嬉しいのが一番マズい。
ちりん――と、店の扉のベルが鳴って、春の光の中にヴァンツァーが溶けていった。
残されたレオノールは、紙袋を胸に抱えたまま、その場で一度だけ瞬きをした。
今の、何だ。
「探してたんだ」と言って、わざわざ自分に本を渡し、「推理好きの同志として当然だろ?」なんて、あいつが口にした事実が、紙袋の重みになって腕に残っている。
重いわけないのに、妙にずしりとくる。
……いや、重いのは紙袋じゃない。
あいつの態度だ。
笑顔だ。
声だ。
灰色の瞳の温度だ。
(同じ人間に、見えない)
喫茶店の中はいつも通りで、カップの触れ合う音と、店主が豆を挽く音と、穏やかな曲が流れている。
なのに、レオノールだけが場違いな場所に置いていかれたみたいだった。
息を吐いて、席に戻る。
椅子がふわりと沈み、身体の重さがようやく現実に落ちてくる――はずなのに、胸の奥だけが落ち着かないまま暴れている。
鼓動の音が、やけに近い。
膝の上の紙袋を見下ろした瞬間、胸の奥が勝手に熱くなって、ムカついた。
理由がわからない熱じゃない。
わかっている。
わかっているから、余計に腹が立つ。
(……第一王子が、供もつけずに街に出て。俺を探して。本を渡しに来た……どう考えても、おかしい)
常識で殴れば殴るほど、紙袋の『現実』が逃げない。
軽いはずの紙が、妙に腕に食い込む。
中身の重みが、さっきの言葉の重みと繋がっていて――ほどくのが面倒な結び目みたいに、きゅっと締まった。
机に置けばいいのに、置けない。
手放したら、何かが確定してしまう気がして。
認めたくないものに、形を与えてしまう気がして。
レオノールは視線を落としたまま、口元に力を入れた……のに。
唇の端が、わずかに緩んだ。
(――は?)
今、笑いそうになった。
自分でも気づくくらい、ほんの一瞬。
そのほんの一瞬が、最悪に腹立たしい。
(……それなのに、嬉しいって思ってる俺の方がよっぽどおかしいよな)
思考が追いつくより先に、感情が先走っている。
婚約破棄したい側の人間が、こんなところで浮かれてどうする。
……いや、浮かれてるとかじゃない。
もっと厄介なやつだ。
勝手に心臓の方が、妙な方向へ反応している。
レオノールは誤魔化すみたいに、紙袋の口をほんの少しだけ開けた。
装丁の金文字が光を拾って、淡くきらめく。
それがやけに綺麗で――だから余計に、厄介で。
(……覚えてたのかよ。推理小説の新刊……しかも、俺が買えてなかったやつ)
覚えてた。
そんな軽い雑談を。
たった一言を。
舌打ちしたいのに、口元が緩みそうになって、慌てて噛み締める。
(ダメだ。ここで顔が緩んだら、俺はもう終わる)
勘定を済ませて外へ出ると、春風が頬を撫でた。
街の匂いがする。
花屋の甘い香り、パンの焼ける香り、馬車の軋む音、子供の笑い声。
いつもなら心地いい。
なのに今日は、全部が遠い。
屋敷までの道を歩きながら、頭の中で『いつものヴァンツァー』を呼び出してみる。
レオフィアの前では、常に眉間に影。
口を開けば命令。
目を合わせれば威圧。
贈り物は派手で、趣味は悪くて、押しつけがましい――そういう男。
その像が、今日のあいつと全然重ならない。
(供もつけずに街に出て、俺を探して、本を渡して……?)
ありえない。
レオノールの知ってるヴァンツァーなら、絶対こうだ。
「探し出せ」
「連れて来い」
「遅い」
……それで終わり。
なのに、今日のあいつは自分で探した。
それが信じられなくて、腹が立って――同時に、胸が変にくすぐったい。
屋敷の門をくぐり、玄関を抜ける。
外の雑踏が扉の向こうで途切れて、磨かれた床板の静けさだけが戻ってきた。
「お帰りなさいませ、レオノール様」
使用人の声に、レオノールは短く頷く。
紙袋を脇に抱えたままだ。
隠す必要なんて、本来はない。
推理小説を買って帰ること自体は、ここではもう日常に近い。
なのに、今日はさりげなく後ろに隠してしまった。
(……落ち着け。いつも通りに歩け。別に、悪いことしてないし)
なのに、落ち着けない。
抱えているのは紙袋。
中身は推理小説。
ただ、自分が買ったものではない。
それだけだ。
これを渡した男――ヴァンツァーの言葉と、視線と、あの笑顔がチラつく。
(落ち着け。顔に出すな。いつも通りだ)
自分に言い聞かせて廊下を進んだ、その角で。
「レオノール様?」
聞き慣れた声が、ふわりと刺さった。
アリーが、廊下の向こうからこちらへ歩いてくる。
手には布と小さなトレイ。
お茶の準備か、誰かの部屋へ向かう途中か。
アリーはレオノールの顔を見た瞬間、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。
怒っている眉じゃない。
追及する眉でもない……心配の眉だ。
「お帰りなさいませ。……遅くならずに戻られましたね」
「まあな」
いつものやり取り。
そのはずなのに、胸の奥が妙にざわついた。
アリーの視線が、紙袋に一瞬だけ落ちたからだ。
少しだけ柔らかく笑って、いつもの調子で言う。
「何か……いい本は見つかりましたか?」
さらっとした声。
普通の会話。
それが、何故か今日は逆に怖い。
「……うん、まあ、それなりに」
曖昧に答えた瞬間、レオノールは自分の舌を恨んだ。
「それなりに」って何だ。
いつもの自分なら、「うん、いいのがあった」と言って終わる。
なのに今日は、言葉が変なところで引っかかる。
アリーはちょっとだけ不思議そうな表情を浮かべた。
けれど、レオノールの顔を一度見てから、紙袋をもう一度ちらりと見て、穏やかに首を傾げた。
「……お探しの本がまたございませんでしたか?この前、手に入らないと落ち込んでいらしたので」
「別に、なかったわけじゃ」
そう言ってから、レオノールは一拍遅れて気づく。
『別に』の声が、微妙に硬い。
(……最悪。完全に挙動不審だ)
取り繕おうとしたせいで、逆に口が滑った。
「……この間、買い逃した本が――」
言いかけて、止まる。
喉の奥が、きゅっと締まった。
買い逃した本という単語は、確かにレオノール自身の話だ。
けれど今日のそれは、レオノールが努力して手に入れたものじゃない。
――ヴァンツァーが、探して、渡してきた。
(言うな。そこで続きを言うな。入手経路が――)
レオノールが口を閉じた瞬間、アリーはふっと息を吐くように微笑んだ。
追及じゃない。疑いでもない。
ただ、心からの「よかった」が、顔に出ている。
「……手に入ったんですね」
その一言が、妙に胸に刺さった。
買えなかったことを、覚えていた。
落胆していたのも、見ていた。
だからこそ、今のアリーの微笑は自然で、温かい。
――それが余計に、レオノールを困らせた。
(……喜ばれるのは、違うだろ。いや、違わない。違わないけど、違う)
「……まあな」
レオノールが目を逸らすと、アリーはそれ以上深く聞かない。
聞かなくていい、と判断した顔だ。
そして、ごく当然のことみたいに続ける。
「では、お茶の準備をしてお持ちしますね。レオノール様、本を手に入れた日は……お部屋でお茶を飲みながら読まれるでしょう?」
いつもの習慣を、さらりと出される。
その言い方が、これまた痛い。
いつもなら、そこで「頼む」と返すだけだった。
けれど今日は、無理だ。
この状態でページを開いたら、間違いなく文字が踊る。
文字の向こうに灰色の瞳がちらついて、また同じところで止まる。
(……読めるわけないだろ)
レオノールは一瞬迷ってから、普段しない返しをしてしまう。
「……今日は、夜に読む」
言った瞬間、空気がほんの少しだけ止まった。
アリーの目が、わずかに細くなる。
怒りじゃない。
疑いでもない。
ただ、珍しいという不思議さが、静かに浮かんだ表情。
「……夜に、ですか」
「今は……ちょっと」
言いかけて、レオノールは飲み込んだ。
ちょっと頭に入らないとでも言えばいいのに、言えない。
理由が理由だから。
(ヴァンツァーのせいで、なんて言えるかよ)
アリーはそれでも、追及しなかった。
ほんの少しだけ視線を柔らかくして、静かに頷く。
「承知しました。それでは入浴後にお茶をお持ちしますね」
優しい。
優しいのに、レオノールの胸の奥がじわっと痛む。
自分が変な返しをしたせいで、余計な気遣いをさせている。
「……うん、お願い」
「いいえ。レオノール様が少しでも休めるなら、それで」
アリーはそう言って一礼し、廊下の向こうへ去っていく。
背中が見えなくなるまで、レオノールはその場で微動だにしなかった。
息を吐いて、ようやく足が動く。
紙袋を抱える腕が、さっきより少しだけ重い。
(……本一冊で、こんな顔するなよ)
本が原因じゃない。
分かっている。分かっているから、腹が立つ。
レオノールは足早に自室へ向かった。
途中で使用人とすれ違っても、いつも通りの顔を貼り付ける。
貼り付けられているかは、正直自信がない。
扉の前に立った瞬間、ようやく肩の力が抜けた。
扉を閉め、鍵をかける。
部屋の静けさが、耳の奥にしんと染みた。
机へ向かい、紙袋をそっと置く。
置いた瞬間、腕の中が軽くなって――その軽さに、逆に落ち着かなさが増す。
レオノールは引き出しを開け、小さな箱を取り出した。
深い緑の布に包まれた小箱。
エメラルドの髪留めが入っている――あの箱だ。
机上に、箱と紙袋。
二つを並べた途端、空気の温度が変わった気がした。
どちらも贈り物。
どちらもヴァンツァーから。
――なのに、同じ男の手から渡されたものだとは思えない。
レオノールは椅子に腰を下ろし、しばらく黙ってそれらを見つめた。
視線だけが行ったり来たりする。
箱、紙袋、箱、紙袋。
まるで、どちらを先に開ければいいか分からないみたいに。
(……何やってんだよ)
まず箱だ。
先にいつものヴァンツァーを確認しないと、足元がぐらつく気がした。
レオノールは指先で蓋を押さえ、音を立てないように静かに開ける。
中に眠るのは、透きとおるような緑。
布の上で静かに息をしているみたいに、エメラルドが淡く光を含んでいる。
煌めく陽光を浴びてもなお瑞々しい輝きで、目を逸らしたくなるほど綺麗だった。
綺麗だ。
悔しいくらいに。
指先でそっと縁に触れる。
冷たいはずなのに、触れた瞬間だけ熱を持ったみたいに感じて、レオノールは小さく息を吐いた。
銀糸の髪に付ければ、きっと映える。
光を受けるたび、緑が揺れて、髪の白さがより際立つだろう。
似合うのは分かっている。
分かっているから、なおさら面倒だ。
(……似合うとか、そういう問題じゃねぇんだよ)
視線の奥で、灰色の瞳がちらつく。
贈り物をする時ですら、優しさより先に威圧が来る――あの男の、いつもの顔。
この宝石はそのまま、ヴァンツァーの傲慢さを表している気がした。
レオノールは、宝石をつん、と軽く突く。
小さく揺れた緑が、何も言わずに光を返してくる。
この髪留めを渡してきたヴァンツァーの顔が浮かぶ。
冷たい灰色の瞳。
皮肉みたいな視線。
好感など欠片も感じない、鋭さ。
――これだ。これが、レオノールのよく知っているヴァンツァー。
(こっちは、知ってる方)
次に紙袋へ手を伸ばす。
指先が紙に触れた瞬間、妙に心臓が跳ねた。
自分で自分に苛立つ。
(……違うだろ。たかが本だ)
たかが本。
なのにエメラルドの髪留めの時とは違い、鼓動が跳ねる。
たかが本。
そう言い聞かせながらレオノールは紙袋の口を開け、本を取り出した。
新しい紙とインクの匂いが、ふわりと立ち上る。
装丁の金文字が、窓からの光を拾って淡くきらめいた。
そのきらめきが、やけに優しく見えるのが腹立たしい。
――優しくしたのは、本じゃない。渡した男の方だ。
(……こっちは、知らない方)
思い出す。
喫茶店で、あの男が浮かべた笑顔。
探してた、会えてよかった――そう言外に語るような、あの表情。
同じ人間だなんて、信じられない。
会う相手が違うだけで、ここまで変わるのか。
何年も婚約者をやってきて、レオフィアの前のヴァンツァーしか知らない自分が、今さら滑稽に思えてくる。
特に、ありえないのは――わざわざ自分で探して、喫茶店まで来たことだ。
レオノールの知っているヴァンツァーなら、命令して終わりだ。
探し出して連れてこい、で済ませる。
自分の足で探すなんて、面倒を嫌うあいつがするわけがない。
なのに、今日のヴァンツァーはした。
レオノールは髪留めをもう一度つん、と突く。
次に本の表紙をつん、と突く。
同じ動作なのに、返ってくる感情が真逆で、頭が痛くなる。
(……なんなんだよ、これ)
その瞬間、ふと脳裏に浮かぶ。
あの笑顔。
どこかで見た既視感。
レオノールは息を止めて、目を見開いた。
(……あ)
そうだ。
あれはゲームでラフィーナに見せた、好感度が最大になった時の笑顔。
ヒロインに向ける『信頼』と『親愛』が混じった、油断した表情。
(ってことは……俺に好感、抱いてるってことか?男の俺に?レオノールに?)
混乱が遅れて胸に広がる。
(……なんでだよ)
いや、恋愛とかじゃない。
そういう方向に考えるな。
趣味の話だ。
推理小説の話だ。
同志って言った――それだけだ。
(……たぶん)
たぶん、で済むほど、心臓は素直じゃない。
本を見つめているだけで、喫茶店の空気が蘇って、胸の奥が勝手に温度を上げていく。
(……それなのに、嬉しいって思ってる俺の方がよっぽどおかしいよな)
嬉しい。
探してくれたのも、覚えてくれてたのも、会えてよかったって顔をされたのも。
その嬉しいを認めた瞬間、婚約破棄がまた一歩遠のく気がして、余計に腹が立つ。
レオノールは背もたれに体を預け、天井を仰いだ。
息が重い。
喉の奥が乾く。冷めた紅茶でも飲めば落ち着くのか――いや、落ち着くわけがない。
(会わない方が安全だ)
分かっている。
分かっているのに、頭の隅で「次」を考えている自分がいる。
本屋なら別の店。
喫茶店なら別の場所。
水曜じゃなくてもいい。
むしろ避けろ。
避けろ、避けろ、避けろ――って、考えてる時点で終わってる。
(……ダメだろ)
机の上に並ぶ、エメラルドの髪留めと、本。
真逆の視線。
真逆の温度。
真逆の感情。
同じ男から受け取ったはずなのに、世界が二つに割れてしまったみたいだ。
レオノールは最後に、机へ突っ伏した。
頬の横で、緑の宝石が静かに光っている。
その隣で、本の金文字が淡くきらめいている。
「……勘弁してくれよ、マジで」
そう呟いた声だけが、温かな光に満たされた部屋に、やけに情けなく落ちた。




