四章第十一話(裏) 従者の戦い
カタナとランスローの戦いが始まる頃、別の場所で起こっていたもう一つの戦いは終わりに近づいていた。
「その程度ですか、私の鬱憤はこんなものでは晴れませんよ」
「……はあ、はあ、言って……くれる……わね」
ランスローの従者メイティアと、『自称』カタナの従者リュヌの戦い。
それは戦いと言うには一方的で、涼しい顔のメイティアと、今にも倒れてしまいそうなリュヌの姿を見れば、どちらが優勢であるのかは一目瞭然であった。
「貴方のせいで、主の敵であるカタナ様をみすみす逃してしまいました。このような失態をおかしてしまった責任、貴方にはしっかりと取って頂きます」
「なんなら……今からでも追いかけたらいいじゃない」
「出来るのなら、とっくにそうしている」
冷ややかな怒り、ランスローに近づく事を許されていないメイティアには、何よりも尊いその主命を破ることができない。
だから半ば八つ当たりであるように、メイティアの怒りの矛先は全てリュヌに向かう。
上る霊光、同時にリュヌの足元が爆発した。
「くう……」
設置罠型の付加魔法。
位置取りを計算し尽くしたメイティアの法式は、リュヌの足を霊炎で燃え上がらせる。
そしてリュヌが体制を崩したところを、メイティアは構える二刀で斬りつけた。
バツの字に裂かれるリュヌの体、カウンターでしなりながらメイティアに伸びるレイピアも空を切る。
わざといたぶっている、そう思えるようにメイティアは逐一攻撃を止めながら戦っていた。
「本当に……性格が悪いのね」
燃えた足の煤を払いながら、リュヌは見下してくるメイティアに恨み言を呟く。
「いいえ、これでも少し警戒をしているのですよ。『黒死病』の力を受け継いだ魔女が、この程度ではないはずですから」
「あらあら……魔女なんて呼ばれたのは初めて……かもしれないわ。それに……黒死病の事も知っているなんて、貴方は本当にただの従者なのかしら?」
「そうですよ、ただ主に尽し、主の為に命をかける、ごくごく一般的な侍従です」
謙遜するわけでもなくそう言ったメイティアの事を、リュヌは異常だと思った。
黒死病の力を受けて吸血鬼などと呼ばれて生きた半世紀、リュヌは少なくともただの人間相手に後れをとった事など一度もない。
それが名のある騎士や武芸者ではなく、ただの従者を名乗る者を相手に手も足も出ない状況。
その理由は、メイティアの眼鏡の奥の瞳に宿る魔法印にあった。
(人体魔法印……どういう法式なのかは知らないけれど、これがメイティアの力を増幅させている)
人体錬成が禁忌であるように、人体魔法印もまた同じように禁忌である。
リュヌの上の妹であるエトワールが研究していたが、結局理論上のものでしかないと匙を投げたもので、実際の成功例を見たのは初めてであった。
(……世界が広いのか、それとも私の視野が狭かったのか。なんにしてもまずいわね)
リュヌの自己治癒能力も限界にきている。
力の根源である霊子を取り込むため、体が他者の血を欲し始めていた。
実を言えばこの戦いが始まる前から消耗続きであったリュヌには、ほとんど魔力が残っておらず、特異能力の発揮ができない状態であった。
(こういう時、何を優先させるべきなのかしら。命か信念か……)
リュヌは懐に忍ばせているあるものに手を当てる。
フランソワ・フルールトークより渡されていた奥の手、それを使えばメイティアに対して勝機もある。
だがそれは自らがずっと禁じていた一線を、自らが踏み越える行為であり、リュヌは決心が揺らいでいた。
そんな折、メイティアより雷撃が放たれる。
熟練の魔法士並みに練られた法式で、予兆を感じさせぬほど発現までが速い戦技魔法。
それが体を貫き、リュヌの全身を走る痺れが、とうとうレイピアを手放させた。
「……ぐう、う」
力が入らず、倒れ、這いつくばるリュヌ。
「なるほど、眉唾程度に思っていましたが、貴方の体内にある黒死病のナノマシンという病原菌には雷撃が有効だという話、どうやら本当のようですね」
リュヌは驚くよりも、状況打開の為に早く体が動くよう祈る事に、意識を奪われる。
「もういいでしょう、所詮貴方と私では主に対する敬愛も尽す心も勝負にはなりません。今後の主の障害になり得るとも限りませんので、きっちりとどめはここで刺させていただきます」
メイティアの、逆光で光る眼鏡の奥の瞳はリュヌを冷たく見下ろす。
その冷たさが、如何にメイティアにとって優先すべきものが大きいのかを覗かせる。
(なんでもやる、という目ね。このメイティアという子の忠誠心の深さがよく知れるわ)
かつてリュヌが王国の近衛騎士団にいた頃、そういう盲目的に一人を崇める者達の姿を見たことがある。
(……私はここまで誰かを信じられない。近衛騎士だった時も、今も……だからこそ負けたのかもしれないわね)
前を見ているようで後ろが気にかかっていた、今もずっとその姿が目に焼き付いている。
(エトワール、ソレイユ……結局私は貴方達以上のものをこの世界で見つける事は叶わなかったわ)
リュヌが長い時を生きてきたのは、妹達がいたからだ。
それを失った今の自分には、己の信じるものの為になりふり構わないメイティアに、勝てなくて当然だとリュヌは思う。
(今……行くわ……)
上る霊光と描かれる魔法陣は、メイティアが戦術魔法に近い法式を発現させる予兆。
リュヌを殺す手段として選択されたのは、灰も残さぬ紅蓮。
吸血鬼と呼ばれた自分には似合いの死に方だと、リュヌは最後にそう思った。
そう、思ったはずだった。
<まったくもう、リュヌ姉様はいつもいつも諦めが早いのよ>
(――!?)
<確かに人間として生きてとは言ったけど、でもそれは決して力の事じゃないよ。大事なのは心……人の心を失わず、大切なものを守る心>
どこからか声が聞こえてくる、愛おしくずっと聞いていたかった声が。
<姉さんはいつもそうだ、全力を出せば乗り越えられる事を、誰かの後押しがないと踏み切れない>
どこからか声が聞こえてくる、厳しくもずっと聞いていたかった声が。
(――ソレイユ!? ――エトワール!?)
聞こえるはずのない妹達の声がどこから聞こえるのか、幻聴か否か疑うよりも先に、リュヌは意識を周囲に向けた。
だが姿は無い、気配も無い。あるのはメイティアから向けられる死の予兆だけ。
<残っていたんだよ私達、姉様の中に……この世界が許してくれた唯一素敵な奇跡かもね>
ソレイユの声が教えてくれる、名残惜しそうに、少し悲しそうに。
<だけど手助けはこれで最後だ。これからはちゃんと、自分の足で歩いてもらわないと……死んでも死にきれない>
エトワールの声が教えてくれる、責めるように、そして少し悲しそうに。
(……あ)
リュヌの手の中には、いつの間にか小瓶が収まっていた。
それがフランソワ・フルールトークに渡されていた奥の手。
中には人の血液が、凝固しないように薬品と混ぜられて詰まっている。
(……あの子達……あの子達こそ……いつもいつも勝手ばかりで私を困らせて……)
もう声は聞こえない、言いたい事だけ言って消えてしまった。
(憶えてなさい……私がそちらに行くときには、たっぷり叱ってあげるから)
今はその時ではない、妹達が残してくれた自分自身を大切にする、そうリュヌは思い直した。
「このメイティアが定めた門を……!?」
メイティアが魔法陣から高めた霊力を引出し、そして魔法を発現させようとしたのと同時。
リュヌは小瓶に詰まった血を飲みほし、そしてメイティアの目を見定めた。
赤く光るリュヌの瞳、それがメイティアの魔法印の浮かぶ瞳を射抜いたとき、世界が暗転する。
「悪いけど、侵させてもらうわ――『幻惑』」
その時に勝負は決していた。
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ランスローはブルータス家という、王国の名家の生まれであった。
そしてメイティアは、幼い頃からブルータス家に仕えるために育てられた従者であり、生まれついてよりある疾患を抱えたランスローを守る任にあった。
ランスローの抱える疾患とは、一般的に無痛症と呼ばれる障害。
痛みを感じることができず、熱さも、冷たさも感じないというもの。
それによって本人が知らぬ間に大火傷を負ってしまったり、足に刺さった釘に気付かずに歩き続けるなど危険認知が難しく、それゆえにメイティアはランスローにほぼ付きっきりで仕えるように言われていた。
(……初めはただの主従の関係だった)
メイティアとランスロー、男女が時間を共にして育まれるものにはいろいろな可能性があるが、二人にとってそれは愛だった。
(……でも、壊したのは私)
メイティアの任は主に対する危険察知して排除する事、それはその辺に転がっているものから、向かってくるものまで、あらゆるものから。
そのせいで二人の関係が壊れるのは一瞬であった。
どんな場所にも存在する悪、どこにでも存在していそうなチンピラがランスローに刃物を向けたとき、関係は崩れ去った。
(ランスロー様……)
メイティアはランスローを守るために、彼の目の前で人を殺めた。
その時の主の怯えた目は、刃物を向けられた相手に対してではなく、メイティアに向かっていた。
痛みを感じないランスローにとって刃物を向けられた事は恐怖に値しない、しかし目の前で刃物が刺さりもだえ苦しむ人を見てそれが恐怖となり、それを行ったメイティアを恐れてしまった。
(そんな目で、私を見ないで下さい……見ないで)
双方に植え付けられたトラウマは消えず、ランスローはメイティアを恐れ、メイティアはランスローに恐れられる事を恐れた。
それでも二人の間の愛は消えなかった事が、今でも二人を苦しめている。
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「う……あ……ああ」
忘れたい光景をリュヌの『幻惑』によってまざまざと見せつけられ、メイティアは泣き崩れた。
戦意も殺気も失せ、発現しかけた魔法も大気の霊子に溶けて消える。
対するリュヌも、力を使い果たした事で気を失う。
その戦いには勝者も敗者もなく、ただ終わりだけがそこにあった。