第9話
「蜜柑屋」の温泉は離れにあった。
大石進種昌が湯舟に浸かっていると、なにやら人声が聞こえる。
湯けむりの向こうに二人の青年が見える。
「攘夷じゃ。尊王攘夷じゃ」
二人のうち、一人が叫ぶ。
種昌は興味を覚えて青年に近づく。
青年たちは政治談議に余念がない。
「ときに」
種昌は話しかけてみる。
「土佐藩士でござらぬか。尊王攘夷とお聞きしたので」
二人の青年は見知らぬ男に話しかけられたことで最初驚いた様子だったが、顔を見合わせて爆笑する。
「某は長州藩士、金子重之輔と申す。
尊王攘夷を唱えるのは土佐藩だけではござらん。わが長州藩も薩摩藩も唱えております」
「尊王と言うより、倒幕派なんです。わが長州藩の藩主、毛利家は昔から徳川家とは犬猿の仲ですから」
もう一人の青年が言う。
「そうでしたか」
種昌は言い、自分の名前を教え、自分は元柳川藩士で今は浪人の身の上であること、土佐藩士とよく話す機会があったので尊王攘夷という言葉に聞き覚えがあることなどを話した。
「ぼくの考えですが」
金子ではない方の青年が言う。
「毛利家は昔から南朝天皇の子孫をかくまっている。今の天皇は北朝。いずれ近いういちに北朝天皇を暗殺して南朝天皇に入れ替えてしまいたい。ぼくはこんなことを企んでいます。驚きましたか。
ぼくの夢は故郷に帰って塾を開くことです。新しい日本を作る志士を教育するんです。もう塾名も考えてあります。その名も松下村塾。どうですか」
「いい名前です。ときに”ぼく”とは何のことでしょう」
種昌が訊くと青年は笑い出した。
「大石殿が”ぼく”を知らないのも無理はありませぬ。”ぼく”は一人称。すなわち、おれ、わし、拙者、某と同じ意味です。実は”ぼく”という言葉を作ったのは他ならぬぼく自身なのです。したがって、ぼくの知り合いでもなければ”ぼく”という言葉を知らないのです」
大石はこの青年を風変わりな男だと思ったが、同時に異常に知性が発達した思想家にも思えた。
「申し遅れました。ぼくの名前ですが、吉田松陰です」
「……」
「ときに大石殿」
金子が言う。
「明日、下田の海にペリーの黒船が来ますので、一緒に見学しませぬか」
「黒船?」
「さよう」
吉田が言う。
「実は去年、浦賀沖にペリーの黒船が来たとき、師匠の佐久間象山先生と一緒に遠くから見学しました。今度は見学だけでなく、できれば乗船してメリケンまで連れて行くよう直談判するつもりです」
この吉田という男。とてつもなく大きいことを考えているようだ。
種昌はそう思い、吐息を漏らす。
(つづく)




