食卓の探偵(短編版) ~転生者とエルフの調理人の出会いの0皿目~
6000字強くらいの短編です!
俺は天蓋付きの豪奢なベッドの上で、うめき声を上げながら目を覚ました。
――と、同時に脳裏を駆け巡る「誰か」の記憶。白衣を着て調理台に向かい、ストップウォッチを手にして温度計を見つめる男。
そうだ。これは俺だ。いや、かつての俺だ。
今の俺は、アシュレイ・フォックスウッド。十歳。カーター=フェルド連合王国の一角、ヴァレンタイン王国の名門公爵家の跡取り息子。
そして、日本のしがない食品メーカーの研究員として、加熱によるタンパク質や脂質の変性データを取り続けていた「調理科学オタク」の男。
三日前に知恵熱のような高熱を出して寝込んでいた俺は、どうやらその熱をきっかけに、いわゆる「前世の記憶」というやつを完全に思い出してしまったらしかった。
「……異世界転生ってやつだったのか」
見つめた手のひらが、やけに白くて細く見えた。昨日まではそんな事を思いもしなかった。これは確かに貴族の少年の手だ。
俺は、だんだんと自分が置かれている状況を客観的に理解していく。
代々「時魔法」を操り「王家の探偵」としての仕事を請け負う家系、フォックスウッド公爵家。だが、ひとり息子の俺は、初歩的な生活魔法すら使えない「無色」の落ちこぼれとして、周囲から憐れまれている存在だった。
なるほど。俺が魔法を使えないのは、転生者だったからなのかもしれない。今まで不思議に思っていたが、何か納得する理由を見つけた……いや、見つけてしまったようだ。
だが、そんなことは今の俺にとってはどうでもいい些末な問題だった。
魔法が使えない? 結構じゃないか。公爵家の跡取り? 信頼できる者を集めて任せればいい。
それよりも、だ。
――美味いものが、食いたい。
せっかく中世ヨーロッパめいた異世界の、しかも大貴族の家に生まれたのだ。前世で培った調理科学の知見を使えば、この世界の豊穣な食材でどれほど極上の美食が作れることか! 微々たる予算をやりくりして、時には自腹を切ったり自作で食材や機材をかき集めていた時とは話が変わってくる。
思い立ったが吉日。俺はパジャマの上にガウンを羽織り、早朝の屋敷の一階にある厨房へと忍び込んだ。
まずはウォーミングアップだ。シンプルにして奥深い料理――「目玉焼き」を作ろう。
前世の俺の研究によれば、卵白が完全に凝固しつつも硬くならず、卵黄が最も濃厚なペースト状になる理想の温度帯は62℃から67℃前後。
ブリンとした白身の上にプディングのように滑らかな食感の黄身。その一部がトロリとしたソースとなり、白身を彩る理想の焼き加減。
フライパンを極弱火に保ち、蓋はしない。水分を適度に飛ばしながらじっくりと熱を通すことで、白身の縁はカリッと香ばしく、黄身はねっとりと舌に絡みつく至高の目玉焼きが完成するはずだ。
俺は意気揚々と魔導コンロの前に立ち、鉄のフライパンにラードを落とした。
火力を調整しようと魔導コンロのつまみを捻る。……あれ? どのくらい回せば弱火になるんだ? そもそも、このコンロは魔力を流し込んで火力を安定させるタイプなのでは? 魔力のない俺が回すと、安全装置が外れたように炎がボッと噴き上がるばかりなのだが。
「お、おい、ちょっと待て。火が強すぎる……!」
すぐにラードから白い煙が立ち上る。慌てて木箱から取り出した卵を片手で割ろうとして――グシャッ。十歳の非力な指先は卵の殻を綺麗に割ることすらできず、無惨に握り潰された卵が、殻ごと煙を上げるフライパンの中へとダイブした。
ジュワアアアアアッ!!
「あちちちち!」
凄まじい音と共に油が跳ね、俺は悲鳴を上げて飛び退いた。必死に重いフライパンを両手でゆすって温度を下げようとしたが、焼け石に水。あっという間にフライパンの上には、「かつて卵であったと思われる真っ黒な炭の塊」が錬成され、厨房には黒煙と焦げ臭さが充満した。
「ゴホッ、ゴホッ! 理論は完璧だったはずなのに……!」
涙目でむせ返る俺の背後で、厨房の扉が静かに開き、どこか面白がるような声が聞こえた。
「――おや? 朝から錬金術の実験ですかな、若様」
煙の向こうから姿を現したのは、二人の人物だった。
一人は、寸分の隙もない燕尾服を身に纏い、銀縁眼鏡の奥の瞳を細めている白髪の老紳士――我がフォックスウッド家の筆頭執事、オルバート・ハイロンドだ。
そしてもう一人。純白のコックコートを羽織り、氷を削り出したかのような冷涼な美貌を持つ長身の青年。陶器のように滑らかな白い肌に、長く尖った耳。銀白の長髪を後ろで一つに束ね、透き通るようなアイスブルーの瞳で、俺とフライパンの上の惨状を交互に見つめている。
この変わり者のエルフは、デュカリエル・グレイリーフ。何代か前の当主の頃からこの屋敷に住み着き、専属シェフとして厨房に君臨する、齢二百年を超えるエルフの料理人だ。
これまでは「無口で少し怖い、綺麗な料理人」としか認識していなかったが、今の俺には分かる。彼の立ち姿、包丁ダコの位置、そして厨房の異常なまでに磨き抜かれた銅鍋の列が、彼が超一流の料理人であることを雄弁に物語っていた。
「オルド……それに、デュカリエル……」
「おはようございます、アシュレイ様。病み上がりのお身体とは思えない、実に元気なご様子で何よりでございます」
オルドが厭味ったらしいほど慇懃に一礼し、手巾で口元を押さえながら窓を開け放った。
「錬成などではない! 俺はただ、理想的な熱変性に基づいた目玉焼きを作ろうとしただけで……!」
「ほほう。その結果が、この見事な炭のオブジェでございますか。理屈だけはいっちょまえにおっしゃいますが、若様の手にかかれば、新鮮な朝採れ卵も一瞬で冥府の石炭へと昇華されるようですな」
「ぐっ……! ち、違う! 俺の知識と理論は完璧だった! ただ、肉体の出力と魔導コンロの仕様が俺の頭脳に追いついていなかっただけだ!」
苦しい言い訳を叫ぶ俺をよそに、エルフのシェフ――デュカリエルが音もなくコンロの前へと歩み寄った。
彼は細長い指先を軽く振った。すると、どこからともなく清涼な風が吹き抜け、厨房に立ち込めていた黒煙と焦げ臭さが一瞬にして窓の外へと吸い出されていった。風の精霊魔術だ。
デュカリエルはフライパンの中の黒い塊を覗き込み、アイスブルーの瞳をわずかに細めた。
「……ふむ。『理想的な熱変性』、ですか」
涼やかな、鈴を鳴らすような美声だった。だがその響きには、長年調理に向き合ってきた料理人の、静かな値踏みの色が含まれていた。
「アシュレイ様。これまで料理になど興味を示されたことはなかったはずですが……熱にうなされている間に、ずいぶんと奇妙な言葉を覚えられたようですね」
「奇妙じゃない。料理とは科学であり、物理だ」
俺は思わずむきになって、自分よりはるかに高い位置の瞳を見上げた。
「いいか? 卵というのは、白身と黄身で固まる温度帯が違うんだ。白身は少し高い熱で固まり、黄身はそれよりも低い熱でねっとりと固まる。なのに、お前たち……いや、普通の料理人は強火でいっしょくたに焼こうとするから、白身の底が焦げてゴムみたいに硬くなるか、逆に黄身が生のまま流れてくる『焼き白身の黄身あえ』のどっちかになるんだ。俺はそれを、完璧な火加減で両方同時に最高の食感にしようとしただけで……」
めっちゃ早口でまくし立てた俺の言葉を、デュカリエルは眉一つ動かさずに聞いていた。
オルドは背後で「やれやれ、熱がまだ下がりきっていないようですな」とため息をついている。
だが、デュカリエルのアイスブルーの瞳だけは、僅かに見開かれ、俺の顔をじっと覗き込んでいた。
「……白身と黄身で、固まる『熱の段階』が異なる、と?」
「そ、そうだ。タンパク質の種類が違うからな! オボトランスフェリンとかオボアルブミンとか……とにかく、熱の強さを一定に保てば、白身はぷるぷるで、黄身は濃厚なソース、いや、プディングみたいになるんだよ!」
「……ほう」
デュカリエルの唇の端が、ほんの僅かに弧を描いた。
彼は無言で新しい鉄のフライパンを手に取り、コンロの上に置いた。
「ダイニングでお待ちください、アシュレイ様。……若様がそこまで仰るのなら、その『理屈』とやらが本物かどうか、私が確かめて差し上げましょう」
ダイニングルームの長大なテーブルに座らされた俺は、落ち着かない気分で厨房の扉を見つめていた。
オルドが淹れてくれた朝の紅茶を一口飲む。……美味い。悔しいが、この老執事の淹れる茶は完璧だ。
「若様。デュカリエル様は、先々代の当主様の頃より当家の厨房を預かる誇り高き料理人です。あまり奇妙な知ったかぶりで、あの方の機嫌を損ねぬようになさってくださいませ」
「知ったかぶりじゃない。俺は事実を言ったまでだ。……むしろ、あいつが本物の料理人なら、俺の言った意味がわかるはずだ」
俺が言い返した、ちょうどその時だった。厨房の扉が開き、デュカリエルが銀のトレイを手に現れた。
「お待たせいたしました、アシュレイ様。……いえ、本日の小さな美食家殿」
俺の目の前に、白い磁器の皿が置かれた。その上に載っていたものを見て、俺は息を呑んだ。
皿の中央に鎮座していたのは、紛れもない一個の「目玉焼き」だった。だが、それは俺が前世で見たどんな目玉焼きよりも美しかった。
白身には焦げ目が一切ない。それどころか、表面は絹のように滑らかで、まるで上質なミルクのジュレのようにぷるぷると微かに震えている。そして中央に盛り上がった卵黄は、鮮やかな濃いオレンジ色を湛え、表面が薄い膜を張ったように艶やかに輝いていた。
「……おい。どうやって焼いた」
「先ほど若様が仰った通りです」
デュカリエルは涼しげな顔で答えた。
「炎の精霊をごく僅かに宥め、フライパンの底が『熱い湯』と同じくらいの穏やかな熱を保つように調整いたしました。カリッとした白身もおいしいものですが、今回は『焦げ』をできるだけ排除して均一に熱が入るようにしております。
油は極薄く引き、水分が飛びすぎないよう、水の精霊に命じて卵の周囲にだけ微かな湿り気のヴェールを纏わせてじっくり時間をかけて焼き上げました」
「精霊魔術でスチームコンベクションの環境を再現しただと……!?」
俺は震える手でナイフとフォークを取った。
まずは白身の端を切り分け、口へと運ぶ。
「……ッ!」
柔らかい。だが、生卵のドロリとした食感はない。歯が触れた瞬間に優しくほどける、極上の温泉卵の白身だけをさらに凝縮したような繊細な食感だ。
続いて、俺は中央の卵黄にナイフの先を突き立てた。
プツリ。
薄い膜が破れた瞬間――中から溢れ出したのは、サラサラの液体ではなかった。
とろり、と。まるで極上のチーズフォンデュか、濃厚なオランデーズソースのように粘度を増した黄金色のマグマが、ゆっくりと白身の上へと流れ出してきたのだ。そしてその奥からは、プディングのように滑らかな塊となった黄身が顔を出している。
俺は君のソースとプディングをたっぷりと白身と絡め、カリッと焼かれたバケットの上に乗せると口へ放り込んだ。
刹那、脳髄を稲妻が駆け抜けた。
「う、美味い……ッ!! なんだこれは! 水分が抜けていないのに、卵黄の脂質とタンパク質が完璧な状態で結合している! 舌に吸い付くようなこのねっとり感、生臭さを一切感じさせない濃厚なコクと甘み……! 67℃だ! この卵黄の中心温度は、間違いなく67℃前後でキープされている!」
俺は夢中でフォークを動かした。
ただの目玉焼きだ。塩と胡椒しか振られていない、ただの鶏卵を焼いたものだ。それなのに、前世で食べたどんな高級レストランのウフ・マヨネーズよりも、どんなトリュフ入りのオムレツよりも、圧倒的な「卵そのものの旨味」が口の中で爆発している。
あっという間に皿の上を平らげ、残った黄身をパンで綺麗に拭い取って飲み込んだ俺は、深いため息を吐きながら背もたれに倒れ込んだ。
「……参った。完璧だ。俺の完敗だよ、デュカリエル」
「お気に召していただけたようで何よりです」
デュカリエルは恭しく一礼したが、そのアイスブルーの瞳は、先ほどまでとは全く違う熱を帯びてギラギラと輝いていた。
彼はじり、と一歩俺に詰め寄ると、流れるような所作で片膝をつき、俺の目線に顔を合わせた。
「ところで、若様。……いえ、アッシュ坊」
「あ、アッシュ坊……?」
「ええ。先ほどからあなたが口にしておられる『67℃』とは、一体何の呪文ですか? それに『たんぱくしつ』とは? あなたはなぜ、自分で卵ひとつ割れないほど不器用なのに、私が二百年かけて感覚だけで辿り着いた火入れの極致を、まるで見てきたかのように言葉で説明できるのですか?」
美しいエルフの顔がすぐ目の前にある。いつもの冷涼な仮面は剥がれ落ち、そこには未知の調理技術に出会った求道者の、獰猛なまでの好奇心が渦巻いていた。
「……お前、この世界に『温度』っていう概念はないのか?」
「おんど? 火加減のことですか?」
「そうだ。熱さや冷たさを、感覚じゃなくて『数字』で表す考え方だよ。水が凍る冷たさを『0』、水がグラグラ沸騰する熱さを『100』として、その間を百段階に分けるんだ。そうすれば、『ちょっとぬるい湯』じゃなく、『67℃』って、誰にでも同じ熱さを正確に伝えられるだろ?」
俺がそう説明した瞬間、デュカリエルの瞳がカッと見開かれた。
「水を基準に、熱を百の段階に分ける……。な、なるほど! なんと合理的で美しい考え方だ! それがあれば、精霊の機嫌や季節の移ろいに左右されることなく、常に寸分の狂いもない火入れを再現できるではありませんか!」
デュカリエルは立ち上がり、ぶつぶつと呟きながら自分の顎を撫で始めた。完全に自分の世界に入り込んでいる。
「水と氷の魔石を基準点に設定し、熱に反応して魔力の波長を変える結晶をガラス管に封入すれば……いや、目盛りを刻めば視覚的にも把握できる魔道具が作れるはずだ……。アッシュ坊! 他にもあるのだろう!? お前のその小さな頭の中には、私がまだ見ぬ料理の理が詰まっているのだな!?」
「あ、ああ。そりゃあまあ、肉の繊維を壊さずに柔らかく焼く方法とか、水と油を完全に混ぜ合わせる『乳化』の理屈とか、色々知ってるけど……」
俺は、目の前で目を輝かせる二百歳のエルフと、自分の小さな手を見比べた。
そして、先ほどオルドに言われた嫌味と、自分が作り出した「炭の塊」を思い出し――すべてを悟った。
「……おい、デュカリエル。いや、デューク」
「なんだ、アッシュ坊」
「お前は、我がフォックスウッド家の専属シェフなんだよな? つまりは、俺のシェフでもあるわけだ」
「ああ、その通り。この館の厨房は私の城であり、そして、館の当主とその後継ぎの胃袋を満たすのが私の仕事だよ」
俺は椅子の上で胸を張り、ニヤリと笑ってエルフの料理人を指差した。
「なら、今日から役割分担を決めよう。俺は二度と包丁もフライパンも握らない。料理の『知識』と『理論』はすべて俺が出す。そして『実技』はお前に任す。俺の頭の中にある調理方法と極上のレシピを、お前のその魔法と腕前で、一皿残らずこの食卓の上に再現してみせろ!」
十歳の子供の、あまりにも傲慢で虫のいい宣言。
だが、それを聞いたデュークは、氷のような美貌をくしゃりと崩し、心底楽しそうに声を上げて笑った。
「ふ、ふふ……あはははは! 面白い! 実技は私、知識はお前、か! いいだろう、アッシュ坊! お前が私の知的好奇心を満たし続ける限り、お前のその生意気な胃袋を、この世で最も贅沢な美食で満たし続けてやろうではないか!」
「旦那様……いえ、若様。ずいぶんとまた、ご自分の不器用さを棚に上げた見事な差配でございますな」
脇で控えていたオルドが、呆れたように眼鏡を押し上げつつも、どこか嬉しそうに口元を緩めた。
「うるさいぞオルド。知識と実技は別のスキルなんだ。……よし、そうと決まればデューク! 朝食が済んだら、まずは『温度計』の試作と、それを使った鶏むね肉の低温調理から始めるぞ!」
「かしこまりました、我が小さき主よ!」
朝の光が差し込むダイニングルームに、俺たちの笑い声が響き渡る。
魔法も使えず、卵ひとつ満足に割れない落ちこぼれの公爵令息と、二百年の時を生きる異端のエルフシェフ。
のちに王国の数々の難事件を(主に食事の邪魔をされた腹いせに)解き明かすことになる『食卓の探偵』と、その相棒の物語は――こうして、一皿の目玉焼きから幕を開けたのであった。
このお話は、長編小説「食卓の探偵」の前日譚です。
■食卓の探偵
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本編はこのお話から10年後、現代の「科学的調理法」を持ち込んだアッシュと、魔法を駆使してその調理法をブラッシュアップするデュークのコンビが、王国に巻き起こる事件を解決していく、「異世界転生×謎解き×グルメ」なファンタジーとなっています。
よろしければ、ぜひ!




