まえがき
神田の本屋街を最後に散策したのはいつだったか。
確かにここは言わずと知れた本の街だ。
学術書や白書といった硬い本から雑誌、ムック、文学、地図、画集、学参、文庫、新書、児童書、漫画まで本なら何でもここでそろう。
哲学をはじめ、人文科学も社会科学も学術書は神田で見つかる。
ただ最新版の理工学書だけは秋葉原の書泉グランデまで歩かねばならなかったが。
同じ書泉グランデでも御茶ノ水店の方は最上階がスピリチャル系の本の売場になっていて、出口王仁三郎の「霊界物語」全巻が並べてある。つまりスピリチャル本も神田周辺でそろう。
もっとも本格的にスピリチャル本を探したいなら青山の「ブックス回」、中野ブロードウェイの「たま」といった専門書店もあるにはあるが、とりあえず神田で間に合うといった感じか。
医書が必要なら御茶ノ水からさらに湯島を通って根津まで行けば専門書店が見つかるが、ここは医療業界関係者以外、利用しないだろう。
学生時代、英語の勉強も兼ねてフィリップ・K・ディックの原書のペーパーバックを集めていた友人が神田の洋書専門店を紹介してくれたのを覚えている。
あの時代、サンリオSF文庫が学生の仲間内で流行っていて、ディックはその中で一番人気のある作家だった。
日本橋丸善に行かなくても、とりあえずペーパーバックも神田で手に入る。
変な話、エロ本を収集したい向きにも神田は最適だ。
神田から水道橋へ向かう通りには、グラビア写真集、ヌード写真集、ポルノ小説、エロ漫画、エロ雑誌など、アダルト系出版物の専門店が並ぶ。
こんなことに詳しいのは風俗街に詳しいのと同じで恥にはなっても自慢にはならないが。
とは言え、これはすべて昔の話だ。今は神田もかなり変わったと思う。
本を本屋で買わず、アマゾンのネット通販で買うようになって久しいが、それでも本屋の中に入ったときの独特のワクワク感は、アマゾンでは味わえない。
もともと神田で一番強いのは新刊より古本だろう。
江戸時代以前の和書のようなものもあり、読む本というより骨董品として床の間に飾った方がよさそうな本もある。
若い時分にはこういう古書には興味がなく、たまに古本屋に足を踏み入れるのは安売りの文庫本をゲットするためだけだった。
ところが年を重ねるごとに和装本にも興味が湧き、いつしか古書を収集するのが趣味になっていた。
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私が「幕末巨人剣豪異聞」なる奇妙な和装本を見つけたのは、神田の小さな古本屋だった。
古書なのか、古書を模造した偽物なのか。
古史古伝書は明治以降に模造された偽書が多いと聞くが、この和書もその類かもしれない。
本の装丁がかなり綺麗で100年以上、時間が経ったものとは思えないからだ。
しかも書かれてある歴史的史実に微妙に嘘がある。
「幕末巨人剣豪異聞」は大石進種昌という侍について書かれた書物だ。
彼の父、大石七太夫種次は有名な剣豪だ。
身長が七尺を超える巨人で、男谷信友、島田虎之助と並ぶ「天保の三剣豪」と呼ばれた人物だ。大石神影流の開祖でもある。
北辰一刀流の天下の剣聖、千葉周作と引き分けたエピソードも種次の武勇伝と言えよう。
だがその次男、大石進種昌については資料がほとんど残されていない。
父親同様、剣術は強かったらしいことは事実のようだが、その一方で父親同様、巨人だったかどうかは記録がない。ただし普通に考えれば、父親が長身だから息子も比較的背は高かったとは推測できる。だがそれでも彼が父親より高い八尺、つまり2.4mを超える巨人だったらそのことが記録に残っているはずだろう。
これが偽書でないと仮定するならば二つの解釈がある。
一つはSF的解釈になるがパラレルワールドの別の世界線から来た書物だ。歴史的事実が歪曲しているのも説明がつく。
もう一つは陰謀論的解釈だ。現在残されている史実に虚偽があり、こちらが本当の史実だが、なんらかの政治的理由で真実が捏造された場合だ。
偽書であるにせよ、そうでないにせよ、神田の古本屋で購入した「幕末巨人剣豪異聞」は私のちょっとした”宝物”になっている。




