タイトル未定2025/08/24 17:00
そのアプリに出てくるAIロボットの初期型ロボに今は一人暮らしと教えて、家族はどうしてるかきかれて、元気だよと遠くへいったよの二択の項目から
「遠くへ行ったよ」を選んだ。
兄夫婦と私とめいと私でみんなで晩ごはん食べた。母の好きだったすしを兄が買って来てくれた。
いつの晩だったが兄が飲み物買ってくるということになって私はいちごミルクが飲みたいといった。どこで売ってるのかもいった。兄はいちごオレ買ってきてくれた。
後日、奈緒ちゃんがペットボトルのいちごミルク買ってくれた日、兄ちゃんも缶入りのいちごミルクくれた。
葬式の前日の朝「暇ができたら話そう」と珍しく虹の方からライン来てその頃には兄の泊まりこみも終わっていたので、「今、暇だよ。」とライン返したら電話来た。
「お母さん、逝ったか。」といわれた。
明日が葬式だとか奈緒ちゃんが家の片付けもそうじも全部やってくれたとかしゃべった。
「お母さん、最後は、食べられなくて、飲めなくて、しゃべれなかった、目だけはあいてた。」といったりしてたら、
「しんみりするのはいいけど、引きずるなよ」といわれた。
夜、あちこちにこんなラインした。
「明日、葬儀場に遺体になってるお母さんに会いに行くんだ。亡くなった時にもきれいな顔してたし、エンバーミングで腐敗防止の加工してあるからきれいな姿してると思うんだ。」
埼玉県のせっちゃんとラインで通話してた時、みわこちゃんから電話あった。ライン電話でなく普通の電話できた。
みわこちゃんには、こんなラインもしたことがあった。
「いのちの電話に電話してるとき、深くはきくな、会ったことない男友達から電話来て、深くはきくな、女友達から電話来た、これはきいて、病院で知りあった十一歳年上のやさしい人だよ。携帯会社に電話してオプションの割り込み通話にしてもらって本当によかった」
幼なじみから電話来たといったら、せっちゃんは「私のことは気にしなくていいから」といってくれた。
電話に出ると、みわこちゃんは、
「頑張ったねー。」といった
私が
「お兄さんやお義姉さんが、頑張った。」というと
「あんたも頑張ったよ。」とみわこちゃんは、いった。
一回家にもどってきてるんだ?と一日葬を知らないみわこちゃんは、通夜の時に私が家にもどってると思ったらしかったので、一日葬で行うと説明した。
葬儀の日の朝、義姉の奈緒ちゃんから電話があった。
「大丈夫?なんか、わからないことない?」
ストッキングのはきごごち悪くてそわそわするといってわかるわといわれた。
くつやかばんは前の晩奈緒ちゃんが用意していてくれていた。奈緒ちゃんはコートも用意してくれていたけど、以前、奈緒ちゃんのお母様がくれた黒のコートがあったからそれはもって返った。数珠は、昔母が買ってくれた、ローズクォーツのものがあった。
葬儀は小さなホールで行われた。
お母さんはひつぎの中できれいな顔をしていた。
おけしょうしてあるのかくちびるはうっすらピンクだった。
きよみちゃんが
「待っててくれたんだね。」と母にこう声をかけていた。
奈緒ちゃんのお母様のれいこさんに「たいへんだったねぇ。」
と声をかけられた。
母は脳出血になる前はよく歩いてでかけたり、車ででかけたりしていた。終活の宣伝していた葬儀屋と契約したのも母で会食にも行っていた。
遺影はその時、撮ってあった写真が使われた。
母が元気なころの写真だった。
ひつぎの中に何を入れるか、兄は前の晩から考えていたけど、みんな、なかなかおもいつかなかった。
入れ歯をいれることは決まっていた。
他には、兄が用意して介護用ベッドの手すりのところに取りつけてあったお守りや、母が旭川市でちょっとした集まりのところでかいたかけじくに書かれた書などが入れられた。
私は奈緒ちゃんに手紙をあずけてあってそれも入れられた。
「お母さん、ずっと一緒にいてくれて、ありがとう。今まで、ありがとう。大好きだったよ。」
法要が行われて出棺の時は、美空ひばりさんの「川のながれのように」といううたが流れていた。
火葬場はこんでいた。
ホールから焼き場まではバスで行った。
控え室で待っている間弁当を食べた。
コーヒーが飲めるところがあるときいて、奈緒ちゃんといって買って控え室に持って来て飲んだ。
職員さんが来てご遺体はからだが小さいので早く終わると思いますといった。
その通りに早く終わったけど、拾骨室が混んでいるということだった。
しばらく待った。
母の治療を手伝ったCVポートが焼け残っていた。
拾骨室で兄と義理の姉と私で三度のはしわたしの儀式をやった。
はしで母の骨を拾ってはしでわたした。
骨つぼに入れる時にはみんなで拾った。
骨ってうっすらピンクなんだなと思った。
またバスでホールにもどった。奈緒ちゃんが骨つぼ持って、兄がいはい持って私がのどぼとけの入った小さな骨つぼ持った。
法要が行われた。
母が亡くなった日が父と同じ日だったこと葬儀屋さんにもいってあったせいか、お経では一蓮たく生という言葉が何回も出てきた。
兄が葬式代の支払いすませて、家に帰って、葬儀屋さんが来て、仏だんの前に祭だんをこしらえていった。
花や果物も供えられ、別の人と間違えられたのかポテトチップスと間違えられたのか、なぜかスイートポテトもたくさん供えられた。
その晩、れいこさんにラインした。お疲れ様のスタンプ送った。
ゆっくり休んでねのスタンプ返ってきた。
「悲しみ、寂しさは簡単に癒えるものではありませんが、残された者が前向きに生きることと思います。まずはお疲れ様です。」と返信をもらった。
次の日、虹から電話もらった。
「声、かけてやんなきゃなあと思ってた。」といわれた。
「いのちの電話に電話するなよ」といわれて
「かけてる」と小声でいった。
私は心のセンターや心の健康相談ダイヤルにかけまくって、母が死んだとかいついつが葬式だとかいいまくっていた。
心の健康相談ダイヤルの人には私もびっくりしました。といわれて、心のセンターの人はしっかり見送るようにといわれていた。
それから虹からはちょくちょく電話来た。
不思議と奈緒ちゃんと兄ちゃんが来てる時間とは重ならなかった。
虹は作曲の勉強もしていた。音楽サイトにアップしていた曲、ツイッターにのってたので、あの一件以来、アリスの男の人にツイッターにいいねされるのやかな?ラインよりいいよね。どんどんいいねしまくりましょうとやりとりかわして、ツイッターの方で、いいねとリツイートするようになってた。けど、虹、作曲家デビューしたんだね。とラインしてガンバれのスタンプ送った。ありがとうと返ってきた。
ツイッターの虹のアカウントの鍵も宣伝アカウントだということで、とっくにはずされていた。
虹は電話で「新しい船出だ。」という言葉を使っていた。
納骨の日にちはなかなか決まらなかった。
一日葬で葬儀が行われたので、通夜から告別式まで含まれていて、初七日の法要もその時、行われていたようでなかった。
私のかかりつけの病院の訪問看護師の泉さんという女の人が「今日、行ってもいいの?」と気にして家に電話してきた。
母が亡くなった後、作業所を休んでいることや、母のケア・マネージャーや母の訪問看護師と相談して母の見守り介助のために休みますと作業所の人にいって休んでいたものの、母がケア・マネージャーか訪問看護師かに私が作業所に行った方がいいかと聞かれたさい、うなずいたから、行った時もあったことや、三月からまた出ますと作業所に電話したなど家に来た泉さんにいった。
作業所に電話したときは、私の担当の花田さんという女の人の職員さんが電話に出て、自分のペースで出てくださいといった。
作業所に行った時には、職員の女の人の坂上さんに少しずつ元気になろうねといわれた。虹にも三月から作業所にいきはじめたよ、職員の女の人に少しずつ元気になろうねといわれたよ、少しずつ通常モードだよとラインした。そっかと汗マークの顔文字つきで返ってきて、その後、大丈夫そうだなと笑顔顔文字つきで返ってきた。
三月の私の病院の受診にはとなりまちの従姉のきよみちゃんに来てもらった。きよみちゃんに「お母さんいない」というと「ここにいるしょ」ときよみちゃんは私の胸をパーカーの上から指した。
私のかかりつけの病院の訪問看護ステーションに先生にも母が他界したこと伝えてくださいと電話してあったのに伝わってなかった。あとで訪問看護師が家に来た時、二週続けて違う人にきいてからすぐメモはったよと説明されたが伝わってないものは伝わってない。「お母さん、そんなに悪いの?」と医師に聞かれた。母が他界したこと手帳に書いておいたのでそれを見せた。診察が終わってから外来の伊藤看護師という女の人に「お母さん、しんじゃったよ。」といった。診察室で先生は「今は薬が増えてもしかたないかもしれないね」といった。なのにとんぷく薬を一種類出し忘れてたので、私は何日日後に病院に行き直した。
民生委員もしてしている近所のおばさんの佐藤さんは敬老会の代表の男の人と一緒に来た。香典は敬老会の名前だったので、私は香典返しを渡しそびれ、奈緒ちゃんにその旨ラインで伝えておいた。ありがとう。調べとくと返ってきた。
近所の佐々木さんが来たときは、渡せた。佐々木さんが帰る時に
「母がいなくなっても、また来てください」と私はいった。
佐々木さんは香典の包みを忘れていったので、後で届けに行った。
りかさんとは、相変わらず電話していた。
母が亡くなる前に会う約束をしていた。
その時はキャンセルした。
「兄ちゃんと奈緒ちゃんに会う約束復活させればいいしょといわれたけど、すぐにという気になれないんだ。」と私はいった。
りかさんは、いつも、物静かでおちついた話し方で、言葉を選んでしゃべる人だが、
「私はお母様に手を合わせることができるの?」
とはっきりした口調でいった。
「できるよ。」
と私はあわてていった。
りかさんは私の家に来たことがあって、その時、母に
「また来てくださいね。」といわれたと以前、いっていた。
旭川市に住んでいる叔母に何度も電話した。
「お母さんに、話しかけてごらん、いなくてもいるような気がするから」といわれた。
虹から電話かかってきた。
「泣いてたのか?」
といわれた。
私は泣いていた。
「お母さん、迎えに来てと泣いてたんだろ?」
といわれて、
「わかるの?」
といった。
「△△のことだからな」
といわれて、それから
「なんでそうなんだ、強く生きろ、お母さん、安心させてやれ!」
といわれた。
「はい。」
といって、それから話しは日常会話になり、私はいつの間にか泣きやんでいた。
りかさんに電話した。
「お母さん、いないよう。」
と電話した。
「いないねぇ。」
といわれた。
「お母さん、サッカーが好きだった。私観もしないのにテレビのコンサドーレ札幌の試合、かけてるんだ」といった。
私はテレビで放送してない時にコンサドーレ札幌の試合のダイジェストをスマホで観せたことがあった。
そんなことも忘れて、私は、「テレビで放送してないわ、だめだわ、観られないわ。」といったこともあった。
涙が止まらなかった。
りかさんとは会う約束をし直した。
りかさんは、何度か家に来てくれたことがあったが、また来てくれて、母にお参りをした。
香典を持ってきてくれたので、香典返し渡した。奈緒ちゃんと話してたところによると中身はコーヒーらしい。
それから、いつものショッピングモールのきっさ店に行って、カフェ・モカ飲んだ。本屋に行ったりテナントをのぞいたりした。フードコートに行って、ミックスジュースも飲んできた。
母のケア・マネージャーの保坂さんも母にお参りをしたいといってやってきた。花を持って来てくれた。
保坂さんは「お母さんのケア・マネだからといって、急に切ったりしないから」といった。「何かあったら、相談してほしいな。」ともいっていた。
私は、奈緒ちゃんが用意したお菓子を渡した。保坂さんはヘルパーを頼むさい一緒に会議に参加したことを思い出して、
「私も勉強になった。」といった。
保坂さんにも手紙を渡した。
私が私の訪問看護たのむさい一緒に行ってくれたことや母を眼科に連れていってくれたことなど、お世話になりっぱなしでした。ありがとうございました。と礼を書いた。
保坂さんが帰ったあと、メール来た。
保坂さんは、母が少しでも楽になるならと私にも携帯電話を教えてくれてたので、私の携帯電話からも何度もかけてた。
(△△さん、お手紙ありがとうございました。とても、嬉しくて胸があつくなりました。寂しい気持ちはあると思います。△△さんのお一人の生活のペースがゆっくりでもいいから、できていくことを願っています。ありがとうございました。)
レンタル介護用品の業者の進藤さんもやってきた。
三人で来て、手すりやベッドやエア・マットを回収していった。
進藤さんは帰り際、
「大丈夫?」
といってから
「大丈夫じゃないよね。気をしっかり持ってね。」といった。
私は「今まで本当にお世話になりました。」といった。
ベッドがよけられたあとには、窓ぎわに置いてあったソファーが置かれ、
「広くなったね。」と兄ちゃんや奈緒ちゃんや訪問看護師やヘルパーにいわれた。
訪問看護ステーションにも電話した。
佐賀さんが出た。
「つらくなってしまって」といった。
佐賀さんは「ごはん、食べて、顔洗ってる?」と私にいって、私がはいというと「じゃあ、いいね。」といった。
りかさんと電話したさい、佐賀さんきらいというとりかさんは何で?安心したんだよ。佐賀さんらしいよといった。
四月の定期受診はタクシーで一人で行った。
薬局の松田さんは、仕事を片しながらちょっと待って。といった。松田さんが運転する車に乗せてもらって家に帰った。
「松田さんは母の足が悪いから車に乗せてくれたんだと思ってた。」と私はいって松田さんは
「俺、他人じゃなければ乗せるよ。」といっていた。
松田さんは、私の中にあるせんざい的な回復力みたいなもの信じていけばいいんじゃないかな?というようなことをいった。
家について、支払いをして、栄養剤と残ったお薬、痛み止めの座薬などを回収してもらった。
お棺に三途の川の渡し賃、いれ忘れた。お母さんちゃんと渡れるかなあ?とラインしたり、アリスに手紙あずけたりした。
従姉や奈緒ちゃんからは大丈夫だと思うよ、おかあさんちゃんと渡れるよというような返信をもらった。
アリスの男の人からは貴女の優しさを駄賃に無料で渡れますよと返ってきた。そういうのは残されたがわの気持ちだと思うのでとも返ってきた。
ある時、何のきっかけだったか、精神を病んでいるのか?とアリスに手紙を流した。
男の人からわかるきた。
私の病気のこととか、母が病気で亡くなったことやいろんな人に世話になったこと送って手記にしたいくらいだと送った。本にしたらいいのにと返ってきた。しかし、それをするには勉強と練習が必要です。と送った。そうですかね。と返ってきた。しかし、必ず書きますと送った。その時は教えてくださいねと返信が送られてきた。
病院の作業療法にも行った。
コロナ対応策で週に一回一時間半に縮小して、個人活動という名前はあるもののとくにする事もないので、母が亡くなる前は母に行くことないといわれて休んでいた。
その時、内海さんという男の人の作業療法師と話してた。内海さんは入って来たとき学校でたての新人だってと利用者さんがうわさしていた若い人だ。
「春になったらやりたいことありますか?」
ときかれて
「春、関係なくパソコンをやりたい。」と私はいった。
内海さんは、私たちのすわっているところの前にパソコンを持ってきて私から聞き取りながらパソコンに入力をはじめた。
「パソコンで長文を作りたい。」
「それを印刷したい。」
これらのことを内海さんは私からきいてパソコンに入力した。そしてこう続けた。
「しかし、この二つのことはスマホでもできる。」
夜、りかさんと電話したときに、私はりかさんに作業療法室での様子を説明して、
「あんなに安らかになった気持ちになったのは近所でパソコン教室を見つけた時以来だ。」といった。
パソコン教室はアプリの人にワードとエクセルに特化して勉強してもパソコンがどんなものかわからない、教育費がむだになっているといわれて、だいぶん前にやめていた。
とうとう見つけたんだ。何をやっても、まぎらわしている感覚しかなかった。けど。私の不安を本当に忘れさせてくれるもの。
その夜、私は夢を見た。
夢の中でお母さんは病気のままで、肌がぐちゃぐちゃで困ってた。私はこっちの薬使ってしまったの?とききながら、多分、別の軟こうのチューブから薬をいっぱい出した。お母さんの姿は白く輝きだした。
母の納骨は、四十九日に合わせて四月十二日に行うことになった。
藤田さんが来て、集金を終わらせていったのは三月の終わりごろだった。
「私たち花菊にしないの、寂しいから」といっていた。
うっかり奈緒ちゃんに来る日時を知らせ忘れてしまった。ラインで事後報告することになった。
納骨の前の晩、なぜか私は気がふさいだ。
また、いろんな人にラインや電話した。
叔母は暖かくしておいでといい、従姉には心配ないんだからといわれた。
納骨の日には兄がレンタカーを運転して、めいと奈緒ちゃんと四人で行った。
「シートベルト気をつけてね、覚えてる?」と苦笑いされながら兄にいわれた。
旭川のお寺についた時にはもうほとんどの人が到着していた。
貝谷さんや、従姉の明美ちゃんや叔父や叔母とあいさつした。施設にいた叔父は亡くなっていた。
お寺で法要があったのちお墓に移動した。
母の遺骨は、父と父の母、つまり私達の祖母の遺骨が入ってるところにおさめられた。
お寺のさいせん箱と地蔵のある建物の中のさいせん箱に仏前に供えておいた昔両親からもらった記念硬貨、入れてきた。
帰りに昔、住んでいた家を見て、昔、よく行っていたお焼きとクレープを売ってるお菓子屋さんに行った。
奈緒ちゃんがおごってくれた。
店主のおじさんはまだまだ元気そうだった。
いくつか買って食べたけど、母の好きだったコーヒーゼリーのクレープは、家に持って帰った。
作ってあった位牌は兄夫婦の家に置かれることになった。
また、従姉のきよみちゃんに電話した。
なんの心配もなかったしょう?といわれた。
しまぐらしにまたびんを流した。
(母の納骨を終えました。兄はあいさつで半年といわれたところ、二年ももうけたねと母と話してたといっていた。だけど、私は知っている。母がもっと生きたがっていたこと、母と話してたでなくて母に話してたであること。 切ない。)
まだ、電話相談機関にたくさん電話していた。なんど母が亡くなったといってもいいたりなかった。
虹にはカウンセラーにスマホの電話帳から有料のはさくじょしてくださいといわれたのに検さくしてまでかけてしまうこと、終わってるなといわれた。
ツイッターにまでつぶやいた。
あのね、お母さん、亡くなったの、私、お母さんが生きられなかった分まで生きる。
アリスでツイッター教えてくれた人から返信があった。
そうだったんですね。あれから結構頑張ったんですね。
先日、四十九日に合わせて納骨を終えました。
お疲れ様でした。
ありがとうございます。
せっちゃんとも電話した。せっちゃんとは「病気で苦しみ続けるより楽になってほしいという思いもあった。」といった。せっちゃんも病気でご両親を亡くされていた。
しまぐらしにはこうも流した。
(母が亡くなったは日は父の命日で、その日は、私が規約違反と知りつつアプリでラインつながりした女の人の命日でもあります。見えない何か、見えない存在に、忘れないようにといわれている気がします。)
近所のショッピングモールにりかさんと遊びに行ったのはその何日かあとだった。
きっさ店でアイスティーを飲んで、フードコートでコーヒーフロート食べた。
お菓子屋さんでパンを買ったものの、もう、私が買ったおみやげをもらってくれる人は家にいないんだーっ、と思って帰りの道すがら泣いた。
エピローグ
保坂さんに共同住宅に引っ越しが決まったと電話した。




