冷めたコーヒーと苦い記憶
王城の執務室には、紙の擦れる音と羽ペンの走る音だけが響いていた。
分厚い資料の束を前に、ヴァンツァーは淡々と書類を捌いていく。
これは帝王学の一環。
王太子候補としての実務訓練だ。
理路整然と、感情を挟まず、必要な判断を下す――それが「王の器」としての正解だと教えられてきた。
だが、一枚の報告書の前で手が止まった。
内容は領地再建の援助金について。
単なる数字の問題だが、判断を分ける微妙な案件。
ヴァンツァーの眉間にわずかな皺が寄る。
「殿下、いかがなさいました?」
控えていた若い文官が恐る恐る声をかける。
ヴァンツァーは顔を上げ、低く答えた。
「問題はない」
それでも声にはわずかに棘があった。
プライドの高い彼にとって、迷ったことを指摘されるのは小さな屈辱だ。
空気が一瞬、張りつめる。
その張り詰めた間を、柔らかな動作が切り裂いた。
カッシュが無言で資料を一枚抜き取り、隣のシリウスに渡す。
シリウスはすぐに一歩前へ出て、落ち着いた声で言った。
「殿下、先日の調査資料に補足がございました。こちらも併せてご確認を」
ヴァンツァーはその書類を受け取り、視線を落とす。
一瞥した瞬間、カッシュの筆跡が目に入った。
(……相変わらず、抜け目がない)
小さく舌打ちしそうになるのを、辛うじて飲み込む。
シリウスを介したのは、余計な軋轢を避けるため――カッシュなりの気遣いだとわかっている。
だが、だからこそ余計に癪だった。
そこには迷っていた数値の根拠となる資料がすでにまとめられていた。
彼は短く息を吐き、低く言った。
「……確認しておく。――下がっていい」
側近たちが一礼して退室する。
扉が閉じると同時に、部屋は静寂に包まれた。
しばらく無言で資料を眺めたのち、ヴァンツァーは無意識にカップへ手を伸ばした。
口をつけた瞬間、コーヒーが完全に冷めていることに気づく。
普段なら、こういう些細なことでも眉をひそめただろう。
だが今日は、口元にうっすらと笑みが浮かんだ。
(……あの時も、そうだったな)
ふと、記憶が蘇る。
本屋で偶然出会った青年――レオ。
互いに同じ作家の本を手に取り、思わず語り合った。
推理小説のトリックを巡って真剣に議論し、思わず笑った。
あのときも、会話に夢中になって、気づけばカップの中のコーヒーが冷めていた。
その記憶が、思わず頬を緩ませる。
彼は誰にも話したことがない。
側近にも、兄弟にも。
自分が『推理小説』を好むなど、王族としてふさわしくないと思われるに決まっている。
昔、教育係に叱られたことがあった。
まだ幼かった頃、冒険小説を読みふけっていたときのことだ。
「そのような大衆小説は、王族に相応しくありません」と咎められ、その場で例に挙げられたのは――レオフィア・サヴィア。
その名を聞いた瞬間、胸の奥がざらりとした。
彼女の姿を思い浮かべるたびに、誇りと焦りが同時に疼く。
どうしていつも、彼女が『正解』で、自分が『未熟』なんだろう。
理性では納得しても、心はそのたびに小さく軋んだ。
「レオフィア嬢は毎日、語学と政治学を学んでおられます」
そう言われた。
気になって本人に尋ねてみたとき、彼女はあっさりと答えた。
「それはもう読み終わりましたので。今は隣国の政治書を読んでいます」
その時、何も言えなかった。
恥ずかしかった。
自分が子ども向けの物語に心を躍らせていたことを、あの冷静な少女の前で見透かされた気がして。
それから、大衆小説はこっそり読むようになった。
けれど、ページをめくるたびに心が軽くなった。
推理の糸を追い、謎を解き、登場人物たちとともに歩む時間。
そこには王族の肩書きも、責務も、誇りもなかった。
ただ自分として世界に没頭できる。
――それは、誰にも知られてはいけない秘密の自由だった。
(……同志、か)
レオが言った言葉が頭をよぎる。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
冷めたコーヒーを口に含み、彼は微かに笑う。
(また――語り合えるだろうか)
書類の山に視線を戻しながら、ヴァンツァーは静かに息を吐いた。
机の上には、すでに新しい資料が積まれている。
だが、今だけは。
その一瞬だけは、『王』ではなく『ただの一人の読者』でいたかった。




