同好の士と出会った結果、関係が複雑になった。
定例のお茶会が終わった午後。
エメラルドの髪留めを贈られたばかりのレオノールは、それを小箱ごと机の上に置き、しばし無言で見下ろしていた。
透きとおるような緑の輝きは、春の陽光を浴びてなお瑞々しい。
だが、その美しさが胸の奥を素直に喜ばせることはなかった。
(……また、婚約破棄の道が遠のいた。全部、あんな余計なことを言ったカッシュのせいだ)
短く吐息を漏らし、箱の蓋を音を立てぬよう静かに閉じる。
その仕草には、微かな苛立ちがにじんでいた。
「……アリー」
控えていた侍女の名を呼ぶと、すぐさま気配が近づく。
「これを片付けて」
「かしこまりました」
アリーは恭しく小箱を受け取り、布で丁寧に包んでいく。
その間もレオノールの眉間には皺が刻まれたままで、窓辺に視線を逸らす仕草には落ち着きのなさが滲んでいた。
ふと、アリーが手を止め、小さな笑みを浮かべる。
「そういえば、今日が例の推理小説の発売日ではありませんでしたか?」
その言葉に、レオノールの瞳がかすかに揺れた。
(……そういえば、今日だっけ)
胸の奥を覆っていた重苦しい膜が、ほんのわずかに剝がれ落ちていく。
「……そういう時は、読書だよな」
低く呟き、椅子から立ち上がった。
街へ出るときは動きやすい恰好がいい。
アリーがすぐに準備してくれた。
シャツとベストにスラックス。
髪は首元でしっかりと紐で縛れば、もう令嬢には見えない。
華美なドレスも付き人も不要。
護衛さえつけず、身軽に歩く方がずっと楽だ。
「あまり遅くならないでくださいね。あと、くれぐれも危ないことはなさらないように」
「わかってるって」
アリーからハンチング帽を受け取って被ると屋敷をでた。
石畳の大通りは、午後の日差しを反射して白く輝き、人々の活気に満ちていた。
花屋の軒先ではチューリップが風に揺れ、書き入れ時の菓子屋からは甘い香りが漂う。
喧騒の中をすり抜けるように、レオノールは本屋を目指した。
扉を押し開けた瞬間、外の喧噪はふっと遠ざかり、ひんやりとした空気と紙とインクの匂いが広がった。
整然と並ぶ高い本棚。
斜陽が背表紙に反射し、文字の列がまるで息づくように揺れている。
レオノールは迷わず推理小説の棚へ向かい、目当てのシリーズ最新刊を見つけて指先を伸ばした。
――その瞬間。
別の手が同じ本を掴み、指先がかすかに触れ合う。
「……?」
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは――。
「君は……!」
ヴァンツァーだった。
質素な上着に身を包み、護衛も従者もいない。
驚きに見開かれた灰色の瞳に、一瞬の喜びが宿る。
「やっぱり……また会ったな」
その声音は、宮廷での冷徹さとはまるで違い、心の底から嬉しさを滲ませていた。
レオノールの胸が跳ねる。
(……なんで、こいつがこんなところに!?)
努めて平静を装いながらも、声はわずかに上ずっていた。
「……なんで、お前がここに?」
ヴァンツァーは少し目を瞬かせたが、すぐに柔らかく口元を緩める。
「本を探していたんだ。――君も、同じか?」
「本を……?」
レオノールは思わず聞き返す。
まさかヴァンツァーが、自分と同じ棚にいるなんて。
「それって……この本を?」
ヴァンツァーは手にしていた新刊を軽く持ち上げ、肯いた。
「ああ。この作家の本は好きなんだ。トリックがよくできている。特に前作の仕掛けは――秀逸だった」
「……あれは、予想外だったよな」
反射的に口をついた瞬間、レオノールはハッとし、顔を強張らせる。
(し、しまった! つい……!)
だが、ヴァンツァーは驚くどころか、くすりと笑った。
「やっぱり、同じところに驚いたんだな」
その自然な表情に、レオノールは思わず息を詰める。
(……これが、本当にあのヴァンツァーなのか?)
「探してもなかなか見つからなくてな」
ヴァンツァーは少し肩を竦め、けれどすぐに柔らかく笑った。
「でも、本も見つかったし……君にもまた会えた」
その一言に、胸の奥がざわめいた。
どう返せばいいのか迷い、視線を逸らしたその時――。
「もしよかったら、この本について語らないか」
ヴァンツァーがさらりと言った。
レオノールは固まった。
これまで推理小説を語れる相手などいなかった。
ラフィーナは恋愛小説に夢中、カッシュは経済書ばかり。
推理もののトリックを熱く語れる時間など、夢にすら見ていなかった。
(断るべきだ……こいつはヴァンツァーだ。なのに――)
胸の奥で抑えきれない期待感がくすぶる。
「……少しだけ、なら」
自分に言い訳するように呟く。
(『レオノール』の姿だ。大丈夫。何も知られやしない)
そうして二人は本を購入すると街路を抜け、通りに面した小さな喫茶店へと入った。
扉を開けた瞬間、焙煎した豆の香りと焼き菓子の甘い匂いがふわりと漂ってきた。
木目のテーブル、磨かれたカウンター、窓から差し込む柔らかな陽。
客のざわめきが心地よいBGMとなり、店内は温かな空気に包まれている。
二人は窓際の席に腰を下ろし、それぞれの前に湯気の立つ紅茶と、小さなケーキが置かれた。
「この作者は、やはり伏線の張り方が巧みだと思う」
ヴァンツァーが紅茶を一口含んでから、満足げに口を開いた。
「そうだな。何気ない一言が最後の真相に繋がる。まるで魔術みたいだ」
レオノールも思わず応じてしまう。
「しかも読者に気づかせる気はさらさらない。なのに、後で読み返すと“ちゃんと書いてある”」
「わかる。前作なんて、鍵の置き場所だけであそこまでひっくり返すなんて思わなかった」
「俺は逆に、あの靴跡のくだりで“怪しい”と思ったんだ」
熱のこもったやりとりは止まらない。
探偵役の推理の筋道、犯人のアリバイを崩す瞬間、見落としがちな小道具の存在――。
「なるほど」と唸り、「いや、そこは違う」と反論し合ううちに、時はあっという間に過ぎていく。
紅茶の香りが薄れていく頃、レオノールはふと気づいた。
(……こんなに心から推理小説を語り合ったのは、いつ以来だ? いや……初めてかもしれない)
目の前で笑っているのは、冷徹な皇子ヴァンツァーではない。
本を愛し、トリックを楽しみ、語り合う――年相応の青年。
別れ際、ヴァンツァーは素直な笑みを浮かべた。
「今日は楽しかった。また話せるといいな」
その表情は、皇子の仮面を脱ぎ捨てた、ただの一人の若者のものだった。
レオノールは一瞬迷い――曖昧に頷いてしまった。
「……ああ、また」
「本屋で、また会おう」
ヴァンツァーの声音に、思わず胸の奥が震える。
春風が通りを抜け、ページの香りを運んでいった。
レオノールは心の中で深く嘆息する。
(ぶっちゃけ、エメラルドなんかよりも推理小説の方が、よっぽど嬉しいよなぁ……まあ、そんなの言えるはずもないけど)
普通の令嬢は本よりも宝石だろう。
同じ本が好きだなんて知られたら――婚約破棄がますます遠のいてしまう。
胸の内で、渦を巻くような焦燥がじわじわと広がっていく。
(推理小説を語らう『趣味友』が、よりにもよってヴァンツァーだなんて――関係が複雑すぎるだろ))
頭を抱えたい気分で、レオノールはゆっくりと店を後にした。
春風が頬を撫で、彼のため息を遠くへ運んでいった。




