転章 誰が為の騎士
ミルド共和国にあるフルールトーク家の本邸にて、その当主であるツヴェイク・フルールトークは自分の前に突き付けられた書面を見て震えていた。
そこには主に、これまでにフルールトーク家の財閥を大きくするために犯した不正についてが、事細かに記載されている。
「どうですかお父様? 以前より申し立てていた件ですが、今日は承諾して頂けるでしょうか?」
表に出れば間違いなく法によって裁かれることになるだろうその証拠を、ツヴェイクに突き付けてそう言うのは、実の娘のフランソワ・フルールトーク。
まだ十歳を超えたばかりの子供であるのに、その表情には可愛らしさというものは微塵も無い。
冷たいまなざしで見透かすように父の様子を観察している。
「……恐ろしい子だ、いつかこの日が来るだろうと思ってはいたが、これほどまでに早くなるとはな」
ツヴェイクは肩を落とし、素直に負けを認めた。
どう足掻いたところでどうしようもないくらいに方々に手を回している筈だと、そういう自分の娘の才を理解していたから。
「では当主の座と財閥は、このわたくしにお譲り頂けますね?」
「……好きにしろ」
「ありがとうございます。では、正式な手続きは後日という事で、夜分遅くに失礼を致しました」
それだけ告げると、フランソワは書面を残して部屋を出ようとする。
ツヴェイクはその後ろ姿を眺め、ある衝動に駆られた。
他には誰もいない、相手は子供、もしここで始末すればその罪ごと握りつぶせる……いくつも浮かぶ黒い感情。
しかしツヴェイクは行動には出なかった。出られなかった。
明らかにそういう行動も見越している節が、娘からは感じられたから。
「おやすみなさい、お父様」
そして部屋を出ていくフランソワが扉を開けた時、自分が少しは賢明であった事をツヴェイクは知る。
外で待っていたのであろう黒い瞳が、扉の隙間から僅かに覗いたから。
「どこで間違ったのだろうな……なあ、エトルリア」
それは独り言のつもりだったが、部屋の外からフランソワが言葉を返す。
「間違えたのはわたくしですわ」
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「ご苦労様ですレイイチ、貴方のおかげで余裕を持てましたわ」
フランソワは自室に戻る途中、自分の後ろを歩く見習い執事に労いの言葉をかけた。
「いえ、居候の身ですから」
「ふふ、少しは執事が板についてきたようですわね。立ち振る舞いも様になっています、ロザリーの指導が無駄にならなくて良かったですわ」
愛想の無い見習い執事に笑いかけ、フランソワは自室の扉を開けた。
「レイイチ、今日はもうお休みになっても大丈夫ですわ。お父様がわたくしに対して妙な気を起こす事は無いでしょうし、もし行動を起こすとしても一晩よく考えてから。あの人はそういう方です」
傾向と思考パターンまでを察し抜き、自身をもってそう言うフランソワに、見習い執事も頷いて返す。
「解りました、では明日以降から警備を増やします」
「真面目ですのね」
「仕事ですから、それに他にできる事もありませんし」
そう言って一礼して立ち去って行く見習い執事、フランソワも自室に入る。
服を着崩して少しだけ身軽になり、フランソワはそのまま大窓を開けてテラスに出た。
「……ふう」
一人になった途端に溢れてくる疲労、そして心細さ。
これからはそれが何倍にもなる事を考え、自然とため息が漏れる。
才能があっても、それを活かすすべを得ても、幼い自分を自分にだけは隠しておく事はまだフランソワにはできなかった。
「あまり無理はするなよ」
「――え?」
夜空を見上げていたフランソワに不意にかけられた声。
聞こえた方向を振り返ると、テラスの手すりに腰掛けたカタナの姿があった。
「――おにいさま!?」
「しっ。誰かに見つかっても面倒だから静かにな」
人差し指を立てたカタナが幻ではないと見て取ると、フランソワは大慌てで居ずまいを正し着崩した服も直す。
(どうしておにーさまが!? ああ、この服では地味すぎますわ! 解っていれば香水もつけましたのにい!!)
予想だにしない来訪にフランソワはあれこれ考えて唸っていると、カタナの方は迷惑だったかと珍しく気を遣う。
「悪いなこんな時間に、出直してきた方がいいか?」
「あ、全然、そんな事はございません!! おにーさまならいつでもどんな時でも大歓迎ですわ!」
反射的にフランソワはカタナの外套の裾を掴んでいた。
久しぶりの再会に、事実心が躍り、同時に先程まで以上の緊張が溢れる。
(な、何をお話ししましょう? 最近は商談についてばかりで、おにーさまの興味を引けるようなお話しが浮かびませんわ……あ、そういえば前にロザリーが言ってました、会話が続かなければ触れるのが一番だと……)
そこで絶賛行き遅れ真っ只中である侍女の言葉を鵜呑みするあたり、やはり緊張による焦りがフランソワには出ていたが、それを自覚できる余裕はない。
なるべく自然を振る舞いながら、フランソワはカタナとの距離を詰めていく。
「最近の様子はどうだ?」
「ひゃい!?」
手すりに乗ったカタナの手を狙い澄ましていたフランソワは、別に悪い事をしていたわけでもないのに、声をかけられてビクッと体が竦みあがった。
「……どうした?」
「い、いえ、何でも……あ、虫。そう、虫がいたんですの。と、それより最近の様子ですね……レイイチの事ですか?」
言葉の意図を察する事はフランソワの得意分野。
正確に言葉少ないカタナから、しっかりと真意を引き出す。
「ああ、執事の見習いになったと聞いてる……迷惑をかけてないかと思ってな」
「大丈夫ですよ、むしろ良く働いてくれています。外見で差別する者もいますが、ロザリーがうまくやってくれていますし。ただ、おにーさまのご兄弟を働かせる事に気がとがめる事もありますが……」
「それは気にしなくていい、ここに置いて貰えているだけでありがたい。それにあいつは俺の事も覚えてないだろうしな」
視線を少しだけ傾けたカタナは、フランソワには寂しそうに映って見えた。
「お会いになられないのですか?」
「……今は良い、覚えてないならその方がいい気がする。人として生きられる場所があるなら、歪んだ過去は残っていない方がいいだろうから。室長もそれを見越して力を抑える魔法印をあいつに仕込んだんだろう」
レイイチという名に変わり、ここで新たなる人生のスタートを切ったゼロワンを、カタナは祝福している。
それが本当にいい事かどうか、フランソワには判断がつかないが、いつか二人が本当の意味で再会できる日が来るように願ってもいる。
「それと……悪かったな。約束、守れなくて」
「あ、それは……」
カタナの言う約束。
それはフランソワの騎士としてフルールトーク家に仕えるという事。
「気になさらないで下さい。三千世界を統べるおにーさまには、こんなちっぽけな場所、最初から不釣り合いだと解っていましたから」
「いや……」
「それ以上おっしゃらないで。期待、しちゃうじゃありませんか……」
本当はここにいて欲しい、どんな時でも傍にいて欲しい。
フランソワが一番つらいのは、想い人へのそういった感情を抑圧する事に他ならないから。
しかし、それを抜きにしてもカタナの重荷にはならない事を一番に考える。
「おにーさまが他に生涯を捧げるべき事を決めたように、わたくしもそれを手伝い共に作っていく道を見つけました。あの人が救ったこの世界、この時代を、無様なものにしたくはないでしょう?」
「……ああ、解った、もう言わない」
カタナは強く頷く。
そしてフランソワもその姿を見て、少しだけ吹っ切れた気がした。
「……だけど、お前にもし危険が迫った時は、俺は迷わず飛んでくる。迷惑だろうがなんだろうが、それだけは譲れない」
「え? あ、もしかして……今日ここに来られたのは」
カタナの言葉に思い至ったフランソワ。
フルールトーク家の家督を受け継ぐ為の勝負に出た、今日という日。
「この屋敷にも、サイノメが情報網を伸ばしていたみたいでな。もし何かあれば俺のところにも情報が流れてくるようになってる」
「……そうですか、まったく敵いませんわね」
フランソワはサイノメという人物をほとんど人伝てにしか聞いた事が無い。
それはおそらく、隠し事が多かったサイノメが避けていたからに違いないが、命を賭けてカタナを救った事には敬服している。
「じゃあ、また何かあればすぐに駆けつける。今の俺にはそれができるから」
「あ……」
カタナが行ってしまう。
まだまだ名残惜しいフランソワだが、それを止めたりはしない。
だけど譲れない事もある。
「おにーさま!」
「ん?」
いつになく語気を強めたフランソワ。
更に勇気を振り絞るように深呼吸し、この日の為にずっと残していた言葉を発する。
「大好きです、愛しています。それは決して、一生、絶対、変わりませんから!」
茹で上がるほどの熱が体の芯から上ってくる。
同時に、拒絶される不安も。
呼吸が苦しくて倒れそうになるが、フランソワは返答を聞くまではカタナから目を逸らさないという決意でそこにいる。
その本気を前にして、カタナがどう思うのか絶対に見逃さないために。
「……」
しばしの沈黙が流れる。
その間で、いくつかカタナの表情は変化を見せたが、最終的に見せた表情はどこかホッとしたような、嬉しいような諦めたような、そんな表情だった。
「解った、お前が一生をかけるなら、俺も一生かけて見届ける。その本気が変わらないように」
カタナにとっては、それが生涯で初となる心からの敗北宣言。
「俺はお前の騎士だからな」
そしてそれを残して、カタナの姿は夜空に融けるように消える。
まるで夢でも見ていたような心地であったが、鳴り止まない胸の鼓動がフランソワに現実だと教えていた。
(……ありがとうございます、わたくしの騎士様)
フランソワはふらつく足を押すようにして、テラスの手すりに寄り掛かる。
そこにはまだ、カタナがいた温もりが残っていた。
「あーあ、とうとうやっちまったねえ」
「な!? ロザリー!?」
しかし余韻に浸っていたフランソワの気分をぶち壊したのは、専属の侍女であるロザリー・ローゼンバーグ。
部屋の中にさっきからいたらしい彼女は、テラスまで出てきてフランソワの隣で煙草を取り出した。
「カタナっちは気付いていたようだけど、やっぱりお嬢様は緊張してロザリーさんに気付いてなかったか。一応ノックはしたけど」
「き、聞いていたんですの?」
「まあね、でもそういうのを気にするのも今更って感じだけどねえ。それよりも、お嬢様の生涯独身が決定した事がロザリーさんにとっちゃ重大だよ」
そう言って、深く嘆息するロザリー。
そこには嫁に行き遅れた者だけが持つ、切実なオーラが漂っていた。
「お嬢様なら普通にフラれて、普通の人を好きになって、普通の幸せを掴む事も出来たろうに。まったく、カタナっちときたらさ……」
「普通なんて、この家に生まれた時からわたくしにはありませんわ。ここにこうしているのは、神の起こした気まぐれか間違いみたいなものなのですもの」
凡庸な両親の間に生まれた非凡な娘。
物心ついた時にはその才能が開いていたフランソワには、普通であるという自分が全く想像できない。
だけど、それでいい。
「夫婦のようにずっと一緒にはいられなくても、こうして想いを馳せられる。それを許されたわたくしは、同等かそれ以上の幸せ者なのですわ」
「うがー、何か遠く見ちゃってるし! 十歳が何か悟っちゃってるし! 分けろ、その幸せ分けろ!」
結局は羨ましいだけのロザリー。
「……でも、まだですの。敵はもっと優位な場所にいますから」
「うえ? ど、どうされましたお嬢様」
現実に戻ってきたと同時に、鋭い雰囲気を醸し出すフランソワに、ロザリーは侍女の佇まいを反射的にとる。
「おにーさまの周りにいる有象無象、まだそれらに勝利したとは言い難いですわ」
「う、有象無象って……あー確かにいたね、美人さんが何人か」
フランソワにとっての敵、恋敵ともいうべきその存在が、何をしているのかどんな行動にでるか知るすべはない。
「こうしている間にも差が生まれているかもしれません、ロザリー!」
「は、はい」
「わたくしに子供の作り方を教えて下さいまし」
「はあ……子供ですか……子供!?」
十歳の少女の口から出るとは思えないとんでもない言葉に、ロザリーはテラスから転げ落ちそうになってしまった。
しかしフランソワの方は至って真面目。
「ええ、こういうのは既成事実があれば周囲も認めざるを得ないと、以前に読んだ本に書いてありました」
「子供がなんて本読んでいるんだい!!」
「ロザリーに借りた本ですが?」
「――やっちまった!!」
その時ばかりは自分の適当加減を深く後悔したロザリー。
何はともあれ、フランソワ・フルールトークの長く険しい戦いは、ようやく始まったばかりであった。
――非凡な少女は異質な男に普通ではない恋をした。
――交わした約束とその愛は、少女が大人になってもどれだけの時間を経ても、決して破られることは無い。
――それから数十年の時が流れ、少女の生涯は幕を閉じる。
――彼女が安らかに最後の眠りにつくその時には、傍らに彼女の騎士がその手を握って約束の成就を見届けた。