水曜の午後はいつもと違うお茶会を。
水曜の午後。
レオノールは、カッシュやラフィーナとよく来る行きつけの喫茶店で、一人カップを傾けていた。
ここ数日、先週ヴァンツァーと出会ったあの喫茶店は避けている。
あの本屋にも、あれから足を運んでいない。
代わりに別の店で新刊を買っている。
なんとなく、あの場所に行く気になれなかった。
窓の外では、春の陽光が街路の石畳を照らしている。
店内には焙煎豆の香りと、穏やかな楽曲。
見慣れた空間のはずなのに、心だけが落ち着かない。
膝の上の本を開いても、文字はただの模様のように視界を滑っていく。
(……全然頭に入ってこない)
せっかくの崇高なストーリーも、これでは台無しだ。
ページをめくる指が止まり、ため息がこぼれる。
――あんなヴァンツァー、見たことがない。
レオフィアの前で見せる尊大な態度も、威圧的な言動も、あのときはなかった。
なんていうか、前世のときに好きな作家や作品について語り合ったあの時の友人たちと重なる。
柔らかく笑って、本の話をして、同じトリックに一緒に驚いて――。
どう考えても、自分が知っている『第一王子ヴァンツァー』とはかけ離れていた。
本を開くたび、会話が脳裏に蘇る。
思い出したくないのに、自然と浮かんでくる。
(……だから、進まないんだよな)
同じページを眺めたまま、もう十五分は経っている。
自分でも呆れるほど、ページが進まない。
「……おもしろくないの?」
不意に声がかかり、顔を上げる。
そこには、紅茶を手にしたラフィーナが立っていた。
「珍しいね。あなたがそんな顔して本を読むなんて」
「……別に。ちょっと考え事してただけだ」
「考え事、ね」
ラフィーナは軽く笑みを浮かべ、対面の席に腰を下ろす。
「最近、何かあった? 顔に何か引っかかってるって書いてある」
「……そんなに顔に出てるか?」
「出てるよ。わかりやすいもの、レオは」
淡々とした言葉に、レオノールは視線を逸らす。
「無理して飲み込むくらいなら、話してもいいんじゃない?」
「……いや。大したことじゃない」
「ならいいけど」
ラフィーナはそれ以上追及せず、静かに紅茶を口に運んだ。
その沈黙が、かえって心に沁みた。
他愛のない雑談をすると気持ちが少し落ちついた。
ラフィーナとの会話はやっぱり楽しい。
少しして、彼女は立ち上がる。
「そろそろ行くね。先生におつかい頼まれちゃって」
「了解……気をつけて」
「うん、気を付けるね。またね」
「うん、またな」
ラフィーナが店を出ていくのを見送り、レオノールは小さく息を吐いた。
(……ま、今度のお茶会で顔を合わせるだろ。別に気にすることじゃない)
そう思って本に視線を戻す。
――のに、ページの向こうであの灰色の瞳がちらつく。
(……ったく、何で思い出すんだよ)
思わず眉をしかめたその瞬間、店の扉のベルが軽く鳴った。
「……レオ?」
心臓が跳ねる。
顔を上げると、そこにヴァンツァーが立っていた。
前回と同じ質素な服装。
けれど今日は、小さな紙袋を手にしている。
驚きと喜びが混じった灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「やっぱり君か。探してたんだ」
「……探してた?」
「前回、話の途中で出た新刊――君が買えてなかっただろ?もう一冊あったから」
そう言って、紙袋を差し出す。
「何度かあの店に行ってみたんだが、出会えなくてな。そこで前回会ったのが水曜日だったからもしかしたらと考えてな」
レオノールは息を呑んだ。
袋の中には、確かにあのとき話題にした別シリーズの新作。
装丁の金文字が、春の光を受けて淡くきらめいている。
(……探してた?俺を?)
信じられなかった。
知っているヴァンツァーは、第一王子として常に侍従を従え、誰にも気を許さない。
威圧的で我儘で、常に侍従を従えているはずなのに。
一人で街に出て、しかも本を渡すためだけに来たなんて――考えられない。
「出会えてよかった」
見たことがないような、ほっとした笑顔を浮かべていた。
「……お前、わざわざ……」
掠れた声で問うと、ヴァンツァーは微笑を深めた。
「推理好きの同志として、これくらいは当然だろ?」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(……同志、ね。そんな言葉、コイツの口から聞く日が来るなんて)
複雑な感情を押し込めながら、レオノールは袋を受け取る。
「……ありがとな」
「また感想を聞かせてくれ」
ヴァンツァーは軽く手を振り、春の光の中へ消えていった。
残されたレオノールは、紙袋を胸に抱きながら小さく息を吐く。
(護衛はいるだろう。けれど、第一王子が、たった一人を探すために街に出て――俺に本を渡すなんて。どう考えてもおかしい。)
けれど、唇の端がわずかに緩んでしまう。
(……それなのに、嬉しいって思ってる俺の方がよっぽどおかしいよな)
カップの紅茶が冷めきる頃、レオノールは静かにため息をついた。
春風が窓を揺らし、紙とインクの香りが柔らかく広がっていった。




