第十一話 カタナと喫茶店
「お客様、コーヒーのおかわりはいかがでしょうか?」
痙攣した青筋をこめかみに浮かべながら、それでも営業スマイルを絶やさずに問いかけるウェイトレスの声で、カタナは目を覚ました。
ウェイトレスは少し巻き気味の栗毛と大きな瞳が印象的で、着ているフリルのついたかわいらしい制服の似合う美人だったが、寝起きで思考がぼやけ、機嫌の良くない状態のカタナにはそんな事は関係なく。
「いや、いらん。というか人が寝ている時には話しかけてくるな」
常識だろと言わんばかりのつっけんどんな語気で返す。それは正論として実際間違ってはいないかもしれないが、しかし常識で考えると三人がけの椅子を、ベッド代わりのように寝ることに使っている者が、常識を強調できるはずもなく。
「アンタ! コーヒー一杯とはいえ、お客様と思って下手に出ていれば付け上がって! その一杯だけで、こうも一日中席を占領されちゃ、こっちは迷惑なのよ!」
さすがに我慢の限界だったのか、ウェイトレスもキレた。
「大体アンタ一週間も朝から晩まで居座って、仕事全然してないでしょ!」
その怒声は店内中に響き渡るには十分な音量だったが、この時カタナの他にお客がいなかったのは幸いだったろう。
しかしウェイトレスの怒声を聞きつけた者はいた。
「どうかしましたかリーネちゃん?」
この喫茶店のマスターである。穏やかな雰囲気と笑顔は誰しもを落ち着かせる魅力のある、初老の男性だ。
その穏やかな声に我に返り、泣きそうな顔でウェイトレスこと――リーネはマスターに懇願する。
「マスター、もう嫌ですこのお客様。というかお客様とも思いたくないです。もう出入り禁止でいいと思います。いえ、今すぐそうしましょう、つまみ出しましょう」
カタナに向かって指差しながらまくし立てるリーネ。本来は誰にでも笑顔と礼節を失わないウェイトレスの鏡とも言える少女なのだが、何事にも例外、範疇外は存在するようだ。
「まあまあリーネちゃん。落ち着いて、常連のお客様に向かって失礼ですよ」
「確かに常連ですけども、こんなのに居座られてしまったら店の品格が疑われてしまいますよ! これが視界に入るだけでも他のお客様には不快感を与えてしまいます」
人差し指をカタナに突きつけながらも、視線はマスターの方に向けたまま毒を吐く。そのリーネの剣幕にマスターは困ったような微笑を浮かべる。
「はは、特に気にしてるお客様もいないと思いますよ、当店は元々品格を疑われるほどの、徳のある店ではありませんから。それに他の常連様からしても、もはやカタナ様は店の一部みたいな認識になっているみたいで、居ないと違和感があると言っていた方もいるくらいですし……」
店の一画を占領はしていても、誰かの迷惑になっているわけでも無いカタナは、ある意味でオブジェのような扱いなのかもしれない。
「それに私としてもここまでくつろいで貰えると、店を開けている甲斐があるというものです」
そう誇るように言うマスター。これは何を言っても無駄なのだと悟ったリーネは肩を落とすしかない。
「おいウェイトレス、コーヒーのおかわりを寄こせ」
「はあ!? アンタさっき、いらんって言ってたでしょ!」
狙ったようなタイミングに本来喜ぶべきオーダーに食って掛かる。しかもお客をあんた呼ばわりのおまけ付き、まあそれも結構いつものことなのだが。
「おいマスター、店員の教育が行き届いてないぞ」
「はい、申し訳ございません。私からよく言い聞かせますので」
「ちょ、ちょっとマスター!?」
どこか芝居がかかったようなカタナとマスターの態度に、クレームを付けられたリーネは目を白黒させる。
「今のはリーネちゃんが悪いです。お客様のオーダーには、笑顔でありがとうございます。でしょ?」
「……うう、はい。申し訳ございませんでした。ありがとうございます……」
どこか釈然としないまま、しかし自分に非があったのは確かなのでリーネは頭を下げる。
そんな彼女の下げた頭の先では、マスターとカタナが悪戯を成功させたような微笑を交わしていたのは知る由もないことで。
温厚で落ち着いた雰囲気を持つマスターが、実は結構悪戯っぽい性格だというのは、カタナ以外であまり知る者はいない。
「いつもありがとうございます」
リーネがコーヒーを淹れにカウンターに向かった後、マスターはそう言った。
他に誰もいなかったので、その感謝の言葉はカタナに向けられたもので間違いないものだが、今日のその言葉はお客に向けるような、唯の営業文句とは違っているように感じた。
「感謝されるようなことをした憶えはないが?」
むしろ煙たがられるようなことならいくらでもしてると、自信満々に返すカタナ。
「はは、まさか、カタナ様には感謝してもしたりないですよ」
言いながらマスターの視線はぎこちない手付きでコーヒーを淹れるリーネに向かう。
「リーネちゃん……今では笑顔を振りまく当店自慢の看板娘ですが、最初の頃は失敗も多くて沈んでいたことも多かったのですよ」
「あれがか? ……想像できないな」
カタナの中ではリーネはいつも無駄に元気な印象しかない。というより罵声や怒声しか浴びせられていない気がする。
「想像できないのも無理ないですね。彼女が今の調子になったのはカタナ様が当店に通って頂けるようになってからですから。いえ、むしろカタナ様のおかげ、と申すべきでしょうか」
「俺のおかげ? それこそ意味不明だが」
先程の通り、リーネを怒らせてばかりのカタナには身に憶えが何一つない。
「ふふふ、なに簡単な事です、好き勝手言い合える相手というのは貴重なものなのですよ。こと接客業というものに関しては特にですね」
「……おい」
言われてピンと来るものがあったカタナは、嫌そうに眉をしかめる。
「それは暗に、俺があの女のストレス発散に使われていると、そう受け取ってもいいんだな?」
「はい、その通りです」
カタナの問いに、実に良い笑顔で答えるマスター。
「……あのウェイトレスにして、このマスターありといったところか」
「カタナ様もお互い様、といったところです」
「……」
まあそう言われるとコーヒー一杯――今日は二杯だが――で一日中居座っているカタナには何もいえないわけで。
「まあ、あれも含めてこの場所は気に入っているから良いとするか」
「あれ、ですか?」
頬杖をついたカタナが顎で指す方向には、何かが割れる音と悲鳴を上げるウェイトレスの姿があった。
「失敗は最初の頃だけじゃなかったのか?」
「いやあ、実は彼女が練習以外でコーヒーを淹れるは初めてのことでして……まあ、見ての通りの結果ですね」
少し呆れながらも、楽しそうに言うマスター。性格が良いのか悪いのか計りかねるが、とりあえずカタナの言うべき事は。
「……俺の注文を練習代に使うなよ」
「おっと、私も掃除を手伝わなくては。では失礼しますカタナ様、ごゆっくりとおくつろぎ下さいませ」
そそくさと立ち去るマスターを横目で見送ると、カタナは視線を窓の外に向けた。ゼニス市の北側の街並みは、富裕層が多く済むからか、景観がとてもいい。
昼間の忙しなく人が行きかう通りを、ゆったりと見ていられるのは最高の贅沢だと言える。
しかしその忙しなく行きかう人の中を、知った顔が走ってきているのに気付いたカタナは、嘆息しながらその贅沢を最後の時までかみしめた。
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カランコロン。
お客の来店を知らせる為にドアに取り付けられたベルが鳴り、息を切らせた男が入ってきた。
「これはヤーコフ様、いらっしゃいませ」
すぐさま入口に接客に向かうマスターの所作は、もはや一流それと言っても差し支えないほど洗練されている。
「ハアハア……どうもマスターこんにちわっす。うちの隊長お邪魔してないすか?」
「えっ? ヤーコフさん?」
マスターの声に反応し、リーネが掃除を一時中断して顔を上げた。
「あ、リーネちゃんもこんにちは。今日も一段と可愛いっすね」
「そんな、ヤーコフさんったら……」
会うたびに同じことを言われているくせに、頬を染めて照れるリーネ。実は彼女は『ハーレム騎士』ことヤーコフの数人いる恋人の内の一人なのだ。
「……お前は本当に節操がないな」
「うお、隊長、やっぱりここでしたか。大変なんすよ、すぐに駐屯所に戻ってくださいっす」
「パス」
「うえ!? 何でっすか!?」
「お前の『大変』は、大変だった為しがないからだ」
そんな事でこの憩いの時が邪魔されてたまるかと、豪語するカタナ。
一週間も仕事を押し付けていた副官に対するにしては、あまりにあまりな態度と言えるが、ヤーコフは既に慣れきっているため、一々反抗する事は無い。
「そんなこと言わずに来てほしいっす。僕じゃ力不足な事態に陥っているんすよ」
「……何があった?」
ヤーコフがはっきりと力不足というからには、もしかすると本当に大変な事態なのかもしれないと察したカタナは、話を聞くことにした。
なんだかんだ言っても、ヤーコフの仕事の有能さは認めているのだ。
「それが市長が隊長と直々に話したいと、今駐屯所で待っておられるんすよ」
「それは大変だな……だがパス」
「何でっすか!?」
ヤーコフが言うにしては、本当に大変な事態だった。大変過ぎて動く気になれないほどに。
「お前、あの白髪ジジイの相手をする苦労知ってるだろ」
「知ってるっすけど、でも隊長ご指名ですし。それに僕じゃあの市長の前に、面と向かって五秒もいられないっすよ。なにせ、隊長を呼びに行く十五分貰うのを頼むのに土下座しちゃったくらいっすから」
「……それは弱すぎるだろ。じゃあそうだな、サイノメにでも相手をさせろ」
「秘書官殿っすか? まだ出張から帰ってないっすよ」
「そうだったな。なら、あいつ……カトリ・デアトリスでいいだろ」
「何でそこでデアトリスさんなんすか? 新人に頼むくらいなら僕が行きますよ」
「市長も若い女の方が良いかもしれないだろ」
「……真顔でそんな冗談を言わないでほしいっす」
結局カタナが行く選択肢しか無いのだが、それでもどうにか会わなくて済むような可能性を探す。
何せ面倒臭いジジイなのだ市長は、態度も横柄で、他人を見下しているような喋り方をする。継続任期九年目でその手腕は誰からも認められているが、人格の方を褒めるものはあまりいない。
「いいから行きなさいよ、市長も忙しい中待ってるのに失礼でしょ」
そこに便乗してきたのはウエイトレスのリーネ。もっともな事を言っているが、カタナを早く追い出したいという魂胆が丸見えだ。
「……おいウエイトレス、コーヒーのおかわりはまだか?」
「(ギクッ)いや、ほら、急用みたいだし、注文はキャンセルかなと……」
よく見ると、リーネが掃除してたあたりに新たな残骸ができていた。駄目すぎるだろこのウエイトレス……。
「……客を待たせるのは、失礼に当たらないのか?」
「くっ、わかりました、すぐにお持ちします」
「いや、やっぱりキャンセルのままでいい。これ以上何か割られるとマスターが哀れになる」
「キイー、ほんとむかつくわコイツ!」
いや、意地悪で言った訳でなく、現にマスターの目が流石に勘弁してくれと訴えていたのだ。
「元々そんな時間も無いっす、というかあと五分で戻らないといけないっす。頼みます、僕の土下座を無駄にしないで下さい」
「……それはお前が勝手にやった事だろ」
「ちょっとアンタ、ヤーコフさんが頼んでるのにその態度は何よ!」
「……お前は俺に突っかかりたいだけだろ」
ヤーコフとリーネの話には聞く耳持たずのカタナ。なんというか内容もそうだが、こいつらがカップルであるという事自体もウザく感じる。
一向に話がまとまらない中、リーネがやらかした部分の掃除を終えたマスターが、やれやれといった様子で声をかけた。
「カタナ様、私からもよろしいですか?」
その穏やかな声は、うるさいヤーコフとリーネの声を一瞬で止ませた。カタナが促すとマスターは一礼して、まるで主に諫言する忠臣のように話し出した。
「今回の事、市長が事前のアポイントなしに、カタナ様を呼び出そうとしている事自体が失礼に当たります。しかしそれに対し無視をして、カタナ様が失礼を重ねてしまうのは良からぬこと、ここは寛容な心でお会いしてあげるのがよろしいかと思います」
「その通りだな。じゃあ行くか……」
「「おい!?」」
重い腰を上げたカタナに、すごい勢いで食って掛かるヤーコフとリーネ。気持ち悪いほど息が合っている。
「どうしてマスターの言葉には二つ返事なんすか!?」
「そうよ、私だって同じような事さっき言ったじゃないの!」
右と左からグイグイくるバカップルの図。これほど面倒なものは無い。
「お前らとマスターじゃ人徳が違う。その歴然たる差を自覚してから、ものを言え馬鹿共が」
大体ウエイトレスが言ったこととマスターが言ったことは全然違う。誰の目線に立っているかが差として出てる。これがお客様の目線に立つという、接客を極めた者とそうでない者の差である。
単純にカタナが客と認められてないのが問題でもあるが。
「それじゃマスター、また来る」
「お待ちしておりますカタナ様」
カタナの指摘でその差をようやく自覚したのか、静かになったヤーコフとリーネは放ってカタナは店を出る。
この後面倒が待っているのが解っているが、不思議とマスターに見送られるとどんな時でも気分が良く感じる。
その喫茶店の看板に書かれている店の名は『コシーロ』。
そういえば、そのコシーロという言葉の意味を知らない事に気付いたカタナは、次に会った時にマスターに聞くことを決めた。