三章エピローグ 外法が救う命
目を覚ますとまず、汚らしい天井のシミが目に見えた。
次に体を起こそうとするも、思うように動かず。
仕方なく首だけを動かすと、板が剥がれた壁や、座ると軋みを上げそうな椅子が置いてあるのが見える。
ボロボロに見える狭い部屋、しかし掃除は行き届いており、建物自体が古いだけで汚い訳では無く、むしろ空気も澄むような清潔さであった。
「ヒェヒェヒェ、ようやくお目覚めかい嬢ちゃん。三日も眠りつづけだったから心配したよ」
ある程度身の回りの状況を理解するのを待っていたかのように、まるで置物のように動かなかった老婆が、目覚めた者に声を掛ける。
「三日? ……そんなに眠っていたのか」
「そうさ。ところで嬢ちゃんは自分の事をちゃんと憶えているかい?」
「自分の事?」
「嬢ちゃんが運ばれてきた時は死にかけ……どころか、もう死んでたからねえ。記憶の混濁が無いか把握しときたいんじゃが」
老婆に言われ、ここで目を覚ます前の記憶を辿る。
「私は……」
風神、それが自分の名前。親からもらったものでは無くとも、名乗れる名はそれしか持ち合わせていない。
それをはっきりと自覚した後、風神は驚愕した。
「……そうだ、確かに私はまず助からないような致命傷を受けた筈だ!」
気付けば風神は一糸まとわぬ全裸で寝かされていた、しかし恥じらうよりもまず傷跡も残らぬ自分の身体に違和感を持つ。
「どうして私は生きている? あれは夢だったのか?」
いっそそれで納得できるが、老婆はあっさりと否定した。
「違うよ、嬢ちゃんが生きているのはこの婆が生き返らせたからさ……『蘇生魔法』でね」
「……は?」
「まあ、知らんくてもしょうがないけどねえ。何せ婆だけしか使わない『外法』だしなや」
理解の及ばない言葉に風神が首を傾げると、老婆は逆に問いかけてきた。
「嬢ちゃんは、人間の死って何だと思っとるかな? 心臓が止まる時かい? それとも脳が機能を停止した時かい?」
問われた風神は逡巡の後に、それ以外の返答に行き着く。
「……魂」
「ほう、やっぱり精霊に愛されてるもんは違うのう。正解じゃよ、人の死は肉体から魂が離れた時に決まる。肉体から完全に離れた魂は、霊子と混ざって世界の理の円環に消える」
それが俗に、魂理論と呼ばれるものの一つの考え方である。
「婆の蘇生魔法はな、その考えから生まれたものでな。死の淵の人間を蘇らす事ができ、逆に言えば死に限りなく近い者にしか使えん」
「……?」
まだ風神が理解できるだけの説明には足りていない、それは老婆も解っているのか、続けて質問を出す。
「人体錬成って聞いた事あるかい?」
「ああ、それは。たしか錬金魔法で禁忌とされている技法だった筈だ」
「そうじゃの、材料と霊子の巡りなどの条件が揃えば、魔法によって人体を組成する事ができる。一時期医療に応用しようと考えられたんじゃが、結局認められはしなかった。その理由は倫理的な問題もあるがね、一番は拒絶反応じゃって事は知っとるかい?」
「いや、専門外なのでそこまで詳しくは」
「じゃあ簡単に説明するぞい、錬金魔法で作られた臓器、皮膚、手足などを移植しようとしても、まず間違いなく患者の身体は拒絶して酷い結果になる。その理由がはっきりする前に実験も使用も禁止されたんじゃが、ある国のある組織ではその実験は続いて、表の世に出ない結果が残っておる」
風神はそれで気付く事があり、ハッと息を吐いた。
老婆は何かと風神に尋ねるが、話の本筋とは関係なかった為に先を促す。
「……それでその拒絶反応が出る原因というのは、魂のせいであるという事が解ったんじゃ。別の霊子が体に混ざる事を、魂が無意識的に拒絶する為にそれが起こると、そういう訳じゃ」
「それが貴方の言う蘇生魔法とやらに関係すると?」
「まあの、『蘇生』は『組成』とかけておる。嬢ちゃんに施した例で言うと、魂が肉体から離れかかった状態、一般的にはそれを死亡とみなすが……私は『臨死』とよんどる、その状態で体の欠損した傷を人体錬成して直す、血液も同様に生み出して心臓も外部から動かす、そして最後に離れかかった魂を、万全の状態になった肉体に吹き込む。それが婆の蘇生魔法の一連の流れじゃよ」
「……それが本当だとして、人体錬成の結局拒絶反応は起こるのではないのか?」
「いんや、この手順だと起きんよ。臨死状態の魂には無意識さえも存在せん、しっかりと体に合うように錬成すれば問題ないんじゃ」
老婆は簡単に言うが、言っている事は既存の医療と魔法の常識を、完全に覆すものであった。
だが信じられない事ではない。
現に一度死んでいたはずの風神が、傷一つない身体で生きている事が、その何よりの実証。
今は確かに禁忌を侵した行いであれど、それが世に出れば死というものの考え方が大きく変貌する。
「……貴方は何者なのだ?」
問いかける風神に対して、老婆は歯の抜け落ちた口を歪めて答えた。
「ただの『闇医者』じゃよ。または、法よりも自分のエゴを優先する『外法士』じゃろうか? ヒェヒェヒェ、まあ婆の事は好きなように思って、好きなように呼ぶとええ」
「いいや、貴方は命の恩人だ。遅くなったが感謝させて頂く」
三日も眠り続けで体力が戻っていない為に身体を起こせないので、風神は目を瞑って首を動かす事で礼とした。
「なに、気にする事は無いだ。でもここに連れてこられるのがもう少し遅ければ、お陀仏だったかもしれんよ。婆よりも、嬢ちゃんをここに連れて来た小さい嬢ちゃんに感謝しときなされ」
「……小さい嬢ちゃん?」
その言葉に、風神の表情は僅かに強張る。
「確かサイノメとか言ったかの? 治療費と入院費も前金で払っていかれたよ」
「……サイノメだと?」
そしてその名を聞き、風神の顔には一気にひび割れるかのようなシワが寄った。
「ヒェ!? 何じゃいきなり、そんな怖い顔をして……」
「なんであいつが……いや、そうか……魔剣が……」
「ヒェ!? 今度は顔が真っ赤じゃぞ? 本当にどうしたんじゃ?」
記憶に残っていた最後の瞬間と、自分が伝えた言葉を思い出し、風神は恥ずかしさで死にたくなった。
(ああああああああああああああああああ……何てことだ、もう最後だからと思ったから……魔剣はあれをどう受け取っただろうか……)
受け取りようによっては告白ともとれる、
(いや、大丈夫だ。あの人の事だから、きっと別の意味で受け取るに違いない……だが、それはそれで……)
今度は気持ちを沈ませていく風神。
「……なんだか忙しい嬢ちゃんじゃの。まあ元気ならいいんじゃが」
そのまま老婆は風神の様子を観察し、ようやく落ち着きを見せた所で、ある事を切り出した。
「ところで一つ相談、というか商談なんじゃが……その目を売ってはもらえんじゃろうか?」
「え?」
老婆は風神の片目、それも黒い目の方を指して言った。
「金持ちの中にはおるんじゃよ、そういう趣向を持っておるもんがね。黒眼は大陸ではほとんど生まれてこないから、闇市場では高値で取引されるんじゃ」
「これは……」
「その目のせいで、これまであまり良い扱いは受けてこなかったんじゃないかえ? だったらどうじゃ、良い機会だと思って……」
もしかしたら老婆には親切心もあるのかもしれない。だが風神にとってこの黒い瞳は、もう捨ててしまいたいものでは無くなっている。
「それはできない」
「む……」
キッパリと断る風神、老婆は意外そうに唸った。
「この右目は……大切な人との絆だから」
だが風神のその言葉と赤らめた表情から察したように、老婆は笑みを浮かべて頷く。
「ほうかほうか、それじゃあ仕方ないね。なら早く元気な子を産むんだよ」
「はあ!? 子!?」
飛躍した老婆の発言に、風神は悲鳴にも似た叫び声をあげる。
「婆が嬢ちゃんくらいの頃には、二人目がお腹にいたもんさ。大事な人がいるなら早く結ばれちまいなよ、その齢でアレもまだってのは、今の時代じゃ遅いんじゃないかえ?」
「な!?」
急に羞恥心が昇ってきたのか、風神はシーツで体を覆い隠す。
無理に動いて、節々を痛めるのもお構いなしであった。
「ヒェヒェヒェ、今更かくしても遅いよ。嬢ちゃんの身体は隅々まで見せてもらったからね、仮でも闇でも医者なんだから当然じゃろ?」
「うう……」
人生経験の桁が違う相手に、風神は頭を上げる事が出来なくなった。
そんな風神をからかって笑っていた老婆だったが、そういえば重要な事を思い出したと、真面目な顔で告げる。
「嬢ちゃんの身体に刻まれた人体魔法印は勝手に消させて貰ったよ。あんな寿命を縮めるようなもん、闇医者といえど認められんからね。嫁入り前の身体は大切にしな」
「……そういえば消えている。刻んだ者以外には消せない筈なのに」
それは力を高める為に、風神が室長に刻んでもらったもので、法式を理解していない者が消そうとするとかなりの危険が伴うはずだった。
「婆にも精霊がついているからね、そのくらい朝飯前にできなきゃ、魂を肉体に吹き込むなんて神業は不可能じゃろうて」
「……なるほど、精霊魔法」
老婆の蘇生魔法とやらの説明は、手順を聞いてもその現象がどうして起きるのか風神には想像が出来なかった。
その理由が、普通の魔法理論を逸脱させる精霊子のせいであると、ようやく解る。
「貴方が闇医者をしなければいけない理由も、それが一つの理由なのだな……精霊子との同調など、そうそう出来る者はいない。たとえ実践が出来たとしても、同じ分野の者に認めさせるのは難しいだろうから」
「まあの、これまで何人も弟子を取ったが、そこまで至った者は誰もおらなかった。少し寂しい事じゃが、婆一人でもこうして誰かの命を救える機会はある、それで充分だと思うようになったわい」
老婆はそう言った後、食事を持ってくると、腰を押さえて立ち上がった。
「三日も寝ていたんじゃ、腹ペコじゃろうて」
「……確かに、しかしあまり厄介になる訳には(ぐきゅるるるるる)」
遠慮しようとした風神だが、腹の虫が声に被って台無しだった。
「ええてええて、入院費も貰っておると言ったじゃろう。身体が本調子になるまでは何も気にするでないよ」
「……」
風神としては、その入院費はサイノメが払ったものだと聞いているので、複雑な気分であった。
それも、借りを作った事に対して忍びないと言うよりも、腹立たしいという感情が強い。
「いかんいかん、そのお金を払った小さな嬢ちゃんから伝言を頼まれとったんじゃった。齢をとると物忘れが激しくていかんな」
「サイノメが? 何と?」
どうせ碌でもない事だと思いつつも、気になった風神は思い出そうと頭を捻る老婆を促す。
「……たしか、『払った金はシャチョーから騙しとったものだから気にしないでね~』だったかの?」
ブチリ
風神の頭の中で何かが弾けた。
「……あの外道」
「ヒェ!? ちょっと待て、なんで立てるんじゃ!? 無理せずに、まだ寝とれ!」
「治ったから大丈夫だ、私には今すぐやらなければいけない事がある」
むしろ殺らなければいけない者がいる、という方が正しい。
「落ち着け! 服も着ないで何処に行くつもりじゃ!」
「……服? あ」
頭に血が昇って気が付いていなかったのか、老婆の言葉で風神は自分が全裸であった事を思いだし、足を止めた。
だがそこで部屋の建てつけの悪いドアが音を立てて開かれた。
「なんや、騒がしいけど、風ちゃん目を覚ましたん? って何て恰好をしとんねん!!」
耳慣れた帝国の南部訛りに、風神が恐る恐る振り返ると、開かれたドアの外には『室長』の姿があった。
「え? 室長!? 貴方は確か、私の目の前で……」
最期に見た室長の姿は、ゼロワンによって体を真っ二つにされていた、それが風神には鮮明に記憶に焼きついている。
「ああ、ワシ死んだふり得意やねん」
もしあれが死んだふりなら、かなりレベルの高い死んだふりである。
「……もしかして蘇生魔法で?」
風神と同様に、老婆の手によって蘇ったのかと思われたが、室長はそれを否定する。
「いや、ちゃうねん。まあ、それはおいおい説明するとしてや。なあ、婆さんワシが連れて来た他の二人、もう面会はできんのか?」
室長の問いに、老婆は難しい顔で答えた。
「何とも言えんのう、特に男の方は魂がだいぶ溶け出しておったから……意識はあるが、もうしばらく様子は見た方がええ」
「そ、そうか。ならとりあえず、ワシは出ていく事にするで……」
そそくさと後ずさる室長、だが我に返った風神にその首を鷲掴みにされる。
「……」
「……そやね」
何も見てないとか、事故だとか、不可抗力だとか主張しても無駄だという事を察し、何故か同意する言葉を発した室長。
それは声を出さずに口だけ「半殺しでいいですか?」と動かした風神の、無言の圧力に屈した事を意味していた。