表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

足の速いきみが好き 【春チャレンジ2025】

作者: 電波工房

ーーーー「園崎、8.82秒!」


「うおおおおお!!」

「やっべえええええ!!」

「しゅん!おまえちょうはやいじゃん!」

「おれ9.5びょうぐらいだったのに!」

「なんでそんなはやいの!?おれにもおしえてよ!」

「へへへー。おれはやいだろー。かっこいいだろー。」


「……ねえねえ、ゆきちゃん、さっきのしゅんくんみた?とってもあしがはやかったよ!!」


「……うん。」ーーーーーーーー


私の恋路は、確かこんな風に幕を開けたと思う。『しゅんくんはあしがはやくてかっこいい』。あまりにもシンプルだが、あまりにも力強い動機である。


”足の速さ”というステータスは、小学生にとって、残酷なほど絶対的なものである。もちろんそれは、男子だけでなく、女子にとっても。彼、園崎瞬は同級生の女子たちの羨望の的であった。例にもれず私も、彼に心を打ちぬかれた一人であったのだ。


ーーーー「今から、体育祭のリレーの担当を決めていくぞー。意見のあるやつ、立候補したい奴は、手を挙げてけ―。」


「はーい!せんせー!」


「なんだ、篠宮。立候補か?」


「瞬くんがいいと思いまーす!」


「おい!篠宮!勝手に決めんじゃねーよ!」


「はーい!俺も、篠宮に賛成でーす!」


「お前まで……。ふざけんなあ!」


「はははは、諦めろ瞬。二人の言うとおりだ。お前は足が速い。このクラスでもぶっちぎりにな。教えておいてやろう、大いなる力には、大いなる責任が伴うのだよ。」


「俺はスパイダーマンじゃねえんだよ!適当言いやがって!」


「そうだな、アイツの言うとおりだ。お前には、このクラスを優勝に導くという責任があるんだ。もちろん、お前はアンカーだ。」


「おいおい!俺がやるっていう前に、役職まで決めてんじゃねえよ!」


「まあまあ、落ち着け園崎。期待を背負えるっていうのは、幸福なことなんだぞ。ということで、園崎がリレーのアンカーでいいと思う人は、手を挙げてくれ。」


「はーい!」

「はーい。」

「はーい、」


「よし、園崎以外全員手を挙げたということで、園崎、お前にはリレーのアンカーをやってもらう。」


「ええええ…。ひでえよせんせー!………篠宮、恨むからなー。」


「あははー。頑張ってねー。」ーーーーーーー


彼は、中学生になっても、相変わらず足が速かった。大勢の陸上部やサッカー部の猛者たちをなぎ倒すその姿はまさに韋駄天。体力テストでは喝采を浴び、体育祭は彼の独壇場だ。


けれども、中学生の世界は、小学生の世界とは全く違う。人々は思春期に突入し、価値観も人それぞれ形成されてゆく。女子たちが男子に求める魅力も様々になる。”顔のカッコよさ”だったり、”優しさ”、”おもしろさ”、”ヤンチャさ”など、それは多岐にわたる。”足の速さ”なんてものは”運動神経の良さ”のうちに内包された一つの要素程度になり、昔ほどの絶対的な力はなくなるのだ。


そのようなわけで、女子たちの視線は分散されるようになり、彼の絶対王政は終わりを告げた。最も、彼自身はそんなこと、ちっとも気にしていないようだったが。彼は昔から、愛だの恋だのにはあまり興味がなさそうだった。周りにいる男友達とワイワイできればそれでいい、といった感じで、いつも楽しそうにしていた。


私の恋心、それも相変わらずだった。「男子に求める魅力は様々になる、だとか、”足の速さ”に絶対的な力はなくなる、だとか偉そうに語ってた癖になんだ」と言われてしまうと、ぐうの音も出ない。だが、やはり私の目に彼は魅力的に映った。好きなものは好きなのだ。しょうがないだろう。と、私は開き直ることにする。



そして私は今、高校2年生である。彼とは”たまたま”同じ高校に進学した。「お前の心が多分に反映されているだろう」というご指摘は受け付けない。


何はともあれ、小中高と同じだった私たちは、腐れ縁という間柄になっていた。私が適当に絡みに行き、軽口を叩きあう関係だ。……いや、私が一方的に軽口を叩き、彼がそれをだるそうにいなす関係、といったほうが適切だろうか。腐臭の漂う腐れ縁である。


私は自らの半生を、テニスコートのベンチに座りながら回想していた。柵で隔てられた視線の先に、ぼんやり彼の姿をとらえながら。


彼のプレーは華がある。腕前はともかくとして、何か華があるのだ。BIG4で言えばフェデラーのように。…フェデラーに失礼か。テニスの王子様で言うと跡部景吾のように。…跡部様に失礼か。うーむ、誰で例えれば適切だろう……。難しいな……


ドゴッ!


突然、背中に鈍痛が走る。


「いったー!」


「由季ー。あんたいつまでボーっとしてんのよ。」


犯人は、同じ部の友達、詩音であった。


「ちょっと詩音!だからって、思いっきりボールぶつけることないじゃない!」


「あら、あっちの世界に旅立ってたあんたには、ちょうどいい刺激だったんじゃない?さ、ごちゃごちゃ言ってないで、練習続けるわよー。」


「もーっ。分かったわよー。」


私は、自分の世界に旅立っていた自覚が多分にあったため、あまり強く反論もできず、とぼとぼとテニスコートに戻った。


***


「ふーっ。つっかれたー。」


「何がつっかれたー、よ。長い間ボーっとしてた癖に。ねえ聞いてよ咲良ー。由季、また彼のこと見ながら旅立ってたのよー。」


「懲りないねー由季ちゃんは。瞬くん、だっけ?彼のどこがそんなに好きなのー?」


「足が速いところ、かなあ。」


彼の魅力を聞かれたとき、私は決まってそう答える。正直、もはや私はなぜ彼のことが好きなのかわからなくなっていた。とにかく好きだから好き、としか言いようがないのだ。しかし、そんな答えが求められていないのは百も承知なので、私は私の想いの原点を挙げるのだ。


「ふふふ。出た出た、女子小学生。もっとあるでしょー。イケメンとか、優しいとかー。」


「そうよねえー。で、どうなの?恋の進展のほうは?何回ぐらい、遊んだりしたの?」


詩音の質問は、私の背筋を凍らせた。そう、私と彼は腐りきった腐れ縁。一緒に遊んだことなど、あろうはずもない。私は口をもごもごさせながら、答えをひねり出した。


「……一回もない。。が、学校では、よく喋るんだけどねー……。」


答えの後に申し訳程度に付け足した言葉は、私を守る盾になどならなかった。私は二人から、容赦ない口撃をあびせられることになる。


「えええ!一回もないのー!?純情だねえー!なにそれ、プラトニック・ラブってやつー?プラトニックなラブなのかなー?かわいー!」


「あはは、詩音ちゃん、それ今日のテストで出たやつだよねー。吸収が速いねえ。でも本当にそうだよ。いくら由季ちゃんがピュアだからって、女子小学生の恋のままじゃ、あっという間に高校も終わっちゃうよー。」


ぐふっ。

ただただ煽ることしか考えてない詩音の言葉はあまり効かない。問題は咲良のほうだ。このままじゃいけないということは、自分が一番わかっている。だからこそ、そこをストレートにつつかれるのが一番痛いのだ。そしてその言葉が、おそらく優しさからきているであろうことがより私を傷つける。


「うううう……。」


「あちゃー。ちょっといじめすぎちゃったか―。飴ちゃんあげないとねー。由季、ちょっと後ろ見てみなさい。」


詩音は顎で方向を示す。その方向は男子テニス部のコート。私がさっきボーっと眺めていた場所だ。その場所が飴ちゃん?どういうことなのだろうと思いながら、私は素直に振り返った。


「え……!?」


私は思わず目を見開いた。そこには、たった一人で片づけを行っている彼の姿があった。まるで孤島に独り取り残された人のように、ぽつりとたたずんでいた。


「いじめられてんだかなんだか知らないけど、とにかく、あれはチャンスよ!由季、行ってきなさい!」


「ちょっ!?なな何言ってんのよ!大体、行って何すんのよー!?」


「そんなの言わなくても分かるでしょー。手伝ってあげるに決まってんでしょ。とっかかりはこういうところからなんだから、無下にするもんじゃないわよ。それからー……」


「そ、それからー?」


「プラトニック少佐!お前に任務を与える!彼との間に、デートの約束を取り付けてこい!!」


「え、ええええええ!?」


私の脳は怒涛の展開にショート寸前だった。プラトニック少佐とかいう、あまりにもあんまりな呼び名にツッコむ余裕など、私には残されていなかったのだ。


「で、でも……。」


「でもじゃないよ少佐!私は詩音ちゃんの提案、いいと思う。そろそろ多少強引にでも事を進めないと。いつまでも小学生の恋じゃだめなんだよ。大人にならないと!期末テストを終えた今が、最大最高のチャンスなんだよ!」


「咲良まで……。」


詩音の提案に咲良まで乗ってきてしまった。私は退路を断たれたような気分だった。無論、咲良がふざけた呼び名を引き継いでいることにツッコむ余裕など、私にはなかった。


「ささ、善は急げっていうでしょ!行った行った!」


詩音は私を、柵と柵を隔てる扉の前に押し出そうとする。私はもっともらしいことを言いながら、それに必死で抗う。


「ま、まだこっちの片づけが終わってないじゃない。それなのにあっちの手伝いなんて……」


「ごちゃごちゃうっさいわねー。こっちの片づけなんて、あとはボールをかごに入れてくだけよ。そんなの私たちでやっとくわよ。」


「そうだよ由季ちゃん。こっちは私たちに任せて。由季ちゃんは、どうやってデートに誘うかだけ、考えてればいいよ。」


咲良の言葉で、私は改めて自分の置かれている状況を認識させられた。もう、私は逃げられないのだ。そう思うと、途端に心臓が弾みだす。どうしよう、何だか顔も熱くなってきた。


「ふふっ、顔真っ赤にしちゃって。あんた、可愛いとこあんじゃない。しっかり自信もっていきなさい。」


「うんうん。由季ちゃんならきっと大丈夫だよ。あと必要なのは勇気だけ。」


二人は私を励ましてくれているようだが、何も頭に入ってこない。二人の言葉は私の耳を通り抜けていくだけだ。さっきまで必死に抵抗していた私の体も力を失い、悲しきかな、彼女らに明け渡された。私はするすると運ばれて行き、あっという間に扉の目の前まで来てしまった。


「じゃあ、頑張んなさいよ。」


「由季ちゃん。頑張ってね。」


「は、はひ……。頑張ります……。」


なんとも情けない返事を最後に、私は扉の向こうに放り込まれた。


私は、飢えたライオンの檻に放り込まれたような気分だった。心拍数は上がってくのに、血の気は引いていくような感覚。


時々彼にちょっかいをかける私が、今回ここまで緊張している訳、それは非常にシンプルだ。”準備ができていない”、ただこれだけである。いつも私は彼に話しかける前、念入りなシミュレーションを脳内で行っている。こうやって彼に話しかけよう、するとこう返ってくるだろうから、こう返そう、といった感じのシミュレーションだ。


そうだ、私はチキン野郎だ。チキンがライオンに立ち向かうためには、やはり事前準備という名の鎧で身を着飾る他あるまい。だが今回はどうだ。身包みを剝がされたチキンが、上官二人から超高難易度の任務を課せられたうえで、この檻の中へ派遣されているのだ。震えの一つや二つくらい、くるに決まっている。


しかし、私を侮るなかれ。私は強い女だ。私が何年もかけて彼の中に積み上げた”気安い女の子”というイメージを、こんなところで崩してたまるか。当たって砕けろなんかじゃない、むしろ向こうを砕いてやる。追い詰められたチキンの強さをみせてやる!


私は強い決意を胸に、何事もなかったかのように彼に話しかけた。


「おーい、瞬。何やってんのー?」


「あーん?あー、篠宮か。見りゃ分かんだろ。片づけやってんだよ。」


「何よその言い草ー!私が聞きたいのは、アンタが一人で片づけやってる理由よ!」


「ああ、俺が一人の理由か。……罰ゲームだよ。」


「罰ゲーム?」


「部の先輩の悪ノリだよ。今回の期末の合計点数が一番低い奴が夏休みまで、片づけを全部やらされる、っていうな。……後は言わなくても分かるよな?」


「あはは。それでアンタが負けたってことね。はー、愉快愉快。」


「笑うんじゃねえ!大体、こんなの、俺ら二年が負けるように仕組まれてんだよ!一年の奴らのテストなんて、まだまだ中学の延長線上、先輩たちは受験に向けて、本腰入れ始める頃だろ。俺は悪くねえよ!」


「おバカな瞬君に教えてあげよう。そういうのを”言い訳”っていうのよ~。」


よしよし、私はいつも通りだ。少し上から目線で軽口を叩く。これが私の基本スタイルなのだ。

彼の口から出た”受験”という言葉が私の胸にチクリと刺さるが、この程度では動じていられない。私は、大きな使命を背負った戦士なのだから。


「はー。うっせえなあ。で、何しに来たんだよ。お前らの片づけもまだ終わってねえじゃねえか。まさか俺をからかうためだけにここに来た、なんてことはねえよな?」


来た。いきなり来てしまった。詩音からの任務の一つ、彼を手伝う、につながる関門が。言おう、言わなければならない。手伝ってあげる、と。こんなところで躓いているヒマはないのだ。


私は足元に転がっていたボールをかごに投げ入れ、高らかに宣言した。


「片づけ、手伝ってあげる。……アンタ、どんくさそうだし。」


「間に合ってるよ。」


……即答じゃないか。なぜなのだ、詩音よ。手伝いはいいとっかかりじゃなかったのか。何の手ごたえもないぞ。


彼の一言はまるで磨かれた大理石の絶壁のように、私の前に立ちはだかった。……私はそのあまりに無機質な壁を、ただ黙って見上げていた。


だが、こんなもので私はくじけなかった。私は黙々と、周りのボールをかごに放り込みつづける。

すると彼は残酷にも、さらなる追い打ちを私に仕掛けた。


「いいって。中途半端に二人でやるより、一人のほうがスムーズにできんだよ。それに、俺はちゃっちゃと終わらせて、俺を置いて部室に行きやがった薄情者どもに追いつかなきゃなんねーんだよ。さっさとしなきゃ、マック混んじまうだろー。」


マックが混むだと?そんなの少し位変わらないだろう。彼にとって私は、放課後のマクドナルドにも満たない、矮小な存在だというのか?


壁の上から射られた矢は、的確に私の胸を打ちぬいた。だが私は、尚もこの壁を登ろうとすることをやめなかった。


「何よ!人がせっかく親切にしてるのにー!人の善意は、素直に受け取っておくものよ!」


「へいへい、悪かったですねー。……とにかく、俺はお前と話してる時間も惜しいんだよ。で、お前の要件はそれだけか?」


ああ無情。努力は必ず報われるわけではないのだ。世の中には、努力では超えられない壁、というものが無数に存在するのだ。


私はあっという間に追い詰められてしまった。たった一枚の壁に阻まれ、第一の関門さえ超えられなかった私が、それよりはるかに堅牢な門を超えられるはずがない。だが、ここで怖気づいてしまえば、そこでお話はおしまいだ。二人の上官が与えてくださった好機、みすみす手放すわけにはいかない。


「あ、あと!もう一つ話があるん…だけど。」


「ほう。じゃ、手短に頼むぜ。」


言え、言ってしまえ!私も恋する少女の端くれ。当たって砕けるくらいの勇気なら、ある!


「あ、明日!デー…古着でも買いに行かない?」


言った。とうとう言ってしまった。直接的には言えなかったが、それでも私にとっては大きすぎる一歩だ。心のつっかえが一つとれたような気分。もう私に悔いはない。さあ、一思いにやってくれ。


「おー、古着か。」


……あれ?


すぐにとどめを刺してこない彼に、私は困惑していた。

その手に持っている矢で私の胸をもう一度貫けば、それで全て終わるはずなのに。彼は何を考えているんだ?


「にしても、なんで俺となんだ?そんなの、友達の奴らと行きゃいいじゃねえか。」


彼は私を試しているのか?それとも、散々いたぶってからとどめを刺そうとしているのか?......分からない。分からないぞ。

......はあ、でもここで『きみのことが好きだから』なんて言ってしまえれば、どんなに楽なのだろう。彼の意図は分からないが、これは気持ちを伝えるいい機会なのに。


だが私はやはりチキン。機会を逃すスペシャリストだ。

私には、それっぽい理由をひねり出すことが精一杯だった。


「い、いつも女の子とばっか選んでたら、女子ウケのいい服だらけになっちゃうじゃない。たまには男子ウケも…気にしたいのよ……。」


「ほーう!お前が男子ウケ、ねえ。お前も男によく見られたい、とか思うんだなー。」


『きみによく見られたいだけ!』なんて、力強く言い切ってしまいたい。けれど、私の口は、私の心を正直に表してはくれないのだ。

……勘違いされたらどうしよう。最初から私には、きみしか見えていないのに。


「ま、良いんじゃねえか。」


「……え?」


何が良いんだ?私の心意気か?男子ウケを気にすることがか?彼の心の内が読めない。私は、迷宮に迷い込んでしまったのかもしれない。


「行こうぜ、買いに。俺もちょうど新しい服、欲しかったとこだしな。」


「……ひええ!?い、いいの?」


嘘だろ。夢じゃないのか。彼の”良い”が”古着を買いに行くこと”に係っているなんて、考えもしなかった。私の脳回路はとっくにオーバーヒートしていた。しかし、変に冷静だったりもする。とにかくふわふわしていることだけは確かだ。心ここにあらず、という言葉がこんなに似合う女は、日本中どこを探しても、ここにしかいないだろう。


「なんでお前がそんなに驚いてんだよ。古着買いに行くだけだろ?」


きみにとっては”腐れ縁”の女の子と服を買いに行く”だけ”でも、私にとっては”大好きな”男の子とデートをする、という超一大イベントなのだ。それはもう、”だけ”なんて安い言葉ではまとめようもない出来事なのだ。でも、それを悟られるのは恥ずかしいので、私もあくまで”だけ”のふりをする。


「な、なんでもないわよ。そうよ、古着を買うだけよ。」


「そうか。じゃ、待ち合わせとかはどこにする?ここでパパっと決めちゃおうぜ。」


「そうね、待ち合わせね。待ち合わせ待ち合わせ……」


私はすでに限界を突破していた。まともに脳を動かすことなどできなかった。私に残された武器は、”考えるふり”という、なんとも儚く脆いものだけだった。


「まどろっこしいやつだなあ。古着屋っつったらあそこらへんだから……決めた!〇〇駅に12時集合でいいか?」


「〇〇駅に12時集合……〇〇駅…12時……それでいいわよ。」


もちろん私は何も考えていない。ただひたすらオウム返しをしているだけだ。


「じゃー決まりだな。……うし。片づけも終わりっと。篠宮、古着選びに付き合ってやる代わりだ、このかごたち、倉庫まで持ってっといてくれ。」


「……え?な、なんですって?」


私は相当惚けていたのだろう。先ほどまで私たちを取り囲んでいた部活動の残骸は、影も形もなくなり、そこに影を落とすものは、たくさんのボールが積まれたかご2つのみになっていた。恋は盲目とはよく言ったものだ。私の瞳は、いつの間にか彼だけを捉えていたようだった。


「だーかーら、このかご二つをいつもの倉庫まで持ってってくれって言ったんだよ。俺は今、一秒の時間すら惜しいからな。」


「ちょ、ちょっと待ってよ!そんなの自分で…」


「じゃ!今日は手伝い、ありがとな。助かったぜ。明日、絶対遅れんじゃねーぞー!」


私の次の言葉を待たず、彼は捨て台詞とともに走り去っていった。私は、その後姿を見ながら呟いた。


「ほんとに勝手な奴なんだから……。」


言葉とは裏腹、私の目は輝いていた。私は彼の感謝の言葉を、かみしめていた。


***


「ふー。あのかご二つは、ちょっと応えたなあ。」


私は彼の言いつけ通り、かごを片づけ終え、独り正門を抜けた。詩音と咲良はもう帰っていた。

当然だろう、二人は私の誘いが成功すると信じていた。そして、デートが決まった男女は、その予定とかをあーだこーだ話しながら、仲良く帰るものだろう。二人は空気を読んでくれたのだ。それなのに、あろうことかあの男は、私より友達とのマクドナルドを選んだのだ。なんて乙女心のわからない男なんだ。


「なんであんなやつのこと、こんなに好きなんだろ……。」


好きになった方が負け、という言葉があるが、本当にその通りだなとつくづく思う。


恋は不平等だ。不釣り合いだ。好きになった方は、相手の一挙手一投足に心を揺さぶられる。脳のリソースも奪われる。どうやって相手の笑顔を見るか。そんなことばかり考えさせられる。そうして相手にいろんな角度からボールを投げてみるのだ。


しかし相手の方はどうだ。そのボールを適当に受け取り、また適当な方向に投げるだけ。まともに受け取らない時だってある。こちら側とのキャッチボールなど、続こうが続かなかろうがどうでもよいのだ。そうはいかない私は、必死にそのボールを取り、また彼のもとへ返す。それはキャッチボールというよりも、主人を愛するワンコとご主人様のボール遊びと言った方が適切かもしれない。


とにかく、振り回されるのはいつもこちら側である。

全国の恋する少年少女よ、私はあなた方をいつでも応援します。だから皆様、私にこの過酷な道行を歩き抜く力をください。道半ばで、屍になり果てぬように……。


独りそんなことを考えながら歩く私、だがその足取りは軽い。周りの目がなければスキップを始めてしまいそうなほどに。


そんな調子で歩き続ける私は、ふと空を見上げた。


夏が始まり日の長くなった空は、漸くオレンジ色に変わっていた。


「綺麗…」


私は思わず言葉を漏らした。


いつも見上げることなんてない。見上げたとしても、大した感情は抱かない。そんな空が、今日はこんなにも美しく感じる。これは誰のせいだ?


……きっと空のせいだ。空が今日だけ、本気を出したんだ。


***


「ただいまー。」


「お帰り。どうせ汗だくでしょー、早くシャワー浴びちゃいなさい。」


「はーい。」


母の言うとおりだ。鬼の詩音大佐にしごかれまくったせいで、もう身体がべとべとだ。それに、今日は体温調節のためではない汗もたくさん流れた。早くシャワーでスッキリしてしまうのがいいな。


***


「はーっ、さっぱりしたー。」


これほど気持ちいいシャワーは久しぶりだった。汗と一緒に、様々な雑念も洗い流されたような気分だ。


「さっさと保湿しなきゃねー。」


鼻歌交じりでいつもの化粧水に手を伸ばそうとしたその時、あるものが私の目に入る。


「うるおい…フェイスパック……。」


そう、それは母が私に、絶対に使うなと言っていたお高めのフェイスパックだったのだ。


「使っちゃおうかな…。一枚くらいなら......バレないよね?」


私は迷っていた。そりゃ私だって、一日フェイスパックを使ったくらいで肌の質感が良くなるなんて思っちゃいない。でも、私は乙女なのだ。できるだけ一番いい状態の私で、彼の前に現れたいのだ。そんな気持ちを抱くのは、悪いことなのだろうか。


「ええい、ままよ!」


私は盗みを働いた。

ユダが銀貨30枚ぽっちのためにキリストを裏切ったのなら、私はフェイスパックたった1枚のために、母を裏切ったのだ。私はユダ以上に愚かな人間なのかもしれない。

だが神よ、私を許したまえ。私は恋と言う尊き免罪符のもと、行動しているのだ。


「ぷっ、あはは。」


私は、パックを貼り付け白塗りになった顔を見て笑った。

その顔は、まるで愉快な道化師のような滑稽さを漂わせていた。

そうさ、私はピエロ。恋の微熱に浮かされた、哀れで可笑しなピエロなのだ。


「えーっと、このまま10分間待ってから……」


「由季ー!まだ上がらないのー?」


遠くから聞こえる母の声。私の心臓は、生きのいい飛魚のように跳ね上がった。


「ひゃ、ひゃい!な、何ー?お母さん?」


「何じゃないわよー!もうご飯できるわよー!とっとと上がってきなさーい!」


「わ、分かったー!もうすぐ上がるから、ちょっと待ってて―!」


本当に驚いた。母は罪を見通す目でも持っているのかと、一瞬疑ってしまった自分が恥ずかしかった。


「もーっ。早くしなさーい!」


ともかく、このことが母にばれてしまえば、首つりの刑は免れない。早めに切り上げて晩餐に急がなければ、私の命はないも同じだ。


***


「「「いただきまーす。」」」


弟、母と3人で食卓を囲む。父は今日は仕事で、帰りが遅くなるらしい。


私は、ホカホカと湯気を上げながら輝く親子丼を口に運んだ。


「うーん!おいしい!」


芳醇な香りが鼻を抜け、やさしさが私を包み込む。

おお、神よ。あなたはこんな私にも、安息の時を授けてくれるのですね。


「あら、よかった。久しぶりだったから、うまくできるか心配だったのよー。」


私は与えられた安息に感謝しつつ、目の前のそれを口に運び続ける。

その最中、ふと私は母に伝えねばならないことを思い出し、口を開いた。


「お母さん、私、明日は晩御飯いらない。」


そう、明日は彼とのデートだ。それに向けて、不安要素は全て断っておかねばならない。


もちろん、明日彼と晩御飯を食べられる確証なんてない。古着を選び次第即解散!なんて言う味気ない結末が待っている可能性も十二分にある。……私よりもマックを選んだ男だ、その可能性のほうが高いとまで言えるかもしれない。されど私は日本の女。その時は潔く、作られるはずだった母の手料理とともに心中するのみだ。この親子丼を、最後の晩餐として。


「あら、そうなの。何?お友達?」


「う、うん。町のほうで古着でも買いに行こうかなって。」


「誰と行くの?詩音ちゃん?咲良ちゃん?」


「そ、そうそう。二人が新しい服欲しいって言うからさ……。」


しまった。

無駄に高尚なことばかり考えていたせいで、いい理由の一つも考えていなかった。私は母を欺くという罪を重ねたうえ、それに二人を巻き込んでしまった。

詩音、咲良、どうしようもない私をどうか許してほしい。


「分かったわー。気を付けて行ってらっしゃいねえ。」


「うん、ありがとうお母さん……。」


「……………。」


「……………。」


その後、食卓にしばしの沈黙が訪れる。

それはいつもと変わらない、何気ないものだったのかもしれない。しかし、罪の上に罪を塗り重ねていた私にとってそれは、やけに息苦しいものだった。


その沈黙を破ったのは、今まで一心にどんぶりをかき込んでいたわが弟、雄也だった。

雄也は、邪悪な笑みを浮かべながらこう言った。


「姉ちゃん。嘘、ついてんだろ。」


「ええ!?な、何がよ!」


突然の攻撃に、背筋が凍り付く。

ヤツは沈黙から私を救いに来た勇者ではなかった。私をさらなる暗闇に突き落とそうとする、冷血な魔王であったのだ。


「男と行くんだろ。……瞬、だったっけ?どうせそいつと行くとかなんじゃねえのー?」


「まあ!瞬くん!懐かしいわねえ。由季、ちっちゃいころは何かにつけて瞬くんが、瞬くんがって……」


「ちょ、ちょっとやめてよお母さん!違うってばあ!もう雄也!適当なこと言うのもたいがいにして!」


「へへへー。分かりやすすぎんだよ、姉ちゃんはさあ。」


私は弟を見くびっていた。油断ならないやつとは思っていたが、まさかここまでとは。私の表情、仕草、口数、口調などの少ないヒントから、答えにたどり着いてしまったとでも言うのか。全く、とんだ名探偵だ。


全てを見透かされた者の抵抗ほど見苦しいものはない。私は心の底でそれを理解していたためか怒るに怒りきれず、食事が終わるまで延々と弟に弄ばれ続けた。


***


「許さない……許さないんだから…。」


私は半泣きになりながら、なんとか部屋に戻ってきた。あいつには人の心がないのか?無抵抗な女子を一方的になぶり続けるなんて、日本男児の風上にも置けないヤツだ。

だが私はまだ倒れられない。今日中に終わらせなければならない大仕事が控えているからだ。


私は弱った自分を奮い立たせるように、勢いよくクローゼットを開けた。

私だけのファッションショーの幕開けである。


鏡という名の観客に向けて、様々な姿の私を見せつける。


「うーん、きれいめな方がイメージ通りかなあ。でも、カジュアルな方があいつは好きな気がするし……」


「パンツよりはスカートのほうがいいよねえ……ウケも考えたらさあ…」


「バッグはどうしようかな…私はこっちのほうが好きなんだけど……あいつ子供だからなあ…わかりやすい方がいいかなあ……」


これほど覇気のないファッションショーは、世界中どこを探してもここだけだろう。

自分本位でなく、他人本位で服を選ぶのがこんなに難しいとは。媚びるような真似はしたくないのに、頭の中では彼のことばかりを考えてしまう。この鏡が明日は彼になると思うと、小躍りしたり、ちっぽけな不安に駆られたりせずにはいられないのだ。

かの有名な哲学者、アリストテレスは中庸こそが幸福につながる道だと説いたそうだ。最近学校で習った。…私のことを見たらどう思うだろう。きっとカンカンだろうな。


……そんなこと考えてるヒマはない。早く何を着ていくか決めないと!私は何をやっているんだ!


「靴も何履いていくか決めないと……アクセサリーは何つけていこう……ていうか髪型どうしようかな……いつも通りでいいかな……」


「あああ!!!頭がパンクする!」


***


結局、何も決まらないまま30分が過ぎてしまった。


…まずい、まずいぞ。このままでは、ふんどし一丁で待ち合わせ場所に直行するという奇行に走ってしまう可能性すらある。それほどに、何も決められていないのだ。


追い詰められた私は、ある禁断の術を決行することを決意した。


「雄也に頼ろう……」


わが弟、雄也は高校1年生にして、優れたファッションセンスと口八丁を駆使し、数多の少女をたぶらかしてきた。そして先刻のように、尊ぶべき姉をいじめ倒すこともいとわない不道徳な男だ。そんなヤツを頼るなど、唾棄すべき愚行の極みなのであるが、如何せん私には時間も余裕もない。魔王の手も借りたい状況とは、まさに今のことだ。


私は、まだ弟がいるであろうリビングに向かった。一人の名探偵にすべてを暴かれ、逃げるようにその場を後にした私が、再びこの食卓のあるリビングに戻ってくるとは。”犯人は必ず現場に戻る”とはよく言ったものだ。例に漏れず、この私も数奇な運命の奴隷だったのだろうか。


「ちょっと雄也、頼みがあるから部屋に来なさい。」


「なんだよ姉ちゃん。だりいから後にしてくれよー。」


嫌がる弟を連行し、強引に部屋に引きずり込む。


開きっぱなしのクローゼット、散乱した服や出しっぱなしのアクセサリーを見た弟は、何かに合点した様子だった。そして、またも邪悪な笑みを浮かべ言った。


「なるほど……。ポテチ3袋な。」


本当、つくづく現金でかわいげのない弟だ。姉ちゃんはお前をそんな風に育てた覚えはないぞ。

だが四の五の言ってはいられない。私は対価を受け入れ、悪魔との取引を成立させた。


***


憎たらしい悪魔だが、その腕は確かなものだった。ヤツはあっという間に醜いアヒルの子を、可憐な白鳥へと仕立て上げたのだ。

彼の才覚は、口の方面にも遺憾なく発揮された。彼の巧みな美辞麗句に乗せられ、私はすっかりその気にさせられてしまっていた。


「ふふふー。どうだ弟よー。かわいいだろー。跪いて首を垂れるのだー。」


「へいへい。なかなかいいんじゃねーの。てか姉ちゃん、時計見てみろよ。」


弟に従い、時計を見る。時計の針は、もう十一時を回っていた。

長いようで短い、けれど一生忘れられないだろう一日は、もう終わりを告げようとしていた。


「どうせ朝もバタバタすんだろうし、そろそろ寝たほうがいいんじゃねーか。せっかく準備したのに、パンパンの顔でソイツに会うことになっちまうぜ。」


こう言うさり気ない気遣いに、何人の女子が騙されてしまったのだろう。こんなヤツに引っかかってしまった女子たちに、私は心から哀悼の意を捧げたいと思う。


「…ええ、そうね。雄也、助かったわ。ありがとう。」


「気にすんなよ。それよりポテチ、忘れんじゃねえぞ。」


本当にかわいくないヤツだ。でも今日、今日だけは、そんなヤツに騙されておいてやる。姉ちゃんのやさしさだ、感謝するがいい。


***


歯磨きを済ませ、ベッドにもぐりこんだ私は、本日最後の課題に直面する。


「あっつー。クーラー、つけて寝よっかなー…。」


夜が深くなれば涼しくなるだろうと思い、扇風機で何とかしのいでいたが、今夜はいつもと違うようだ。熱帯夜のせいか、いやな暑さが私の身体にまとわりついていた。


「でも、冷えちゃうかもだし……。」


『クーラーつけたまま寝たら、風邪ひくよ!お腹壊すよ!』、今までおばあちゃんが私に口酸っぱく言ってきた言葉だ。そんな言葉がふと、脳裏をよぎる。…いつもはそんなことなんてない。暑いと思ったらクーラーをつけて、さわやかな朝を迎える。これが私の日常なのだ。


しかし、やはり今夜は違ったのだ。今まで気にも留めなかった、むしろ前時代的だとさえ思っていたそんな言葉がリモコンに伸びかかっていた私の手を縛る。

クーラーが原因で風邪を引いたことなんてない。強いて言えば少し喉が痛くなることがあったくらいだ。だから今夜もいつも通りにすればいい。そして、いつも通りの朝を迎えればよいはずなのだ。


私が恋の熱に浮かされた少女だと言うことは誰の目から見ても明らかだ。私はそれを素直に認めよう。しかし、この事柄に関してだけはそれを認めたくはなかった。私が、体調を崩さないために、無事に彼に会うためだけに、いつもの日常まで歪めようとしていると言うこの事実は私に妙な気恥ずかしさを与えるのだ。

私は私のチンケなプライドのために、是非ともクーラーをつけて寝なければならなかった。




私は結局、クーラーをつけずに眠りについた。


***


「ふわぁー。ねむぅ。」


まとわりつく暑さと妙な高揚感は、容易に私を明日へ引き渡そうとしなかった。私は案の定、あまり眠れなかった。


「顔、浮腫んじゃってないかなあ…。」


昨日の弟の言葉を思い出しながら、私は鏡をのぞき込む。


よかった。少し浮腫んではいるが、及第点だろう。この位なら誤魔化しがきく。

……そんなことよりも、私は鏡に映るこの女の表情に目を引かれた。


「なんか笑ってるし。」


緩んだ表情筋、綻んだ口元。俗に言う”ニヤける”、という奴だろう。私は、少しの気色悪さを感じながらそれをしばらく眺めていた。まあ、幸せそうで何よりだ。


***


「リップ、どっちにしようかな…。」


「ああっ!髪の巻き方間違えた!」


「やばっ!おーい!雄也ー!……もう部活行ってるか…。」


浮かれ気分の私は、息をするようにミスを連発しながら、自らの身を着飾っていった。


準備を終えた私は玄関の扉を開けながら、誰もいない部屋に向かって叫んだ。


「行ってきまーす!!」


いってらっしゃいと背中を、押された気がした。


***


「次はー××駅、××駅。」


待ち合わせ場所が近づくにつれ、私の心臓はうるさくなっていく。呼吸は乱れ、思考のまとまりもなくなってくる。このままでは、目的地に着くのが先か、私の命が尽きるのが先かわからない。私は、イヤホンという名の生命維持装置に身をゆだねることに決め、それを丁寧に装着した。


<待ちに待った土曜日 映画に誘ってみたら 二つ返事の君と 手をつなぎ街歩いた>


<それじゃバイバイ またバイバイ 繰り返しても帰れない 離したくても離せない手だ>


<君が居なくても こちらは元気でいられるよ 言い聞かせていても 涙が出るよ>


<君の選んだ人は とても優しい人なんだろな 遠くに行っても そう どうか元気で>


[Bye Bye]という曲だ。お母さんが好きで、よく私に聴かせてくれた。曲の前半が今の自分と重なっているから、ふいに聴きたくなったんだと思う。でもこの曲は所謂失恋ソングだ。後半の歌詞が無防備な今の私の心をつつき、私は思わず涙ぐむ。


「あはは…。」


冷静に考えると私はだいぶ愉快な女だなと思い、笑みがこぼれる。愛し合ってもない、それどころかデートすら済ませてないのに、その果ての失恋に心を痛めるなんていい身分なものだ。

……縁起でもないな。もういいや。


私は、悪い縁から逃れるためにイヤホンを外した。


「次はー△△駅、△△駅。」


「ああっ!」


しまった!乗り過ごした!


***


「ふぅー。……20分前か。」


電車の乗り過ごしというアクシデントもあったのに、こんなに早くついてしまうなんて。


私は恥ずかしさを誤魔化すように、素早く彼へのメッセージを打ち込んだ。

勿論LINEなどという高尚なものは持っていないため、インスタのDMを通じて送信する。


(遅い!銅像の下にいるから!上は白シャツ、下は黒ね!)


我ながら勝手なメッセージだ。自分から早めに来ておいて、相手に文句を言うなんて。

こんな私を嫌わないでほしい。力も勇気もない私は、そう祈ることしかできない。


「何して待ってよう……。」


時計がこんなにも進まないものだとは。とりあえずいつものようにスマホと睨めっこしてみるが、どんな文字も入ってこない。すぐにそれをポケットにしまい、意味もなく腕を組んでみたり、そこら辺を歩いてみたりする。

そして何度もスマホをポケットから取り出し、変わらない時計を見るたびに私は、壊れた機械のように毎回結果の変わるシミュレーションを繰り返すのだ。


「最初は何の話しようかな……あの話をしたらあいつは何ていうかな……。」


「最初はきっとお昼ごはんだよね。どこに行こうかな。……あいつ食べてきたりしてないよね…?」


「どうやって引き留めよう……。買った服に合うアクセが欲しいとか言って、そのままウィンドウショッピングに持ち込むのがいいかな……。どうしよう、本当に古着選びだけで終わっちゃったら……。いいや、強気よ強気……」


よく分からないことをぶつぶつ呟きながら辺りをうろつき回る女。周りから見れば不審極まりない。だが今の私に周りの目なんてものは、ないも同じだった。もはや私の世界には、彼と私以外の存在は認められなかった。


開けない夜はない、なんだかんだ言っても地球は回っている。気づけばスマホの時計は5分前、11時55分を示していた。止まらなくなる手汗をスカートで拭いていた時、突然私の手は人肌に包まれた。


「え……!?」


心臓は一瞬動きを止める。その後、その分を取り返すようにたくさんの血を身体に送り始める。私は倒れてしまいそうになりながらも意識をつなぎ留め、何とか顔を上げた。




そこに私の見たかった景色は、広がっていなかった。


「ひっ……!!」


私の手を握っていたのは彼ではなかった。


ワックスでベタベタの髪、少し曇った眼鏡、剃り残しの目立つ髭、しわの付いたチェックシャツ、30代後半だろうか?妙な幼さを漂わせたその男は、漏れ出した私の声に呼応するように口を開いた。


「あ、あんまり叫んだりしないでね……。これ、あるから……。」


男はおもむろに視線を落とした。その先には、少し錆びたカッターナイフが握りこまれていた。


そのやけに現実味を帯びた刃を見た私は、長くて短い夢の終わりを、はっきりと自覚した。



男は私の手を引いてどこかに歩き始めた。

そして、私はどこまでもおめでたい女だった。恐怖で埋め尽くされた頭で考えていたことは、やはり彼のことだった。怖くて仕方ないが、彼だけは巻き込まないようにしないといけない……。


「待ち合わせしている人がいるの……。心配かけたくないから、連絡だけはさせて……。」


「う、うん。分かったよ。……警察とかは駄目だからね。」


弱気でオドオドしているのに、行動が全く伴っていない。そのアンバランスさが恐ろしくてたまらない。

……はぁ、こんなギリギリでやっぱナシ、なんてドタキャンもいいところだ。絶対嫌われちゃうだろうな。


支離滅裂な思考を巡らせながら、彼とのトークルームを開く。後は断りのメッセージを送ればいい。それで全て終わる。もう私は恋に苦しむ必要もなくなる。彼に迷惑がかかる心配もなくなる。全部丸く収まるのだ。私は震える手で丁寧にメッセージを打ちこみ、送信した。


(助けて。)


私はどこまで愚かなのだ。今更こんな願いが叶うわけないだろう。彼を無駄に心配させてしまうだけの、無意味にも程があるメッセージ。私は私が憎い。この世界の誰よりも。

私は奥歯をぎりぎりと鳴らしながら、再び男に身を委ねた。


非現実で舗装された現実。そんな道行を進む中、私は好きな悪役の名言を思い出していた。


『人生のツケというやつは最も自分にとって苦しい時に必ず回ってくるものらしい』


……大嘘じゃないか。私の"人生のツケ"は彼を待っている瞬間、そう、最も自分にとって楽しかった時に回ってきた。だが、"人生のツケ"が必ず回ってくるということに関しては、私は首を縦に振るほかない。


これは私への罰なのだ。彼と距離を縮めるタイミングを何度も逃し、あまつさえ、彼に素直な気持ちで接することもできない。その上で更に彼に迷惑をかけようとする愚劣な私への、罰。


そう考えると、いくらか私の心は安らいだ。突然私の身に降りかかった理不尽に理由をつけることができたからだ。"私への罰"という、立派な理由を。


「ここからちょっと暗くなるよ……。足元気を付けてね。」


「…………。」


男は薄暗い路地裏に私を連れ込んだ。私は心だけでなく、視界からも光を奪われてしまった。私にふさわしい、飛び切り無様な末路だ。笑えて仕方がない。

笑いを必死にこらえる私に、男は余命を宣告した。


「もうすぐ着くよ。あと3分ぐらいかなあ……。絶対誰も来ない空き地があるんだ。そこでさ……。ふふっ。」


不気味に笑う死神、提示された具体的な数字、誰もいない道、太陽すら私を見捨てたという現実。それらは安らかに眠っていた私の心を揺り起こした。


「うっ………。ひっ…く……。」


「泣いてるの?…大丈夫だよ。怖くないからさ……。」


「嫌っ……。嫌……。」


再びこの世に生を受けた恐怖が、私の足に絡みついた。


「大丈夫だから……。ね?ちゃんとついてきてよ。」


「嫌あ!!嫌だああ!!!」


私の叫びは虚空に消えてゆく。

もう、全てが遅すぎたのだ。私の叫びに答えるのは、ゴミを漁るカラスの羽音だけだった。


「う、うるさい!!叫ぶなぁ!!」


繋いでいる男の手に力が入る。どうしよう、怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

怖いよ。


「誰かあ!!助けてよう!!ごめんなさい!ごめんなさい!」


私は誰に謝っているのか分からなかった。この男へだろうか?彼へだろうか?それとも母?神さま?

行き先の定まらぬそんな言葉は、誰の心をも打つことはない。

男はそんな言葉をかき消すように、カッターを振りかざして叫ぶ。


「お、おい!!いい加減にしろ!!じゃないとこれで…………」






「何やってんだ!!そいつの手を放せ!!」


何者かが男の声を遮る。その声の主を知るべく振り返った私の目の前には、私が最も見たくてたまらなかった光景が広がっていた。


「しゅ、瞬!!」


「はあ、はあ。これは間に合ったってやつでいいのか?」


肩で息をしながらそう尋ねる彼。流れる額の汗は、僅かに太陽の光を反射させていた。その光は、私の心を照らすのには十分すぎるものだった。


「なん、で……?」


「あんな連絡が来て、ほっとけるわけねえだろ。……必死だった。周りの人たちに聞きまくって、がむしゃらに走りまくった。そしたら、路地裏に入ってくお前が遠目に見えたんだ。」


流れる汗を拭うこともなく、彼は真剣な目でそう答える。

……ああ、やっぱり私は、彼のことが好きだ。どうしようもなく、好きなんだ。『瞬は足が速くてかっこいい』、そんな思いで私の胸の中はいっぱいになる。巡り巡った私の心は、結局ここに着地する。そうだ、彼はかっこいい。世界中の誰よりも。


「な、何なんだお前!この子の彼氏か!?僕の邪魔するな!さ、刺されたいかあ!?」


「ちげえよ。でも、そいつを傷つけるような真似する奴は、俺が許さねえ!」


男は少し震える手で、再びカッターを振りかざす。対する彼は、静かにこぶしを握りこむ。


何も持っていない彼の姿が、カッターを持っている男の何倍も大きく見えた。

私はこんなにちっぽけな恐怖に支配されていたんだなと、少し悲しくなってしまうほどだった。


男と彼の間をぬるい風が吹き抜けた。瞬間、彼は地面を蹴り男との距離を縮める。一瞬の出来事だった。彼の迷いのないこぶしは、男の顔面を正確に打ち抜いた。


「いぃっ......!」


男は倒れこみ、驚きと恐怖が入り混じったような顔をしながら彼を見上げた。が、凍てつくような冷たさを湛えた彼の瞳に気づき、思わず目を背ける。

二人はまるで、捕食者とその獲物のようだった。雪原の上、追い詰められた兎と狼のごとく、男の命運は彼の手のひらに収められていた。


「ゆる、許して......。」


男は絞り出したような微かな声だけを残して、路地裏深くへ消えていった。彼はそれを追わず、変わらない冷ややかな瞳で眺めるだけだった。

……男はおそらく、私のように勇気の足りない人間だったのだ。カッターを振りかざす勇気はあっても、それを振り下ろす勇気を持ち合わせていなかったのだろう。私がその男をちっぽけに感じたように、瞬は私のことをちっぽけに感じているのだろうか。


安堵と不安がない交ぜになった胸中で、私も男を静かに見送った。


「ふぅ。大丈夫だったか、篠宮。どっか怪我とかしてねえか?」


そう私に尋ねる彼の目は、とても優しくて暖かった。


長い緊張から解き放たれた安心感や、情けない自分を責める気持ち、そんな自分を気遣ってくれる彼への愛おしさ、たくさんの感情が同時に押し寄せてきて、私は再び涙を流しそうになる。恥ずかしくなった私は、咄嗟に思い付いた理由で彼の視線から私を外そうと試みる。


「ありがとう。大丈夫。……でも化粧が崩れちゃった。直すから、ちょっと後ろ向いてて。」


「おいおい、わざわざこんな湿っぽいトコでやんなくていいだろ。恥ずかしいかもしれねえけど、明るいトコじゃねえと自分の顔もそんなに見えねえだろ。」


彼の言うとおりだ。我ながらあまりに不自然な理由である。でも、この期に及んで惨めな姿を彼に見せるわけにはいかない。


「いいから!ごちゃごちゃ言わないの!」


私は無理やり彼を後ろに向かせ、少しの涙を流す。……はあ、こんなの助けられた側の態度じゃないよなあ。惨めな姿は隠せても、彼への気持ちまで隠してしまっては本末転倒だ。


変わらなくては。

私は涙を拭ってそう思った。そうだ、私は変わらなくてはならない。彼は短いメッセージを見ただけで、恥も外聞も捨てて私のもとに走ってくれたんだ。そんな彼のことが好きなら、私は彼に見合う女にならなくてはいけない。いつまでもちっぽけなままじゃ駄目なんだ。


多分今を逃したら、私は一生大人になれない。詩音にも咲良にも雄也にも、顔向け出来なくなってしまう。……大人になるために今できること。何も持たない私が、できること……。


私は静かにこぶしを握りこみ、彼のそばに寄った。まるでくノ一だ、彼は何にも気づいていない。




私はそのまま、彼の頬に口づけをした。


「なっ......!?お、お前ぇ!?」


頬を抑え、慌てる彼。えへへ、彼を乱してやったぞ。いつも乱されてばっかりだからな、お返しだ。


得意になって彼を眺めていたら、彼の顔が赤くなってるように見えた。思わず私の顔まで赤くなる。どうやら、これが今の私の限界みたいだ。


「本当にありがとう。かっこよかったよ。」


触れられなかった恋の輪郭に、触れた気がした。


***



「次はー××駅、××駅。」


あれからあっという間に月日は流れた。半年近く経ったか、もう今は12月だ。外はすっかり肌寒くなり、裸の木々が私たちに年の終わりを告げようとする。


私は今、6度目の彼とのデートに向かっている。


私たちは月1くらいの頻度でデートを重ねていた。さらに、最初のほうは私が無理やり付き合わせるような形だったのだが、なんと4度目以降は全て彼からの誘いだ。私たちのデートは恒例行事へと華麗な進化を遂げたのだ!


……なんて、上っ面の部分だけをまとめると聞こえはいいが、その実私たちのデートはデートと呼べるかも怪しい代物だった。動物園や水族館はもってのほか、テーマパークやカフェに行ったことすら一度もない。行くのはボーリングやラーメン屋、カラオケにゲームセンターとか、野郎が好きな場所ばかりだ。


何なんだ?彼は私を男友達の一人とでも思っているのか?最初の彼の誘いの内容は新しいテニスラケット選びに付き合え、というものだった。前回の誘いの内容は流行のデュエットソングを歌いたいから付き合え、というものだった。今回は特にひどい。新作のスパイダーマンの映画を見に行こう、だ。……なんで恋愛とか流行りの実写化とかじゃなくてアメコミなんだよ。一番ないだろ。


そうか、そうなんだな。私は男友達の一人なんだな。

半ば自暴自棄になった頭で、私は彼に謝罪のLINEを送信する。


(ごめん、5分ぐらい遅れそう。)


私は心のどこかで、彼とのデートを当たり前に思うようになっていたのだろう。彼との待ち合わせなのに遅刻なんてしてしまうことがいい証明だ。とはいえ、私は彼を待たせることに何も感じなくなっているわけではない。むしろ、私は今非常に焦っている。とめどない貧乏ゆすりがいい証明だ。


そうだ、音楽でも聴いて気分を落ち着けよう。

いつかと同じような思考回路で耳にイヤホンを差し込み、私は音の世界へと逃避する。


<千の夜をこえて あなたに伝えたい 伝えなきゃならないことがある>


<愛されたい でも 愛そうとしない その繰り返しの中を彷徨って 僕が見つけた答えは一つ>


<怖くたって 傷ついたって 好きな人には好きって伝えるんだ>


<気持ちを言葉にするのは怖いよ でも 好きな人には好きって伝えるんだ>


〔千の夜をこえて〕、私の父がよく車で流していた曲だ。気づけば私のプレイリストの中にも入り、すっかりお気に入りだ。そしてやっぱり私は、今の自分と重なるような曲を聴きたくなるんだな。


あの時の勇気は臆病風に吹かれて何処へやら。私は彼の”友達”という立場に甘んじていた。私は何よりもその先が欲しいのに。彼を私だけのものに……いや、そんな贅沢は言わない。私を彼だけのものにしてほしい。彼が見る景色を、少しでも私に分けてほしい。何もしなくていいから、ただずっと手をつないでいてほしい。


こんなに好きなのにそれを伝えられないのは、失うのが怖いから。私が全力で投げたボールを、彼が受け取らなかったらどうなる?ボールは遠く、明後日の方向に飛んで行くだろう。私がそれを拾って戻る頃には、彼はいなくなってて、モノクロの世界だけが残ってる。私はそこで、何色でもない声を上げながら泣くのだ。……想像しただけで生きた心地がしなくなる。


友達のままなら、これからも彼と付き合い続けられるかもしれない。たまーに遊んだり、飲みにいったり、そういう距離感で。ずっと変わらない距離で、絶対に本気を出さないキャッチボールを続けるのだ。身体は近く、心は果てしなく遠い、そんなキャッチボールを。

……ふふっ、離れ離れになるより辛いかもな。


答えが分かり切ってる問題を、ぐるぐる回しながら色んな角度で見続ける私。もちろん答えは変わらず、私の前に佇むばかりだ。

冬の寒さと心揺さぶる音楽のせいで、私は完全にセンチになっていた。


でもいい。何のせいでもいいから、私はまた一歩踏み出さなくちゃいけないんだ。彼との関係についてあれこれ考えてみて私は再認識した。私はやっぱり、このままじゃ嫌なんだ。私は、彼に本当の想いを投げつけなくちゃならないんだ。その結果、世界が色を失っても。


未練を断ち切るようにイヤホンを外す私。その耳に、懐かしい声が入ってくる。


「次はー△△駅、△△駅。」


「ああっ!!」


***


超面白かったな、スパイダーマン。やっぱり食わず嫌いなんてするもんじゃない。


映画を見終わり適当な買い物を済ませた私たちは激しい余熱を冷ますため、ファミレスで熾烈な感想戦を繰り広げたのだが、まだまだその熱は行き場を求め彷徨っていた。二次会の提案に二つ返事で答えた私は、次なる会場に向けて歩を進めているところだ。


そしてまさに今、私たちは二次会会場の門をくぐったのである。


「誰も……いねえな。」


「うん……。もう21時だもんね。」


誰もいない夜の公園。その、無性に罪悪感を沸き立たせる会場のベンチで、私たちは話の続きを始める。


「途中のドクターストレンジのとこ、超ヤバくなかったか?3Dとか4Dでもねえのにすげえ飛び出して見えてさ。今のCGって、あそこまでできるんだな。俺すっげえ興奮しちゃったよ。」


「あそこヤバかったねー!正直最初はあんまり興味なかったんだけど、そこら辺から私、もうずっと画面にくぎ付けだったよ。うおお!スパイダーマン頑張れー!って感じでさあ。」


「ははは、そうだよな。あんなの見せられたら誰でもそうなるよな。てかさ、途中のサンドマンが裏切ったとこ、意味わかったか?俺全然わかんなかったんだけど。なんか、めっちゃ急じゃなかったか?」


「そこ、私も気になってたんだよねー。途中までまともだったのに、最後急に敵になっちゃってさあ。私ちょっと笑っちゃったもん。ま、雰囲気ってやつでしょ。」


「やっぱお前も分かってなかったか。なんかちょっとシュールだったよな、あそこ。まあ、そういうもんかあ……。」


「………………。」


「………………。」


「そうだ!そういえば、あんた私が服見てた時、どこいってたのよ。ほら、映画終わってから適当にぶらぶらしてた時。あんたの意見も聞こうと思ってたのに、突然いなくなっちゃうんだから。」


「なんでもいいだろー。……見てえもんがあったんだよ。なあなあ、そんなことよりさ、ポップコーンの味、どっちがうまかった?」


「何よう、気になるじゃない。……ポップコーンの味ぃ?断然塩。ぶっちゃけキャラメルなんていらなかったくらいよ。」


「だよな!圧倒的だったよなあ。俺、次あそこの映画館行くときは塩だけにしよーっと。」


「………………。」


「………………。」


「……てかさ、最近寒くね?暗くなんのも早えしさ。」


「そうねえ。ファミレス行くときはもう外真っ暗だったしね。……今年ももう終わっちゃうんだなって感じよね。」


「そうだよなあ......。早えよなあ。」


「………………。」


「………………。」


冷めない熱はない。私たちの映画熱は冷め切り、会話を静寂が占める割合が徐々に増えていく。そろそろ、二次会もお開きだな。


そう思った途端、自ら発した”今年ももう終わっちゃう”という言葉が綿紐のように絡みつき、私の胸をぎゅうぎゅうと締め付ける。


そうだ、あと何回彼と一緒に遊べるんだ?…もしかしたら、今日でおしまいかもしれない。それに今日のデートだって、彼が誘ってくれなければなかったものじゃないか。もう機会を逃してはいられない。朝の電車でそう決意したのは私じゃないか。


……言わなくちゃ。私の本当の気持ちを。


自然に終わってしまうくらいなら、私の手で終わらせた方がいい。


私は、震える右手を必死に抑えながら、ぐちゃぐちゃになった頭で静寂を切り裂く。


「あのさ、篠宮!!」


「あ、あのさ、瞬!」


驚くべきことに、静寂は、私たち二人によって切り裂かれた。


「あ、あれ?」


予想外の出来事に困惑する私に、彼はまっすぐな眼差しで言う。


「俺から言わせてくれないか?」


「ああっ、い、いいよ。」


彼の方が少し早かったこともあり、状況がまだ呑み込めない私は、彼の言葉に適当に頷いた。


「……お前が服屋に行ってた時、実は俺、お前のためのプレゼントを選んでたんだ。」


「えっ?私に、プレゼント......?」


彼が私にプレゼントだって?一体どういうことなんだ......?

彼の言葉は、まとまらない私の思考をさらに乱してくる。


「ああ、プレゼントだ。お前に似合いそうなアクセサリー。……でさ、やっぱ新鮮な反応がみてえじゃん?目を瞑ったお前に俺がつけて、そこで目開けてリアクション。そんな感じでどうだ?」


「ああ、うん。別に...いいけど。」


「よーし。じゃ、つけてやっから目瞑っててくれ。あ、つけづれえから立ってくれよ。」


彼が私のためにアクセサリーを?どんなものなんだろう?

驚きやら嬉しさやら猜疑心やらが私の心臓を叩き続けていた。私はそれを悟られぬよう、そして、それ以上の感情を心臓に入れぬよう、すぐに立ち上がり、目を閉じた。




次の瞬間だった。私の唇に、何か柔らかいものが触れた。それはとても暖かく、純粋だった。


私の時間は止まった。


止まった時間の中、ただ私の本能が、瞼をこじ開ける。

そこには彼がいた。目を閉じる前と何ら変わりない、いつもの彼が。でも私にはそれがどうしても、いつもと同じには見えなかった。


「….なーんてな。へへへ。あの時のお返しだ。」


彼は無邪気な顔で笑った。とても、綺麗だった。


私は彼の笑顔を見るたび、この世に生まれてきた理由を思い出す。

とても暖かくて優しい笑顔。その熱は、凍った私の時計を動かした。


「な、何を......したの?」


「キスだよ。改めて言うと、恥ずかしいな。......嫌、だったか?」


彼の言葉で徐々に実感が湧いてくる。



私は彼と、キスをしたんだ。


ずっと待ち焦がれていた、願い続けてきた出来事は、あまりにも急にやってきた。私は、淡い白昼夢に触れた。


「嫌じゃ......ないよ......。」


震える声でそう答えた。それが限界だった。


「そうか......。」


彼は一瞬、心底安心したような顔をした後、すぐに真剣な表情になり、言葉を続けた。


「篠宮......いや、由季。俺はお前のことが好きだ。俺と、付き合ってほしい。」


「嘘......。」


私は、彼の言っていることを信じられなかった。


そんなはずがない。彼が私のことを好きになるはずがない。私は、彼に想いも伝えられないほど臆病で、罪を重ねているのに罰からは必死に逃げようとして泣きわめいて、みんなの支えや発破がなきゃデートすらできなかったんだ。そんな愚かで情けない私を、好きになるはずなんてない。こんなにも待ちわびていた言葉を素直に受け取る器もないほど、私は弱い。そんな私と彼が釣り合う訳がない。私は、私は………


肥大化する私の陰を遮るように、彼は答える。


「本当だ。……最初はただの腐れ縁だと思ってた。だけどお前を助けたあの日、お前が俺にキスしたあの時から、全てが変わっていったんだ。今まで何気なく見過ごしてきたお前の仕草全部が気になって、お前の表情全部が愛おしくてたまらなくなっていった。そして、とうとうお前からの誘いを待ちきれなくなって、俺から誘うようになっていった。でも、女心なんて全く分からねえ俺は、俺が好きなとこ、俺が行きてえとこに誘うことしかできなかったんだ。……それで気づいたよ、俺は女心どころか、ずっと近くにいたお前のことすら全然知らなかったんだ。だから、俺はお前をもっと知りたい。お前がいつも何を考えてて、何に心躍って、何が好きで、何が嫌いで……全部知りたいんだ。お前にしか見えてない景色を、俺にも見せてほしいんだ。由季、俺はどうしようもなくお前を好きになっちまったみたいなんだ。だから、俺と付き合ってほしいんだ......。」


沢山の想いが詰まったその言葉たちは、私の心を照らすに十分すぎた。


この半年間で、彼は私の何倍、好きな相手のことを想っていたのだろうか。彼は、私を心の底から愛してくれている。その瞳と声から、それが痛いほど伝わってくる。

……やっぱり彼は足が速いんだ。私が何年もかけて積み上げてきた想いにあっという間に追いついて、私が言おうと思っていた言葉、昔から言いたくても言い出せなかった言葉を、私よりも先に伝えてしまったのだ。そして、その言葉の先まで……

そうだ。私はやっぱり、そんな彼のことが何よりも……


覚悟はとうに決まっていた。だが私は、これまでの世界にはっきりと別れを告げるため、そして少しの未練も残さず私のすべてを彼に明け渡すために、掠れる声で意地悪な問いを投げかけた。


「うん......。じゃあ、これからずっといつまでも、私の手を引っ張ってくれる....?」


彼は一切迷わず、私だけをはっきりと見据えて言った。


「当たり前だろ!離せって言われても絶対離さねえよ!知ってるだろ?俺はやると決めたら最後までやり通す男だ!」


……ずっと彼が私の手を引いてくれるなんて、夢みたいだ。きっと彼は沢山の”彼だけの景色”を、”彼と私だけの景色”にしてくれるんだろう。ああ、私はなんて幸せなんだ。


彼を好きになってから、私は何回彼を目で追いかけたろう。何回彼と目が合ったろう。何回スキップして帰ったろう。何回とぼとぼと帰ったろう。何回胸を躍らせたろう。何回ため息を漏らしたろう。何回笑みをこぼしたろう。何回涙をこぼしたろう。


……そんな日々がこれからも続いていく。そう思うだけで私は、どんな荒野も鼻歌交じりで歩けるような気がしてくるのだ。しかも、きっと涙は嬉し涙に変わり、ため息は感嘆のため息に変わり、とぼとぼと帰る道は、二人で足並みを揃えてゆっくり帰る道に変わって、それが続いていくんだろう。私はそんな嬉しさを、何と形容すればいいんだ。


私は今までの人生で、これほどまでに言葉というものを不自由に感じたことはなかった。”幸せ”とか”嬉しい”なんてチンケな言葉では、目まぐるしく私の脳内を駆け巡る沢山の想いたちを一ミリも、彼に伝えられないのだ。もどかしい、もどかしすぎる。


……今すぐに私の心臓を握りつぶして、その血を一滴残らず彼に飲み干してもらいたい。そうすれば、私の心はいくらかマシになるだろうに。


少しも吐き出せないまま溜まっていく沢山の想いは、やがて涙に変わりあふれ出す。


「うぅ....ありがとう....。私...嬉しいよう......。幸せだよぉ......。私...私......。」


「おいおい、参ったなあ。大丈夫、ちゃんと伝わってるからさ。泣かないでくれよ、由季。」


彼は困ったように笑いながら、私の涙を拭った。


彼の笑顔はやっぱり綺麗だった。それが、答えなんだと思う。


……でも、このまま終わりじゃ駄目だ。結局今日、私は彼にされっぱなしで、彼の勇気と優しさに甘えっぱなしじゃないか。


私は、されっぱなしのままは嫌だ。彼が私にしてくれたように、私も彼に何かをしてあげたい。溢れるこの想いを、もっと彼に伝えたいのだ。……不器用な伝え方でもいい。こんな私の伝え方でも、彼はちゃんと伝わってると言ってくれた。私は怖がらずに、今の自分ができる全力を彼にぶつければ良いのだ。


私は、思い切り彼を抱きしめた。

彼は何も言わず、ただ抱きしめ返してくれた。


そのまま私は、最後の心の扉を開いた。



「瞬、きみのことが好き。優しいきみが好き。かっこいいきみが好き。男らしいきみが好き。一途なきみが好き。無邪気なきみが好き。単純なきみが好き。意外と初心でかわいいきみが好き。表情豊かなきみが好き。笑顔が綺麗なきみが好き。絶対に手を差し伸べてくれるきみが好き。……足の速いきみが、大好き。」



【「Bye Bye--PUFFY」2009 作詞・作曲 志村正彦】【「千の夜をこえて---Aqua Timez」2006 作詞・作曲 太志】より引用を行わせていただきました。


まず、ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。素人である私が初めて書いた拙い文でしたが、楽しんでいただけたのでしたら幸いです。もし私の文章を良いと感じてくださった方がいらっしゃれば、ぜひ感想や評価、ブクマなどをよろしくお願いします。皆様の反応が私の力になります!


ここからはこの作品とは関連のない話なのですが、私は近々「針刺す動く時計、いつまでも変わらない仲間と」というタイトルでファンタジー作品を投稿するつもりなので、もしご興味がありましたら、そちらの方もよろしくお願いします。


改めて、ここまで読んでくださった方々、誠にありがとうございます。またどこかでお会いできることを願っております。それでは。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ