「……すでに発現しているのだよ……開くぞ……異界への門が……もう、鍵は無し……」
「あ、あれは……」
ゼニスの空の上、青い空が歪みをみせて黒い裂け目を作った。
「……これが私の世界への反逆……勇者が残した神話の終わり……巫女が残した、黒の予言の第一幕『獣が世界を蹂躙する』……クフフフハハハハハッ……」
ベルリークはこだまするような乾いた笑いを残してこと切れた、その死に様を見ていた者はその場には誰もいない。
誰もが空を見ていた。黒い裂け目を作った空と、そしてそこから這い出してくる巨大なモノ。
誰もがそれに釘付けになっていた。その圧倒的な存在感、そして根源から這い上がってくるような恐怖。
ヤーコフも、ベルリークなど比ではない脅威をその目に映し、心が折れそうになった。
空の裂け目から現れたのは『魔竜』、魔界において最強にして最凶の獣。かつてこの世界で破壊の限りを尽くした魔獣が、再びこの世界に現れた。
恐怖は広がり混乱を呼ぶ。それを止める事など出来る筈ない。
だがその場でヤーコフだけは己を見失ってはいなかった。
(一人でも多くの人が、逃げ延びる事が出来るように……)
この場で自分が何をするべきなのか見失ってはいなかった。
恐怖に慄く市民達が走り去る方向とは正反対に、ヤーコフは走り出した。
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「はあ……」
事の顛末を見届けたサイノメは溜息をついた。
「やっぱり役者不足だったか……お膳立てはしてあげたのに」
最善とは言えないが、出来るだけの手助けはしたつもりだ。それでこの結果だったのだから、運命を呪ってもらうしかない。
「でも、ベルリークを討ったのは称賛に値するかな。おかげであたしの仕事が一つ減ったし」
誰にも聞こえないような拍手を三回ならし、サイノメは混乱のただ中にあるゼニスの街に背を向けた。
「さて、これからが忙しいぞー」
軽く伸びをして、これからの重労働に向けて意気込む。
そして一度だけ、サイノメはゼニスの街を振り返った。
「……いい街だったな」
おそらく次に見る時には、まったく別の風景に変わってしまっているだろう。
名残惜しそうにしばらく目に焼き付けて、サイノメはその場を去った。