エメラルドに罪はない。
廊下の窓から、春の光が花壇を照らし、やわらかな陽射しが磨かれた床に反射してきらめいていた。
風に揺れるカーテンの端が、白い布越しに淡い影を壁へと落とし、その影は小さく波紋のように揺れている。
「会ってきたって?」
レオノールが一歩、カッシュに近づいた。
カツンと硬質な靴音が鳴り、わずかな静寂の廊下に響く。
灰色の瞳と翠の瞳が、短く視線を絡ませ、互いの息を測るように一瞬の間が生まれた。
「ああ……昨日、殿下に会ってきた」
その言葉に、レオノールもラフィーナも同時に瞬きをした。
「えっ、ヴァンツァー殿下に?」
「ああ」
「偶然……じゃないよね?」
ラフィーナが探るように眉を寄せる。
カッシュの口元がわずかに歪み、視線をわずかに逸らした。
「偶然を装った……理由がある」
カッシュは窓の横に壁に背を預けた。
短く息を吐き、視線を少し遠くへ泳がせる。
「数日前、殿下に軽く探りを入れたんだがな……得られたのは、『何かを隠している』って感触だけだった」
そこで一拍置く。
窓から差し込む光が、カッシュの灰色の瞳をかすかに照らした。
「だが、その帰りに偶然耳にした。――例の宝石商が城に来るってな」
低く言いながら、カッシュは腕を組み、指先でトントンと腕を叩いた。
「直接会えれば、殿下の隠し事に繋がる糸口が見えるかもしれない。そう思って……口実を作った。それだけだ」
レオノールが首を傾げ、カーテン越しの光がその銀の髪にきらりと流れる。
「……それで?」
「そこで、『記憶石』という言葉を耳にした」
その一言に、レオノールの背筋がすっと伸びる。
翠の瞳が鋭さを帯びた。
「……詳しく聞かせて」
「――あの日のことを、順を追って話す」
カッシュは窓の外に目をやり、陽光を反射する花びらを見つめながら、静かにまぶたを伏せた。
◆ ◆ ◆
王城の長い回廊を進むカッシュの足取りは、普段よりわずかに重く、それでいて確実だった。
壁際の燭台にはまだ朝の灯りが残り、窓から差し込む光と混ざって廊下を淡く染めている。
手に持つのは、昨日仕上げさせたばかりの報告書。
急ぎの用件ではない。
だが、提出のタイミングを半日ほど遅らせれば、執務室を訪れる自然な口実になる。
(殿下は細部まで目を通すだろうが、この内容なら問題ない)
数日前――。
殿下にさりげなく探りを入れたときの手応えが脳裏に蘇る。
確かに、何かを押し隠していた。
しかし、それ以上は引き出せず、もどかしさだけが残った。
(何かを隠している。それだけは確信した)
そして帰りに耳にした情報が決定打となった。
――殿下があの宝石商を呼んだ。
(会って話せば、隠し事の端緒くらいは掴めるかもしれない)
執務室の前に立ち、ノックしようとしたその時、中から低くよく通るヴァンツァーの声と老練な響きの別の声が聞こえてきた。
「お呼びいただき、ありがとうございます。――婚約者様はお喜びいただけたでしょうか」
「ああ、喜んでいた。あのルビー、何と言ったか?」
「『記憶石』でございますね。ご満足いただけようで何よりです」
「また、ああいう掘り出し物が欲しくてな」
「あれほどの一品は、なかなかございませんが……本日もご満足いただけるお品をお持ちしました」
「ほう、これはなかなか」
―――記憶石。
その響きが、カッシュの意識を鋭く捉えた。
治癒院でセルジュに聞いたあのルビーの名前。
(やはり、あの石のことか)
今すぐ踏み込みたい衝動を抑え、咳払いを一つ置いてから、扉をノックする。
「……入れ」
開けた先には、豪奢なカーペットと陽光を受ける高窓の光。
机の向こうにはヴァンツァーが悠然と腰掛け、その横に装飾を施された木箱を広げている宝石商がいた。
宝石商は驚きながらも礼を取る。
「おや、これは失礼いたします」
「来客中でしたか。申し訳ありません」
軽く詫びつつも、カッシュは相手の顔を一瞥して確信する。
(やはり、あのブローチを納めた宝石商だ)
「お初にお目にかかります。殿下の側近を務めています。カッシュ・グラードです」
「こちらこそ、光栄にございます。ドラッド商会のアレジオと申します」
机の上には深紅、蒼、翠といった色とりどりの宝石が、箱の中で春の陽射しを反射して柔らかく煌めいていた。
「これはまた……見事ですね」
自然な調子で褒めると、アレジオはにこやかに目を細めた。
「ありがとうございます。どれも長年の付き合いの鉱山や職人から直接仕入れたものでして」
飾らない説明と真っ直ぐな眼差しに、カッシュは内心で肩の力を抜く。
(……どうやら、裏のある人物ではなさそうだ)
わずかに頬を緩め、心の中で舌打ちにも似た諦めを落とす。
一方で、ヴァンツァーの眉間にはわずかな影が落ちている。
「そういえば、先ほど耳慣れない言葉を……記憶石、でしたか」
「ああ、それはですね――」
宝石商が説明を始めかけた瞬間、ヴァンツァーが言葉を遮った。
「カッシュ、急ぎの用件で来たのではないのか?」
その声音には、意図的な硬さがあった。
「ああ、そうでした」
涼しい顔で報告書を差し出す。
「こちらの書類にサインをいただきたく」
ヴァンツァーは視線だけで内容をざっと確認し、ほんのわずかに口元を動かした。
その動きに、評価と警戒の両方が混じっているように見える。
やがてペンを受け取り、素早く署名した。
「これで用は済んだな」
無造作に書類とペンを返す仕草に、早く出て行けという無言の圧が滲む。
(長居はできそうにないな)
カッシュは視線を宝石箱に流し、何気ない調子で言った。
「そういえば、レオフィア嬢がエメラルドの髪留めを欲しがっていたような」
「いいから、お前はさっさと執務に戻れ」
苛立ちを隠さない声音。
カッシュは恭しく頭を下げ、執務室を後にした。
◆ ◆ ◆
「――というわけだ」
説明を終えたカッシュは、少し気まずそうに告げる。
「近々、殿下からエメラルドの髪留めが贈られるだろう」
「余計なことを」
レオノールが眉をひそめる。
「仕方ないだろ。また変ないわくのあるものを贈られるよりはマシだ」
カッシュは肩をすくめた。
ラフィーナが口元に笑みを浮かべる。
「送り主はともかく、エメラルドは絶対レオに似合う!」
「ああ、あのエメラルドを見たとき、銀の髪に映えるとすぐに思った」
灰色の瞳がやわらかく細められる。
「お前の瞳の色だしな」
「だよね」
春の陽を宿したような、深く澄んだ翠玉の瞳が瞬きをひとつする。
その色は光を受けるたびに淡く揺らぎ、宝石職人が一生をかけても生み出せぬ自然の輝きを宿していた。
カッシュもラフィーナも、思わずその色に視線を奪われる。
見慣れてきたはずなのに、ふとした瞬間に新鮮さを感じさせる不思議な色だった。
レオノールは小さくため息をつきながらも、その言葉にわずかなくすぐったさを覚えていた。
――と、カッシュがふと思い出したように声を低くする。
「実はな、あのあと宝石商にも偶然を装って会ったんだ。そのときに確認したんだが……」
さりげなく視線を窓の外へと外し、言い淀む。
「……やっぱ、なんかあったのか?」
「なにかやっぱりあったの?」とラフィーナも身を乗り出す。
「いや、そういうわけじゃなくてな……」
「なんだよ、煮え切らないな。はっきり言えよ」
「……レオとの――いや、レオフィアに、自分との楽しい思い出をいつまでも思い出して欲しかった、ってことらしい」
「……はぁあ? アイツとのいい思い出なんて、これっぽっちもないんだが??」
「レオ、せめて殿下と……気持ちはわかるが」
ラフィーナが小声で呟く。
「ってことは、殿下はレオのこと好きってこと?」
「そういうことになるな」
レオノールは目を細め、ほんのわずかに唇を引き結んだ。
肩がわずかに落ちる。
握っていた手がゆっくりと緩み、指先が微かに震えた。
――前世の世界の言葉で『一歩進んで二歩下がる』という言葉があった。
まさしく今がそれだ。
胸の奥に、重い鉛のようなものが沈んでいく。
それでも、その奥底には消えぬ火種のような苛立ちが燻っていた。
「……まだ、終わらせない」
誰にも聞こえぬほどの声で呟き、視線をゆっくりと前へ向けた。
婚約破棄への道がまた一歩遠のいたことを痛感しながらも、その歩みを止める気はなかった。




