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魔剣カタナとそのセカイ  作者: 石座木
第一章 聖騎士と従騎士
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第九話 魔剣と風神

「……ちっ、あのウエイトレス。今度会ったらただじゃおかねえ」

 深夜に近い時刻、貧民街をチンピラみたいなボヤキを呟きながら歩く男。

 黒服黒外套に身を包んだ灰色の髪、灰の目の長身。よく不審者と間違われるが、逆にその不審者を取り締まる立場にいるのがその男の職だ。

 協会の聖騎士の称号を持つ者であり、同時にここゼニス市の協会騎士団駐屯部隊の隊長でもある。

 それがカタナ。名ばかりの隊長だとか、名前負け聖騎士と皮肉られるほどの評判の悪さを持つ男である。

 今日もその名に恥じぬ行いで、昼にカトリ・デアトリスと稽古を行った後は勝手に臨時休業を決め込み、行きつけの喫茶店にコーヒー一杯で八時間ほどダラダラと居座り、閉店時に営業を終えたウエイトレスに喜々として追い出され、その後も特に何をするでもなく街をブラブラしていた。


「……暇だな」

 言葉に出てしまうくらいカタナは暇であった。夜というのは眠らない者にとってはつまらない事この上ない。ゼニス市の北側に夜通し開いている娯楽の店も存在するが、そんなところに行く金も、サイノメへの契約料を払うので精一杯のカタナには到底無理な話だ。

 だから大体夜は街中をブラブラしている。カタナは安宿をねぐらにしているがあまり使用していない、夜に一人で部屋にいると昔の嫌な事ばかり思い出してしまうからだ。

 だからといって仕事をするわけでも無い。一度ヤーコフに夜間勤務にしてはどうなのかと聞かれたが、夜は駐屯所に詰めている騎士が少ないからサボれないという理由で断った。

 まあ、こうしてブラブラしているだけでも、巡回と言葉を変えれば仕事をしていると言えなくもないと、誰も認めないような自己満足に浸っていたりもするが。

「おや、カタナさんじゃないか。今晩も暇そうだね、よかったらうちによってかない?」

 ふと、空き家のはずの家の前に立っている女性から声がかかった。

 着古した観のある黒いドレスと、厚い化粧、ところどころで艶を感じる美人だが、カタナはその女性の名は知らない。

「いや、今日は遠慮しておく。手持ちも無いしな」

「ありゃ、そりゃ残念。割の良い客を逃がしちまったよ」

 世辞ではなく本当に残念そうにするその女性。

 カタナはその女性の名は知らないが、職業は知っている。この貧民街の夜の名物とも言える、春を売る職業だ。

 何故知っているかというと……実はカタナもその女性と何度か夜を共にしたことがある。

 といっても女性の愚痴を一晩中聞いているだけで、身体の付き合いは一度もない。

 カタナにとっては一人で当てもなく街をブラブラしてるよりも、一晩中尽きない女性の愚痴を聞いている方が遥かに有意義なのだ。

 しかも料金は、富裕層と混じって娯楽の店で遊ぶより遥かに安い。女性にとっても愚痴を聞いてもらえる上、通常通りの料金までもらえるという事で、カタナは本当に割の良い客なのだ。

「今日は他の客も来ないようだし、店じまいにするとしようかね」

「タダでも良ければ、話に付き合うぞ」

「はは、それもたまには良さそうだけど。うちのマーくんとの時間も作りたいから帰るとするよ」

「……子供は寝てる時間じゃないのか?」

 たしかマーくんとは、この女性の長男でまだ八歳のはずだ。

「子供の寝顔を眺めているのも、親の楽しみなのさ」

 そう言った女性の顔はとてもいい笑顔だ。そういう顔をされてはカタナの出る幕は無い。

「なるほどな……じゃあ、フラれた俺はさっさと退散するか」

「悪いね。代わりと言っちゃなんだが、次に会った時は三割引きにしとくよ」

「……それでもまだ割が良くないか?」

「別に私は身体の付き合いでも良いんだよ? むしろアンタとならそっちの相性も悪くなさそうだし」

「……いや、いい。そっちは間に合ってる」

 全然間に合っているわけではないが、カタナは見栄でそう言った訳ではない。

 この女性とはそういう関係にはなりたくないと思っただけだ。今がどういう関係なのかも不明な不思議な間柄であるけども。

 ただ女性が愚痴を言って、カタナがそれを聞くだけの関係。よく解らないがカタナにはそれが何ものにも代えがたいと思ったのだ。

「そうだ、一つ。忠告しておくことがある」

「ん、何だい?」

 思い出したようにカタナは女性を呼び止めた。

「今日は何があっても家からは出ない方がいい。あと鍵はしっかり掛けろ」

 カタナの忠告は女性にとって不可解そのもので、少し訝しんでいるようだったが、それ以上何も言わないカタナに何か聞くような事は無く、最後にはしっかりと頷いた。

「……何か解らないが、他ならぬ常連さんの忠告だ、真摯に受けておくよ」

 それを聞いて少しだけ安心したカタナは、そのまま女性の前を立ち去る。

 しっかりとその背に何者かの気配を感じながら。



++++++++++++++



「……出てこいよ」

 カタナは一言そう言って振り返った。

 路地の裏から身を震わせたような衣擦れの音が微かに聞こえた。

(下手な尾行だ)

 相手がサイノメならこうはいかない。足音も完全に消えてないし、距離も少し近い。そこらの一般人ならともかく、カタナを尾行するのなら及第点もつけられない。

 それでもまだ姿を現さない。かといって立ち去るわけでも無く、尾行者は何かを迷っているようにも思える。

「……出てこないならそれでもいいが、バレている尾行ほど滑稽なものは無いぞ」

 そう言って、決めるだけの時間を五秒だけ与えてやる、と心の中でカウントしていたカタナの前に、四秒後その尾行者が進み出た。

 現れたのは長身痩躯で赤い髪を逆立てた男。上はシャツ一枚と下は皮のズボンというシンプルな格好だが、何より目を引くのが見えている肌全てに走る奇妙な刺青いれずみ

 その刺青を目にしてカタナの視線が険しくなる。

(……あれは、魔法印か)

 意味のない刺青で巧妙に隠されているが、その刺青の中に術式と思われる部分が見受けられ、カタナにはそれが見分けられた。

 カタナの持つ暗視とも言える先天的な特技に近い『夜目』。外灯の無い深夜の暗がりの中の貧民街で、男の特徴を正確に捉えたのはそのおかげ。

 だが、刺青で巧妙に隠された魔法印を見分けたのは別の理由。

実は今日の昼間にこの刺青の男を、カタナの部下のヤーコフとカトリ・デアトリスは、自警団のダルトンとのいざこざの際に目にしているが、二人は刺青の中の魔法印に気付かなかった。

だがカタナは気付いた、それは単純に知っていたからという理由に他ならない。

そういう手法があるという事と、そういう手法を行える者がこの世にいるという事と、そういう手法をその身に刻んだ者がかつて居た事を。

「帝国特務か……」

 郷愁に駆られたせいか、カタナは思いがけず呟いていた。

 だが、じっと黙っていた刺青の男は、その思いがけない呟きをきっかけとして口を開いた。

「何さ、おにーさん知ってんの? 表に出ない裏部隊のはずなのに、意外と有名なんさね俺達」

 何故か嬉しそうにする刺青の男だが、カタナは警戒を緩めない。

 軽い空気を出して油断を誘うというのはよくある手だ。

 だが、内心で相手が帝国特務だった事に少しだけ安堵した。

街中で誰かに尾行されていることに気付いたカタナは、暇つぶしがてら人目の少ない所まで連れて行き、相手の出方を窺う気だった。

 しかしカタナの不注意で、知り合いの女性に出会ってしまい。その女性に危険が及ぶ可能性が出てしまった。

女性を気に掛けたり、忠告したのもそのせいだし。本当は貧民街を出てからするつもりだった尾行者との接触も、万が一女性に危険が及んだ場合にすぐ駆けつける為に、それほど離れてない場所で行う事にしたのだ。

(……完全に杞憂だったがな)

 だが、相手が帝国特務だと解った以上その心配はない。かつてそこに在籍し、そのやり方を知り尽くしたカタナだからこそ断言できる。

 だが一つ解せない事もあった。

「何故姿を見せた? 尾行がバレたら即退散がお前らのやり方だろ?」

 心配を潰すために問いかける。まともな答えが返ってくるとは思わないが、反応を見ることは必要だ。

「……あ、確かにそうさ。そうしろって教わってたんだったさ」

 ……まともな答えは返ってこなかった、想像してたのとは違う意味で。

(……というかこいつ本当に帝国特務なのか? あっさりと認めたが、それも結構不自然な話だが)

 だがそっちは男の身に刻まれた魔法印がクロだと示している。

 なにせ人体刻印式の魔法印は、カタナの外套を作った変態――的な技術力を持つ技術者だと思いたい――でも忌避するような法式だ。

 する側もされる側も失敗すれば死の危険があり、変態曰く「僕が行った場合、一回に一回は失敗するよ。論理的に考えて」と言わしめるほどなのだ。なぜ一回なのかは、勿論その時点で死ぬかららしい。実に論理的だ。

 そんな事を当たり前にできる奴がそう何人もいては堪らない。

「……それで、逃走に失敗したらどうしろって教わったんだ?」

「あーと、確か絶対に手を出さずに、そのまま殺されろって言われたさ」

「……」 

 なんだろうか、いまだに警戒を解いていない自分が馬鹿みたいに思えてきた。

少なくともカタナの知っている帝国特務に、こんな馬鹿はいなかった。

 だが、あえて馬鹿のふりをするブラフなのかもしれないと、緊張感は維持させる。それがかなりしんどく感じたのは初めての事だ。

「でも俺はそうしない事に決めたさ、おにーさんはかなり面白そうだし、いい喧嘩ができそうさ」

 しかし、気を持ち続けたカタナが間抜けでは無かったのだと、すぐに分かった。

 飄々としながらも、刺青の男が見せたのは戦う意思。カタナは歴戦の闘士の風格が滲むのを感じ取った。

 殺気は感じられない、しかしだからといって遊び半分でなさそうだ。

 場合によっては殺すことも辞さない、そういう本気は感じられる。

「……お前は、俺が誰か解っているのか?」

「知らないさ。なにぶん下っ端なもんで、余計な情報は何も与えられてないのさ」

「……なるほどな」

 おそらくそれは特務側の保険だろう。もし、こういう状況になった場合、対立するのは組織としてではなく、個人同士の喧嘩ですむようにするための。

 かつて特務の責任者と交わした盟約が破られたのでなければ、カタナとしては特務と対立する理由は無い。刺青の男の喧嘩を買う必要もまた無い。

「いいだろう、名も立場も知らぬ者同士としてお前の『喧嘩』買ってやるよ」

 だがカタナにはその必要のない揉め事から引く気はなかった。理由は簡単、とても暇であるから。

 帝国の裏機関との接触も、カタナにとっては些事であり。それが完全な排除を目的としたものなら状況も変わるが、そうでなければ暇つぶしの一言で済ませられる話である。

「名も立場も知らぬ者同士……いいね、どうやら話が分かる漢みたいさおにーさんは」

 嬉しそうに刺青の男は笑う、だがそれは獲物を前にした、獣のような獰猛さを含む笑みだ。

刺青の男は腰を僅かに落とし、右手だけ体の後ろに回し、左手を胸の位置で構える。その格好から得物を隠してるようには見えない。おそらくは今のカタナと同じ、無手のスタイルで戦うのだろう。

刺青の男が構えるのと同時、カタナも両手を外套の隠しから取り出す。それでも構えは取らずに自然体で対峙する。

一触即発。

しかし、どちらともなく動き出しかけたその空気は一瞬にして壊れた。

「……ぶっ!?」

「……おいおい」

 刺青の男は突然地面に突っ伏した。それは転んだと言えるような自然さは無く、どう考えても不自然な、まるで地面に吸い寄せられたかのような動作で。

 それを呆れながら見ているカタナには、その事象の原因にも当たりがついた。

 帝国特務に在籍していた時、幾度も見たその力。それこそ人体刻印と同じくらい誰にも真似できない魔法を発現できる、カタナのかつてのパートナー。

「久しぶりだな『風神』」

 呼びかけると、ふわりと人が空から舞い降りてきた。

 月明かりに照らし出される銀糸のような長い髪、黒い右目と青い左目のオッドアイ、不機嫌そうな表情が美貌に少し傷をつけているその女性。黒い軍服に身を包む帝国特務の風神は音も無く地面に着地した。

「……久しぶりだな『魔剣』」

 風神はカタナの呼びかけに、かつてカタナに与えられていた呼び名で応じた。

 三年もの間呼ばれていなかったからか、やはり懐かしさは感じる。

「今はカタナだ」

「……知っている、だが私にとって貴方は魔剣以外の何者でもない」

 風神は不機嫌さを、表情だけでなく声にも滲ませながら言い切った。カタナとしては魔剣という呼び名も、それなりに愛着があるものなのでそれ以上訂正はしようと思わない。

 何せそれまで数字でしか呼ばれていなかったカタナが、たとえ組織の駒を示す呼称であっても、初めて与えられた名だったのだから。

「……魔剣って……なんの事さ? 風ちゃんは……そこのおにーさんと知り合いなのか?」

 地面に突っ伏した姿勢のまま、若干苦しそうに刺青の男は風神に問う。

 風神は不機嫌そうな表情を更に険しくさせ、おもむろに刺青の男の後頭部を踏みつけにした。

「ぶごっ……ぶごっ……」

 立ち上がることのできない状態で、さらに地面に顔を埋めるが如くの圧力を与えられ、刺青の男は呼吸困難に陥った。

「愚図が、少し黙っていろ。今貴様の命令違反の尻拭いをするところだ。それと上官を変なあだ名で呼ぶなと、いつも言っているはずだぞ」

「……ばい……ずみまぜん」

 刺青の男が必死にそう答えると、やれやれと言った様子で風神は踏みつけにした足を放す。

「お前が誰かの尻拭いなんて、苦労してるようだな」

「……それは皮肉のつもりか?」

 カタナの言葉に風神の不機嫌さも増す。それは気に障ったというよりも、今の風神には何を言っても同じような結果なのだろうと、カタナは思った。

「そんな事より風神、俺に何の用だ?」

 風神とカタナ、三年ぶりの再会だが両者がそれを喜ぶような素振りを見せる事は無い。

 実際カタナは会えずに済むなら一生会いたくなかった。かつてのパートナーで背中を預けあった中であっても、今は敵と言って差し支えない立場であるし、それ以外にも複雑な思いがある。

 風神はどう思っているのか解らないが。間違いなく言えるのは、かつてのように好意を向けてくれてはいないという事。三年前の事を思えば当然であるが。

「……貴方に用などありませんよ。あるとすれば、言わなくても解るはずです」

 流石に地面に這いつくばっている刺青の男のように、ベラベラ余計な事を喋るような事は無かった。

 しかしカタナにはそれだけで充分だった。

「サイノメだな?」

「……」

 カタナのほぼ断定の疑問に対して、無言の回答。

 それをカタナは肯定と受け取った。

 というかそれ以外には考えられない。カタナ自身に用が無いのなら、その付属品でカタナ以上に危険視されるサイノメ以外に、帝国特務が出張ってくる理由は無い。

 大陸屈指の『情報屋』にして、稀代の犯罪者として裏手配書に名を連ねるサイノメ・ライン。非公開の秘匿情報を、当たり前のようにその頭の中に納めているのは、実際に法に触れるやり方をしているのだから当然と言える。

(三年間見つからなかったのが今更になって居所が割れたのは……やはり、あの武芸祭のせいだろうな)

 一か月前のカトリ・デアトリスと出会った時を思い出す。あれだけの規模の大会で各国のお偉方も来賓で来ていた、当然護衛や密偵も腕の良いのが入り込んでたはずだ。

 そこからカタナの情報が流れてしまったのは想像に難くない。

(……本当にあの武芸祭は面倒ばかり運んでくるな)

 聖騎士になってしまったりもあったが、それでも表舞台には上がらないように務めてきた。だからこそ三年もの間帝国の網にはかからなかったのだ。

 それを台無しにした馬鹿な重役達を、カタナは一人ずつ並ばせて殴りつけてやりたい心境だった。

「俺を張っていたのは、お前らじゃサイノメを捉えられないし、捕らえられないからだな。だからこそ俺とサイノメが接触する時を狙っていると、そういうわけか?」

「……」

「黙っていても話にならないぞ。そいつの尻拭いをするんだろ?」

 さっきまで立とうともがいていたが、もう諦めたのか完全に地面に身を任せている刺青の男を指してカタナは言った。

 風神が無言を貫くならそれでもいいが、それではここに居る意味が無いのだ。

 推測を語るだけなら一人でできるし、わざわざ敵に聞いてもらう必要が無い。反応が見られれば話しは別だが、変化の乏しい風神の表情から窺い知るのは難しい。

「……そうだな、認めよう。私達はサイノメを追っている。相変わらず奴だけは私の魔法で捉える事が出来ない。今現在有効な手は貴方との接触を待つという事で相違ない」

「見つけたところで捕らえられるのか?」

「……絶対に捕まえる、上の命令だしな」

 そう言った風神の決意には、命令以外の感情も含まれているように感じた。

「……そうかい、まあ好きにしたらいい。俺は別に監視されようが尾行されようが気にしない」

「解ったうえで容認するか、相変わらず掴みどころのない人だ。それともそれはサイノメへの信頼の表れか?」

「いや違う。単に面倒なだけだ」

「……本当に掴めない人だ」

 風神はしみじみと嘆息する。何かを懐かしむように。それでも表情に穏やかさは表れないのだからある意味凄い。

「じゃあ俺はもう行く」

「な、まだ話は……」

「俺に用は無いんじゃなかったか?」

 もう必要な事は聞けたし、言ったはずだ。これ以上は刺青の男が気の毒になってきたというのもあるが、カタナとしても風神と面と向かっているのは気まずいものがある。

「ぐ、そうだが」

「じゃあ、もういいだろ。せいぜい頑張れよ」

 そしてカタナは背を向けて立ち去ろうとする。相変わらずすることは無い暇人だが、ここに居たくは無かった。

「……待て」

 何かを押し殺したように風神はカタナの背に声をかけるが、カタナは気にせず歩みを止めない。

「待て、待ってくれ魔剣! ……いや、先輩!」

 しかし、そう呼ばれた事でカタナの足はピタリと止まる、条件反射のように止めてしまう。

 バツが悪い思いをしながらもカタナは振って応える。

「……何の用だ後輩?」

 先輩と後輩――魔剣と風神ではなく、私的な立場の時にそれ以外の呼び名の無い二人はそう呼び合うのを好んでいた。

 だからこそカタナは立ち止まってしまったのだろう。風神ではない彼女が、魔剣でもカタナでもない自分を呼んだから。

 風神は逡巡しているようだったが、やがて意を決した。

「……どうして先輩は帝国を……いや、私を……」

 しかし、その後の言葉はどうしても出ないようだった。確かめるのが怖いのか、まだ何か信じていたいのか、それはいつも泰然としている風神からは想像もできない臆病さだ。

 だがカタナには風神が何を聞こうとしているのか解ってしまった。その自覚があったから。

『どうして私を捨てたのか?』

 言葉にできない風神の思いは、カタナに正しくそう伝わった。

「……じゃあな」

 結局カタナは答えられず、逃げるように去るしかなかった。

 その狡さを風神は咎められない。言葉にできなかった臆病な彼女には、自分の思いが伝わっていたのかなど知る由もないのだから。

 追いかける事も、追いすがる事も出来ずに、風神はただカタナの背を見送り、自身の勇気の無さを恥じた。


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