第1話
野太い声が響き、一瞬、夏の蝉時雨の喧噪をかき消す。
「頼もう」
ひげ面の男は身の丈六尺余り。筋骨隆々で肌は日に焼けている。
鈍色の長着に紺の袴を履き、片手に竹刀を持ち、脇には刀を差している。
門の右横には達筆で「致道館」と書かれた看板が仰々しい。
左横にも小さな看板が掛けられ、くすんだ字で「大石神影流」と読める。
しばらく待ったが返事がない。
ひげ面の男は門を乱暴に叩きながら、「頼もう」を何度も繰り返す。
しかしそれでも誰も出てこない。
意を決してひげ面の男は後ろに数歩下がり、助走をつけて門に体当たりする。
門のかんぬきの横木が折れ、門が開き、ひげ面の男はそのまま中庭に倒れ込む。
中庭では門下生と思しき四人の若者が二組に分かれ、それぞれ竹刀で練習試合をするなど剣術の稽古に余念がない。
中庭の奥に建屋の縁側が見える。
地面に転がったひげ面の男は急いで立ち上がり、着物についた埃を手で落とす。
「何者じゃ」
門下生の一人が稽古の手を休めて闖入者に言う。
「拙者、鳥海弥左衛門と申す」
ひげ面の男が言う。
「武者修行で諸国を放浪し、各地の道場破りを道楽にしている者。
致道館には腕の立つ侍がいると聞き、お手合わせをお願いに参った次第」
「おそれながら、他流試合は禁じられております」
別の門下生が言う。十五、六歳の少年だった。
門下生たちはひげ面の男――弥左衛門を無視して稽古に戻ろうとすると、弥左衛門が少年の門下生の頭を竹刀で叩く。
「隙ありじゃ、未熟者が」
頭を叩かれた少年の門下生は「おのれ」と叫びながら、竹刀で弥左衛門に襲い掛かる。
弥左衛門は竹刀で応戦する。
二三合、切り結んだ後、弥左衛門の胴が決まる。
「こしゃくな」
残り三人の門下生がほぼ同時に竹刀で弥左衛門に襲い掛かる。
だが巧みな剣さばきで、弥左衛門は三人をたちまち倒してしまう。二人に面を決め、残りの一人は小手を決めると相手は竹刀を落としてしまう。
大したことねえやつばかりじゃねえか。もっと骨のあるやつはいねえのか。
弥左衛門は心中で毒づく。
「まだまだ」
最初に倒された少年の門下生が脇から真剣を抜く。
「真剣で勝負しろ」
望むところだ。弥左衛門はそう思いながら竹刀を捨て、おもむろに真剣を抜く。
竹刀では本当の剣の強さはわからない。真剣で戦って生き残る者が真の剣客にほかならない。
「騒がしいじゃないか」
縁側の奥の部屋から声がする。
中から一人の男が姿を現したとき、弥左衛門は思わず仰天する。
男は身の丈、八尺余の巨人だった。手には六尺一寸の竹刀を持っている。
齢三十手前ぐらいか。褪せた紺絣の長着に黒帯を絞めている。
「師匠」
少年の門下生が巨人に言う。
「こいつ、道場破りです」
なるほど、この大男が致道館の師範か。もしかしたらこの男が噂の剣客かも知れぬ。
弥左衛門は巨人を改めて観察する。
眼光の鋭さといい、筋肉質の肉体といい、素早い身のこなしといい、剣術さばきは門下生たちとは数段違うと思われた。
巨人は草履を履き、弥左衛門に近づく。
「致道館の師範とお見受けした。拙者とお手合わせ願いたい」
弥左衛門が巨人に言う。
巨人は何も答えず、無言のまま弥左衛門を頭の先からつま先まで眺める。
「やめとけ。おまえの腕では無理だ。おれは倒せん」
巨人は吐き捨てるように言うときびすを返して縁側に戻ろうとする。
「隙あり」
弥左衛門はそう叫んで真剣で巨人の背中に襲いかかる。
しかし一瞬早く、六尺一寸の竹刀が巨人の振り向きざまに弥左衛門の喉を突く。
弥左衛門は地面に仰向けに倒れ、口から泡を吹きながら悶絶する。
「手厚く介抱してやれ」
巨人は失神した弥左衛門を見降ろしながら門下生たちに命じる。
「それにしろ、この程度の輩にやられるとはおまえたちもまだまだ修行が足りぬ。
わが大石神影流は天下無双の剣術。しっかり習得すれば誰にも負けることはない」
門下生たちは頭をかきながら弥左衛門の体を縁側の方へ運ぶ。
「後藤、おまえはここに残れ」
巨人は少年に言う。
「おまえは剣の構えができてない」
巨人は竹刀を構えてみせ、少年――後藤象二郎に指導する。
巨人は柳川藩士、大石進種昌。剣豪として知られる大石七太夫種次の次男である。
種次が開祖した大石神影流は広く世に認知され、土佐藩の藩校、致道館でも採用された。
種昌は剣術の師範として、ときどき致道館に出向くことがあった。
「おまえはまだ若い」
種昌は少年の後藤象二郎に竹刀を素振りさせながら言う。
「若いうちからしっかり修行を積めば、いずれ日本をしょって立つような、ひとかどの男になれるぞ」
しかしながらこのとき種昌は、目も前の少年が後に坂本龍馬とともに大政奉還、明治維新で日本を動かす運命にあるとは想像だにできなかった。
(つづく)




