四章第八話 戦いの気配
ブルガード砦――五十年前の大戦の爪痕を今なお残す場所。
現在は位置的に砦としてはまったくの無用の長物であり、修繕も加えられぬまま朽ちかけた姿をさらしている。
時折観光客が遠巻きに眺めることはあっても、基本的には立ち入り禁止の区域として指定されており、その管理は協会騎士団が担っている場所であった。
「……どうしてブルガード砦なんだ?」
馬車に揺られて数時間、朝日が差し込む砦の威容を遠くから眺めながら、カタナはメイティアに尋ねた。
「私には解りかねます。ですがここはシュトリーガル様が選んだ場所です」
「あのジジイがか……」
フルールトークの別荘からそれなりに近いといっても、他に考えられる候補はいくつもある。
あえてブルガード砦を選んだのは理由があるのだろうか、そうカタナが考えたとき馬の悲鳴が静寂の中こだました。
振り返ると、馬車に繋がれていたはずの馬が手綱を切られて単独で駆け出していた。
馬を逃がしたメイティアがカタナに向ける表情は、今までの客人に足して向けるものではなくなっている。
「……やっぱり、そうなるか」
メイティアから感じる気配は物々しく、それでいて静かで不気味。
「主から仰せつかったのはここまでカタナ様をお連れすること……」
ゆったりとした侍女服の袖口から取り出される二本の短剣。
「それ以外は好きにしていいってことか?」
「特に言及されなかった以上はそうです」
メイティアは微笑を浮かべながら戦闘態勢を取る。
この時を待ちわびていたとでも言うように、眼鏡の奥の瞳は狂気に満ちていた。
「カタナ様、貴方は危険です。主には極力近づけさせたくはありません」
「今のあんたにだけは絶対に言われたくないな」
カタナは嘆息しながら、巨無を持ち上げる。
だが魔元心臓は起動せず、霊子断の力は発現させない。
「なめられたものですね、私では本気を出すには値しませんか?」
「いや……」
カタナとしては主のランスロー以上に、このメイティアという従者を敵に回したくはなかった。
実力はかつてのカトリ・デアトリスと同程度という見立てだが、厄介なのは主の為ならばどんな手段も厭わないという気概。
きっと戦いになればなりふり構わずに来る、勝利のためには殺す以外にない。
カタナにとってメイティアはランスローの従者という以外の関心は無いため、そこまでの戦いを強いられる相手としてはやり難いのが本音だった。
「……まさかあんたが来てくれるとはな」
だがカタナがメイティアと戦う必要はなかった。
フランソワ・フルールトークがしっかりと、その為の布石を打ってくれていた。
「あら、もう少し信用があってもいいと思うわ。これでも我が君の従者を名乗っているのだから」
「――!?」
突然の第三者の声にメイティアは振り返る。
そこには赤い髪に赤い瞳の自称カタナの従者――リュヌが真紅のレイピアをその手に携え立っていた。
「貴方の相手は私がするわ。これでも我が君はフェミニストなの、女性相手に本気は出せないわ」
「……要らん嘘は言わなくていい」
他ならぬリュヌに対してカタナは本気で切り付けた事があるだけに、ある種の当てつけなのかもしれなかった。
そんな中、ぎりりという歯の軋む音が響く。
「どこから現れました? つけられている気配は感じませんでしたが」
「そもそも先回りしていたから。フランソワ・フルールトークが飛竜を手配してくれていたのよ」
目的地はブルガード砦だと、別荘の中で言ってしまったのはメイティアの落ち度。
そしてそれを最大限利用できたのは、フランソワの人を扱う才能とフルールトーク家のコネクションによるもの。
「さあ、我が君は早く行って頂戴。ここは任せて、ね?」
「……解った、だが少し時間を稼いでくれるだけでいい」
メイティアが砦からまだ遠いこの場所で仕掛けてきたのは、彼女に制約があるから。
それは主のランスローに近づくことを禁じられている事。
カタナが砦に到達すれば、もうメイティアは手出しできなくなるのだ。
リュヌの事を心配する気持ちがないわけでもないが、後の事を考えればこんなところで消耗するわけにいかないカタナは即座に走り出した。
「くっ!! 行かせません!!」
霊光が上り、メイティアが駆身魔法を発現する。
使い手が少ないその魔法を高水準で使いこなす彼女は、やはりただの一介の従者というには異常な相手だった。
「悪いけど行かせるわ、絶対に」
その前を阻むリュヌ。
そうして始まった第一戦は従者同士の威信をかけたものであった。
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「そろそろ来るころですかね?」
シュトリーガル・ガーフォークは上る朝陽を眺めながら、背筋を伸ばし騎士としての礼儀を弁えたランスローに尋ねた。
「はい、メイティアが余計な事をしなければですが」
ランスローにとってシュトリーガルはこの世で唯一敬意を表する相手。
他の騎士には知られていないが、彼がまだ少年だった時に拾われて息子同然に育てられた親子のような関係でもある。
「おそらく大丈夫でしょう、メイティアくんは優れた使い手ですが、彼女がカタナくんを止められるとは思えない」
何か確信のあるシュトリーガルの言葉に、ランスローは疑問を呈した。
「……それはカタナが凶星だからですか?」
「ええ、そうです。少し前までは半信半疑でしたが、今はもう彼がそうであるとはっきり言い切れます」
もうすぐシュトリーガルにとって長く苦しかった戦いも終わる。
体の震えはその時を思っての武者震いであるのか定かではないが、少なくともシュトリーガルの表情は晴れやかであった。
「ランスローくん、ケンリュウくんも……君達を私のエゴに付き合わせてしまったのは申し訳なく思っています」
シュトリーガルは目の前で畏まるランスローと、瞑想するように押し黙って座っているケンリュウに対して改まった。
「いえ、僕は騎士団長の為に従剣の誓いを捧げています。それは自分の意思でそうしたいと願ったからで、これからもそうです」
ランスローはありのまま、今の正直な気持ちで答えた。
「……某は、ただこの剣の行き着く道を見定めるため。ただ強者と戦う事を望むのみ」
ケンリュウも、まるでブレの無い彼の意思を明確に示した。
「ありがたい事です。ならばせめて私はこれまでに失わせた命と、これから失う多くの命に殉じましょう、私のエゴを最後まで貫くことで」
シュトリーガルがそう述べると、ランスローは深く頭を下げ、ケンリュウは立ち上がった。
この後に起こる戦いは、大陸の命運を握るもの。
国同士が戦争を始める裏側で歴史に残るはずもない戦い。シュトリーガル・ガーフォークの挑む私闘は、長い人生を凶星という言葉に支配された彼にとって最後の戦いでもある。
「道化か切り札か……それはきっと後の世界が示してくれるでしょう」
誰にともなく向けて呟いた言葉と、背筋も凍るような気配と眼差し。
普段は押さえつけたシュトリーガルの本気は、ランスローとケンリュウの表情を強張らせるほどであった。